世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

美術館の中心は六本木に移ったとも言われますが、やはり上野は厚さが違うようです

2015-09-27 08:00:00 | 日本の町並み
 歴史の古い町並みにレトロな洋館が似合うのが青森県の弘前でした。この弘前は、ル・コルビジェの弟子であった建築家の前川國男がデザインをした建物が多い町としても知られています。前川作品は、もっとも初期の作品の自邸が小金井の江戸東京建物園に移築をされていますが、上野公園には2つの前川建築があります。今回は、前川作品の東京文化会館と都立美術館のある上野公園一帯を紹介します。

 上野駅は、ご存知のように、かつて国鉄時代は北への玄関口でした。広小路口の建物は、ちょっとレトロで、北への玄関口だった歴史を語っているような感じです。今回紹介する上野公園は、広小路口とは反対側の公園口から出た、丘の上一帯になります。この丘の上は、江戸時代には寛永寺の境内であったところですが、戊辰戦争で焼け野が原になり、その跡に博物館など文化施設が建てられた場所です。

 
 寛永寺の跡地に最初に建てられたのは博物館で、鹿鳴館の設計者のジョサイア・コンドルの設計で1881年に完成しています。レンガ造り2階建ての建物は、その後の関東大震災で大破し現存しません。現在の博物館の本館は、1937年に再建されたものです。博物館の建物の中で、最も古いものは1908年に竣工の表敬館で、本館と共に重文に指定されています。博物館の所蔵品には80点を越える国宝があり、常時20点程度の展示が行われています。Lonely Planetによれば、日本で一つだけ博物館、美術館に行くならこちらだと紹介されているようです。

 
 この博物館で、「恐竜の展示はどこ?」とか「パンダの骨格標本は?」と聞かれることが多いのですが、隣の科学博物館と間違って入館してくるんです。博物館だから同じだろうと思うようですが、神戸市博物館は実質的には美術館というように名前だけでは初めての人には紛らわしいのかもしれません。黎明期には、場所も名称も転々としていたようですが、1930年に現在の本館の建物が竣工し、1949年に現在の国立科学博物館の呼称となったようです。本館が重文に指定されているだけでなく、天球儀や万年時計などの展示品も重文になっています。

 
 さて、前川建築ですが、文化会館はJR公園口の目の前で、1961年に竣工し、東京での初の本格的なコンサートホールとして、外来のオーケストラやオペラの公演に使われています。客席は2300人ほどで、空間が広くてゆったりとした感じがします。1980年代以降に、次々とコンサートホールが作られましたが、昨年の改築を経て、当分は音響効果の良い現役のホールとして健在振りを発揮し続けるのではないでしょうか。

 
 前川作品のもう一つは、博物館の手前の左のやや奥まったところにある東京都美術館です。こちらも、博物館と同様に歴史は古く、日本初の公立美術館として1926年に開館をしています。それから50年ほど経って、建物の老朽化と手狭さから、新たに建物を建てることとなり、現在見られる前川國男設計の新館が1975年に竣工しています。

 
 前川國男の師匠のル・コルビジェの設計の建物も上野にはあって、世界遺産の候補にもなっているのが、西洋美術館です。1959年にフランスで差し押さえられていた松方コレクションが返還される時に受け皿として建てられました。松方コレクションの常設展示に加えて、特別展も多く、1964年にミロのヴィーナスが展示された時には、入館待ちの行列が西郷像まで伸びたそうです。特別展があると、常設展にしわ寄せが来るのを防ぐため、1979年には、本館の背後に新館が建てられましたが、この新館の設計者も前川國男です。さらに、本館前庭の地下に企画展示室が作られ、最近の特別展はこちらで展示されています。

 
 
 これらのコンサートホールや博物館や美術館の次世代を支える人材を育てる一翼を担っているのが博物館の隣の東京芸大かもしれません。東西に走る道路を挟んで、北側が音楽、南側が美術関連のようで、南側には付属の美術館も持っていて、外来者もかなり自由に出入りできるようです。一方の、北側は、レンガ造りの由緒ありそうな建物が塀の外から眺められるのですが、門のところには部外者お断り!とあり門衛が目を光らせています。ただ、博物館の近くにある、奏楽堂は1890年に建てられた日本初のコンサートホールで重文にも指定されていますが、演奏会のあるときには内部にも入ることができます。文化会館に比べれば、随分とこじんまりとして、設備もほとんど無い舞台と観客席だけですが、演奏される音楽もレトロに聞こえるかもしれません。

 博物館などのIT化は日進月歩のようで、所蔵作品の情報を図入りで簡単に検索できるのは当たり前で、現場でのガイドも随分と使いやすくなりました。例えば、博物館のトーハクなびでは、事前にスマホにダウンロードしておけば、総合文化展(常設展)のガイドが聞け、さらに持っている人の位置を検出して、自動的にその場所のガイドが恥じます仕組みも持っています。そこまでの機能は無くても、最近のオーディオガイドは、多言語対応で、聞きたい作品の解説が、聞けます。これは、音声のメモリが小型で安くなったため、当たり前のように実現できた機能で、かつてのオーディオガイドは、一斉放送型だったために、ガイドを持った人が同じ作品の所に集中するという現象を引き起こしていました。IT技術は、一つ間違うと人殺しの手伝いをさせられることも多いのですが、文化の薫り高い分野での応用ばかりであってほしいものです。

ファサードのレリーフが見事な大聖堂以外にも散歩が楽しいアングレームの町です(フランス)

2015-09-20 08:00:00 | 世界の町並み
 パリとボルドーとの間に位置して、世界遺産のサンチャゴ参詣道の教会やジャンヌダルクの裁判が行われた裁判所などのほか数多くの教会がある町がポワチエでした。このパリとボルドー間のポアチエとボルドーとの中間あたりにあり、ロマネスクの教会や美しい市庁舎がある町がアングレームです。今回は、日本人の観光客の姿を見かけませんが、素敵な地方都市の一つを紹介します。

 アングレームは、ボルドーの北北東100kmほど、TGVで約1時間です。この区間はTGVも在来線を走るのであまりスピードは出せず時間がかかります。鉄道はシャロント川に沿った草原地帯を走り、町の中心は、鉄道駅の南西の小高い丘の上の200m×400mほどの楕円形の城壁に囲まれた地域にあります。シャロント川による交易で古くから栄え、軍事拠点としても重要であったらしく、町を囲む城壁や城砦もその名残のようです。14世紀にはイギリスとの百年戦争で領有権がフランスとイギリスとの間で行ったりきたり、16世紀には宗教戦争との場にもなったようです。近頃では、毎年1月に国際漫画祭が開催され、ヨーロッパ最大級の漫画祭として、こちらはごく平和的な場所になっているようです。

 
 
 
 
 
 アングレームを代表するロマネスク様式のサン・ピエール大聖堂は、丘の南西端あたりにあり、聖堂の前の展望台からは、丘の下をトンネルで抜けた鉄道線路が伸びているのが望めます。この聖堂の特徴は、大面積のファサードいっぱいに彫られたレリーフで、一つ一つ写真を撮ってるときりが無いくらいです。ファサード部分は、奥行きが薄く、横から見ると、この部分だけがパネルにレリーフを彫って貼り付けられたような感じに見えます。このようなファサードのレリーフは前回に紹介のポアチエにあるロマネスクの教会のノートルダム聖堂でも目立った感じでしたが、アングレームの聖堂の方が背丈が高い分だけ圧倒されます。ノートルダム聖堂でも感じたのですが、こちらのサンピエール聖堂も基壇が無く道路から建物が生えているように建っています。こちらは、聖堂前の広場も無く、車の行きかう道路のすぐそばに建っています。

 
 サン・ピエール大聖堂の手前には、聖マルティリアス聖堂があります。こちらもロマネスクのようで、規模は小ぶりですが、一本の尖塔がすっくと建つ姿や入り口の周りのレリーフは名かなか綺麗です。11世紀、リモージュ初の司教の名前を冠した聖堂のようですが、日本のガイドブックなどにはほとんど情報がありません。

 
 
 
 
 さらに、これら2つの教会以外にも、他の教会や劇場の建物や市役所の建物など、町歩きが楽しくなる建物が数多く建っています。日本では、どうしてこのような古い建物を、まだ使える状態なのにぶっ壊してしまうのでしょうか。市役所の建物は、内部の見学もできて、まるで宮殿のような豪華さです。

 フランスは観光立国で、世界中で最も観光客の来訪が多い国の一つと言われています。しかしながら、ドイツなどと比べると、個人旅行をする人間にとっては、色々と不便なことの多い国の一つです。まず、世界に誇る高速鉄道網は速いのですが、パリを中心にダイヤが組まれていて、パリを中心とする同心円状に移動しようとすると、乗換えが多く、ダイヤ密度が粗く、時間もかかり不便です。また、地方都市に行くと、公共輸送機関が無く、タクシーに頼るしかありません。さらに、最も困るのは、鉄道駅に荷物預かりのシステムが無いことです。有人はおろかロッカーも設置されいません。ドイツでは、大型のスーツケースも入るロッカーが各駅に設置されていて困ることは無かったのですが。一方、わが国の駅では、鍵をケータイの電番にしたシステムが普及しています。着信側に発番号が送られることを利用したもので、鍵の管理が要らなくなるので便利です。ただ、かなりの人が、どこのロッカーに荷物を入れたかを忘れてしまうのも事実で、この場合は物理的に鍵が手元にあったほうが探しやすいかもしれません。

弘前城の城下町には、古い町並みではなくレトロな洋館が数多く残されていました

2015-09-13 08:00:00 | 日本の町並み
 神戸の西のはずれの海岸近くに、和洋中の建物が残っているのが舞子でした。中の建物は孫文ゆかりの移情閣ですが、この建物の中の壁には金唐革紙が張られています。この金唐革紙の壁紙で有名なのは湯島近くにある旧岩崎邸で、こちらは大規模に復元されたものです。復元品が多くある中で旧製品が残されているのは、先の移情閣の一部、国会議事堂、砺波郷土資料館それに弘前の青森銀行記念館の4箇所のみです。



この青森銀行記念館は、旧第五十九銀行本店本館を保存して資料館としたもので、弘前城の南東側にあり国の重要文化財です。こちらの唐紙は壁に貼られたものではなく、天井に張られ、注意をしていないと見落としてしまいます。今回は、この青森銀行記念館のある弘前を紹介します。

 弘前は青森の南西50kmほどの都市で、城下町として青森市より歴史の古い町で、国立大学も弘前にあります。重文の天守閣が残る弘前城公園を中心に、落ち着いた文教都市の町並みが広がります。筆者が三度目の訪問をしたのは、ちょうど桜祭りの時でした。多くの観光客が町中に溢れて、観光バスも走り回っていましたが、それでも弘前公園を中心とした桜は見事でしたし、公園内の枝垂桜の夜桜の姿は幻想的というか、霊の感じさえ受けました。



 この弘前には意外と古民家は少なく、むしろ青森銀行資料館をはじめ、レトロな洋館が目立ちます。古民家は、お城の北側に重伝建地区に指定されている一角がありますが、かなり見劣りの感が否めません。複数の屋敷が内部を公開していますが、一部を除いて生活実感が乏しく、古民家なら何でもいいだろうといった感じをうけます。重伝建地区の近くには「ねぷた村」があり、観光客向けそのものですが、ねぷたの展示に加えて、津軽三味線の演奏もあり、むしろこちらの方が熱いです。

 さきほどの青森銀行記念館の近く、お城の南から東にかけて多くのレトロな洋館が集中しています。その建物群に混じって、ル・コルビュジェの弟子で日本を代表する建築家の前川國男設計の市役所の建物がレトロではなく、近代的な姿で建っています。弘前には、市庁舎以外にもフランスから帰国後に最初の仕事となった木村産業研究所や中央高校講堂、博物館、市民会館など数多くの前川作品が残されています。これは、母方の祖先が津軽藩の出身で、津軽藩ゆかりの人々とのつながりが強かったためだそうです。

 
 
 さて、レトロな洋館ですが、市役所の西隣には旧第八師団長官舎があり、現在はスタバの店舗として使われています。さらに、西に行くと藤田記念公園があり、こちらの洋館には、おしゃれなステンドグラスがはめられています。この藤田公園を南に行き、途中から参道を西に突き当たると長勝寺で、こちらはレトロな洋館ではありませんが、参道の途中にあるサザエ堂が面白い建築です。サザエ堂は会津に本格的なものがあって、二重螺旋の階段を上り下りができますが、こちらのものは規模も小さく内部には入れませんが、外部から雰囲気を感じ取れます。



 次に、市役所から東隣に、旧弘前市図書館の建物があります。円筒形部分を長方形の渡りでつないだ三階建ての建物で、かわい~といった感じで、屋根瓦の赤色は当初のものなのでしょうか。内部は、図書館関連の資料室になっています。この旧図書館の東隣は旧東奥義塾外人教師館のたてもので、こちらは下見板張り二階建ての典型的なレトロ洋館です。こちらも、東奥義塾の外人教師関連の資料の展示がなされていました。建物の南側にある庭には、弘前市にある洋館のミニチュア模型が置かれて、その数の多さに驚かされます。


 お城の東側には、南端に先ほどの青森銀行記念館があり、その北側には通常の町並みが続き、北辺の重伝建地区につながります。この町並みの中にもレトロナ教会が点在します。日本基督教団弘前教会とカトリック弘前教会ですが、日本基督教団弘前教会の方は工事中で写真が撮れませんでした。カトリック弘前教会のとんがり屋根とステンドグラスを紹介しておきます。お城からは少し離れますが、これら以外にも洋館が保存されていて、洋館だけ見ても一日では廻れないかもしれません。

 レトロな洋館は、西欧の建物の絵や写真を参考にして、日本人の大工さんが既存の技術を使って見よう見真似で作られたものが多いようです。外観は似ていても、部分的には日本独自の意匠が取り入れられていることも珍しくなく、洋館の瓦屋根や入り口の上の唐破風はよく見かけます。これら外観を似せて作ることは、困難はあってもできたでしょうが、内部に隠れた構造的な部分は簡単ではなかったと思います。ましてや、構造上のノウハウを取得できたとは思えず、場合によっては構造欠陥のある建物もあるかもしれません。この、ノウハウは文書に残されないことが普通で、昔で言えば、師匠に着いて盗み出す技術の範疇かもしれません。かつてコンピュータの制御プログラムの設計をしている頃に、外部とのインタフェースを整えるために組み込んだ部分がありました。その部分には、ある程度のコメントを入れましたが、後で見ると不要にも見える部分で、不用意に削除されないか心配になったことがあります。最新の技術も、文書に残せないノウハウの重みの上に支えられているのかもしれません。

韓国唯一の自然遺産の済州島は火山が作った山や洞窟や滝などです(韓国)

2015-09-06 08:00:00 | 世界遺産
 今年度の新規登録の世界遺産の紹介が続きましたが、今回は6月に紹介のハロン湾を受けての紹介です。世界七不思議はエジプトのピラミッド以外は存続をしていませんが、これに対して新世界七不思議が世界中の投票によって2007年から2011年にかけて設定されました。建造物版と自然版とがあり、この自然版にはハロン湾も入っています。アジア地区では、ハロン湾以外にフィリピンのプエルト・プリンセサ国立公園、インドネシアのコモド島、それに韓国の済州島が指定され、すべて世界遺産に登録されています。今回はこの中の済州島を紹介します。

 済州島は朝鮮半島の南130kmほどの東シナ海に浮かぶ東西70km、南北25kmほどの火山島です。暖流の影響で、島の南部は暖かく、韓国の代表的なリゾート地で、日本からも直行便が飛んでいます。ただ、島の北部は、冬に吹く北西の季節風のために、半島部と同様に寒く、南北の気温差が大きいようです。南部が暖かいのは、島の中央にそびえ世界遺産の対象にもなっている韓国最高峰(1950m)の漢拏山(かんなさん)が衝立の役割を担っているからです。韓国で唯一の自然遺産で、漢拏山のほか拒文岳(こむんおるむ)溶岩洞窟それに城山日出峰(ソンサンイルチュルボン)が対象地域で、どれも火山にまつわるものです。

 
  拒文岳溶岩洞窟は、島の東北部にある溶岩洞窟群で、万丈窟はその代表です。富士の裾野にある風穴や氷穴と同じような性格のものですが、こちらの洞窟には氷は存在しません。内部はかなり広かったのですが、鍾乳洞のような華やかさには欠け、暗くてごつごつして地味な穴です。

 
 
 溶岩の造形としては、むしろ、島の南部の、玄武岩の六角柱が柱状節理として海岸に立つ様子や、柱状節理の崖を流れ落ちる滝のほうが見ごたえがあります。

 
 

 城山日出峰は漢拏山と同じように火山ですが、こちらは直径600m、高さ100mぐらいの断崖で囲まれた火口原を持つ爆裂火口の跡です。標高180mほどの火口壁には、ごつごつした岩場に作られた遊歩道で1時間程度で往復できます。頂上からは、絶壁に囲まれた火口原のほか、済州島、それに大海原の眺めなど絶景が楽しめます。島の南東端に位置するため、日出のメッカとして、日出登山をする観光客も多いようです。日本でも、このところ山ガールや中年登山者の増加など登山ブームですが、韓国に行って感じるのは、韓国の方は山があると登りたくなるようです。慶州を訪問したときも、登山道を埋め尽くすような登山者に会いましたし、もちろん日出峰でも遊歩道での行き違いに苦労するくらいです。

 済州島には三姓神話というものがあります。漢拏山の北の山ろくにある三姓穴から出現した3人の神人が済州島の祖先であるというものです。ある日、島の東のほうから木箱が流れ着き、箱の中から現れた姫と結婚をしたと言われ、姫の出身は日本との説もあります。そもそも、日本人の祖先は、朝鮮半島から渡ってきたとの説もあるので、これは混血ではない可能性もありそうです。人間の祖先がどのように移動をして、混血などをしてきたかは、DNAを解析することで推論ができるの課も知れません。DNAの中に含まれるゲノムと呼ばれる遺伝情報は、人間の場合で両親から30億個ずつ合計60億個を持つのだそうです。これだけの情報を解析するには、なまじのコンピュータではいくら時間があっても足らず、スーパーコンピュータの出番といわれています。ゲノム解析は、難病の克服などの応用が期待されていますが、アンドロイドの作成には使われてほしくないですね。