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世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

台風銀座の串本には風除けの石壁が連なり、台風を追い返すかのように虎がにらみつけていました

2014-04-27 08:00:00 | 日本の町並み
 旧国鉄の最西端の駅の近くに、レンガ造りの綺麗な教会が建っているのが長崎県の田平でした。JR線の最南端駅は同じ九州の西大山駅ですが、本州に限れば最南端の駅は紀勢本線の串本駅です。今回は、串本駅周辺の町並みを紹介します。

 
 
 
 串本は、和歌山県の南端にある町で、紀伊半島の先がくびれて南にこぶのように突き出した先が最南端の潮岬になります。四国の室戸岬と同様に、台風銀座とも言われてきたこともあり、町並みには強い風から家を守るために、土蔵造りや石造り、それに石塀や石壁が目立ちます。このような町並みが残るのは、潮岬に向かってくびれたあたりで、東西の幅が500mほどしかありません。この狭くなった部分が風の通り道になり、その自衛手段が必要だったのかもしれません。本来は家を守るためのものですが、景観に独特の味わいが生まれています。ただ、沖縄の家並みに見られるように、屋根の上に置いた石は見かけなかったように思います。

 
 
 この町並みの近くに、無量寺があり、その境内に応挙芦雪館という美術館が建っています。1961年に無量寺にある障壁画を保存公開するために建てられたもので、展示の中心はこれらの絵になります。無量寺は18世紀の初頭の地震のよる津波で全壊し、その後に再建されましたが、そのときに応挙などが本堂の障壁がを描きました。応挙は高齢のため、京都で描いた絵を、弟子の芦雪に託し寺まで運ぶと共に、芦雪自身も当地で筆をふるったそうです。美術館の中には、本堂と同じ配置で芦雪の描いた龍虎図が展示されており、かなり巨大で迫力満点です。龍も虎も迫力はあり、恐ろしげではあるのですが、どこかマンガ的で愛嬌のある面もあるように感じます。

 
 くびれた所から南西に3kmほど行くと潮岬です。これより先は太平洋が水平線の先まで続いています。岬の先端には灯台が建ち、後方の草原の端には展望タワーも建っていて、360度の展望をうたい文句にしていたように思います。訪問したのは風邪の強い日だったので、海岸に打ち寄せる並みの砕け散る様子も綺麗でした。ただ、この程度の波ならいいのですが、1890年に来訪したオスマントルコの軍艦が、台風のために潮岬の東にある大島の沖で座礁し沈没してしまいました。地元の懸命な救助で600人中70名ほどが助かり、この時の村民の暖かい心遣いが、日本とトルコの友好関係を築き、現在も5年に一度、両国の出席により追悼式典が行われているそうです。


 大島と言えば、この島まで橋を架けるための橋脚の名残の岩が橋杭岩です。昔、弘法大師と天邪鬼とが、一晩で大島までの橋がかけられるかどうか賭けをしたそうです。弘法大師が橋を完成しそうになったので、これは架けに負けると思った天邪鬼が鶏のまねをしたところ、弘法はは朝が来たと思って諦めて立ち去ったとのこと。そのときに残されたのが、橋脚となった部分だと言う言い伝えです。もちろん、橋杭岩は自然の岩が1km近く連なったもので、これだけ一直線に連なるのも珍しく、このような逸話が生まれたのでしょう。大島へは、橋杭岩を橋脚にするのではなく、無量寺の近くにコンクリ^ト製のループ橋が架かっています。

 潮岬にも大島の樫野埼にもある灯台ですが、この2つの灯台は日本が鎖国を解いて全国に築いた8箇所の灯台のうちの2つという由緒あるものです。これだけ近く2基も灯台があるのは、トルコの軍艦が座礁をした海域ですから危険も多かったのかもしれません。現在では3,000を越える灯台が設置されていますが、すべて無人化され、「喜びも悲しみも幾歳月」野世界は無くなったようです。灯台には無線による電波灯台も併設され、船にはGPSも積まれて、船の居る位置はこれらの無線機器で把握できるようになってきています。それでも、灯台が現役であり続けるのは、装置が故障した時の最後の拠り所と、視覚的に安心感を与える所が大きいのでしょうか。

美しい村のル・シオンは村も周りの土も一面のオレンジかピンク色でした(フランス)

2014-04-20 08:00:00 | 世界の町並み

 フランス南部の美しい村々を順に紹介してきましたが、今回はその最終回で、ル・シオンを紹介します。これまでペルージュ、ゴルド、レ・ポー・ド・プロヴァンスとどれも標高の差はありますが丘の上にありましたが、今回紹介するル・シオンも小高い丘の上の村です。

 
 
 
 ル・シオンは、ゴルドの東6kmほどで、ゴルドやレ・ボード・プロバンスに比べてアヴィニョンからはもっとも遠い位置にあります。また、他の2箇所と違って、こちらは岩山ではなく黄土(オークル)の丘の上に建つ村で、景色から受ける感じがまったく違います。村の中に建つ家々の壁もこの土で塗られ、黄色と言うよりオレンジかピンク色に近い色をしていて、インドのジャイプルのピンクシティよりもピンクが溢れているかもしれません。

 
 この黄土(オークル)はカオリンと酸化鉄と石英とが混ざったもので、顔料やタイルそれに焼き物の原料として利用されます。村の外れには、かつての採土上の跡らしき崖があちこちに残っています。ただ、現在では、土の採取は行われなくなり、村は美しい村として観光で成り立っているようです。

 
 車が走る道は、舗装がされていて白いのですが、散歩コースに入るとオレンジ色の土の道です。この土には適度な弾力性があり、歩いていて足に優しい感じがします。プロバンスというと、花はラヴェンダーを思い起こしますが、しっしゃが訪問した時には、ラベンダーの開花には少し早かったのですが、ル・シオンの散歩道には黄色や城の優しい花が咲いていて、バックのピンクの町並みと好対照でした。

 このような景色の中でスケッチブックを取り出して絵を描いていらっしゃる人も居ました。水彩で描かれていたようですが、その絵の具の黄土色を代表する色がイエローオーカーです。油絵の具の顔料は、カドミュウムレッドなど金属僕化合物がおおいのですが、イエローオーカは黄土が原料になっていたのではないかと思います。また、主原料のカオリンの名称は中国の高嶺に由来しており、高嶺産の陶土は、中国を代表する焼き物の一つである景徳鎮の粘土として利用されています。

 カリオンなどの陶土から焼かれた茶器などは、材料の土の値段と出来上がった器の値段の差が大きな生産物の一つではないでしょうか。の現象を、巧みに利用したのが室町時代から江戸時代に掛けての権力者達ではなかったかと思います。褒美として、限りのある土地の代わりに茶碗を与えることで、無限に褒美を与えられるという図示を作ったわけです。ところで、この焼き物はITにとっても欠かせない存在で、容器としてLSIのチップの封印二使われることはおなじみです。プラスチックの封印に比べて、熱の放散もよく、外部からの影響を受けにくいなど、高い信頼性を必要とする部品ではセラミックが使われてきました。また、セラミック自体が半導体の一つとして使われることもあります。権力者に利用されることは少ないでしょうが、現在も原料の陶土とは比べ物にならない価値を発揮しています。

最西端駅のたびら平戸口の近くにはレンガ壁とステンドグラスの美しい天主堂が建っています

2014-04-13 08:00:00 | 日本の町並み
 隠れキリシタンの離れ島に美しいレンガ造りの天主堂があったのが佐世保市に属する黒島でした。長崎県にはレンガ造りの教会が多いと言うことを紹介しましたが、そのうちの一つが、旧国鉄時代の最西端の駅の近くにある田平天主堂です。今回は、黒島天主堂と同様に信者の手で建てられた田平天主堂を紹介します。

 田平天主堂は、3セクの松浦鉄道の「たびら平戸口」駅からバスで10分ほどの、平戸瀬戸を見下ろす伸びやかな丘陵地帯に建っています。松浦鉄道は、旧国鉄の松浦線を引き継いだもので、たびら平戸口駅は国鉄時代には平戸口という名称で、鉄道最西端の駅として有名でした。現在も駅前には日本最西端の駅の碑が残されています。ただ、沖縄モノレールが開業し、現在の最西端駅は那覇空港駅となり、こちらは普通鉄道における日本最西端駅という位置づけになってます。

 
 
 さて、田平天主堂ですが、こちらも黒島と同様に重文に指定されたレンガ造りの教会です。作られたのは黒島よりは新しく大正中期で、北九州に多くの教会建築を残した鉄川与助棟梁の設計によるものです。建築に当たっては、こちらでも信者の協力が大きく、レンガなどの建築資材は、平戸瀬戸に面した港から信者の手で運び上げられたのだそうです。教会周辺は、明治時代に黒島などから移住をしてきた信者によって開墾された土地で、教会も周辺の信者さん達によって守られているようです。

 
 
 こちらの天主堂も身廊の両側に側廊を持つバシリカ式のロマネスク風の建物です。黒島教会でも同様でしたが、壁面を見ているとレンガ造りのヨーロッパの建物という感じですが、屋根がスレートではなく瓦葺なんです。色合いは同じなのですが、瓦の場合は波打った曲線があって、かえって面白いかもしれません。ステンドグラスは、黒島のものが幾何学模様中心でしたが、こちらは聖書の場面が描かれたものが中心です。ステンドグラス越しの太陽の光が床に描く模様も綺麗でした。
 
 信者の墓地は、黒島のように離れた所ではなく、教会のすぐ隣にあり、教会の正面の階段を下りたところには、レンガの接着に用いた漆喰の一種を貝を焼いて作った跡も残されています。また、その横にはルルドと呼ばれる祠も作られています。ルルドはフランスのピレネー山脈の麓の場所で、ここにある洞窟に歳暮マリアが出現したとして聖地になっている所です。

 赤レンガ造りの建物の代表格の一つが東京駅ではないでしょうか。空襲で焼けた部分を修復して、元の姿に戻され、東京駅の様子が目の前と言うことで有名なステーションホテルも再開しました。東京駅の眺めと言うと松本清張の「点と線」を思い浮かべます。13番線ホームから15番線ホームが見通せられる4分間が物語の重要なキーになっていました。現在の東京駅は、作品ができた頃とは様変わりをしていますが、日本の鉄道のダイヤの正確さがは現在も変わりません。新幹線はコンピュータ制御によって、運行を集中制御をしていますが、正確なダイヤを維持するのは、運転士さんの神業ともいえるマニュアル操作なのだそうです。

ボーキサイトもお城も無くなって、元の美しい静かな村に戻ったレ・ポー・ド・プロヴァンスです(フランス)

2014-04-06 08:00:00 | 世界の町並み
 フランス南部の美しい村の紹介を続けてきました。リオン郊外の小さな丘の上のペリージュ、そしてアヴィニョン郊外の岩山の上のゴルドと丘の上の村が続きました。今回はその3回目で、やはり小高い丘の上の美しい村のレ・ポー・ド・プロヴァンスを紹介します。



 レ・ポー・ド・プロヴァンスは、前回に紹介したゴルドの西南西30kmほどで、むしろアルルの郊外で東北東10kmに位置します。ゴルドと同様に岩だらけの山の上にある美しい村です。人口は400人足らずで、ゴルドに比べると小ぶりです。ゴルドと同じようにごつごつした岩山の村ですが、ゴルドが飴色の岩山なのに対してレ・ポー・ド・プロヴァンス付近の山は、もう少し白っぽい岩ですが、建物は飴色の石造りです。



 
 ゴルトと似た色合いの村で、頭の中でこんがらがってしまうのですが、こちらは要塞の村ではなく、城下町の村でした。ただ、岩山の頂上にあった城は17世紀に廃城となり、城跡には国旗がはためいていました。19世紀初頭になって、付近からアルミの原料となるボーキサイトの鉱脈が発見されましたが、これも20世紀中に枯渇をして、基の静かな村に戻ったようです。ちなみに、ボーキサイトの名称はレ・ポー・ド・プロヴァンスの地名に由来しています。

 
 
 
 町並みは石畳の起伏の多い道が頂上の城跡を囲むように伸びています。ゴルトに比べると、人口が少ないせいなのか、活気に欠けるような感じもします。無住らしき建物が多いようで廃墟のような印象です。こちらのお土産屋さんも、日本のようなけばけばしい看板は表に出さず、ぐっと大人の感じですが、店の中は、おしゃれなディスプレイになっています。

 現在のフランスはボーキサイトの大半をアフリカから輸入しているそうですが、アルミは電気の缶詰と言われることがあります。ボーキサイトを精錬して得られる酸化アルミをアルミにするためには、溶融した酸化アルミを電気分解で取り出すのですが、これに大量の電気が必要だからです。アルミ缶を、リサイクルされるのは、リサイクルによるエネルギーのほうが少なく、リサイクルのためのコストを考えても安くなるからです。かつて、日本のアルミの精錬工場が北陸地方に多かったのは、アルプスを水源とする水力発電により比較的安い電力が得られたからでした。電気の缶詰で作られたアルミで、送電線ができているのも、面白いめぐり合わせでしょうか。