世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

大分駅の北側には賞をもらった美術館をはじめ、歴史的な建物や個性的な建物が数多く建っています

2019-10-27 08:00:00 | 日本の町並み
 新一万円札の肖像に決まった渋沢栄一の故郷には、東京駅舎で使われたレンガを焼いた窯が残されていました。レンガ造りは地震に弱いとの話もありますが、注意深く作られたレンガ造りの建物は決してそんなことはないとの反論も聞いたことがあります。東京駅を設計した辰野金吾は、数多くのレンガ造りの建物を残していて、そのうちの多くが銀行の建物です。今回は、それらの銀行の建物のうち、辰野金吾設計事務所の設計になる大分銀行赤レンガ館のある大分駅周辺を紹介します。

 辰野金吾は、英国からやってきたお雇い外人で鹿鳴館を設計したジョサイヤ・コンドルの教え子第一期生で、東京駅以外では数多くの銀行の建物を設計しています。大分銀行赤レンガ館も、二十三銀行の本店として建てられたもので、大分銀行の本店を経て、本店新築後は赤レンガ館支店となり、登録文化財になっています。辰野金吾は佐賀県の出身のためか、作品の多くは首都圏と近畿圏のほかに九州に数多く見られます。

 
 
 
 赤レンガ館は、駅前に大友宗麟の像のあるJR大分駅から北に中央通りを5分ほど行ったところにあり、赤レンガ館の西側にはセントポルタ中央町の商店街があります。アーケードの商店街ですが、地方都市の商店街にはさびれてシャッター街化しているところをよく見かけますが、こちらはなかなか元気で、アーケードもドームがあったりしてしゃれています。


 
 中央通りから左折して昭和通りに入ると、道路の南側に大分カトリック教会が建っています。戦後すぐの1950年に献堂されたもので、真っ白の建物やマリアさんの像は存在感があります。さらに西に進むと、西新町天満社があります。訪れた時には零細委の日だったようで、お祭りに参加する人たちでにぎわっていました。また、拝殿には唐破風が付き、鬼瓦の下には竜が、さらにその下には鳳凰の彫り物が付く豪華なものです。

 
 
 昭和通をもう少し西に行くと、通りの北には県立美術館が、南にはOASISひろば-21があります。OASISひろば-21は1998年に完成したホテルやホールなどの複合施設で、大分県内で最も高い建物です。道路から入ったエントランスは上層階までの吹き抜けで、正面のガラス窓を通して向かい側の県立美術館が望める伸びやかな空間になっています。そしてその向かい側の美術館は2015年の完成で、地上4階、地下1階の全面ガラス張りの建物です。設計は紙管を使ったクライストチャーチ協会の仮堂などの設計でも有名でプリッカー賞受賞者の坂茂です。この県立美術館も2015年度の日本建築大賞を受賞しています。

 辰野金吾は、辰野堅固と揶揄されたように頑丈な建物を作りましたが、先生のジョサイヤ・コンドルが作った東博の旧本館は、関東大震災で崩れてしまい、現在の本館は昭和13年にできた二代目です。一方、金吾と同じコンドルの第一期生の片山東熊が設計した表敬館はびくともせず、現在も優美な姿をとどめています。コンドルの母国のイギリスでは、地震対策は考慮する必要はなかったのかもしれません。日本初の地震計は、同じイギリスからのお雇い外人の物理学者が考案し、その後は長周期の地震や小さな地震を記録できるよう改良が続けられましたが、現在の地震計は加速度センサーとコンピュータで構成されています。構成部品そのものは秋葉原でも手に入りそうですが、コンピュータに入れるプログラムがノウハウの塊のようです。この地震計はネットに接続され、地震が起こるとどこでどれくらいの規模の地震が発生したか瞬時に解析できるようになりました。

スイス最大の都市のチューリッヒは、お金持ちには心地良い町のようですが、文化の香りは少ないように感じます(スイス)

2019-10-20 08:00:00 | 世界の町並み
 45年も前の風景とTVなどで見る現在の風景とがあまり変わっていないように感じられたのがロサンゼルスでした。そもそも、アメリカという国は、ヨーロッパ人が勝手にやってきて、発見!発見!と叫んで先住民を蹴散らかし、西部開拓の名のもとに侵略を重ねた結果できた国であることには違いはありません。色んな民族がごちゃ混ぜになった人種のるつぼと言われるのもこのような歴史からで、英語だけでなくフランス語やスペイン語を話す人々も多く、特にロサンゼルスでは、ヒスパニック系のスペイン語が幅を利かせているようです。一つの国で、多数の言語が話される国は少なくなく、シンガポールなどは公用語が4種類で、ヨーロッパでもベルギーではフランス語圏とオランダ語圏があって、標識も2か国語対応です。今回は1か国で複数の言語が話される国の中のスイスから最大の都市であるチューリッヒを取り上げます。

 
 スイスの公用語は、ドイツ語、フランス語、イタリア語それにスイスの狭い特定地域で離されるロマンシュ語と定められ、鉄道などの公用期機関では3~4か国語が併記されています。ただ、切手などセマイスペースでの国名はラテン語がつかわれています。この4種類の言語は、全国で平均的に使われているのではなく、地域性があるようです。今回紹介するチューリッヒは、ややドイツに近いこともあって、ドイツ語が多く話されているようです。

 
 チューリッヒは、スイスのほぼ中央部にあって、首都ンおベルンを差し置いて最大の都市であり、日本からの直行便もチューリッヒ空港に到着します。空港には鉄道も乗り入れていて、市の中心部へのアクセスも便利です。人の動きが首都ではなくチューリッヒに集中するのは大都市ということだけでなく、ヨーロッパの金融の重要な中心都市の一つであるからです。このためか、市の中心部には商店や金融機関などは多いのですが、あまり文化の香りを感じない、商売人の町とという感じもします。それでも、中央駅からリマート川両岸にかけては、教会や雰囲気の良い町並みも存在するようです。

 
 チューリッヒ中央駅は、日本には少ない頭端式の駅でリマト川に突き当たるような形で、チューリッヒを経由する列車は、ここで向きを変えて出ていきます。市内には、日本では少なくなり、ヨーロッパの都市ではどこでも見かける路面電車が走っていて、路線バスに比べて観光客も安心して移動ができます。チューリッヒの路面電車は、幅の狭いやや古風な電車が連結されて走っていました。

 
 中央駅から、リマト川沿いにチューリッヒ湖に向かって南にしばらく行くと聖ペータ教会で、ヨーロッパ最大の教会の時計が塔の上に付けられています。暑気の教会は8~9世紀に作られたと言われ、13世紀にロマネスク様式で建てられ、15世紀にはゴシック様式で身廊が再建されたそうです。一方、リマト川を対岸に渡り、さらに南に進むと2本の塔が印象的なグロスミンスターがあります。最初の教会は9世紀に建てられ、2つの塔は15世紀ごろにロマネスクで建てられています。

 スイスと言えば時計で、聖ペータ教会の大きな時計もそのことを象徴しているようです。ただ、機械式の時計は、美術品的な価値に変質し、精度では水晶時計にはかないません。この水晶時計の分野では、世界で初めてクォーツの腕時計を我が国の精工舎が作って以来、実用時計の分野では日本が世界を制したと言えるでしょう。50年前に作られた最初のクォーツ腕時計は、当時の小型車と同じくらいの火カウだったそうで、当時の開発者は\100ショップで売られるようになるとは夢にも思わなかったかもしれません。時計は時を刻む振動子の振動数が高いほど精度を高くでき、現在世界標準となるセシュウム発振器を使った原子時計の精度は1億年に1秒以内と言われていますが、いったい誰が測ったのでしょうか。

渋沢栄一でもネギでもない深谷にも、なかなか味わい深い町並みが残されています

2019-10-13 08:00:00 | 日本の町並み
 前回は新一万円札の肖像になる渋沢栄一の故郷の深谷で、彼のゆかりの施設を紹介しました。深谷は、渋沢栄一関連施設だけでなく、かつての中山道の宿場町であった名残の古い町並みを残しています。今回は、渋沢栄一でも深谷ネギでもない、深谷を紹介します。


 JR高崎線で深谷駅に降り立つと奇妙な駅舎にびっくりします。この建物どこかで見たぞ!?そう、深谷産の煉瓦を使って建てられた東京駅に似せた建物でミニ東京駅なんですが、こちらの建物はコンクリート製です。さらに、東京駅の駅舎が線路と平行に広がっているのに対して、深谷駅では線路と直角に広がっています。開始早々、渋沢栄一の立ち上げた煉瓦産業の話で、なかなか彼から離れられません。

 
 さて、深谷の町並みですが、渋沢関連施設が駅から北に3~4kmほど離れていますが、町並みは同じ北側の300m~400mほどをJRと平行に走る中山道との間に広がっています。駅の北東1kmほど、中山道に面して県立深谷商業高校があり、広い校庭の西南に大正11年に建てられた旧校舎が記念館として健在です。白とミント・グリーン(筆者が訪問の時には白とレンガ色でした)の下見板張り、中央に塔屋を持つ木造2階建ての登録文化財指定の校舎はなかなか綺麗です。ただ、内部の見学は日曜日のみのようです。高校の南200mほどの所には、こちらも有形文化財に指定されている大谷家住宅があります。現在も使われている現役の住宅ですが、昭和初期の和洋館で、洋館はユーゲント・シュティール(アールヌーボー)様式で建てられていてなかなか素敵ですが、個人宅ゆえ塀の外から眺めるだけです。

 
 
 
 
 大谷家住宅の南を東西に走る県道沿いに、土蔵造りや格子の美しい古い商家が散在しています。中には、深谷故なのか妻面がレンガ造りの家もあります。また、上部は土蔵造り、基部は煉瓦という土蔵もありました。煉瓦造りの煙突がそびえるのは地酒の菊水の醸造元である瀧澤酒造です。

 煉瓦が建築材料として使わら始めたのは、紀元前4,000年頃からで、メソポタミア文明の地で、乾燥させただけの日干し煉瓦でした。この日干し煉瓦は、アフリカ諸国などで現在も使い続けられていますが、雨の少ない土地ゆえに建築材料として成り立ったのでしょう。現在使われているような粘土を高温で焼きしめて作られる焼成煉瓦もメソポタミアで紀元前3,000年ころから使われ始め、内部には日干しを、外壁には焼成煉瓦をと使い分けられていたそうです。この焼成煉瓦を焼くための薪を得るために周辺の森林が乱伐されてメソポタミア文明が滅びてしまったという説もあるほど、煉瓦は盛んに作られたようです。煉瓦は一種の陶器で、焼いて固まるのはケイ酸がアルミなどと化合してガラス化するためですが、ケイ酸(シリコン)と言えば、現在のITを支える半導体の材料の大部分は純度の高いシリコンです。ITのためにシリコンを使いすぎて現在の文明が滅びてしまわないことを願いますね。

異なる民族をつなぐ架け橋であったモスタルのスタリ・モストは再建されましたが、民族間のしこりはなかなか解消されないようです(ボスニア・ヘルツェゴビナ)

2019-10-06 08:00:00 | 世界遺産
 紀伊半島の海辺や奥地に仏教や神道の聖地が広がるのが紀伊半島の霊場と参詣道の世界遺産で、天皇を始め数多くの庶民までが蟻の熊野詣と呼ばれるようにぞろぞろと参詣したのが参詣道の熊野古道などでした。日本人は、神道、仏教、キリスト教などのいいとこ取りで、悪く言うと宗教に対して節操の無いところがあって、宗派間での争いは比較的少ない国でした。ところが、世界的に見ると、地域紛争を始め戦争の原因のかなりの部分は宗教対立で、キリスト教とイスラム教との対立が目立ちます。その一つが、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争で、戦場になったモスタルにあって紛争で破壊された民族間をつないできたスタリ・モストが再建され世界遺産になりました。

 
 モスタルは、ボスニア・ヘルツェゴビナの南部にある5番目に大きな都市で、首都のサラエボの南東70kmほどに位置しますが、観光にはクロアチアのドゥブロクニクからバスで行く方が便利なようです。バルカン半島には、戦後にユーゴスラビアが誕生しましたが、1991年にユーゴからクロアチアが独立したことを契機に、多民族で宗教も違う集合体のユーゴは、数年にわたる紛争に突入してしまいます。モスタルも主戦場の一つとなり、数多くの宗教施設を始め町の大部分が破壊されてしまいました。

 
 
 やがて町の中心を流れるネレトヴァ川を挟んでクロアチア勢力とボスニア軍とが対峙することになり、1993年に両岸をつないでいたスタリ・モストが破壊されてしまいました。その後、2003年から2004年にかけて橋の修復が行われ、現在みられるものは再建されたアーチ橋になります。この橋の上からダイビングを行う事が恒例になっており、訪問した時にも、飛び込むようなポーズをしている人が居ましたが、単なるポーズだったようです。再建された橋からのダイビング大会では、まだまだクロアチア系とボスニア系コミュニティとの間で軋轢が残るなか、クロアチア系の参加は抵抗があったとのことです。現在はスタイリ・モスト以外にも、ネレトヴァ川の両岸をつなぐアーチ橋があって、見間違えるようにもなっているようです。

 
 
 
 
 町の中の再建も進んでいますが、躯体だけが残り、その壁には無数の銃弾の後が残るビルも見受けられます。記憶を消さないために、意識的に残しているのかもしれません。町中には、多くのモスクがありますが、訪問したモスクが再建なのか、修復なのかは分かりませんでしたが、通常はアラベスク模様が描かれる壁画に自然の産物の木が描かれていました。お土産屋さんが多くある小道を通ると、木漏れ日が気持ちよく、かつてここが激戦場だったことを忘れさせてしまいます。

 

 モスタルの伝統的な民家の内部が公開されていて、人々の生活ぶりも垣間見られます。木造の2階建てで、入口の階段わきの飾られてゼラニュウムや庭のアジサイの花が綺麗でスイスのツェルマットを思い起こします。内部は絨毯ひきで、日本と同じ土足禁止、ただ日本と比べて、一つの部屋の広さが格段に広かったのが羨ましいところでした。

 スタリ・モストは石造りのアーチ橋ですが、アーチ造りは支える両端がしっかりしていれば、支えるための構造物を作らなくても自分の重みで崩れないという優れた特性があるようです。ただ、両端には突っ張るための外向きの力が加わり、アーチ式のダムは、川の両岸がよほど頑丈な岩盤である必要があるとのことです。また、ゴシック建築の教会の屋根は側壁を外に押しやり崩してしまう恐れがあるので、壁の外に飛び梁を作って支えています。ゴシック教会ができた頃の強度は経験則から割り出していたのでしょうが、現在の大型コンピュータの需要のかなりの部分は建築分野の強度計算に使われているようです。かつては、建築現場での、計算チェックには計算尺が使われていたのではないかと思いますが、科学博物館の計算機の展示ケースの計算尺を知る人はほとんど居なくなりました。