世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

小樽駅の北東にある堺町商店街は見るだけでなく食べたり買ったりの観光客でにぎわっています

2020-12-20 08:00:00 | 日本の町並み
 石炭とニシンという陸の恵みと海の恵みとで栄えたのが小樽でした。繁栄の残照としての小樽運河やかつての銀行の建物群が観光客を集めています。これらの観光スポットは、小樽駅の北東に広がっていますが、南東部にも観光客を集めている観光スポットがガラスやオルゴールの工芸品の工房や店舗群です。今回は、小樽の町の第2回として堺町商店街界隈を紹介します。

 
 
 
 
 
 
 運河や銀行の建物がある周辺は観光客はみて写真を撮るのが目的のようですが、堺町商店街界隈は食べてお土産を買うのが目的のようです。商店街ということなので、至極当たり前なのですが、たの商店街とは一味違うようです。商店街に立ち並ぶ建物の多くが、かつての倉庫であったり、100年以上前に建てられた石造りの建物も数多くあって、建物を見て歩くだけでも楽しいのです。古い建物を、なんのためらいもなく再開発の名のもとに壊してしまう他の地域とは一味違うようです。

 
 
 この地域を代表するガラス工藝の起こりもニシン漁にあるのだそうです。魚を採るために使う網には、浮が必要ですが、現在ではプラスチックで作られていますが、かつてはガラス玉でできていて大きな需要がガラス工業を支えたのだそうです。需要の中心は、お土産になるガラス細工が中心になっていて、工場というより土産物屋街という雰囲気のようですが、石造りの建物に入ると、かつてガラス製品を運び出すために使われたであろうトロッコのレールが残っていたりします。

 
 代表的なガラス工房の北一硝子の石造りの倉庫を転用した北一ホールは、高い天井をトラスで支えて柱のない広い空間がカフェとして使われています。北一硝子はもともと石油ランプの製造で基礎が作られた会社ということもあり、ホール内の照明は、天上から下がるシャンデリアを含めてすべて石油ランプです。この中で、ケーキやお茶が楽しめ、運が良ければピアノの演奏も楽しめます。壁面や天上などが木で覆われていて、ランプで照らし出される雰囲気も最高にロマんティックですが、ピアノの演奏では音の残響が少なくややデッドな幹事がしました。

 
 小樽を代表するもう一つのお土産はオルゴールかもしれません。オルゴールというと長野県の岡谷を思い出しますが、小樽のオルゴールは工房ではなく、展示販売が中心のようです。こちらは、ニシンとは関係が無く、オルゴールの響きが小樽の町の雰囲気に合っていたのだそうです。小樽をオルゴールの町にしたのが小樽オルゴール堂本館で、商店街の東の端あたりのメルヘン交差点のそばに建っています。オルゴール堂の建物は、北海道有数の精米業者であった旧共生㈱が明治末期に建てたレンガ造りの建物を昭和になって転用したものです。建物の前には上記時計なるものがあり、動力源が蒸気というわけでなく、15分毎に蒸気によって船の汽笛のような5音階のメロディを奏で、観光客を集めています。

 小樽の観光を支えているガラスですが、冷たくって堅いイメージですが、物理学的にはガラスは液体に分類されるそうです。固体というのは分子が規則正しく並んでいる状態ですが、ガラスの中は分子がランダムに存在しその動きが凍結してしまっている状態で、これをガラス状態と呼ぶのだそうです。ガラスは、珪砂と呼ばれる酸化ケイ素を主成分としていますが、酸化していない純粋のケイ素(シリコン)の固体、つまり結晶化したものは、現在のIt産業を支える重要な元素です。浮玉の原料として漁業を支えてきたガラスの原料のケイ素は、魚群を探査する電子機器を構成する半導体の原料として漁業を支えているのかもしれません。

山奥にある海印寺は少々足の便は悪いのですが、膨大なお経の版木に驚かされるだけでなく、周りの緑に癒される空間です(韓国)

2020-12-13 08:00:00 | 世界遺産
 中国の歴代皇帝が天帝に祈った場所が天壇でした。古代から宗教の力は強いらしく、絶大な権力を持つ皇帝ですら天の神に祈らねばならなかったのでしょうか。古代の中国では、インドの仏典を求めて、苦難の道を往復した玄奘の話は西遊記になるほど有名です。玄奘が招来した仏典を基に編纂された大蔵経が高麗に伝わり経典を印刷するために木版が韓国の山奥のお寺に残されています。今回はその高麗八萬大蔵経を保存している伽耶山海印寺(ヘインサ)を紹介します。

 
 
 
 海印寺は韓国の南東部の伽耶山という山並みの中にある寺で、最寄りの都市は大邱になります。ただ、この大邱から路線バスで西にひた走って1時間半ほどもかかる山の中です。大邱の市街地を通り抜け、田園風景の中を走り、緑の中を国立公園になっている伽耶山に上っていきます。海印寺のバス停近くに博物館があって、お寺を訪問する前に予習ができます。そこから、お寺まではダラダラ上りの坂を15~20分ほどで、やっとお寺の総門のような伽耶山海印寺の扁額がある門に続いて一柱門のあるところでまで到着です。現在は駐車場からこの門のところまで有料のシャトルバスが上がってきているそうです。上りはきついのですが、緑の中を渓流があって、なかなか散歩に気持ちの良い道です。

 
 
 高麗八萬大蔵経を納める八萬大蔵板殿はさらに階段などを上ったお寺の一番奥で、足に自信のない方は辛いかもしれません。は横に長いもので、上下にガラリが切ってある開口部があって、湿度を一定に保つようになっているようです。版木を納めるラックは、土間の上に上下を開けて組み上げられ、こちらも温湿度のコントロールをしやすくできているようです。観光客の影響で湿度が上昇するのを防ぐためでしょうか、内部には入れず窓越しの拝観となります。クフ王のピラミッドに入られる1日の人数を制限しているのと似ています。版木は13世紀初頭に彫られ、そろそろ800年が経とうかというものですが、木でありながら、外見からはさほどそっくり返っているようには見えません。

 お寺自体はたびたび葛西に遭い、9世紀に創建されたころから残っているのは石塔ぐらいで、建物は19世紀初頭の再建なのだそうです。ということは、お寺に災難があった時には、版木を持って避難させたのでしょうね。信仰心のなせる技でしょうが、あれだけの数で重さもあるでしょうから、避難は大変だったのではないでしょうか。一方、わが国では、一本の木から木造仏が作られたころには、背中から内部をくりぬく内ぐりと呼ばれる技法が採られました。木が割れることを防ぐだけでなく、仏像の重さを軽くして火災などの時に持って逃げやすくするためとも言われています。

 
 
 
 斜面に建つお寺なので、一番高いところに建つ八萬大蔵板殿からは、ところ狭しと建てられた建物が這い上がって来る様子が解ります。屋根の甍の波と周りの緑がいいハーモニーを産んでるようにも思います。遠足の子供たちと遭遇して、なんとも騒々しかったのですが、その一団が去った時に聞こえてきた風鐸の音が山奥の静けさを増幅させていました。本殿にあたる大寂光殿は八萬大蔵板殿の手前にあって、その手前の中庭の中央には創建から伝わっている石塔があります。韓国の慶州にある世界遺産の仏国寺にある石塔と似た印象です。建物入口の怪談の両脇には木場を向いた虎のちょうこくがあり、怖いというよりユーモラスな感じすらします。

 海印寺にあるお経の版木は、当然ながら活字ではなく、1枚ずつ個別に彫られたものです。大変な労力がかかったものと思いますが、活字を拾って印刷する手法と違って、誤字や字の向きが横転したり天地返しになることは無かったのではないでしょうか。活字印刷では大量の活字のストックが必要で、活字を拾う作業も大変なため、最近は名刺印刷で細々と残る程度で、ほぼ絶滅状態だそうです。ほとんどの印刷は、ディジタル製版によることとなり、字がひっくり返った誤植は無くなりましたが、原稿を入力するときの誤変換による、とんでもない表現をよく見かけるようになりました。ただ、ここにきて印刷によるほんの出版が減って、電子出版が増えてきたように思いますが、誤変換の問題は解決されてはいないですね。

石炭とニシンとで潤った小樽は、それらの遺産が観光資源となって今も多くの観光客を集めているようです

2020-12-06 08:00:00 | 日本の町並み
 佐賀県との県境に廃線で使わなくなった昇降橋が保存されているのが福岡県の西端の大川でした。人の移動が鉄道から自動車に移り、全国的に廃線が加速し、特に九州や北海道では顕著のように思います。北海道で最初に開通した鉄道は、幌内炭鉱の石炭運搬のため幌内ー札幌ー手宮を結ぶもので、明治初期の開通でした。函館本線開通後も南小樽を起点とした手宮線として、生き残りましたが1985年に廃止されました。今回は、手宮線の廃線跡が残る小樽の運河地区周辺を紹介します。

 
 
 手宮線は廃線になってから35年にもなりますが大部分の路線敷きが保存されています。レールは当然、踏切や信号機などのほか色内仮乗降場は休憩所として駅舎が復元されています。もちろん列車は来ないので踏切には遮断器はありませんが、東南アジアの鉄道のように、ひょっこりディーゼルカーが現れそうな気がします。レールが残っているからということで、LRTで復活という案もあるのだそうです。

 
 
 
 
 手宮線の終点の桟橋駅跡を北端として南に延びるのが小樽運河で、小樽港のに扱いが増えたため艀が倉庫群に直接横づけできるように大正時代に開削された運河です。戦後には小樽港に埠頭が整備され、運河としての使命を終え、倉庫群ともども再開発計画で埋め立てられる可能性がありました。、しかし運河沿いの歴史的な景観の保存運動が起こり、紆余曲折はありましたが現在のような独特の景色残され観光の目玉となりました。

 
 
 小樽運河周辺は石炭の積出港がきかけとして栄えましたが、大正期からはこれに加えてニシンの豊漁によって多くの銀行が集中するようになりました。ピーク時には25項に達したようで、北のウォール街と呼ばれたこともありますが地元ではこの表現はほとんど使われなかったそうです。現在は3行が残るのみだそうですが、閉店となった銀行の建物の一部は博物館など再利用され、小樽の景観を保っているようです。

 
 
なかでも旧三井銀行小樽支店は2002年に閉店されましたが2016年から内部公開されています。貸金庫の部屋は、4隅に45度に設定された鏡があって、鏡の向こうに自分の背中が見られます。不審者を監視するためだそうですが、並行する鏡の間に入ると、無限に遠くが見えるのと似た減少です。またロビーには巨大なステンドグラスが飾られていますが、これは18世紀にフランスで作られ、ベルギーの教会に献堂されましたが、1994年に協会が取り壊されることになったため、取り外されて小樽にやってきたそうです。

 かつての銀行の建物はどれもいかめしく権威の象徴のようなものが多く、かつては辰野堅固いあや金吾が得意とした分野だったようです。ちゃちな建物では、お客が安心してお金を託せなかったからかもしれません。しかしネット銀行をはじめディジタル通貨など、権威の象徴が目に見えなくなってきています。ただ、権威の象徴の建物の必要性はあまり感じませんが、ネットを利用したお金の動きには、安全性で疑問があります。暗号は絶対ではないし、内部犯罪に無防備な仕組みでは全面的に信用はできません。