世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

札幌の大通公園は大都市の中にぽっかりと残されたグリーンベルトです

2021-03-28 08:00:00 | 日本の町並み
 衣料品の卸問屋街にレトロな食堂やビルがあるのが馬喰町から東日本橋にかけての町並みでした。そのような町並みの中に、寝台特急のB寝台を模した2段ベッドを持つホテルが北斗星でした。北斗星は、青函トンネルを抜けて上野と札幌を結んでいましたが、速い(飛行機に比べると遅い)だけで旅情も何もない新幹線に追いやられて廃止になってしまいました。今回は、北斗星の一方の起点である札幌駅から近い大通公園周辺を紹介します。

 大通公園は、札幌駅の南1kmほどのところを東端のさっぽろテレビ塔から西の端の札幌市資料館まで東西に1.5kmほどの帯状の都市公園で、毎冬恒例の札幌雪祭りのメイン会場にもなるところです。講演の両側は、一方通行の道路があって、道路の向こう側には官庁やデパートなどのビルが並んでいます。戦時中は空襲からの避難場所や畑となって荒廃し、戦後も占領軍に接収され運動公園化するという歴史を持ち、1950年からの復旧事業で現在のような姿を取り戻し2011年に100周年をを迎えたそうです。

 
 東端のテレビ塔は1957年に開業した高さ約147mの電波塔です。開業当時はテレビ電波を発射していましたが、現在はテレビアンテナは手稲山に引っ越してしまい、FM放送の電波のみが発射されているので、さっぽろラジオ塔とでも呼ぶべきかもしれません。そういえば、東京タワーもTV放送として残っていた放送大学が全面的に衛星放送に切り替わって、ラジオタワーになったようです。しかし、札幌の観光シンボルとして展望台からの眺めは素晴らしく、観光客でにぎわっているようです。また、LEDで電飾される姿もなかなかきれいです。

 
 
 一方、西の端の札幌市資料館は、大正時代に札幌控訴院として建てられ、1973年から現在の資料館として使われ、2020年に重文に指定さました。内部はステンドグラスやカイダンスペースの吹き抜けなどなかなか豪華です。掲示法廷も保存されていて、当時の様子が分かるようになっています。外壁には札幌軟石が貼り付けられ、裁判所というお堅さとは反対に柔らかな感じがします、この札幌軟石は採石場で枯渇し、この石材を使った建物も残存数が少なくなっているそうです。控訴院の建物で現存するのは、この建物と名古屋の2棟のみで、名古屋控訴院の建物も市政資料館として使われ、重文指定です。

 
 
 
 大通り公園の冬のイベントが札幌雪祭りで、巨大な雪像から市民の作るかわいらしいものまで、広い通りが雪像だらけになり、夜もライトアップされ、昼とは違って余計なものが見えなくってきれいです。筆者は、朝一の飛行機で行って、最終便で帰るという弾丸ツアーまがいで往復しましたが、ライトアップも見られて、十分に雪祭りを堪能しました。期間中は料金も上がって、予約が取りにくいホテルに泊まらなくても何とか楽しめます。しいて言えば、このやり方では早朝の風景を見るのは無理ですね。この雪祭りは、大通会場だけでなくすすきのでは氷の彫刻が通りいっぱいに飾られていました。また、道庁に通じる通りではかまくらもありました。

 
 
 
 この道庁は大通りの北側にあって、旧庁舎は明治期に建てられ、重文指定、赤煉瓦つくりの外観も美しいのですが、内部も素晴らしい建物です。夜間はライトアップされ、これもまた見ごたえありです。この道庁の庭で面白い発見をしました。左手奥に水連の池があるのですが、これがモネの水連の池にそっくり。高知県の山奥にモネの庭を模した場所があるようですが、そんな不便な場所に行かなくても見られます。

 
 
 
 道庁の裏には北大植物園があり13万㎡の広さに、色々な植物が植えられています。筆者が訪問の時には、ちょうどライラックや睡蓮が満開でした。植物だけでなく、門衛所、バチェラー記念館、倉庫など重文指定の下見板張りの木造の建物がずらりとそろっていてます。

 
下見板張りと言えば、大通の南側にはとけいだいもあり、周りが雑然としていますが、ライトアップされると、周りの雑物が闇に消えてすっきりときれいです。

 テレビのアンテナは、なるべくは高いところに設置するのが視聴エリアが広がって有利と言われています。札幌テレビ塔からテレビの送信アンテナが消えたのも、手稲山がより高い位置にあるからです。東京タワーからスカイツリーへの移設も同じ理由です。しかし、電波が届く範囲が広ければ広いほどいいかというとそうでもなく、携帯電話では、同じ周波数の電波を少し離れた場所で何度も使えるようにするため電波をやや下向きに出して届く範囲をわざと狭くしています。携帯の各社はより高速の通信を可能にする5Gを売ろうと躍起ですが、この電波はビル陰でも届かなくなる恐れもあって、特殊用途以外でこんなに高速の通信が必要なのか疑問です。

トロギル旧市街は東博の広さと同じくらいの島の中世からの教会、宮殿、要塞それに赤い屋根の民家がぎっしり(クロアチア)

2021-03-21 08:00:00 | 世界遺産
 白色の壁と縁取りの灰色の連座区が美しい階段が印象的な教会がポルトガル北部にあるボン・ジェスス教会でした。ポルトガルはヨーロッパの西の端に位置しますが、かつての東欧圏と呼ばれ、ソ連の崩壊後には、ヨーロッパの概念が東に延びて中欧圏の諸国には連続するオレンジ色の屋根が印象的な街が数多くあります。今回はそれらの町の中からクロアチアのトロギルを紹介します。

 

 トロギルは、クロアチアのアドリア海沿岸にあり、スプリトから直線距離で西に10kmほどにあります。世界遺産の旧市街は、東西400m、南北300mほどの小さな島で、沖に浮かぶ島との間の狭い水道の間にあります。本土や沖にある島との間には橋が架かっていますが、特に本土との間は幅が20mあるかなかなしかで海を渡る感覚はほとんどありません。この狭い島の中に中世からの街並みが冷凍保存されたように残っています。

 
 
 
 スプリトからの路線バスは、北に入り込んでいる湾を大きく迂回して、1時間弱もかかりました。バスは、島の対岸の本土側にあるバスターミナルについて、川のような海峡を渡って島に入ります。正面には城壁で囲まれていた頃の名残の北門があり、門の上には守護聖人の聖イヴァン・ウルスィニ像が建っています。門を入って南東に行くとイヴァナ・パヴラ広場に出ます。広場の突き当りの南側には時計塔とその隣にはロッジアがあります。時計塔は聖セバスチャン教会のもので、ロッジアの正面の壁には聖母の、横の壁にはペリスラヴィッチ総督のレリーフが彫られています。

 

 
 
 
 広場の広場の東側にはトロギル最大の聖ロヴロ大聖堂が建っています。13世紀から17世紀までかかって建築されたために、色々な様式が織り交ざり、最も目立つ鐘楼の高さは47mもあります。西側の主堂への入り口の両側には、ライオンに乗ったアダムとイヴの像があり、堂内には見どころもいっぱいです。鐘楼にも上れて、もちろんエレベータなどは無く急な階段で、それも上部はしたが見えるむき出し、高所恐怖症の筆者には少々きつかったのですが、意を決して上りました。上るとさすがに素晴らしい眺めで、赤い屋根の連なる町並みやその向こうのアドリア海まで見渡せ、広場の向こうには時計塔を見下ろすことができます。

 
 この塔は鐘楼なので、上ったところには目と鼻の先に鐘が下がっています。一緒に上った人が、時計を見て慌てて下っていったので、筆者もあとを追いました。下に着いて広場に出た頃に正午になり、あたりを揺るがすような鐘の響きが聞こえてきました。鐘楼の上の間近に居たらかなりきつかったかもしれません。

 
 
 
 
 
 
 街中に入っていくと、細い路地が網の目状、石畳の道に石造りの民家が立ち並んでイスラム世界のメディナのように迷路です。転記が良い日に訪問したので、あちこちに太陽が差し込んで気持ちの良い空間が奥に延びていましたが、陰気な天気の日だと印象派違ってたのかもしれません。海沿いには大きなバルコニーのある家もあって、さぞや眺めがいいんだろうと思ったりします。建物の形に統一性はありませんが、同じ色の外壁の連続は気持ちを和ませます。

 
 この迷路の街並みを西に進むと、聖二コラ修道院などがあって、島の西の端にはカメルレンゴ要塞があります。サッカーグラウンドを挟んで北側には見張りのための石造りの丸い聖マルコの塔がありますが役目が終わって土産物屋になっているようです。

 アダムとイヴは人類の祖先と言われるのは聖書の世界の話で、現代の人類の祖先であるホモサピエンスは、諸説ありますが、20万年ほど昔に生まれたとされています。随分と昔のように思われますが恐竜が活動していたのは数億年まえ、地球ができたのは50億年ほども前になります。科博(国立科学博物館)の展示には宇宙の誕生、恐竜の話、人類の歴史さらには近代の科学史まで、大変広い時系列の展示がされています。これらの展示は、部屋を変えてあるので、来館者は混乱は少ないのでしょうが、ボランティアで解説するときには、時間尺度の大きな違いに戸惑いそうになります。地球の歴史を時計にすると人類の歴史などは、ほんの一瞬になり、ましてや最近のIT技術の発展の歴史などは分解能の限界を超えています。現代に生活する我々は、現在のITなどの技術は究極で最高のものと誤解をしていますが、人類や地球の歴史で考えると、ほんの一瞬の成果にすぎないのですね。

馬喰町の東には問屋街の雑然さやレトロな料理店、レトロなビルといろんな顔を見せる町並みがあります

2021-03-14 08:00:00 | 日本の町並み
 左沢線の寒河江、粟生と難読地名の紹介が続きましたが、東京にも難読地名はあって、住んでる人が何気なく読めている吉祥寺(きちじょうじ)、御成門(おなりもん)、雑色(ぞうしき)、御徒町(おかちまち)などなど。これらの中から今回は馬喰町(ばくろちょう)と隣の横山町や東日本橋の周辺、JR総武線の馬喰町駅に沿った町並み紹介します。

 馬喰町は中央区日本橋の北端に位置し、繊維問屋が集中するところです。馬喰町の名前の由来は、江戸時代に馬場があり、そこを牛馬の売買を仲介する博労(ばくろう)頭が管理し名主となったことで博労町と呼ばれるようになり、やがて現在の馬喰町の字が充てられるようになりました。明暦の大火の後に関東郡代の屋敷が建てられその周りに旅館街ができ、隣の横山町ともども旅館街の土産を扱う店舗が増えて、現在のような問屋街に成長したのだそうです。馬喰町も横山町も北東と南西に長い町並みで、馬喰町が西に、横山町が東に位置します。

 
 
 この繊維問屋街は総武線が通る道路から東に馬喰町と横山町の境を越えて広がっています。看板やのぼりなどが通りにはみ出し賑やかな雰囲気なのですが、問屋街であるためか意外と人通りは多くありません。ほとんどの店の入り口には、小売りは致しておりません、との表示が掲げられています。

 
 表通りのJR馬喰町の駅の真上には、問屋などが入っていると思しきビルの一部を利用したユニークなホテルがあります。北斗星という名前で、上野と札幌を結んで走っていた寝台特急の名前を冠したホテルです。名前の通り、ベッドをはじめホテル内は列車の北斗星を模したもので、寝室は2段ベッドのB寝台そのもののようです。現役の定期寝台列車はサンライズのみとなり、B寝台は消滅したので昔を懐かしむ鉄チャンが利用するのでしょうか、筆者は学生の頃に盛んに利用したユースホステルを思い出します。

 
 
 
 横山町の東にある東日本橋は、人形町にも近いせいか古風なつくりの料理店や楽器店が、町並みに押しつぶされそうになっていますが生き残っています。この町並みの北外れ近くには薬研堀不動院が、これもまたビルの谷間の石段の上に特異な形のお堂がポツンと建っています。目黒不動、目白不動と並んで東京の三大不動の一つで、川崎大師の別院とのことですが、問屋街の幟のような旗はにぎやかですが参詣する人はあまり無いようでした。

 
 
 
 そこから浅草橋方面に本通りに出るとレトロなビルが近代的なビルに挟まれて建っています。玉置薬局のビルですが、前に紹介した取り壊しの運命にある旧相互無尽とは違って、まだ現役を続けています。昭和初期に建てられテラコッタの外壁に窓の間にはひし形を基調とした模様があり、窓の上部にはレリーフもある登録文化財ビルです。逆に南の方に真っ白の端正で美しいレトロビルがあります。ハリオの本社ビルで、昭和初期に川崎貯蓄銀行の建物として建てられ、常陽銀行の支店として使われた後に2000年から創業80年を記念してハリオが買い取ったそうで、こちらも登録文化財になっているようです。

 ハリオと言えばコーヒードリッパーを思い出します。全自動の機械式コーヒーメーカに比べて、少し手間はかかりますが、ドリップ式の香り高いおいしいコーヒーが作れることで、広く普及しました。の日本人は、おいしいコーヒーを飲むために多大の努力を惜しまない数少ない人種だとも言われています。機械式のコーヒーメーカは、名人が入れる時のノウハウをプログラムに置き換えて、それに近い味が出せるようにした、異臭のロボットだと思います。大田区などにある町工場では、後継ぎが見つからず、その工場でしか作れないような高度な技術が廃れてしまう危険があるようです。中小企業を潰そうとした特命大臣もいましたが、日本の生命線を脅かすけしからん話だと思います。ただ、後継ぎをどうするかは、それこそ生命線を脅かすわけで、ノウハウを持つ町工場の人たちが存命のうちに、ロボットにこれらのノウハウを移植しようといった動きもあるようです。

キリストゆかりのナザレは内陸ですがポルトガルのナザレは長い砂浜とどこまでもつながる大西洋の眺望です(ポルトガル)

2021-03-07 08:00:00 | 世界の町並み
 中国と韓国の田舎を紹介してきましたが、今回はヨーロッパの田舎というと字がそぐわないのですが漁村の一つを紹介します。地球上で都会はごく一部なので、ほとんどの場所は田舎になってしまいますが、何らかの特色で魅力があって観光客などを引き付ける田舎はさほどは多くないのかもしれません。今回は、ヨーロッパの西の端にあるポルトガルの漁村のナザレを紹介します。

 ナザレはポルトガルの中央部の西の端、太平洋に面した漁村で、リスボンの北100kmくらいに位置しています。ナザレには鉄道駅は無く、リスボンから高速バスで2時間ほどかかるようです。筆者はリスボンの北にあるいくつかの世界遺産の教会などを回る現地発着ツアーの昼食の場所として、おまけのように立ち寄った場所でした。

 
 ナザレという地名はパレスチナにあってキリストが幼少期を過ごした場所として有名ですが、ポルトガルのナザレは4世紀にパレスチナのナザレからマリア像が持ち込まれたことに由来するそうです。さてポルトガルのナザレは、絵のように美しい長い浜辺を持つ海辺の村として、特に夏場は多くの観光客を集めています。大西洋にじかに面しているため、大きな波が打ち寄せ、サーフィンにはもってこいとのことですが、荒い波の打ち寄せる海岸で遊んでいる多くの子供も含めて海水浴客の姿を見ました。

 
 
 海岸の北の端にはファロルという岬が突き出し、景色に変化を与えています。この岬に続く標高110mの高台はシテオと呼ばれケーブルカーで上れますが、自由時間があまりなく、頂上のノッサ・セニューラ・ダ・ナザレ教会は見損ねました。ただ、レストランと駐車場が離れていたのか、みんなで町を散歩したのか記憶が定かでないのですが、海岸から少し入った町並みもなかなか美しく、礼拝堂の壁にはさすがにアズレージョで飾られていました。

 
 海岸には多くのテントが並び、海岸の通りに面したレストランも軒を連ねていて、そのうちの一軒でツアーの一行と一緒にヒラメのフライの食事をしました。このツアーの参加者は英語組とスペイン語組とから構成され、それぞれにガイドが付きました。昼食のテーブルでは英語組だけでなくスペイン語組のメンバもいましたが、コミュニケーションは無理でした。

 高台にあるシテオは16世紀ごろから始まった海賊の難から逃れるためだったようです。海賊の中で特に恐れられたのが、北アフリカを基地とするバルバリア海賊で、その活動地域は地中海沿岸からか北大西洋のアイスランドにまで及んだそうです。ソマリア沖などに現れる現代の海賊は、船を襲って略奪行為を行うものですが、バルバリア海賊はキリスト教徒の住む村を襲ってキリスト教徒を奴隷としてイスラム市場に売るのが目的だったそうです。奴隷と言えば、現代のIT分野では、プログラム開発やシステム開発に携わる技術者は、ある意味で奴隷のように感じます。巨大なIT企業の利益やユーザの利便性のために命を削って開発のために酷使されているからです。