世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

過疎の村のペルージュは手入れの行き届いた花いっぱいの村でした(フランス)

2014-02-23 08:00:00 | 世界の町並み
 炭鉱の衰退と共に町の人口が減ってしまって現在も、そのレトロな雰囲気が観光客を集めているのが台湾の十分でした。一方、フランスでは人口の減ってしまった村々でも、フランスで一番美しい村として人気を集めている場所が沢山あります。過疎化を逆手にとって、観光客を集めるのは、さすが観光客数世界一のフランスらしい政策で、どこかの国も見習う面があるかもしれません。今回は、数ある美しい村の中からペルージュを紹介します。

 ペルージュは、フランス第2の都市であるリヨンの東北東30kmほどのメクシュミューの近郊にある丘の上の村です。リオンからはSNCFのローカル線でメクシュミュー駅まで30分、路線バスの場合は丘の麓のバス停まで1時間、村へはバス停からの方が若干歩く距離が短くなります。ペルージュと聞くと、イタリアのペルージャと似た名前で混同しそうです。しかし、ペルージャはサッカーチームもある人口14万の都市、かたやペリュージュは廃村寸前になった人口100人未満の村、共通するのは丘の上にあることくらいでしょうか。


 
 
 丘の上のペルージュは、東西200m、南北100mほどの楕円形の石垣に囲まれた中にあります。石垣に沿った円周道路と、菩提樹のある中央広場に通ずる放射状の道路がありますが、ちょっと歩くと元の場所に戻ってしまいます。石畳の道や、中に建っている家々や教会も、ほとんどが石壁のもので、電柱も見当たりません。現代を思わせるものとは、ほとんど見当たらない景色が続いています。

 
 そもそもが、人口の少ない村なので、見かけるのは観光客ぐらいでしたが、学校の遠足なのでしょうか、子供達がテラス状の広場に集まっていました。村のある場所だけが小高い丘になっているので、周りの景色がよく見えますが、地平線の彼方まで緑一色で、農地と森が続いています。農家もあるようですが、富山県の散村のようにまばらな家が散見されるだけです。この景色が50万都市リヨンの中心から30km足らずの所とは信じられない感じです。900万都市の東京23区と比べるのは無理かも知れませんが30km圏といえば、千葉、大宮、立川、横浜といったあたりです。50万都市の中で地方の中核都市のひとつである岡山で30km圏は?と調べてみると、備前、高梁、倉敷、下津井辺りなので、多少は似ているかもしれません。


 
 
 これだけ人が居ない村なのですが、教会やレストランそれにホテルもそろっています。さらに、ご当地名物と言われるガレットと呼ばれるデザートのピザ風のお菓子屋さんもあり、けっこう繁盛しています。レストランやホテルは観光客が相手でしょうが、100人に満たない村人が対象の教会にしては、かなり立派でした。





 
 
 
 立派なのは教会だけではありません。美しい村を標榜するためには、廃墟のような町並みを残すことではなく、美しい町並みを維持することと規定されているようです。どこの家の壁にも花いっぱいの植木鉢で飾られ、道のそばにはコンテナに花があふれています。少しでも空間があれば、そこには花壇が作られていて手入れの良い草花が咲き誇っています。廃墟のような町並みも、滅びの美学のようなものを感じることがありますが、花いっぱいの町並みは、理屈抜きに美しさを感じます。

 フランスを旅すると、緑の多さに感心をしてしまいます。町で買う農産物も、日本と比べて格段に安く新鮮なものが手に入ります。フランスというとエアバスやプジョーなどの工業製品を思い浮かべますが、それにも増して農業大国なのですね。アルプス周辺を除いて、あまり高い山を見かけないということは、山ばかりの日本とは桁違いに農地が多いのではないでしょうか。日本では、ビニールハウスで囲って、コンピュータ管理で力ずくで生産をした、季節はずれの高い農産物ばかりを食べさせられているように思います。ペルージュから見た景色の中にはビニールハウスは発見できませんでした。

今井町を取り囲む環濠の内部は百年以上も時計が止まってしまったようです

2014-02-16 08:00:00 | 日本の町並み
 大和平野の東の端の麓を南北に連ねる道が山之辺の道でしたが、その街道沿いには幾つかの環濠集落が残されています。この山之辺の道の南の起点になっている桜井市の西側には、重文の民家の数が日本一と思われる環濠集落の今井町があります。

 今井町は、近鉄大阪線の大和八木から橿原線で南に一駅の八木西口駅の西側に東西600m、南北300mほどに広がる町並みです。JRでは桜井線の畝傍で下車をして西に300mほど歩くと今井町の東端の川に出ます。川に架かる蘇武橋のたもとには樹高が15mほどの巨大なケヤキの木があり、今井町のランドマークになっています。



 今井町は、鎌倉時代に興福寺の荘園として生まれ、戦国時代には一向宗の道場ができ興福寺の支配から脱し、やがて本願寺の称念寺の寺内町として発展しました。一向宗への弾圧からの自衛手段として、町の周りには環濠が掘られ、掘った土を利用した土塁も作られ自治都市として堺も並び称されるようにました。土塁の内側の町並みは、東西と南北との道路が方眼状に作られていますが、途中でT字路になっていて見通しを遮っているのは、城下町に良く見られる自衛手段の一つのようです。その後は江戸時代初期に天領となりましたが、郷内には数多くの富豪が邸宅をかまえ、現在重文になっている民家群がその名残です。明治期になって、鉄道駅ができることを反対したために、時代に取り残され、古い町並みが冷凍保存のように残されたようです。



 
 
 
 
 
  
 今井町にある重文は称念寺本堂を含めて9件12棟あります。寺をのぞく8件はすべて民家の建築で、これだけ多くの重文民家が集中している場所は他には無いのではないかと思います。他の指定文化財も8件17棟もあり、土蔵造りの白壁や格子のある家並みが、ずーっと道の奥まで続く光景は圧巻です。一部の民家はお土産屋や休みどころになっていますが、普通に生活の場となっている家が多いように見かけます。

 今井町は、自治都市として自前の通貨まで持っていたようですが、最近話題となっているのがBitcoinです。Bitocoinは、国や中央銀行などの公的権力に左右されない通貨で、ネット上で決済に使われる仮想マネーです。クレジットカードによる決済より、コストがかからず決済も早いので限定的ですが企業の一部でも使われているようです。ただ、犯罪や投機目的の取引などの問題が指摘されて、各国の政府などが横槍を入れていますが、どうも利益を損なう金融関連企業の影が見え隠れします。

半円の緑の中に広がるアルケスナン王立製塩所は壮大な理想都市の遺構です(フランス)

2014-02-09 08:00:00 | 世界遺産
 ベルリンの郊外に端正な建物群を持つのがサンスーシー宮殿でしたが、噴水をバックにした正面の美し差に加え、裏側の半円形の回廊も捨てがたいところがあります。弓なりの建物は、ヴァチカンのサンピエトロやイギリスのバースにあるロイヤルクレセントなど珍しくないようですが、いくつかの建物群が同心円状に半円形に並ぶ場所があります。それが、アルケスナンの王立製塩所跡です。今回は、かつて製塩所を中心にして理想都市の建設を目指した産業遺産を紹介します。

  アルケスナンは、フランス中東部のスイス国境に近い場所にあります。ワインなど食の都であるディジョンから普通列車をブザンソンで乗り換えて1時間半から2時間ほどの距離になります。世界遺産の最寄り駅にしては、こじんまりとした無人駅で、駅に周辺にもあまり人家がありません。製塩所の跡は駅のすぐそばにあり、建物群に囲まれた半径が200m以上もある半円形の場所です。

 アルケスナン王立製塩所は、18世紀に当時の国王の命によりルドゥーの設計によって建設されたもので、当時は貴重品であった塩を製造するだけでなく、工場を中心とした理想都市を作り上げるという計画でした。日本人の感覚では、製塩所は海水を原料として海のそばに建てられると思いがちですが、アルケスナンは地中海からも北海からも400~500kmも離れた内陸なのです。アルケスナンでの原料は海水ではなく、岩塩鉱近くの井戸水なので、海の近くではなく岩塩鉱の近くに立地をしたようです。



 
 
 半円形の土地の円周と中心を通る弦に沿って16世紀に北イタリアで、はやったパッラディーオ様式を思わせる建物が並び、その前に道があるほかは、見渡す限り半円形の芝生の緑が広がっています。半円の中心に位置するのが、所長宅でギリシャ神殿を思わせる列柱がありますが、同じような列柱は半円の頂点にある門にもあります。製塩工場の跡は、所長宅の両翼にあって、内部が公開されていますが、柱の無い大きな空間の中は何も無くってガランとしています。

 
 
 円周二沿った建物群は、事務所、厩舎、蹄鉄工場、樽工場などの跡ですが、樽工場跡が設計者ルドゥーの記念館として、理想都市の壮大な計画の内容が展示されています。設計構想が模型でも展示されているので、フランス語が解らなくても具体的イメージで理解ができます。現在の遺構は半円形ですが、当初の計画では円形の町になる予定であったようです。模型にあるのは、円形の設計構想ですが、その前の段階では、四角形の中に45度違う四角形を内接させた壮大なもので劇場なども計画されていたようです。四角形案は、国王の反対などによって早期に消滅したようです。設計変更された円形案も、資金面から半分の半円に縮小され、劇場なども作られなかったようです。

 アルケスナンの製塩所は、フランス革命後にも存続して生産を続けていましたが、19世紀には海水を原料とする塩との価格競争や原料の塩水の質が良くないこと等から生産停止に追い込まれます。廃墟のようになっていた製塩所跡は、20世紀になって、18世紀の理想都市としての都市計画をしのばせるものとして保存計画が生まれ1982年に世界遺産にも登録されました。アルケスナンの塩は、交通網の発達によって、海から遠い地方にも海水の塩を安く供給できる環境変化に負けてしまったのですが、ある技術が、自身の技術ではなく、周辺環境によって廃れてしまうことはIT分野でも多いように思います。いくら生産コストを削減するすばらしい技術も、生産拠点を人件費が安い発展途上国に移してしまう方策の前には日の目を見なくなってしまいます。

古代ロマンの山之辺の道は古墳、寺、神社、環濠集落だけでなく伸びやかな風景も広がります

2014-02-02 08:00:00 | 日本の町並み
 大国主命を祭る出雲大社は、昔は現在の2倍もの高さの社殿がそびえていたとのことですが、その大国主命から国譲を受けたのが大和朝廷です。権力闘争によって、大和朝廷が勝利したことを表すものと言われていますが、その大和朝廷のあった大和盆地の東縁を南北に貫くのが山之辺の道です。出雲地域と同様に古代のロマンあふれる散歩道です。古墳や神社やお寺が次々と現れ、その中に環濠集落もあったりで、なかなか楽しい道ですが、今回は石上神社から崇神天皇陵までの北半分を紹介します。

 山之辺の道は、北は天理市から南の桜井市までを結ぶ15kmほどの南北の道です。道は、大和盆地が東の山塊にぶつかる麓を、等高線に沿ってうねうねと曲がりくねって伸びています。北は天理駅の東にある石上神社が起点で、南の起点は桜井駅の北東にある海石榴市(つばいち)になります。海石榴市から北に進むと、金谷の石仏や三輪山が祭神となっていて神殿の無い大神神社などがありますが、50年ほども昔に訪れたので記録が残っていません。

 
 今回は、街道のほぼ中間地点のJR柳本駅を出発し東に向かって山にぶつかる手前で街道に合流します。合流の手前にあるのが黒塚古墳で、3世紀末頃の前方後円墳です。三角縁神獣鏡などが出土し、隣接する黒塚古墳展示館には、三角縁神獣鏡などの出土品のレプリカや石室の模型が展示されています。古墳は公園になっていて、頂上まで登ることができ、西に伸びる大和盆地が眺められます。戦国時代にはこの丘に城が築かれたそうで、古墳の環濠は、お城の堀に転用できて好都合だったのでしょうか。

 
 黒塚古墳を東に進み、山之辺の道に突き当たる所に240mあまりの巨大な崇神天皇陵があります。崇神天皇は大和朝廷の創始者とされる天皇で、そのせいか陵墓の巨大で立派です。天皇陵ゆえに、正面には鳥居が立ち、広い環濠と柵があって、黒塚古墳のようには立ち入ることはできません。

  
 北に道をとって最初に現れるのが長岳寺で、楼門などが重文に指定されている9世紀に空海によって創建されたお寺です。本堂の前の放生池野周りには既設の花々も多く、花の寺としても知られますが、期間限定で本堂で公開される大地獄絵が迫力満点です。

 
 
 さらに北に歩むと、小さな環濠集落があり、これを通り過ぎると大和神社末社の歯定神社があります。境内には歯を思わせる3つの石に注連縄が張られていて、歯医者さんの神様だとか。

 


 ここから2つの比較的大きな環濠集落までの道は起伏があって、古墳や果樹園が現れ、伸びやかな道が続きます。環濠集落は、周辺に堀をめぐらせて外敵の侵入を防いだ集落のことで、大和盆地には、かなりの数の遺構が残っています。山之辺の道沿いの2つの環濠は、南が萱生集落、北側が竹之内集落です。環濠は一部が残されているのみで、溜池のように見えますが、そばに建つ家が、環濠の上にせり出して池の中に建っているように見えるという共通性が面白い風景でした。環濠集落を通り過ぎて、相変わらずうねうねと曲がる道をたどると、北の起点の石上神社の重文の楼門に到着します。

 古代のロマンをロマンだけに留めず、現実の姿として解析するのが考古学ですが、この分野でもIT技術が活躍します。文献など二よる検証は、後の権力によって改竄されたりすることも多く、物理特性などを利用するIT手法は客観的な情報を提供できるのではないでしょうか。一方、IT技術の考古学のようなものも存在するかもしれません。ディジタル技術で記録した情報は、劣化しないので未来永劫残ると考えがちですが、どっこいそう簡単ではありません。まずは、ディジタルの規格が変わってしまう可能性が高いのです。テレビやヴィデオに見られるように規格は簡単に変えられてしまいます。さらに、技術の背景を知る人がいなくなって、目的の情報を取り出す方法が判らなくなったり、情報の存在そのものが忘れれたりします。こんな現象を防止することがITの考古学かもしれません。