世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

沖縄のグスクは再建されましたが、二度と戦災で失われてはいけない遺産です

2010-03-28 08:00:00 | 世界遺産
 明治維新の廃城令で払い下げられたにも関わらず利用価値が低いということで取り壊されず、太平洋戦争でもほとんど被弾せずという幸運の積み重ねで真っ白の天守閣が残ったのが姫路城ですはが、日本の世界遺産の中でもう一つ城郭が登録されているのが沖縄のグスク(城)です。今回は登録されている9箇所のうち、那覇にある首里城を中心に紹介します。

 沖縄のグスクは姫路城などの城とは建設の目的や背景が異なるようで、単なる軍事拠点ではなかったようです。主に沖縄本島の南部に分布しており、那覇の近郊には、首里城跡のほか玉陵(たまうどぅん)、識名園があります。

 首里城跡は、那覇空港から「ゆいレール」と呼ばれるモノレールで首里まで行けるので渋滞知らずにアクセスができます。首里城の元は15世紀ごろに作られたようで、その後何度か火災に遭うなどして、戦災で失われる前の正殿は18世紀に再建されたものです。現在の正殿は、戦前の正殿の形をコンクリート造りなどで1992年に復元されたものです。

この整備事業の前には、首里大学が首里城跡をキャンパスに使っていたそうで、戦前の首里城の遺構は石垣の一部に残るのみなのだそうです。ただ、この石垣の曲線は、小高い丘にある首里城では、上から眺めると、姫路城などとは違った美しさがあります。
 
復元された正殿などは、創建当時の極彩色に塗装されており、そう堅持の人々はこの色を見ていたのでしょうが、どうも勝手が違います。特に、正殿より先に再建された守礼の門は、

坂を登りきったところにぽつんと建っていて、記念写真を撮るための書き割りのような薄っぺらな感じを受けます。

 玉陵は首里城跡の隣にある15世紀に作られた王族の墳墓で、太平洋戦争でかなりの部分が破壊されましたが、中央部などは創建当時のもを残すものです。石造りのかなり巨大なもので、なかなか迫力があります。

全体は3つの部分に区切られていて、中央部は遺体が白骨化するまで仮埋葬をするところ、東室は王と妃の骨を、西室はそれ以外の王族の骨を収容しています。石室の前には珊瑚を敷き詰めた中庭があり、周りは石壁で区切られています。石壁に開けられた入り口から中庭に入ると、別世界のような変わった感覚がします。

 識名園は、首里城跡の南1.5kmほどの谷を隔てたところにある、回遊式庭園です。首里城跡から谷へ降りてゆく道は金城町の石畳の道で、かつては真珠道と呼ばれて識名園の正門と首里城を結んでいたそうです。石畳の道はNHKの朝ドラのロケにも使われたそうですが、石垣に囲まれて微妙に弧を描いて下る坂や、石垣に囲まれた井戸など、
 
なかなか絵になる風景です。さて、識名園ですが、こちらも戦災で総ての建物が被災して、現在のものは総て再建されたものだそうです。18世紀に迎賓館の役割も兼ねて造園された庭園ですが、東京や京都にある回遊式の庭園とはちょっと違った印象を受けます。石橋など石造りのものが多いせいでしょうか、

あるいは植生などが南国のものであるためでしょうか、あるいは空の色が違うせいなのでしょうか。

 沖縄の遺跡は総て大なり小なり戦災で被災しています。青空の下で再建された建物などを見ていると、ここで本当に悲惨な戦いがあったことを実感しがたいところがありますが、軍用機は低空で進入してくる姿を見ると、戦争の後遺症はまだまだ癒えていないことを実感します。戦勝国の占領状態が継続しているとしかいいようがありません。軍隊を正当化する主張の一つに、ITなど先端部分での技術開発に、軍用の民間応用があると言われます。たしかに、一部ではあるかもしれませんが、軍事費に使う研究開発に使えば、もっとすごい成果があるのではないでしょうか。

レトロな町並みの続く倉吉の中心部には綺麗なトイレもたくさんありました

2010-03-21 08:00:00 | 日本の町並み
 上総掘りの自噴井戸が町中にたくさんある久留里は、15世紀の中ごろには里見氏の上総における拠点でもありました。里見氏は、その後の北条攻めに遅れたことなどを理由に上総を追われ安房に一国に押し込まれましたが、江戸初期に倉吉に転封されてしまいました。今回は、南総里見八犬伝のモデルとなった里見氏と家臣の八賢士が葬られたお寺もあり、房総半島と縁がある倉吉を紹介します。

 倉吉市は、鳥取県のほぼ中央に位置していますが、内陸の都市でJRの山陰線の倉吉駅は市の中心部から遠く北に離れています。駅から中心部へはバスでの移動になりますが、1985年までは倉吉線という支線が中心部を通っていました。さらに、その倉吉線に倉吉駅があり、現在の倉吉駅は上井と名乗っていたそうです。

 さて、南総里見八犬伝ですが、南総といえば当然千葉県ですが、モデルとなる八賢士は、安房の国からはるか離れた倉吉に転封され失意のうちに29歳で他界した藩主の里見忠義とともに殉死した家臣の8人です。この8人の戒名に賢の字が付けられたことから八賢士と呼ばれ、滝沢馬琴が里見忠義と八賢士をモデルとして壮大な歴史ドラマを書き上げたものが「南総里見八犬伝」なのです。

大岳院には、忠義と八賢氏が葬られた墓があり、賢(けん)の字の付いた位牌が保存されているそうです。ちなみに、小説に出てくる八人の若者は八犬士で、戒名ではなく苗字に犬(けん)の文字を持ち、それぞれ仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌の文字が書かれた数珠の玉を持っていて、運命の糸に引かれて里見家に集結することになっています。

 この大岳院の西側に玉川沿いに白壁の土蔵造りや格子の美しい町並みが続いています。大岳院に近い研屋町のところで玉川が斜めに折れ曲がっている先に、白壁に赤い石洲瓦で葺かれた家並みの風景は絵になるので倉吉の紹介写真としてよく使われるアングルのようです。
 
ここから玉川に着かず離れずで西に向かって歩いてゆくと、白壁の造り酒屋や、醤油を醸造して販売しているお店の格子があり、さらには蔵を改造したギャラリーと蕎麦屋を兼ねたお店がありと、古い家並みが現役の店舗などで生かされています。
  
この家並みの中に、お寺や神社がぽつぽつと散らばっているという感じです。ただ、玉川の南に平行する商店街の中には、シャッターを降ろしたお店も多く、町の顔を寂しくしていました。

 他の古い町並みが保存されている町には無いものが倉吉にはあります。それは、美観公衆トイレなのです。グッドトイレのコンクールで日本一を獲得したといれなど、20箇所ほどの美観トイレが、白壁の町に点在しています。

内部は清潔に掃除が行き届いていることは言うまでも無く、その外観が町の風景に溶け込んでいて、遠くから見ると白壁の民家のように見えるものもあります。この公衆トイレをテーマにして倉吉を訪れる観光客もあるとのことです。

 八犬士が持ち八種類の文字が浮かぶという玉は、お互いが近づくと感応して、お互いの存在を知らせるとのことです。まるで、Suicaなどの非接触ICカードのようですが、この玉にもICチップが埋め込まれていたのでしょうか。Suicaでは数ミリの距離でしか反応しませんが、八犬士の玉は随分と感度が良かったようです。いろいろなものにICチップを埋め込んで、埋め込まれたものを追跡したり、本物であることの証明などの分野への応用が進みつつあります。八犬士のように持ち物や、せいぜい痣(あざ)程度ならばいいのですが、身体にICチップを埋め込まれることは、後免こうむりたいです。

町中にある上総掘りの自噴井戸から名水があるれる久留里には昔懐かしい商店街も残っていました

2010-03-14 08:00:00 | 日本の町並み
 平成の時代まで国宝の天守を持つ城主が居たり、国宝の茶室が京都から引越しを重ねて建っているところが犬山でしたが、茶道では抹茶も大切ですが、お茶をたてる水も重要な役割を果たします。名水の地は全国にありますが、東京から近く上総掘りの井戸が数多くあり名水百選にも選ばれた名水の里の久留里を紹介します。

 久留里は、千葉県君津市の一部で、木更津から久留里線で20kmほど内陸に入ったところにあります。
 
この久留里線は、1時間に1本ほど運転のローカル線で、終点は上総亀山ですが、当初計画では房総半島を横断して大原まで行くはずでした。大原側からは木原線(現在のいすみ鉄道)が上総中野まで伸びてきていましたが、両線がつながることはありませんでした。いすみ鉄道は、当初の予定に入っていなかった小湊鉄道と接続し、上総中野で乗り換えての房総半島の横断を可能にしています。ちなみに、小湊鉄道も、当初の計画では、名前が示すように大原ではなく安房小湊までを結ぶはずでした。北と南から伸びてきた鉄道が、たまたま途中で出合った相手と結婚してしまって、取り残された久留里線は結びつく相手の居ない盲腸線のままになってしまったわけです。

 さて、久留里の名水ですが、町の中のいたるところと言っていいほど自噴の井戸があります。この中で最も古いものは久留里駅の北東の新町にある大井戸で、枡形の水溜り状態のようですが、ふたがしてあって詳細は良くは解りません。この近くの久留里小学校の校門のそばに新井白石居住之地の石碑が建っています。
白石の父が久留里藩の藩士であった頃に住んでいた場所と思われますが、石碑以外に何も残っていません。むしろ、この南にある真勝寺のほうが久留里藩主の墓があったり、境内の様子など見るべきものが多いようです。
 
 町中の大部分の井戸は、明治期に上総掘りと呼ばれる工法で掘られた自噴井戸で、100~300mにも達する深井戸群です。
 
地中深くから噴出する地下水であるため、夏に冷たく、冬に暖かい不純物の少ない名水です。特に、駅の南東の高澤家の井戸は600mもの深さがあり毎分100リットルの湧出量があるのだそうです。
 
この高澤家がある通りの商店街には明治から昭和初期の商店が残っています。大げさな看板など、かつてはどこにでも見られた商店街の風景ですが、いつの間にか消えてしまった懐かしい風景があります。
 
 井戸水を、地上から吸い上げるには水面の深さが10m以下である必要があります。地表での気圧が水柱の高さにしてほぼ10m程度なので、吸い上げポンプが真空を作る能力があっても、大気圧で押し上げられる高さは10mまでということなのです。地下水の圧力が高く、この圧力で水を押し上げる井戸では、その圧力さえ高ければ、水は地上まで押し上げ自噴井戸となります。水を10m押し上げる1気圧というのは、1平方センチ当たり1kgくらいです。このことから、かつてのパソコンのディスプレイの主流であったCRTは巨大な真空管なので、表面に1トン近い気圧がかかっていたことになります。ガラスが壊れると、かなり危険な状態になるので、ガラスの厚さも厚くなり重くて扱いにくいものでした。現在ではほとんどのパソコンのディスプレイは液晶になり、この欠点は無くなりました。そのせいか、パソコンの重みと緊張感も薄れたのかもしれませんが。

幸運な偶然の積み重ねによって巨大な姫路城の天守閣は残りました

2010-03-07 08:00:00 | 世界遺産
 つい最近まで個人の所有で、平成の城主が存在したお城が国宝の犬山城でしたが、4つの国宝の天守閣で最も規模の大きなものは姫路城です。今回は、この姫路城を取り上げすが、いや今回は、日本の町並みではなく世界遺産の紹介の回ではなかったかと異議を唱えられる方がおありかもしれません。姫路城は、日本にある14の世界遺産の中でも最初に指定された4つのうちの一つ、押しも押されもせぬ日本が誇る世界遺産です。今回は、白漆喰で仕上げた姿が、白鷺の姿を思わせることから白鷺城の異名も持つ、世界遺産としての姫路城の紹介です。

 姫路城のある姫路市は、兵庫県の南西部にあり、兵庫県の中では神戸市に次いで2番目に大きな都市ですが、姫路城が無ければ、全国的に、いや世界的に有名な都市にはならなかったでしょう。神戸との間には、JRの他に私鉄の山陽電鉄が走っていて、神戸高速鉄道を介して阪神梅田(大阪)まで直通運転がなされています。

 JRや山陽の姫路駅から大手前通りを北へ1kmほど行き、外堀を渡ると三の丸広場に着きます。

現在の三の丸広場は何も無い芝生広場になっていますが、明治維新の廃城令が出される前には、数多くの御殿が建っていましたが、すべて取り壊されたようです。天守閣も競売にかけられ現在の貨幣価値で10万円程度で落札されましたが、落札者がもてあまして取り壊しを免れたようです。お城の瓦と鉄材を利用する目的だったそうですが、瓦は民家に転用するには重すぎ、鉄材を取り出すには解体費用がかさんで、儲けにならなかったのだそうです。興福寺の五重塔も数十万で競売にかけられたようで、明治維新は、近代化に向けての大革命でしたが、文化財にとっては受難の時代だったようです。姫路城や興福寺は、幸運にも破壊を免れましたが、数多くの貴重な古文化財が破壊され、取り返しの付かない過ちを犯してしまったのです。

 姫路城の話に戻りましょう。姫路城は、姫山に天守を置く平山城で、関が原の戦いの後に、現在の形が出来上がりました。天守閣以外に、多くの門や櫓などが残っているのは、明治維新の廃城令以外にも戦災でもほとんど被弾せず被害を受けることなく、幸運の偶然が組み合わさった結果です。天守閣は三基の小天守を渡り櫓でつないだ望楼型五重七階建ての現存最大のものです。この巨大さのため、天守台の石垣が重さに耐えられなくなり、江戸時代末期にはかなり東に傾いてしまったのだそうです。明治の修理で、それ以上傾くことは防止できたのですが、傾きを修正するのは1956年の昭和の解体大修理を待つことになります。そして昨年から5年計画で、平成の大修理が進行中で、瓦の吹き替え、漆喰の塗り替え、それに耐震補強の工事が行われています。完成すれば、白鷺がさらに真っ白に輝くことでしょう。

 お城では天守閣が目立って興味の中心となりますが、縄張りの作り方や、石垣の積み方など見るべきものがたくさんあります。特に姫路城はこれらの遺構の保存状態が良く、ゆっくり見ていると一日あっても時間が足りないかもしれません。堀を渡って、三の丸の広場を横切り、菱の門

を入って天守を目指しますが、途中に数多くの門や枡形が有、方向もあちこちへと曲がります。特に、下の写真のように天守が見える場所は、

道は天守を背にして登ることになり、もし敵が攻めてきても戸惑ったであろう構造です。戸惑っていると、上部の土塀に開けられた狭間から矢や鉄砲で集中砲火を浴びることになります。

途中から左に道を取ると、西の丸で、取り囲むように渡り櫓と長局があり、北端には千姫の輿入れのときに作られたという化粧櫓があります。

長局は侍女たちの居所であったということで、貝合わせで遊ぶ人形が置かれていました。

重さに耐えかねたという天守台の石垣ですが、江戸期に作られたものなので、隅の部分が算木積みで作られていて稜線がすっきりして綺麗です。

算木積みは、石垣の陵の部分に長方形の石の短辺と長辺を交互に積み重ねる方法で、レンガのフランドル積みのような感じです。

 現在残っているお城は、大部分が江戸期に作られたもので、実戦には使われなかったものがほとんどです。江戸時代の築城術は、実戦の経験の無い軍学師が理論だけで設計したものも多かったのだそうです。このために平面図形が凹凸が多く、本丸などに十分な広さが取れなかったり、正面の防備は優れていても、搦め手が弱い城が出現しました。事実、明治初年の戊辰戦争で、この弱点を突かれてあえなく落城をした松前城の事件は有名です。現在の戦争は、物理的な破壊を行うだけでなく、宣戦布告を伴わないサイバー攻撃が増えてくるのではないでしょうか。この場合は、物理的な実戦を伴わないわけですから、理論だけで勝負をする軍師の出番なのでしょうか。