世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

キャラクタに惑わされない遊園地としてファンも多かった豊島園、閉園後のエルドラドとアジサイの扱いが気になるところです

2020-10-25 08:00:00 | 日本の町並み
 小石川植物園近くの白山神社の周りには樋口一葉の小説のモデルとなった色街がありましたが、現在は再開発で跡形もなくなっているようです。白山神社では毎年アジサイ祭りが続いていて、こちらは再開発には影響されないと思っていたら、今年はコロナのせいで中止になったようです。都内のアジサイで有名な場所はいくつかありますが、豊島園のアジサイも見事で、8月末で閉園となった豊島園ですが、最後のアジサイ祭りが開催されました。今回は、この豊島園を紹介します。

 豊島園は、練馬駅の北1kmほど、西武線や大江戸線の豊島園駅が最寄り駅になります。豊島園という名前ですが、豊島区ではなく練馬区にあり、名称は区の名前ではなく、かつてこの場所にあった練馬城の城主が豊島氏であったことに由来します。開園は大正時代で、日本でも最も古い遊園地の一つでした。広さは22万㎡ですからディズニーリゾートの1/5程度、東博の2倍程度といったところです。ディズニーのような派手さはありませんでしたが、地域密着型の遊園地で、ファンも多かったようです。

 筆者が子供の頃は神戸で育ちましたが、関西にはこのような遊園地が多くありました、宝塚ファミリーランド、阪神甲子園パーク、ならドリームランド、近鉄あやめが池などなど、みんな閉園されてしまいました。映画やキャラクタに紐づけされない遊園地で残っているのはひらかたパークくらいでしょうか。豊島園もご多分に漏れず、映画に紐づいたテーマパークになるようです。関東では、後楽園や浅草など、まだいくつかの映画などの色付きではない遊園地が健在なのは、地域人口が関西より多いことも幸いしているのかもしれません。

 
 
 
 
 
 豊島園にはアジサイ祭り以外ではあまり入園した記憶がありませんが、7年ほど前の桜の季節に夜間開園された風景が記憶に残っています。ライトアップされた桜に加えて、乗り物やどくりつのイルミネーションが園内を飾り、なかなkきれいでした。特に、豊島園を代表するカルーセル・エルドラドの暖かい色のライティングがメルヘン的でした。このカルーセルは、20世紀初頭にドイツで作成され、世界的に見ても最古のメリ-ゴーラウンドの一つで、ヨーロッパ各地で披露され1911年にアメリカのコニーアイランド遊園地に譲渡され、名物となりアル・カポネやマリリン・モンローも乗ったのだそうです。その後、コニーアイランド遊園地が経営破綻し、廃棄寸前に1969年に豊島園が買い取っったという歴史を持っているそうです。閉園後にどうなるのかが気になるところです。夜間と言えば、豊島園はかつて夏の毎土曜日の夕刻に打ち上げ花火をやっていたんです。閉園の前にも小規模ながら復活していたようです。この花火が5kmほど離れた我が家のベランダから見れたのです。ただ、いつの頃からかマンションなどが建って、遮られてしまいました。

 
 
 
 
 豊島園のアジサイは、入園して橋を渡り、やや右手の奥の起伏のある場所にびっしり植わっていて、品種も多く、見ごたえがあります。丘の斜面から見下ろすと、それはそれは圧巻の景色です。日本で探しても、これだけの物量と品種の多さはあまりないかもしれません。遊園地なので、そのアジサイの花の向こうをお伽列車が走り抜けていきます。跡地は避難公園とテーマパークの予定なので、このアジサイの群落場所が公園のエリアとなって、残って閉園後もアジサイ祭りが続いてほしいものです。

 遠くの花火を見ると、光と音の速度の差で、音がしたときには、すでに花火は消えてしまってます。我が家からの豊島園の花火は、おそらく15秒ほどの遅延があったのだと思います。この音速の測定は17隻ごろから盛んになり、当初の手法は鐘楼の鐘の突くと同時に蝋燭を遮っている幕を取り除いて、離れたところで音と光の時間差とを測定したようです。一方光の速度はというと、音速と似たような手法でガリレオが測定しようとして失敗しています。遠くの山に居るランプを持った弟子に向かってランプを振って、弟子がそれを見て振り返す時間を測定しようとしたようです。その後もいろいろな手法が試みられ、19世紀になってフィゾーが高速で回転する歯車をすり抜けた光が、遠くに置かれた鏡で反射して戻る光が再度回転歯車を通る時に反射光が見えたり見えなかったりする減少を利用しました。この手法によって得られた光速は、31.3万km/秒でその後さは4%という驚異的な精度だったそうです。ただ、この30万km/sというのは真空中の速度で、現在の通信を支えている光ファイバは石英の中を光が進みその速度は約20万km/sと遅くなります。それでも猛烈に速いと思うのですが、この遅さが問題になる分野のために、中空にしたファイバが作られ、30万km/sに近い速度も得られるようになったようです。

工事現場そのもののサクラダファミリアもそれなりに面白かったのですが完成したらもう一度訪問したいです(スペイン)

2020-10-18 08:00:00 | 世界遺産
 中国の奇妙な建物を2か所、そしてポルトガルを1か所紹介してきましたが、今回はポルトガルのお隣のスペインです。スペインで奇妙というか独創的な建物と言えばガルディを置いて他になさそうです。今回は、ガウディの作品が町中にあるバルセロナを紹介します。ただ、筆者がバルセロナを訪問したのは30年近くも前なので、記憶も怪しく、町の様子も変わってしまっている可能性が高いと思います。

 バルセロナはスペインの東端、北東に150kmも行けばもうフランスという場所です。カタルーニャ地方の中心で、言語や文化が異なり、スペインの富の大部分を生み出すこともあってスペインからの独立志向も強い地方です。世界遺産はアントニオ・ガウディの作品群という名称で7か所の建築と公園が登録されています。筆者がバルセロナを訪れた時はパッケージ・ツアーだったので、バスを降りて見学したのは2か所、バスの車窓から眺めたのが2か所でした。


 中でも最も有名なものはサグラダ・ファミリアですが、1984年当初の登録では入っておらず、2005年に追加登録されました。1882年に着工され、ガイディ存命中の完成はおろか、完成までには300年はかかると言われました。しかし、その後の経済発展や入場料収入、技術の進展などで2026年に完成するという予測に代わりました。筆者が訪問した30年前は、まだまだ道半ばという感じで、メインのホールと思しき場所には建築資材が山積みされていました。出来上がっていた塔の一つに上がるエレベータは1基のみで、乗れる人数も限られていました。パッケージツアーの集合時間に戻る必要があり、エレベータの往復時間と、乗れる人数と、並んでいる人数から、戻ってこられる時間を計算して行列に並びました。それでも、集合時間にはギリギリで冷や汗ものでした。エレベータで上った場所には、エレベータが1往復する時間しか滞在できませんでしたが、工事途中の尖塔群とバルセロナの風景がチラっと楽しめました。

 
 
 もう1か所の降りた場所がグエル公園ですが、現在は公園ということになっていますが、ガウディはここに芸術と自然に囲まれた分譲住宅群を造る計画でした。広場や道路などのインフラに60軒ほどの住宅が作られる予定でしたが、買ったのはガウディとグエル伯爵の二人だけで、グエル伯爵の没後は工事が中断して、最終的には市に寄付され現在のようになったそうです。バルセロナ市街を見下ろす高台に、モザイク・タイルで装飾された建物や彫刻など、距離感がおかしく見える回廊など、そこら辺にある公園とは一味も二味も違います。住宅として売れなかったので公園として開放されましたが、観梅していたら神戸のジェームス山のように居住者以外は立ち入りできなかったかもしれません。

 
 
 走るバスの車窓から眺めたガウディ建築はカサ・ミラとカサ・パトリョの二つでした。カサ・ミラは直線部分を持たない建物で、完成した当時は醜悪な建物と酷評されたそうです。バルセロナ郊外のモンセラの岩山にインスピレーションを受けたのかもしれません。漢詩当時は個人宅だったようですが、現在は賃貸されているようで4所帯が入居しているそうです。その他の部分は博物館になっていて、内部も見ごたえのある連続のようです。もう一つのカサ・パトリョは既存の邸宅をガウディが改造したもので、バルコニーの仮面で有名な建物です。ガウディは5階と地下室を追加して、建物のあちこちに曲線を取り入れたのだそうです。こちらも内部がみられるようで、ガウディ製作の家具も1組だけが展示され、残りはカタルーニャ美術館が所蔵しているようです。

 
 
 この美術館は、1929年に開催されたバルセロナ博覧会の政府館が国立宮殿となり、その一部が美術館として使われています。訪問した時には建てられてから60年ほどしか経っていない建物の割には風格があったように思います。このバルセロナ博覧会の遺物がスペイン村で、スペイン各地の名建築のレプリカを集めたものです。日本のスペイン村では、実物ははるか海の向こうにあるわけですが、本物が近くにある状況で、なんでこのような施設を残したのかとも思えます。それより、当時世界で唯一であった白いゴリラの方が貴重ですが、2003年に亡くなってしまいました。

 ガウディの曲線を多用した建築は現在でも構造計算が難しいのではと思うのですが、いまだに崩れもしないで立っているので、とりあえずの強度はセーフなのかもしれません。研究所の展示館に建築会社の方を案内したことがありますが、大型コンピュータの共同利用の展示コーナーで、「この写真はわが社だ!」とおっしゃられました。建築の構造計算は、40年以上前の大型コンピュータ共同利用のビッグユーザの一つだったようです。当時は電卓も無かったので、建築現場では計算尺が大活躍だったのだそうです。科学博物館に計算尺の展示コーナがありますが、ほとんどの人は、それが何をする道具かも知らないようです。この50年ほどの計算機の進歩は驚くばかりですが、計算結果だけが独り歩きしている感もします。

「にごりえ」の舞台になった古い色街は再開発という名の暴力につぶれましたが、白山神社のアジサイ祭りは健在です

2020-10-11 08:00:00 | 日本の町並み
 地名の由来になる神石白石が地下で仙台まで伸びているとの伝説があるのが宮城県の白石でした。白い石というのは全国にあるらしく、白石という地名は北海道から九州まで分布しています。ただ読み方はシロイシとシライシとがあるようです。一方、雪が積もった白い山も各地にあるで、白山の地名は石川県の白山市を筆頭に100を超えるハクサンの、いやタクサンの白山があるようです。読み方はハクサンだけのようで、シロヤマやシラヤマというのは人名にはあっても地名には見当たらないようです。今回は、これらの白山の中から、東京の白山神社のおひざ元の白山の街並みを紹介します。

 
 
 
 白山は東京都文京区の小石川植物園の東側に南北に延びる白山通りの両側に広がる町並みです。白山神社は、石川県の白山神社の勧進を受けて10世紀に現在の小石川植物園のあたりに創建され、17世紀に後の将軍綱吉の館林藩邸が建てられることになり、東に移動して現在地に引越ししたそうです。白山通りと旧白山通りが分岐する三角形の、やや小高い場所に建ち、境内には富士塚もあります。富士塚というのは、神社やお寺の境内に小山を作り富士山に見立てたもので、富士山に登るのは大変なので、富士塚で行ったつもりにしたものです。東京には江戸七富士と呼ばれる富士塚が残り、そのうちの三か所が重要有形民俗文化財になっています。ただ、白山神社の富士塚はこの七つには入っていませんが、境内や富士塚を取り巻くアジサイは見事で、毎年6月に開催される文京アジサイ祭りでは三千株のアジサイの花が境内一面を飾ります。

 
 旧白山通りを」東に渡ったあたりにある円乗寺には八百屋お七の墓があります。西鶴の好色五人女によれば天和の大火で実家の八百屋が全焼し、菩提寺の円乗寺に避難、そこに出会った小姓と恋仲になったが、実家が再建されて戻るも、火事があれば小姓と再会できると放火したとされています。このお七の墓が菩提寺にあるというわけですが、西鶴の描いたお七は、あくまで創作で、史実はほとんど解らず、実家が八百屋であったという証拠どころか、彼女の実在も怪しいのだそうです。ただ、お七はその後の演劇界、文学界、最近では歌まで登場するくらいその存在に影響力をもったようです。似たような迷惑事件が谷中五重塔放火心事件で、幸田露伴の五重塔のモデルとなった塔が不倫の清算のための放火心中で全焼したもので、こちらは演劇にはなってなさそうです。

 
 
 
 
 円乗寺のある白山1丁目を旧白山通りの東の裏通りを南に行くと旧花街で、樋口一葉の「にごりえ」の舞台となった町並みがあります。ただ、筆者が訪問した13年前には元の待合の「松泉」や古めかしい床屋などの建物がのp凝っていましたが、この辺りは再開発が進んで町並みの様相はずいぶんと変わってしまったようです。せっかく繊細に合わずに生き残った町並みだったようなんですが、まだまだわが国では古民家の美しさに価値観を見出す人は少ないのでしょうか、美しさより銭勘定なのかもしれません。

 アジサイの色は、植えている土のpH地に左右されるといわれます。酸性土壌では、土の中のアルミイオンが溶けてアジサイに取り込まれ花色が青色になります。一方、アルカリ性だとアルミが溶け込まず花は赤色になります。もちろんアジサイの品種に左右されますが、品種の色合いにあったpH値の土に植えると鮮やかな色になります。アルミニュウムは、地球上の元素の中で酸素、ケイ素に次いで3番目に多い元素で、電気、電子分野でもよく使われる元素の一つです。銅に次ぐ伝導率を利用した電線や電子回路に欠かせないコンデンサーのアルミ箔、スマホなどに欠かせないリチュウム電池のケースは、その軽さからアルミが大勢を占めるようになっています。これだけ有用なアルミですが、アルミイオンは認知症の発症の原因の一つではないかとも言われています。

かつて無錫旅情という歌がありましたが、太湖以外には工業都市の無錫は魅力に乏しい都市でした(中国)

2020-10-04 08:00:00 | 世界の町並み
 バルト三国の最も南に位置するリトアニアの首都から日帰り圏にあって、多くの湖水やお城のあるピクニックに好都合な場所がトラカイでした。山ばかりの風景の中に水があると絵になることが多く、それが川であったり湖水であったり、時には海の場合もあります。中国の清朝の出身は旧満州で山ばかりの風景の中で育ったため、江南地方の水のある風景にあこがれ、承徳の秘書山荘の庭園には江南の湖水を模した池があり、北京郊外の頤和園の中にも規模は小さいのですが水のある風景が作られています。その江南地方の水郷風景は、世界遺産の蘇州など上海の西側に日理がっていますが、今回はそれらの中から、中国で三番目に大きな淡水湖の太湖の北岸にある無錫を紹介します。ただ、訪問したのは20年以上も前で、デジカメの性能はおもちゃの域を出ず、画素数も色合いもかなりひどく、アナログの写真をスキャナで取り込んで補いました。

 無錫は上海の西130kmほど、在来線では80分ほど、新幹線では30分ほどですが、新幹線の駅は市街地から離れているようです。無錫とは、字の通り錫(スズ)が無いということですが、かつては豊富なスズの産地で有錫とも称される鉱業都市であったのが前漢時代までに掘りつくしてしまって無錫になってしまったと言われています。ただ、この地方で話された越語の研究から、この説を否定する見解もあるようです。錫は青銅の原料の一つですから、青銅器文化華やかりし頃は、大いに栄えた都市の一つだったのでしょう。この錫が取れなくなっても、7世紀に開通した京杭大運河が通り、江南と北京とをつなぐ物流都市として発展をつづけたようです。

 現在の無錫市は人口が500万人を超えているので東京23区と横浜市との間くらい、福岡県の総人口ほども生活をする大都市になっています。市域の大部分が沖積平野で、一番高い山でも600mほどと、土地の利用効率が良いことも理由の一つかもしれません。工業化が進み、日本をはじめ外資系企業の進出も盛んなところのようです。

 
 
 工業都市のイメージが強く、観光の中心はお隣の蘇州で、無錫には観光ポイントは、あまり多くありません。おそらく最大の観光ポイントは太湖で、竜宮線のような観光船で巡りますが、なにせ琵琶湖の3倍以上の面積のある湖ですから、無錫の近くをチラと巡るだけです。この太湖の水のおかげで、太鼓の島々や無錫の丘にある石灰岩が侵食され穴だらけの太湖石を産み、お隣の蘇州の庭園には数多くの太湖石が並んでいますが、司馬遼太郎氏には酷評されています。

 
 
 
 
 かつて錫が採れたという山が錫山で、現在は頂上には龍光塔が建っています。そしてこの龍光塔の麓に広がるのが錫恵公園で、かなりの広さがあり、その中の寄暢園には蘇州にあるような庭園があります。筆者府が訪問した時は花まつりの最中で、公園中に花があふれていました。この園の中に天下第二泉という唐代に開かれた泉があります。「茶経」の著者の陸羽によると、この泉は、お茶を点てるための水として二番目に優れているというものです。ちなみに天下第一泉は山東省済南にあるのだそうです。

 錫というと、かつてはブリキのおもちゃに代表されるブリキ板の原料として鋼板にメッキをするための原料としての性格が強かったように思います。ブリキと聞くと安物の代名詞のように聞こえますが、錫を主成分とするピューターで作られた食器は高級品のイメージがあります。IT分野では、配線を接続するための半田が古くから使い続けられています。融点の低いことを利用したもので、筆者の若いころは真空管式のアンプなどにコンデンサや抵抗などを半田ごてを使って取り付けていました。現代では、ICなど部品の載ったプリント基板を溶けた半田の池に浸したり、半田の粉末をプリント基板に印刷して加熱したりと、半田ごての出る幕はありません。回路の大部分がIC化され、壊れたら全取り換えという技術の流れは、ちょっと寂しい感じもします。