世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

8つもの駅名になる浦和には、来年の干支のウサギが狛犬の代わりをする神社があります

2010-11-28 08:00:00 | 日本の町並み
 天下を取りに行き上洛を狙った織田信長が本格的なお城を構えた岐阜城の麓に京町家を思わせる町並みが続くのが岐阜の玉井町でした。岐阜といえば海の無い県の一つですが、今回は首都圏で海の無い県の埼玉県の浦和を紹介します。調神社(つきじんじゃ)には来年の干支のうさぎをかたどった「こまうさぎ」もたくさんおりました。

 かつての県庁所在地の浦和市は、政令指定都市化のために大宮市などと合併して、さいたま市の一つの区になってしまいました。しかし、県庁の建物を持ち、かつての中山道3番目の宿場町としての面影を残す落ち着いた町並みは、人口の多い大宮とは違った顔を持っています。

 一つの区の名前に降格した浦和ですが、JRには浦和の名前が付く駅が7つもあり、埼玉交通線の浦和美園を入れると8駅となり、当然ながら日本一です。またこの8つの中には東西南北すべての方角の文字が揃っていて、これも唯一なのです。ところが、かつての浦和駅は特急の止まらない県庁所在地駅として有名でした、特急どころか中長距離列車すべてが停車せず、京浜東北線の電車が停車するのみでした。当時は浦和駅の土地が狭くて列車線ホームを作れなかったためのようですが、東京から近すぎたのも理由の一つだったかもしれません。

 かつて、叔母が浦和に住んでいたことがありますが、彼女の証言によると、毎年の年賀状の中に、何通かは「東京都浦和区」と宛名表示されたものが舞い込んだそうです。それでも配達されたのですから、面白いですね。

 
 さて、こまうさぎの居る調神社ですが、浦和駅の西口を出て旧中山道を南に折れて400mほどのところにあります。神社の建物などは鳥居が無いくらいで特に変わった様子はないのですが、境内のいたるところにウサギの像があります。絵馬にも馬ならぬウサギが描かれています。このこまウサギは、神社の名前が「調(つき)」→月というごろあわせから、月の動物といわれる兎、という連鎖のようです。また、別のごろあわせで、「つき」に恵まれるというご利益があるとか。ちなみに調の本来の意味は太古の税制である租庸調の調であり、関東一円から納められた調を納める蔵が在ったことに由来しているそうです。鳥居が無いのも、調を運び入れるときに邪魔になるため撤去されたためです。

 調神社とは逆に旧中山道を北に曲がって少し西に入ると枝垂桜が美しい玉蔵院があります。筆者は偶然にも枝垂桜が満開のときに訪れましたが、京都の円山公園や六義円のものに勝るとも劣らないような華やかな桜でした。この旧中山道沿いには、旧本陣跡などもあり、昔懐かしい昔懐かしい家並みも少しですが残っているようです。




 
 駅からの道をまっすぐ西へ、埼玉県庁を通り過ぎて1kmほど歩くと別所沼公園があります。都会の中に、かつての武蔵野を思わせる異次元空間が広がっています。沼を囲む雑木林の風景は、吉祥寺の井の頭公園とも状況が似ているかもしれませんが、ボートが浮かんでなかったり人が少ない分、伸びやかな感じがします。この沼には大蛇が棲んでいて、この大蛇が怒ると雨を降らせるのだそうです。このため、日照りが続くと、若者たちが沼に入って暴れ大蛇を怒らせる、という儀式が行われてきたそうです。

 月にウサギが居るというのは、月の黒い部分の模様が兎がもちを搗いている形に見えたためですが、この形がどのように見えるかということは国によってずいぶんと違うようです。蟹、横向きの女性、ほえるライオン、バケツを運ぶ少女などなどずいぶんと多方面にわたっています。現在のように通信衛星が発達する前には、月に向けて電波を発射して、その反射波を捕らえて遠距離の通信を行おうという実験も行われたようです。この反射波で中継されたテレビ画面には、すべてウサギが映っていたかもしれません。

かつての首都のトゥルクは都会とは思えない緑の中に落ち着きを持った古都です(フィンランド)

2010-11-21 08:00:00 | 世界の町並み
 北ドイツのハンザ都市でバルト海沿岸最古の大学のある港湾都市がロストックでしたが、多くのヨーロッパの都市がそうであるように、ロストックも数多くの姉妹都市関係を結んでいます。その姉妹都市の一つがバルト海を挟んで北側に位置するトゥルクです。このトゥルクは、前回の世界遺産の町で紹介したエストニアのタルトゥとも姉妹都市関係を結んでいます。姉妹都市を結んだ理由は定かではないのですが、ロクトックには北ドイツ最古の、タルトゥにはエストニア最古の、そしてトゥルクにはフィンランド最古の大学が各々あって、文教都市という共通項があるからかもしれません。今回は、緑の多いフィンランドの中でも、都会でありながら緑豊かな落ち着きを見せる、かつてのフィンランドの首都であったトゥルクを紹介します。

 トゥルクはフィンランドの首都のヘルシンキから特急列車で2時間ほど西へ走ったところに位置しており、鉄道はトゥルク港への支線があるのみで、ここで行き止まりです。さらに西へは、トゥルク港から大型フェリーを11時間ほど乗るとスウェーデンのストックホルムに行ってしまいます。ちなみにこのフェリーは5万トンクラスの巨大なもので車も運ぶのですが、客室もなかなか豪華で、中間階にあるあるショッピングアーケードは船の中とは思えない広さです。また船室の前の廊下は向こうが見えないほど長く、プールこそありませんがフェリーといえどクルーズ船並の施設を持っているようです。その割には、車を運び収入があるせいでしょうか、海の見えるAクラスの部屋で1万円前後とリーズナブルです。

 
 さて、トゥルクですが、主な見所は、鉄道駅の南東のアウラ川との間に散らばっています。このアウラ川はさほど大きな川ではありませんが、両岸には緑豊かな散歩道が整備されていて、端正な古い建物も多く、気持の良い空間を作っています。

 
 駅から2kmほど東に行ったアウタ川のそばには、フィンランドの中心的な役割をしているトゥルク大聖堂があります。ずいぶんと高い尖塔が木立を突き抜けて遠くからでも見えてきます。

 大聖堂の裏手にはシベリウス博物館があります。シベリウスの自筆楽譜などが展示されているとのことでしたが、生家でもないので、筆者はパスをしました。








 
 駅のほうに戻ると、川沿いにNovaと書かれた美術館らしき建物もありました。どこかで聞いたような名前の施設でしたが、後で調べたら現代美術館だったようです。川から離れて北に向かうと、レンガ造り風や石造り風の建物が数多く在ります。トゥルクは戦災でかなりの被害にあったはずなのですが、これらの建物は焼けずにすんだのか、修復なのか、戦後のものなのかは不明でした。ただ、なにかというと、それまであった建物を根こそぎ潰してコンクリトの巨大な建物にしてしまう文化とは違うようです。

 シベリウスば、7つの交響曲やヴァイオリン協奏曲に加えて数多くの交響詩を作曲しています。中でもフィンランディアは、シベリウスといえば・・・と思い浮かべるほどの代表作ですが、作曲された頃のフィンランドは帝政ロシアの支配下にあり、このフィンランディアの曲がフィンランドの独立心をあおるということで演奏禁止になったそうです。音楽は、数多くの人間の心を揺り動かす効果があり、ヒトラーもたくみに、この効果を利用したとされています。現代音楽が聞いていて心地よくないのは、政治に利用されないために、わざとそうしたのだ!と皮肉る向きもいるようです。コンピュータでモーツアルト風やベートーヴェン風の編曲や作曲もできるので、心を動かす作曲や編曲も可能なのだと思いますが、これからも独裁者には利用されたくないですね。

京を目指した信長の岐阜城の麓には京都の町家を思わせる町並みが続いています

2010-11-14 08:00:00 | 日本の町並み
 日本中の将棋の駒の生産を一手に引き受けている天童には織田信長の末裔が眠るお寺もありましたが、その織田信長が斎藤氏の居城の稲葉山城を改修して作った城が岐阜城です。今回は、岐阜城のある金華山のふもとに古い町並みが広がる玉井町一帯を紹介します。

 
 岐阜市の玉井町は、岐阜駅から北に3kmほど、岐阜城のある金華山の長良川に架かる長良橋の手前の下流側に川に沿って細長く続く町です。岐阜市内は太平洋戦争で空襲を受けたのですが、この玉井町周辺は戦災を免れたのだそうです。このため、京都を思わせる間口の狭い奥行きのある家や、格子のある家などの家並みが通りに沿って並んでいます。


 
 訪れたときは、ちょうど祭りの時期であったのか各家の軒先に提灯がぶら下がっていました。卵形をした優美な岐阜提灯ですが、この提灯と細やかな格子との組み合わせがさらに美しさを強調しているようでした。

 
通りには郵便局があって、こちらも格子のある古い建物に岐阜提灯が架かり、前には丸くて赤い鋳物の郵便ポストが立っていました。長良橋の近くの通りの入り口付近には、長良川の鵜飼の遊覧船の待合所がありましたが、こちらも格子と提灯でした。


 通りの途中に「ゆっくり走ろう川原町」という看板があって、はて?川原町って??と思いましたが、斉藤道三が岐阜城の前身の稲葉山城を作った頃には中河原と言われていた名残で、現在の玉井町、湊町、元浜町の総称として使われているそうです。地名から場所を特定しやすくするなどの理由で、歴史的な地名が失われていって久しいものがあります。川原町の場合は、古い地名の地域が複数の新しい地名に変わっていますが、多くは古い地名を統合して何丁目で片付けられてしまいます。筆者の近くにも、桃園町、囲町など江戸期の歴史を物語る地名がありましたが、新しい地名は中野X丁目です、なんか味気ないですね。

 かつて提灯は携帯できる明かりとして、ほぼ唯一のものであったでしょう。ほんの数m先までしか明るさが届かず、その先は闇で何が在るか判らなかったわけです。暗闇を怖いものと思うのは、このような歴史が刷り込まれているのかもしれません。それが増幅されてかどうか、日本人ほど家の中を明るくする民族は珍しいとも言われています。電灯から蛍光灯、そしてエコのためのと称したLEDと照明の技術は進みましたが、常により明るく!という一本道であったようです。そして現在は、白熱電球は無駄だから製造中止せよ!です。明るさだけが照明ではなく、ほの明るい白熱電灯も選択肢としてあっても良いのではないでしょうか。

200年近くも前に地球の大きさ計測プロジェクトの中心となる天文台のあるタルトゥ(エストニア)

2010-11-07 08:00:00 | 世界遺産
 これまでハンザ都市のいくつかを紹介してきましたが、ハンザ同盟の各都市はすべて良港を持っていました。当時の流通の主役は船が担っていて、その基地となるのが天然の良港だったからです。一方、その船が航行するのに欠かせないものがコンパスと海図ではないでしょうか。実は、ハンザ同盟の隆盛期には地球の大きさが正確には判っていなかったのです。従って、当時の地図は、正確さを欠いていたことになります。19世紀初頭になって、地球の大きさを正確に把握しようと測量を行ったのが、シュトルーヴェです。300に近い測量点のうち34箇所が世界遺産に登録されていますが、今回はその中からエストニアのタルトゥを紹介します。

 シュトルーヴェは、北極海に面したノルウェーのハンメルフェストから黒海に近いウクライナのスタラ・ネクラシウカまで2,800km、緯度にして25度に及ぶ地点間を40年間もかかって三角測量でつないでいったそうです。測量点の北端と南端には測量事業の完成を祝した記念碑が建てられています。このときの測量の精度は、わが国の国土地理院の地図作成の基礎データとして取り入れられるほどで、2002年にGPSによる地図作成まで続いていたそうです。登録されている地点は10ヶ国に及び世界遺産で最も多くの国にまたがるもので、総延長距離も万里の長城に次ぐものではないでしょうか。ただ、現在は10ヶ国に跨る測量地点ですが、シュトルーヴェの頃にはロシアとスェーデンで、大部分はロシア領土でした。

 さて今回紹介する観測点の一つのタルトゥはバルト三国の中で北の端のエストニア第2の都市になります。首都タリンの南180kmくらいに位置していて、バスで2~3時間の距離になります。タリンは旧市街が世界遺産に登録されていることもあり日本人にも馴染みがありますが、タルトゥを訪れる日本人はあまりいないようです。シュトルーヴェの測量地点となったのは200年ほど前に建てられた旧天文台で、当時の所長がシュトルーヴェであり、この天文台が測量の中心的役割を果たしたようです。黄色の建物の上にドームではなく、円筒形の望楼のようなものを乗せ青空をバックにエストニア国旗を翻した風景は天文台というより要塞のような感じがしました。


 タリンほど有名ではないタルトゥですが、エストニア国民にとって文化的な拠りどころになっているそうで、日本で言えば京都のような存在のようです。シュトルーヴェも卒業したタルトゥ大学はエストニア最古の大学ですが、実はこの大学は数奇な運命をたどっていて、エストニア人がこの大学で学べるのは20世紀になってからのことだったようです。17世紀の設立がスウェーデン、そして19世紀初頭には土地貴族のドイツ人の大学として、19世紀後半からはロシア語の教育を強制され大学名まで変えられてしまったようです。

 第二次大戦中に破壊されてしまった市街地の整備も進み、美しい町並みが見られ、ラエコヤ広場や大学の付近など緑も多くて気持のいい場所が続きます。ラエコヤ広場には変わった建物も残っています。18世紀に建てられたバークレイの家で、現在は美術館となっていますが、建物がピサの斜塔同様に傾いています。広場に面した入り口は正立しているので、両端の窓とは並行ではなく、なんとも不思議な光景です。広場に妻部分を見せている建物ですが、棟方向にはかなりの奥行きがあり、傾き具合が一定ではないために、側面の壁が波打っていたようです。

 
 市内には聖ヨハネ大聖堂や市庁舎など美しい建物が緑の中に数多くあり、旧天文台があるトーメの丘には廃墟になった大聖堂の壁や旧天文台との間には天使の橋と呼ばれる陸橋があります。大聖堂の廃墟は、アーチ部分がまるでローマの水道橋のようで、かなりの存在感があります。石やレンガで作られた建物は破壊するのにも大きなエネルギーが必要なためか廃墟として残り、タリンの郊外にもピリタ修道院が廃墟となって壁のみが立っていました。

 シュロルーベの測地は、測量地点の大部分がロシアであったことから考えても、たぶんに国家戦略的な色彩が濃いものであったであろうと言われています。シーボルトの伊能図持ち出し事件にも現れているように、地図は一国にとって重要な位置を占めていたわけです。現在の測地はGPS衛星を利用して数m以下の誤差で計数できるようになっています。当初高かったGPS端末も、携帯電話にまで組み込まれるほど安価になりましたが、衛星のほうは相変わらずアメリカの軍事衛星です。現在は、通常制度の電波はただで使わせていますが、いつ何時「使わせるのは止めた」と言われても文句は言えません。国産の天頂衛星も1機が打ち上げられましたが、残りは打ち上げ計画もはっきりしないようです。それに、3機すべてが打ち上げられたとしても、アメリカのGPS衛星を補完する役割で、国産衛星のみで測地できるわけではありません。こんなことで国家戦略上いいのでしょうか。