明治維新の廃城令で払い下げられたにも関わらず利用価値が低いということで取り壊されず、太平洋戦争でもほとんど被弾せずという幸運の積み重ねで真っ白の天守閣が残ったのが姫路城ですはが、日本の世界遺産の中でもう一つ城郭が登録されているのが沖縄のグスク(城)です。今回は登録されている9箇所のうち、那覇にある首里城を中心に紹介します。
沖縄のグスクは姫路城などの城とは建設の目的や背景が異なるようで、単なる軍事拠点ではなかったようです。主に沖縄本島の南部に分布しており、那覇の近郊には、首里城跡のほか玉陵(たまうどぅん)、識名園があります。
首里城跡は、那覇空港から「ゆいレール」と呼ばれるモノレールで首里まで行けるので渋滞知らずにアクセスができます。首里城の元は15世紀ごろに作られたようで、その後何度か火災に遭うなどして、戦災で失われる前の正殿は18世紀に再建されたものです。現在の正殿は、戦前の正殿の形をコンクリート造りなどで1992年に復元されたものです。
この整備事業の前には、首里大学が首里城跡をキャンパスに使っていたそうで、戦前の首里城の遺構は石垣の一部に残るのみなのだそうです。ただ、この石垣の曲線は、小高い丘にある首里城では、上から眺めると、姫路城などとは違った美しさがあります。
復元された正殿などは、創建当時の極彩色に塗装されており、そう堅持の人々はこの色を見ていたのでしょうが、どうも勝手が違います。特に、正殿より先に再建された守礼の門は、
坂を登りきったところにぽつんと建っていて、記念写真を撮るための書き割りのような薄っぺらな感じを受けます。
玉陵は首里城跡の隣にある15世紀に作られた王族の墳墓で、太平洋戦争でかなりの部分が破壊されましたが、中央部などは創建当時のもを残すものです。石造りのかなり巨大なもので、なかなか迫力があります。
全体は3つの部分に区切られていて、中央部は遺体が白骨化するまで仮埋葬をするところ、東室は王と妃の骨を、西室はそれ以外の王族の骨を収容しています。石室の前には珊瑚を敷き詰めた中庭があり、周りは石壁で区切られています。石壁に開けられた入り口から中庭に入ると、別世界のような変わった感覚がします。
識名園は、首里城跡の南1.5kmほどの谷を隔てたところにある、回遊式庭園です。首里城跡から谷へ降りてゆく道は金城町の石畳の道で、かつては真珠道と呼ばれて識名園の正門と首里城を結んでいたそうです。石畳の道はNHKの朝ドラのロケにも使われたそうですが、石垣に囲まれて微妙に弧を描いて下る坂や、石垣に囲まれた井戸など、
なかなか絵になる風景です。さて、識名園ですが、こちらも戦災で総ての建物が被災して、現在のものは総て再建されたものだそうです。18世紀に迎賓館の役割も兼ねて造園された庭園ですが、東京や京都にある回遊式の庭園とはちょっと違った印象を受けます。石橋など石造りのものが多いせいでしょうか、
あるいは植生などが南国のものであるためでしょうか、あるいは空の色が違うせいなのでしょうか。
沖縄の遺跡は総て大なり小なり戦災で被災しています。青空の下で再建された建物などを見ていると、ここで本当に悲惨な戦いがあったことを実感しがたいところがありますが、軍用機は低空で進入してくる姿を見ると、戦争の後遺症はまだまだ癒えていないことを実感します。戦勝国の占領状態が継続しているとしかいいようがありません。軍隊を正当化する主張の一つに、ITなど先端部分での技術開発に、軍用の民間応用があると言われます。たしかに、一部ではあるかもしれませんが、軍事費に使う研究開発に使えば、もっとすごい成果があるのではないでしょうか。
沖縄のグスクは姫路城などの城とは建設の目的や背景が異なるようで、単なる軍事拠点ではなかったようです。主に沖縄本島の南部に分布しており、那覇の近郊には、首里城跡のほか玉陵(たまうどぅん)、識名園があります。
首里城跡は、那覇空港から「ゆいレール」と呼ばれるモノレールで首里まで行けるので渋滞知らずにアクセスができます。首里城の元は15世紀ごろに作られたようで、その後何度か火災に遭うなどして、戦災で失われる前の正殿は18世紀に再建されたものです。現在の正殿は、戦前の正殿の形をコンクリート造りなどで1992年に復元されたものです。
この整備事業の前には、首里大学が首里城跡をキャンパスに使っていたそうで、戦前の首里城の遺構は石垣の一部に残るのみなのだそうです。ただ、この石垣の曲線は、小高い丘にある首里城では、上から眺めると、姫路城などとは違った美しさがあります。
復元された正殿などは、創建当時の極彩色に塗装されており、そう堅持の人々はこの色を見ていたのでしょうが、どうも勝手が違います。特に、正殿より先に再建された守礼の門は、
坂を登りきったところにぽつんと建っていて、記念写真を撮るための書き割りのような薄っぺらな感じを受けます。
玉陵は首里城跡の隣にある15世紀に作られた王族の墳墓で、太平洋戦争でかなりの部分が破壊されましたが、中央部などは創建当時のもを残すものです。石造りのかなり巨大なもので、なかなか迫力があります。
全体は3つの部分に区切られていて、中央部は遺体が白骨化するまで仮埋葬をするところ、東室は王と妃の骨を、西室はそれ以外の王族の骨を収容しています。石室の前には珊瑚を敷き詰めた中庭があり、周りは石壁で区切られています。石壁に開けられた入り口から中庭に入ると、別世界のような変わった感覚がします。
識名園は、首里城跡の南1.5kmほどの谷を隔てたところにある、回遊式庭園です。首里城跡から谷へ降りてゆく道は金城町の石畳の道で、かつては真珠道と呼ばれて識名園の正門と首里城を結んでいたそうです。石畳の道はNHKの朝ドラのロケにも使われたそうですが、石垣に囲まれて微妙に弧を描いて下る坂や、石垣に囲まれた井戸など、
なかなか絵になる風景です。さて、識名園ですが、こちらも戦災で総ての建物が被災して、現在のものは総て再建されたものだそうです。18世紀に迎賓館の役割も兼ねて造園された庭園ですが、東京や京都にある回遊式の庭園とはちょっと違った印象を受けます。石橋など石造りのものが多いせいでしょうか、
あるいは植生などが南国のものであるためでしょうか、あるいは空の色が違うせいなのでしょうか。
沖縄の遺跡は総て大なり小なり戦災で被災しています。青空の下で再建された建物などを見ていると、ここで本当に悲惨な戦いがあったことを実感しがたいところがありますが、軍用機は低空で進入してくる姿を見ると、戦争の後遺症はまだまだ癒えていないことを実感します。戦勝国の占領状態が継続しているとしかいいようがありません。軍隊を正当化する主張の一つに、ITなど先端部分での技術開発に、軍用の民間応用があると言われます。たしかに、一部ではあるかもしれませんが、軍事費に使う研究開発に使えば、もっとすごい成果があるのではないでしょうか。