世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

羽田空港とは川を一つ隔てた羽田は漁村の面影を残す古風な町並みです

2012-04-29 08:00:00 | 日本の町並み
 神戸の居留地は港が外国に開かれた窓であった頃の遺産でしたが、現在の外国との窓口の主役は空港に移っています。日本を代表する国際空港は、成田に移っていましたが、アクセスの不便さから羽田への回帰が進んでいます。空港で有名な羽田ですが、少し鎌田寄りに空港とは違った顔の羽田があります。今回は、羽田空港とは海老取川を挟んだ町名に羽田を冠している地域を紹介します。ちなみに、羽田空港施設がある場所の地名は、羽田ではなく羽田空港です。

 羽田空港に発着する飛行機を水面の向こうに望む羽田は、空港の華やかさとは対照的にひっそりとした町並みが広がります。多摩川の河口に位置する漁村が羽田の旧来の姿で、低層の住宅街の中に神社や商店街が連なっています。






 江戸末期に水害から町を守るため穴守稲荷が祀られ、明治以降は門前町として栄えた歴史を持っています。現在の穴守神社は、羽田空港を隔てる海老取川の蒲田寄りにありますが、かつては現在の羽田空港の敷地内にありました。戦後に羽田空港の拡張で邪魔になるとの理由で米軍から強制退去をさせられ、地元有志の提供した現在地に引越したそうです。大鳥居だけが空港駐車場に取り残されましたが、沖合い展開時に滑走路の進入経路上で支障をきたすということで、現在の天空橋近くに移転しました。ただ、この鳥居は神社からだいぶ離れて、ぽつんと寂しげというか、羽田空港をにらみつけるように建っています。

 天空橋といえば、空港モノレールや京急空港線の駅名になっています。名前から、空に架かる虹色の橋を想像しますが、鉄道橋を思わせる地味なガーター人道橋です。1993年に京急の羽田駅が開業の折に、地域住民の利便性を考えて海老取川に架けられ、地元の中学生の公募で名前が決まったそうです。






 天空橋の近くから眺める空港は、お馴染みの図柄とはだいぶ印象が違い、なんとなく蜃気楼を見ている感じがします。







 
 天空橋を多摩川の河口のほうに行くと、水死者の供養塔があります。海流などの影響で、このあたりに遺体が漂着することが多かったのだそうです。多摩川を上流の方へ行くと、土手のすぐそばに玉川弁天の社があります。この弁天様も穴森神社と同等に、現在の空港島にあったものが、現在地に強制移転させられたのだそうです。小さな社ですが、江戸時代から多摩川の守護神として江戸商家や回船問屋の信仰をあつめていたとの琴です。このあたりには水門があったり、レンガ造りの多摩川の旧堤防が道路の端に塀のように残っていたりで、水との係わり合いの濃い町並みが続きます。
 水とは関係は無いのでしょうが、道端には小さな祠があって、お地蔵様が祭られていたりしてほっとします。









 さて大きな鳥居が空港島のそばにぽつんと取り残された穴守稲荷ですが、強制移転先は京急の穴守稲荷前駅から歩いて5分足らずのところにあります。神社の参道には、やや小ぶりの鳥居があってその先に本殿がありますが、本殿の右奥には小さな鳥居が重なった先に奥の宮があります。このように重なった鳥居の列はお稲荷さんの定番なのでしょうか、伏見稲荷にある鳥居の数は半端ではありません。この奥の宮には神砂(あなもりの砂)と言うものがあって、漁師の逸話と共に、招福の砂として尊ばれているようです。

 航空機は電子装置の塊のようなもので、大型機になるほど安全に飛行できるようです。飛行している現在地を知る装置は慣性航法装置(INS)が有名ですが、長距離になると誤差が増えるので現在はGPSなどと併用されているようです。一番事故の率が高いと言われる着陸の時に、まったく滑走路が見えない状態でも自動着陸が可能なのです。もちろん空港側にそれなりの設備が要りますが、現状では設置されている空港は皆無とのことです。着陸できても、滑走路からスポットまでが移動できないので、そのような設備を設置しても無意味だからです。技術的に可能でも、実現は不可能という例でしょうか。

ロマネスク最大規模のシュパーアー大聖堂の周辺にもユニークな教会がありました(ドイツ)

2012-04-22 08:00:00 | 世界遺産
 皇帝が死後も自身の権力を誇示するために巨大な墳墓を作ったのが明・清王朝の墳墓群でした。中国の陵墓は人工の山を作ってしまいますが、ヨーロッパでは墳墓の上に教会の建物を作るのが一般的です。今回はこれらの教会の中から、ドイツで2番目に世界遺産に登録されたシュパーアー大聖堂とその周辺の町並みを紹介します。

 シュパイアーはドイツのフランクフルトの南80km、ハイデルベルグの西南西20km、マンハイムの南南西20kmほどに位置し、人口5万人ほどの町です。世界遺産の大聖堂は、駅の南東で歩いて25分ほどの距離にあります。駅を出て鉄道と平行に南に800mほど行くと、鐘楼のある広場に出ます。この鐘楼が巨大で、こちらもなかなか存在感があります。





 世界遺産の大聖堂は、この広場で東に曲がって800mほどの通りの突き当たりに壁のように立ちはだかっています。身廊の先端の切妻のファサードに接して両側に翼が伸びていて、正面から見える壁が広く、これが衝立のように見えるのかもしれません。正面から見ると直線的な聖堂ですが、裏側に回ってみると祭壇の後方は丸い外観になっていて、とんがり帽子を被って口を開けた人形のように見えます。

 シュパイアー大聖堂は、11世紀に当時の神聖ローマ皇帝が自身の永眠の場所として建造し、その後も7人の皇帝などが葬られています。皇帝たちの棺は、地下聖堂に安置されていて、祭壇の手前から降りていくことができます。世界的にもロマネスク様式で建てられた教会として最大級の建物です。ドイツではゴシック、ロマネスクはフランスやスペインの建物というイメージが強いのですが、意外にもドイツにもロマネスクの建物が数多く残されています。このコラムでも紹介した、アーヘン大聖堂、トリアー大聖堂、マインツ大聖堂、ロルシュ修道院などがロマネスクを代表する建物です。

 
 鐘楼のある広場をシュパイアー聖堂のほうに曲がるのではなく、まっすぐに行くと2つの教会があります。ガイドブックにも載っていない教会ですが、それぞれに個性があって寄り道をしたくなります。右手の教会は、尖塔が多く端正な感じで、左側は天を突く塔が印象的です。
 
左側の教会はGedächtniskirche Speyerという名前のようですが、内部で古い金管楽器の展示を見ることができました。常設展示なのか、たまたまの特別展だったのかは判りませんが、現在のホルンなどとはだいぶ違った形の楽器を見ることができました。

 楽器の電子化によって、難しかった楽器の演奏も少しは楽になってきているようです。電子化トランペットでは、マウスピースからメロディーを口ずさんで吹き込めば、その音程をトランペットの音に変換してくれるそうです。電子化楽器は、シンセサイザーや電子トランペットのように音を合成するものや、電子バイオリンなどのように音の共鳴を補助するもの、自動ピアノなどのように、人間の動きを擬似するものに分類できるでしょう。最後のカテゴリーのものは、電子技術が発達する前から機械式のものも作られていました。機械式の自動ピアノ用に残された演奏家の演奏は、録音技術の悪かった頃の演奏家の演奏より、良い音で録音が残されているという、奇妙な現象が起こっているようです。

居留地時代の建物は一棟だけですが近代建築の博物館のような神戸旧居留地です

2012-04-15 08:00:00 | 日本の町並み
 工業地帯としての色彩が強い尼崎にも寺町に連なるお寺やレンガの建物が残されていて、違った顔を見せています。レンガ造りの阪神電鉄の旧発電所は立派な産業遺産としてもう少し宣伝をしてもいいのではないかとも思いますが、その阪神電鉄の神戸側の起点の元町駅の浜側には、旧居留地で使われていたレンガ造りの下水管が産業遺産として残されています。今回は、元町駅から三宮駅の南側、海岸沿いに広がる神戸旧居留地あたりを紹介します。

 神戸の旧居留地は、西側を元町駅の東にある鯉川筋、東を三ノ宮駅を通り抜けるフラワー道路、北側は旧西国街道(現在の市役所北側の花時計線)で囲まれた地域で、江戸時代最終年から1899年まで存在しました。現在では、神戸を代表する観光地ですが、治外法権を認めさせられた、日本人にとっては屈辱的な地域でした。

 
 この地域には、美しい近代建築がたくさん残されていますが、旧居留地の建物として現存するのは、重要文化財にも指定されている旧神戸居留地十五番館の一棟だけなのです。レンガ造りの下水管の遺構が残されているのも、この建物の東側の歩道です。実は、この建物は、阪神淡路大震災で全壊をしてしまい、元の建材を使って復旧されたものです。建物以外で当時の遺構としては、15番区画と16番区画の境界のレンガ塀の一部が、ビルの谷間にひっそりと残されています。




 
 居留地として外国人の権利を大幅に認めた土地の南端には、神戸海軍操練所跡碑が建っています。明治になる5年前に勝海舟の進言で設置されましたが、翌年に閉鎖された施設です。坂本龍馬や陸奥宗光などそうそうたる塾生を擁したのですが、幕府の施設が討幕派の拠点となったのでは潰されますね。海軍と言えば、外国に対しての防衛任務と言うことですが、その施設が居留地ができる前とはいえ同じ場所にあったのは皮肉です。外国に対しての唯一の玄関が港であった明治時代には、港の後方の土地は利用価値が高かったのでしょう。その神戸海軍操練所跡碑の近くには、神戸電信発祥の地の記念碑も建っています。明治3年に神戸伝信機局と大阪との間で電信が開始された場所だそうですが、時代と場所から推定して、居留地の外人相手ではなかったのかと思います。

 郵船ビル
 神港ビル
 海岸ビル
 商船三井ビル
 居留地時代に建てられた建物以外に、旧居留地および栄町通、海岸通にかけて大正から昭和初期に建てられた近代建築が残されています。震災によってかなりの数が失われましたが、現在も30を超える優雅な建物が健在です。大規模なビルは、オフィスビルとして使われていますが、1階部分は洒落たレストランやブティックが多いようです。

 
 そのうちのいくつかを紹介しましょう。地域の東南角にあるのが昭和2年に建てられた神戸税関の建物です。近年に新館が増築されましたが、フラワーロード側からの顔は変わりません。内部は展示ルームもあり見学可能で、建物に囲まれた中庭に入ってみると外からは想像できないような景色が広がっています。この税関の前にも記念碑があり、碑文によると昭和天皇の行幸記念なのだそうです。





 
 一方、西に行って元町通りを抜けた南側にはファミリア・ホールの建物があります。明治30年に旧三菱銀行神戸支店のビルとして建てられたものを転用したもので、元が銀行だけになかなか重厚な建物です。

 
 元町商店街の周辺には、小ぶりで個性的な建物も残されています。一つは栄町通りに面した毎日新聞神戸支局のビルで、元は横浜火災海上保険神戸支店の建物です。これも金融関連の建物なので、入り口は石造りの重々しい面構えをしており、新聞社の雰囲気は薄い建物です。ただし1階部分は古い建物を利用していますが、2階から上は新しいビルが乗っかっています。もう一つは、杉原産業のビルで、こちらは表通りから1本入ったとおりに面しています。階段ピラミッドのように2階と3階が少しずつ小さくなって積み重なっています。

 オフィスビルではパソコンなどのOA機器の電源やネットワーク用の配線が必須ですが、古いビルにこれらのインフラを設備するのはかなり大変なのです。20年ほど前に高層ビルにフリーアクセスの2重床を設置する検討では、ビルの構造計算からやり直しと言うことを聞いた記憶があります。全ての階の床を2重床にする構造物の総重量は大変な値になるのだそうです。旧居留地近辺の近代建築群は、美しい外観を保っているものも多いのですが、この問題をどのように解決しているのでしょうか。

鑑真が住職であった揚州の大明寺の近くには痩せた西湖という名の湖もあります(中国)

2012-04-08 08:00:00 | 世界の町並み
 ユーラシア大陸の西の端にあるのがポルトガルのロカ岬でした。大航海時代には、この岬を眺めてアジアに向けて船出をしていった舟も多かったと思いますが、ヨーロッパ人にアジアへの夢を抱かせる源となったのがマルコポーロの東方見聞録です。マルコポーロの旅は陸のシルクロードをたどったものですが、中国滞在中に高官を務めた都市が揚州です。今回は、日本にも関連の深い鑑真和上の出身寺院の大明寺の周辺を中心に紹介します。

 揚州は、上海の西の揚子江の北岸に位置し、上海から列車で1時間ほどの鎮江まで行き、バスで揚子江に架かる橋を渡って1時間ほどで到着します。7年ほど前までは、揚子江をフェリーで渡っていて時間がかかったそうですが、橋ができた現在はバスはあっけないくらい短時間で向こう岸に着いてしまいます。京都市より少し広いぐらいの市域を持っていて、鎮江からの長距離バスが着く市の南西部から大明寺の東北部までは市内バスで1時間ほどもかかります。このバスは市の中心部を通り抜けますが、緑や水が多くて、時間があれば途中下車をしたくなる景色がたくさんあります。

 
 大明寺は、バスを降りて急な坂を上がった所にあって、巨大な九重塔が出迎えてくれます。鑑真の出身寺院ということで期待をして訪れたのですが、鑑真が創建した日本の唐招提寺に比べると少々期待はずれでした。中心となる建物の規模も小さく、中には塔を初め新たに建てられたものも目立ち、仏像も見るべきものが無かったことによるかもしれません。中国では、文化の違いなのでしょうが、古色蒼然という仏像は見かけません。仏像は、当然ながら、信仰の対象で、その対象は金色に輝いている必要がある、という考え方のようで、とにかく金ぴかなのです。信仰が現役と感じたのは、大明寺の後方には、広大な土地に僧侶の教育機関のような施設があり、観光だけの寺院ではなさそうでした。

 
 金ぴかの仏像が多い中国ですが、鑑真記念館にあった鑑真像は、古めかしい色をしていました。1973年に唐招提寺にある像のレプリカを安置したようです。さらに、唐招提寺と似ていると思ったのは、屋根の両端に乗っている鴟尾ですが、どうもこれは中国がオリジナルで、その意匠が日本に伝わったようです。もう一つ、奈良遷都1,300年の時に会場に遣唐使船の模型が置かれていましたが、そっくりの模型が飾られていました。おそらく、奈良の模型は、大明寺の模型も参考にしたか、オリジナルの資料が同じものなのでしょう。

 大明寺の南側には、緑と池の広大な公園があり、名前を痩西湖公園といいます。杭州にある世界遺産の西湖に似ているけれど、細長い、つまり痩せた西湖という命名です。大明寺や痩西湖公園の一帯は水と緑が南北に3km、東西に2kmほど広がる地域で、痩西湖公園自体も500mほどの幅で2kmほど南北に分布しています。広い公園内には、トラムが走っていて、入り口から池のそばの、公園の中心地まで歩かなくて行けます。ただ、南北に長い割りに出入り口が3箇所なので、出口を探すのにちょっと焦ります。中心地には、五亭橋や白塔などもあり、現地の人たちもこの周辺に集まってきているようです。池には遊覧船が浮かび、回廊つきの庭園も造られています。地元の人々にとっては、子供や家族と一日遊ぶのに好都合な場所の一つなのでしょう。

 
 五亭橋は痩西湖に架けられた橋の一つですが、中央に5つの亭を持っていて、橋と言うより湖の上に作られた東屋といった感じです。池の中にある島から眺めると、なかなか典雅な形をしています。白塔のほうは北京の北海公園のものを真似て作ったということで、急いで作ったので最初は塩で作ったという逸話のあるものです。この塔、遠くから見ると、なんとはなく徳利に見えてしまいます。

 鑑真は律宗の開祖で、わが国に授戒のシステムを伝えた僧です。戒律は僧侶として守らなければならないルールで、日本に仏教が伝わった頃には重要性が認識されていなかったようです。奈良朝になり、その重要性が見直され、招聘を受けて、困難の末に来日した高僧が鑑真だったわけです。集団で生活をする人間の世界では、どのような場面にもルールが必要になるようで、IT分野でもしかりです。ネットにつないぐばあいも、プロトコルと呼ばれる通信手順に従わないと、何もできません。ちなみにプロトコルという名称は「外交辞令」という英語からきています。もちろん、この手順はパソコンなどのキホンソフトの中に組み込まれていて、利用者が意識することは少ないのですが。しかし、装置やソフトを作る人たちにとって、どのルールが採用されるかにより、有利/不利が生まれ、ルールを決める国際会議などでは火花が散るというわけです。

工場が建ち並ぶイメージの強い尼崎ですが寺町周辺は別世界が広がっています

2012-04-01 08:00:00 | 日本の町並み
 平等院の参道には老舗のお茶屋さんが店舗を連ねているのが宇治でしたが、その宇治の産業はお茶だけではなく、ユニチカのメインの工場の一つがあります。ユニチカは、かつては尼崎紡績という綿糸の製造メーカーで、名前の通り発祥の地は、尼崎なのです。発祥の地には、登記上の本店が置かれており記念館があるのみですが、今回はユニチカ発祥の最寄り駅である大物駅の隣の阪神尼崎駅周辺を紹介します。

 尼崎は、兵庫県の南東端に位置しますが、市外番号は'06'つまり府県を跨った大阪市内と同じなのです。何故、06となったかの理由は諸説あるようですが、尼崎紡績が当時は電話が無かった尼崎に、大阪から自費で電話回線を引いたからと言う説もあるようです。日紡発祥の地と言うことからも判るように、工業地帯というイメージの強い土地柄です。しかしながら、市域の北の阪急沿線は高級住宅街もあって、東京の大田区が、町工場の顔と田園調布とい2つの顔を持つのと似ているかも知れません。ここで紹介する阪神尼崎駅は海よりの工業地帯の色彩が強いような場所ですが、尼崎城の遺構や寺町など意外な顔をも見せる界隈です。

 
 阪神尼崎の駅を降り南に出ると、レンガ造りの建物が目に入ります。由緒ありげな建物ですが、阪神電鉄の専用発電所だったもので、現在は資材倉庫に使っているそうです。JR東日本が信濃川の水力発電や川崎の火力発電所を持っているのと同じ考え方です。窓がふさがれて、ちょっと無粋ですが、遠くから見ると教会と見まがう建物です。この旧発電所を南に行くと尼崎城の遺構があり、現在は公園になっています。さらに南に行くと、国学者の契沖生誕の地の碑があります。




 
 
 
 ここから、橋を渡って西に行くと寺町が広がります。ここが尼崎かと、目を疑うような大小の寺寺が、国の重要文化財の建物だけでも5棟もあり、軒を接するように並んでいます。それぞれのお寺の境内には、石造りの塔などもあって、丁寧に見ていくと色々な由緒があるようです。場所によっては、寺の前の道路も石畳にされていて、風景の後方ににょっきりそびえるマンションが無ければ、京都か奈良にいるのではないかと思ってしまいます。


 この寺町界隈に七福神が祭られていて、お正月などは七福神巡りで賑わうようです。の七福神は、お寺や神社を巡らなくても、駅の北西にある四番街商店街には七福神ドームというのがあって、それぞれの神様が入れストで描かれて、買い物客を見下ろしています。




 この寺町の南に、尼崎信用金庫の本店別館があり、その中に日本で唯一の貯金箱博物館があります。世界中からコレクションをした貯金箱を常時2,500個も常時展示しているそうですが、訪れた時には休館で残念ながら中を見ることはできませんでした。ただ、隣接する尼信記念館のレンガ造りの建物が、なかなかしゃれていました。阪神電鉄の旧発電所、尼信の記念館それに寺町のレンガ造りの塀など、尼崎にはレンガ造りのものが意外と多く残されていました。

 ユニチカといえば、かつての日紡ですが、東京五輪でバレーボルで金メダルを獲得した東洋の魔女の中心メンバーは日紡貝塚の選手でした。日本中が試合の中継を見るためにTVに釘付けになったものでした。日本のテレビは、現在の天皇のご成婚の時に白黒テレビが、東京五輪の時にカラーテレビの普及が進んだと言われています。地デジはしかし、取り立ててエポックとなるようなイヴェントは無かったように思います。アナログで時代では、視聴者の欲求から供給が進んだのですが、地デジは、どうも上からの意思で導入された感じがしてなりません。