旧国鉄の最西端の駅の近くに、レンガ造りの綺麗な教会が建っているのが長崎県の田平でした。JR線の最南端駅は同じ九州の西大山駅ですが、本州に限れば最南端の駅は紀勢本線の串本駅です。今回は、串本駅周辺の町並みを紹介します。



串本は、和歌山県の南端にある町で、紀伊半島の先がくびれて南にこぶのように突き出した先が最南端の潮岬になります。四国の室戸岬と同様に、台風銀座とも言われてきたこともあり、町並みには強い風から家を守るために、土蔵造りや石造り、それに石塀や石壁が目立ちます。このような町並みが残るのは、潮岬に向かってくびれたあたりで、東西の幅が500mほどしかありません。この狭くなった部分が風の通り道になり、その自衛手段が必要だったのかもしれません。本来は家を守るためのものですが、景観に独特の味わいが生まれています。ただ、沖縄の家並みに見られるように、屋根の上に置いた石は見かけなかったように思います。


この町並みの近くに、無量寺があり、その境内に応挙芦雪館という美術館が建っています。1961年に無量寺にある障壁画を保存公開するために建てられたもので、展示の中心はこれらの絵になります。無量寺は18世紀の初頭の地震のよる津波で全壊し、その後に再建されましたが、そのときに応挙などが本堂の障壁がを描きました。応挙は高齢のため、京都で描いた絵を、弟子の芦雪に託し寺まで運ぶと共に、芦雪自身も当地で筆をふるったそうです。美術館の中には、本堂と同じ配置で芦雪の描いた龍虎図が展示されており、かなり巨大で迫力満点です。龍も虎も迫力はあり、恐ろしげではあるのですが、どこかマンガ的で愛嬌のある面もあるように感じます。

くびれた所から南西に3kmほど行くと潮岬です。これより先は太平洋が水平線の先まで続いています。岬の先端には灯台が建ち、後方の草原の端には展望タワーも建っていて、360度の展望をうたい文句にしていたように思います。訪問したのは風邪の強い日だったので、海岸に打ち寄せる並みの砕け散る様子も綺麗でした。ただ、この程度の波ならいいのですが、1890年に来訪したオスマントルコの軍艦が、台風のために潮岬の東にある大島の沖で座礁し沈没してしまいました。地元の懸命な救助で600人中70名ほどが助かり、この時の村民の暖かい心遣いが、日本とトルコの友好関係を築き、現在も5年に一度、両国の出席により追悼式典が行われているそうです。

大島と言えば、この島まで橋を架けるための橋脚の名残の岩が橋杭岩です。昔、弘法大師と天邪鬼とが、一晩で大島までの橋がかけられるかどうか賭けをしたそうです。弘法大師が橋を完成しそうになったので、これは架けに負けると思った天邪鬼が鶏のまねをしたところ、弘法はは朝が来たと思って諦めて立ち去ったとのこと。そのときに残されたのが、橋脚となった部分だと言う言い伝えです。もちろん、橋杭岩は自然の岩が1km近く連なったもので、これだけ一直線に連なるのも珍しく、このような逸話が生まれたのでしょう。大島へは、橋杭岩を橋脚にするのではなく、無量寺の近くにコンクリ^ト製のループ橋が架かっています。
潮岬にも大島の樫野埼にもある灯台ですが、この2つの灯台は日本が鎖国を解いて全国に築いた8箇所の灯台のうちの2つという由緒あるものです。これだけ近く2基も灯台があるのは、トルコの軍艦が座礁をした海域ですから危険も多かったのかもしれません。現在では3,000を越える灯台が設置されていますが、すべて無人化され、「喜びも悲しみも幾歳月」野世界は無くなったようです。灯台には無線による電波灯台も併設され、船にはGPSも積まれて、船の居る位置はこれらの無線機器で把握できるようになってきています。それでも、灯台が現役であり続けるのは、装置が故障した時の最後の拠り所と、視覚的に安心感を与える所が大きいのでしょうか。






串本は、和歌山県の南端にある町で、紀伊半島の先がくびれて南にこぶのように突き出した先が最南端の潮岬になります。四国の室戸岬と同様に、台風銀座とも言われてきたこともあり、町並みには強い風から家を守るために、土蔵造りや石造り、それに石塀や石壁が目立ちます。このような町並みが残るのは、潮岬に向かってくびれたあたりで、東西の幅が500mほどしかありません。この狭くなった部分が風の通り道になり、その自衛手段が必要だったのかもしれません。本来は家を守るためのものですが、景観に独特の味わいが生まれています。ただ、沖縄の家並みに見られるように、屋根の上に置いた石は見かけなかったように思います。




この町並みの近くに、無量寺があり、その境内に応挙芦雪館という美術館が建っています。1961年に無量寺にある障壁画を保存公開するために建てられたもので、展示の中心はこれらの絵になります。無量寺は18世紀の初頭の地震のよる津波で全壊し、その後に再建されましたが、そのときに応挙などが本堂の障壁がを描きました。応挙は高齢のため、京都で描いた絵を、弟子の芦雪に託し寺まで運ぶと共に、芦雪自身も当地で筆をふるったそうです。美術館の中には、本堂と同じ配置で芦雪の描いた龍虎図が展示されており、かなり巨大で迫力満点です。龍も虎も迫力はあり、恐ろしげではあるのですが、どこかマンガ的で愛嬌のある面もあるように感じます。


くびれた所から南西に3kmほど行くと潮岬です。これより先は太平洋が水平線の先まで続いています。岬の先端には灯台が建ち、後方の草原の端には展望タワーも建っていて、360度の展望をうたい文句にしていたように思います。訪問したのは風邪の強い日だったので、海岸に打ち寄せる並みの砕け散る様子も綺麗でした。ただ、この程度の波ならいいのですが、1890年に来訪したオスマントルコの軍艦が、台風のために潮岬の東にある大島の沖で座礁し沈没してしまいました。地元の懸命な救助で600人中70名ほどが助かり、この時の村民の暖かい心遣いが、日本とトルコの友好関係を築き、現在も5年に一度、両国の出席により追悼式典が行われているそうです。

大島と言えば、この島まで橋を架けるための橋脚の名残の岩が橋杭岩です。昔、弘法大師と天邪鬼とが、一晩で大島までの橋がかけられるかどうか賭けをしたそうです。弘法大師が橋を完成しそうになったので、これは架けに負けると思った天邪鬼が鶏のまねをしたところ、弘法はは朝が来たと思って諦めて立ち去ったとのこと。そのときに残されたのが、橋脚となった部分だと言う言い伝えです。もちろん、橋杭岩は自然の岩が1km近く連なったもので、これだけ一直線に連なるのも珍しく、このような逸話が生まれたのでしょう。大島へは、橋杭岩を橋脚にするのではなく、無量寺の近くにコンクリ^ト製のループ橋が架かっています。
潮岬にも大島の樫野埼にもある灯台ですが、この2つの灯台は日本が鎖国を解いて全国に築いた8箇所の灯台のうちの2つという由緒あるものです。これだけ近く2基も灯台があるのは、トルコの軍艦が座礁をした海域ですから危険も多かったのかもしれません。現在では3,000を越える灯台が設置されていますが、すべて無人化され、「喜びも悲しみも幾歳月」野世界は無くなったようです。灯台には無線による電波灯台も併設され、船にはGPSも積まれて、船の居る位置はこれらの無線機器で把握できるようになってきています。それでも、灯台が現役であり続けるのは、装置が故障した時の最後の拠り所と、視覚的に安心感を与える所が大きいのでしょうか。