世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

闇夜に光る夜光竜が舞う南京町

2006-02-19 14:49:47 | 日本の町並み
 良い水のふるさとが続きましたが、酒どころの灘を抱える神戸には、また違った顔もあります。南京町は横浜、長崎の中華街と並ぶ3大中華街の一つとして有名になりましたが、筆者の学生の頃は訪れる人も少なく、現在の人ごみが不思議に感じます。町じゅうの何処にでも外国人の多い神戸ですが、明治の初期に外国人が住む場所は、現在でも当時の洋館の一部が残っている海岸通に沿った居留地でした。ところが、当時の清と日本との間には条約が締結されていなかったため、清の人は居留地には住むことができませんでした。そこで、居留地近くの現在の南京町周辺に住むようになったものが南京町の基になったのだそうです。第二次大戦によって南京町も被害を受け一度衰退し、1980年代の後半になって再興のための基礎作りが行われ、現在の賑わいになったようです。
 横浜の中華街に比べると200m×100m程度と規模は小さいのですが、その一画だけが日本ではないような独特の表情をした町並みを形作っています。中華料理屋さんや料理の材料を売る店、さらには中国の雑貨を置いた店などが所狭しと並び、特に元町商店街や栄町との間を結ぶ細い路地に入ると、その猥雑さが強調され、香港や台北にいるのではないかと錯覚してしまいます。

 この狭い通に春節や中秋祭の時には獅子舞や龍舞が繰り出し、見物人も加わって大混雑になります。お祭りは雑踏がまた楽しいといった面もありますが、あづまやのある広場に作られた臨時の舞台で繰り広げられる中国楽器の演奏などを間近で見ようと思うと、ずいぶんと前から並んで席取りの必要があります。これらの出しの物の中でユニークなものが夜光龍です。

基本的には龍舞なのですが、夜光塗料を使って彩色され、それが舞われる時には紫外線のみを出すブラックライトを点灯させ、闇の中に龍を浮かび上がらせる演出が採られます。もちろん、夜光龍が舞うのは日没後で、広場の明かりも消された状態で始まります。闇夜に青白い光の帯が宙に舞うありさまはなかなか幻想的です。

 闇夜に目立つといえば、最近の携帯電話のディスプレーの明るさもずいぶんと明るくなりました。かつては電池寿命の問題から、薄暗いものでしたが、バックライトの効率が良くなりELなども採用され、電池の効率向上もあいまって明るさがましたようです。携帯電話の時計機能は、腕時計を持つ人を減らしたように思いますが、ディスプレーのライトは、とっさのときに懐中電灯の代わりにもなるのかもしれません。

町中に醤油の良い香りが漂う湯浅

2006-02-12 00:00:00 | 日本の町並み
 広島の西条は灘、伏見に次ぐ酒どころで、酒造りには良い水が大切ですが、良い水が必要なのは酒つくりだけでなく醤油や味噌の醸造にも欠かせません。西日本で醤油を作る工場が兵庫県の竜野や香川県の小豆島などにありますが、醤油発祥の地は和歌山県の湯浅なのです。
 湯浅の醤油の歴史は古く、13世紀にはすでに全国に出荷していたようです。関東の醤油生産地として有名な銚子や野田は、江戸時代に関東に持ち込まれた湯浅の技術を使って発展したそうです。湯浅では醤油とともに味噌も作られています。これは、醤油のルーツに起因し、醤油より味噌のほうが歴史は古いのです。醤油は味噌作りの過程で底に溜まった液体(溜(たまり))が独立したもので、現在でも濃厚な醤油に溜醤油の名称がつけられることがあります。
 湯浅を訪れた時の土産に醤油を買いましたが、添加物を加えない醤油は生き物なので冷蔵庫に保存するように言われました。醤油差しにいれて台所に放置するのは味を損なう元凶なのだそうです。醤油の歴史や製造の過程を展示した記念館があり、朽ちかけた大きな木の桶などが歴史を感じさせますが、現役の製造工程の見学はできませんでした。ただ、あたりに漂う醤油のよい香が工場の存在を主張していました。
 醤油といえば刺身を思い出しますが、湯浅はフィッシング好きの方にもなじみの場所のようです。磯釣り、船釣りともに年間を通して小物から大物までを狙えるそうです。新鮮な魚というと刺身と思いますが、魚を生で食べるのは日本に限ったことではなく、イタリアなどではマリネなどにしてサラダ感覚で食べられます。しかし、日本人には、わさび醤油で食べる生きの良い刺身が一番かもしれません。
 前回の日本酒にしても刺身にしても、日本人は新鮮なものをあまり手を加えず旬の時に食べたり飲んだりする風習があるようです。自然に恵まれて新しい素材が手に入りやすいという贅沢な環境が生んだものかもしれません。情報についても鮮度が大切なことがあるようです。Webの発達でネットワークを通じて新鮮な情報が簡単に入る環境になりましたが、携帯電話の発達は何処にいてもアクセスできるというメリットを付加したようです。

広島の山の中に美酒のふるさと西条があります

2006-02-08 14:52:14 | 日本の町並み
 名水百選の第一位に選ばれたのは郡上八幡の宗祇水ですが、名水の生まれるところには、美味しい日本酒も生まれるようで、灘や伏見は名水でも有名です。近畿地方の2大生産地に並ぶお酒のふるさとが広島県の西条で、こちらも名水のふるさとになっています。
 西条は広島県の中央に位置する東広島市の一部で、日本酒の醸造元はJRの西条駅の南側に広がっています。白壁の酒蔵が軒を並べ、独特の表情をした町並みが続いています。賀茂や鶴の名前が付いた酒蔵が目立ちますが、親戚関係がおありなのでしょうか。筆者はアルコールに弱いので、酒蔵の一つが開いているお休みどころで甘酒を飲みました。観光地などの茶店で飲む甘酒とは味も香も一味違っていたように思います。
 休むといえば、江戸時代には山陽道の宿場町として栄えたようで、酒蔵に混じって本陣の正門が再現されています。大きくてどっしりし、存在感のある立派な門で、建物が残っていればさぞやと思わせるものでした。大名行列の人の移動が無くなった明治時代、この本陣は郡の役所として使われたのだそうです。
 移動といえば、西条の一駅西に位置する東広島市内の八本松駅と広島市の瀬野駅の間は20パーミリ(1000m進む間に20m上る)を越える急坂とカーブの連続で、西の箱根と呼ばれ列車の難所の一つでした。かつては、補機と呼ばれる補助の機関車が後押しやブレーキ役のために連結されて急坂を上り下りしていました。現在は機関車などの性能が向上したため貨物列車に限り補機が使われているようです。筆者が修学旅行で九州に行った頃は電化間もない頃だったせいか、前を引くのは電気機関車、後押しは蒸気機関車という奇妙な取り合わせでした。
 前を引く本機と後押しの補機は、一つの列車を動かしているので、発車や停止など同時に同じ動作をする必要があります。それも客車や貨車を挟んで遠く離れた機関車同士で息を合わせるのは大変なことだと思います。このタイミングを取るのに汽笛が使われ、その鳴らし方で発車や停止を決めているようです。離れた場所の間を線をつなぐことなく情報をやり取りするわけですから、これも一種の無線通信なのでしょうか。

連歌師の宗祇の名前の付いた湧水もあり綺麗な水があふれる郡上八幡

2006-02-05 14:53:20 | 日本の町並み
 柏原は早熟の俳人、田ステ女を生みましたが、俳句は連歌の歌いだしの発句(ほっく)が独立したものと言われています。その連歌の基礎を築いたのは室町時代の宗祇法師ですが、その宗祇の名前を冠した湧水があるのをご存知でしょうか。岐阜県の郡上八幡(ぐじょうはちまん)にある宗祇水がそれで、宗祇は芭蕉のように全国を旅し足跡を残しているようですが、宗祇の名前が付いた遺構は珍しいのではないかと思います。
 郡上八幡は正式には郡上郡八幡町、水のふるさととして全国的に有名で、町のあちこちに湧水があります。前述の宗祇水もそれらの中の一つで全国名水100選の中の第一番に選ばれています。表通りから路地を下ってゆくさらに一段低くなったところに、祠がありそこから湧き出した水が祠の前の水路を通って前の小駄良川に流れ出しています。表通りからアプローチする過程が周りの町並みの醸し出す雰囲気も加わって宗祇水の景観を、より好ましいものにしているように思います。
 観光地は特定の観光ポイントを点で捉えることも多いのですが、目的地へのアプローチがすばらしいものであったり、町並みが美しかったりという線、さらには町全体という面、で楽しむことができれば印象も深くなるなるのではないでしょうか。この線で楽しめる道が「やなか水の小道」で、長良川と吉田川で拾われた小石が敷き詰められた小道と柳、それに道の端を流れる水路が気持のよい空間を作っています。水路の幅は違いますが京都の祇園新橋の町並みとどことなく似たように感じました。
 郡上八幡は水で有名なだけでなく郡上踊りで全国に知られています。残念ながら実際の踊りそのものは見たことがありませんが、7月下旬からから9月の初旬にかけてほぼ2~3日毎に町内の各所で踊りが繰り広げられるようです。基本的には盆踊りの範疇に入るとのことですが、歴史の長さ、規模の大きさ、期間の長さなど他に比べるものが無いユニークなものです。特に旧盆の頃には徹夜踊りといって夜を徹して踊り明かされるとのことです。
 郡上踊りの頃には町じゅうが人で溢れかえるそうですが、観光地などの雑踏で同行者とはぐれた経験をお持ちの方も多いかと思います。かつては地理不案内のところではぐれた場合は、お手上げ状態でした。携帯電話の普及した今日では、お互いに連絡が取り合え、GPS付ならば居場所も特定できます。あまりに人が一箇所に集中しすぎると、通話チャネルが不足してしまうという心配が出てきますが。

万博で使われたハイカラな建物を駅舎に持つ柏原には格子戸の連なる町並みも残っています

2006-02-01 14:54:39 | 日本の町並み
 「かぎろひ」の地、大宇陀と姉妹町を結ぶ町が兵庫県にあります。福知山線の柏原町がその町で、江戸時代に大宇陀の藩主の織田信休が柏原に国替えとなったことによる縁だそうです。
 柏原は「かいばら」と読みますが、同じ漢字表記でも異なる読み方のJRの駅が他に2箇所あります。一つは関西本線の「かしわら」で大阪府柏原市、他方は東海道線の「かしわばら」で滋賀県山東町に各々属します。JRでは紛らわしさを避けるため、同じ駅名となる可能性がある場合は、原則として頭に旧国名、例えば摂津や大和などをつけていますが、柏原の場合は発音が異なるので何も付けられなかったのでしょう。ちなみに、なにごとにも例外はあるようで、福島駅は東北本線と大阪の環状線とに存在し、読み方も同じです。さらに、大久保駅も中央線の新宿の次と、山陽線の明石の姫路よりにあります。
 その柏原町の表玄関となるJRの柏原駅舎は1990年に大阪の鶴見で開催された「花と緑の万国博」で脚光を浴びた「山の駅」を移築したもので、なかなかしゃれた駅になっています。駅から町中に歩いて行くと、城下町の雰囲気がここかしこに残っていて、上、中下之小路等の土塀や格子戸が続く町並みは、駅舎のハイカラさとは好対照の渋さがあります。
 駅から東の小高い丘に県指定重文の三重の塔を持つ八幡神社があります。駅から丘の麓までの間が町の中心で、麓近くには千年かけて川を横切ったという木の根橋があり、県の天然記念物にも指定されています。町並みの中央あたりには、藩政時代に、色々な合図に使われた太鼓を打つ太鼓櫓が残されています。民家の建て込んだ中にぽっかりとあいた神社の境内の片隅に建っていましたが、その境内は子供のよい遊び場になっていました。
 子供といえば、柏原出身の田ステ女が「雪の朝 二の字二の字の 下駄の跡」と詠んだのは6歳の時とされています。彼女は後に元禄4俳女の一人と称されたそうですが、子供の時から普通の子供とは違っていたんですね。小学校の近くに童女姿の田ステ女の像がたっているようですが、筆者はどうしてもその場所を探し当てられませんでした。
 ガイドブックを片手に町並みを散歩しても、なかなか目的とする場所に行き着けないことがあります。GPS機能の付いた携帯電話もかなり普及しましたが、これがあれば町並み散歩に便利かもしれません。ただし、やみくもに歩き回って、地図にも載ってないような思いもよらない場所を発見する楽しみは、減るのかもしれませんが。