世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

1/4世紀前に訪れた北京の中心軸の紫禁城は変わっていないでしょうが、古い町並みは五輪の再開発でおとんど消滅してしまったのでしょうね(中国)

2024-09-15 08:00:00 | 世界遺産
 今年の世界遺産会議で新しく承認された文化遺産の2件目です。北京の中心軸という登録名称ですが、登録の中心となる故宮はすでに登録済みで、世界遺産は毎年1件までといったルールがあるのに、中国は自然遺産と合わせて2件が登録されていて、ずるいような気がします。

 北京の中心軸とは、南の永定門から北に伸びて故宮を通り過ぎて鼓楼、鐘楼に至る約8kmの南北の軸線に沿った都市構成で構成されます。わが国の京都、平安京の遺構で考えると、かつての羅生門から御所の朱雀門二至る南北の朱雀大路に相当するものでしょうか。この朱雀大路は現在の千本通りあたりのようですただ、残念なことに京都では都市化や内乱で平安京としての遺構はほとんど残っていないようで、京都の中心軸というのは、文化遺産にはなりそうにありません。さて、北京の中心軸ですが、筆者はこの構成要素のほんの一部しか訪問していないので、ほんのさわり程度しか紹介できません。

 
 中心軸の南端の永定門の北東隣りにあるのが天壇です。天壇は15世紀に行程が天に祈る宗教施設として作られたもので、天壇として独立の世界遺産になっています。1km四方の敷地に祈念殿などが建っていますが、建物群の南にある皇穹宇は円形の壁に囲まれこの壁の近くでささやくと遠くに居る相手にも声が伝わるという回音壁として有名です。また祈念殿は夜間ライトアップされ、闇夜に浮かぶ姿は幻想的です。

 
 
 
 天壇からは紫禁城の天安門まで飛んでしまいます。紫禁城は環濠に囲まれた南北1km、東西800m程の宮殿の跡で、天安門は正門の午門より南500m程に位置しますが、正門よりも有名な門になっています。午門から城内に入ると、また門があって、それをくぐるとまた門というように、やたらと門が続くように思えます外敵からの防御のためだったのでしょうか。この紫禁城を斜め上から見られるのが景山公園なのですが、残念ながらこの公園には行き損ねました。

 
 
 景山公園をさらに北に行くと突き当りに建つのが鼓楼でその工法にあるのが鐘楼で世界遺産はこれが北の端になります。鼓楼は15世紀に建てられ、太鼓を鳴らして時刻を知らせる建物でした。時刻の元となったのは線香でどれほど正確であったかは疑問ですが、人々の生活ものんびりしていたので問題ではなかったのでしょう。18世紀に改修を受けていますが、1/4世紀前に訪れた時にも足場が組まれて工事中でした。高さが47mほどありトンネル状の長い階段を上ると眺めがよく、胡堂に建つ中庭を囲んでロの字に4軒の住居がある四合院の様子がよくわかりましたが、北京五輪の再開発で大部分が取り壊されてしまったのは残念です。

 
 鼓楼の背後にある鐘楼は、15世紀に創建され18世紀に再建された建物で、鼓楼より少し高く48mの高さがあります。石の基壇が低い鼓楼に対して、鐘楼は高い石造りの基壇と建物の上に木造建築がちょこんと乗っています。建物中央当たりに大きなアーチ状の窓があって中には高さが3.5mもある巨大な鐘がつるされています。この鐘は日本の梵鐘にような円筒形ではなく末広がりになっていて、教会のカリヨンにも似ているような気がします。

 北京の四合院は、一族が中庭を囲んだ集合住宅に住むという構図はアモイの内陸部にある世界遺産の土楼とも似ている気がします。土楼と違って四合院は外敵から身を守るという性格は少ないのかもしれませんが、一族が身を寄せ合ってクラスというのは伝統なのでしょうか。外壁ではなく高い建物で外敵を防いだ市五郷住宅の、これも世界遺産の開平望楼や城壁に囲まれた都市が多いのは陸続きの外敵から身を守らねばならないのは、中国やヨーロッパの宿命でしょうか。コンピュータのネット世界でも、外部からやってくる外敵を防ぐ役割をするのがファイアウォールですが、ネット世界で外部からやってくるのは火災だけなんですかね。

新たに世界遺産になったシュベリーン城の湖に浮かんでいるような風景は最も絵になるお城の一つですが、シュベリーンの町もなかなか美しいです(ドイツ)

2024-08-18 08:00:00 | 世界遺産
 インドのニューデリーで開催された第46回世界遺産委員会で自然遺産5件、複合遺産2件、文化遺産17件が登録承認されました。文化遺産には,韓国の段階では情報照会であった我が国の佐渡金山も承認され登録となりました。筆者は佐渡金山を未取材なために見送りで、訪問したことのある2件のうち今回は北ドイツのシュベリーンを紹介します。

 
 
 世界遺産に登録されたのは歴主義建築群としての邸宅群で具体的にはシュベリーン城を中心としたものです。歴史主義建築とは19世紀から20世紀初頭にかけて西洋の過去の建築様式を復古的に用いて設計された建築で、日本では東京駅や赤坂迎賓館が相当すると言われています。シュベリーン城は16世紀に作られた要塞が元で、19世紀に現在の形に再建されました。ドイツ東北部には湖水が多く、シュヴェリーンは七つの湖の街と言われ、湖の中に町があるような雰囲気です。シュヴェリーン城も最大の湖のシュヴェリーン湖に浮かぶ周囲が600mほどの小島に建てられています。

 
 
 
 北のノイシュヴァンシュタインと呼ばれていますが、日本人観光客が押し掛けるノイシュヴァンシュタインとちがって日本人にはお目にかかりませんでした。ノイシュヴァンシュタインが山の頂上に緑に囲まれて建っていることに比べ、シュヴェリーンは湖水の中の青さの中に建っています。ドーナツ状の中央部に中庭を持ちずいぶんと大きなお城です。現在は州議会として使用されているようで、一部が博物館として公開されています。筆者が訪問の時には町中がお祭りのようで、露店がたくさん出て、子供達がお菓子やおもちゃを買ってもらっていたり、手回しオルガンの演奏があったり、お城の周りでは貴族の衣装で着飾った人たちが、観光客と一緒に写真に収まったり、模擬砲が撃たれたりとにぎやかでした。このお祭りのせいで、入城できるか迷って結局内部は見損ねました。

 
 お城が建っている島は小さくて、お城の周りにはあまり余白が無く、まさしくお城の島といった感じです。対岸から見ると、まるでお城そのものが湖水に浮かんでいるように見えることになります。州議会の入り口となる正面と、裏手とに橋があって陸地とつながっており、裏手の陸地側には運河が掘られて緑豊かな付属の庭園が広がっています。緑豊かな庭園の向こうに湖があって、園湖に浮かぶんでいる、おとぎ話に出てくるようなお城は絵にかいたような風景です。

 
 
 
 
 
 
 シュベリーンはハンブルグの東100kmほどの内陸に位置し、かつては東ドイツに属していたせいもあって日本人にはなじみの薄い都市の一つです。バルト海沿岸の世界遺産の都市のリューベックからから本数の少ないでローカル線を乗り継いで1時間余りでシュベリーン駅に着きます。単線のローカル駅にしては堂々たる駅舎です。駅からお城までは1.5kmほどで、歩いてもさほどの距離ではありませんが、大聖堂や州立劇場などの建物などを眺めながら行くと、ほどほどの時間がかかります。駅を東に出ると、そこにも小さな湖があって、湖に影を映す大聖堂の姿も湖水の街シュヴェリーンらしい風景かもしれません。シュヴェリーン大聖堂は19世紀後半に完成した教会ですが、建築に700年以上を要したという聖堂です。北ドイツには、ケルン大聖堂など高い尖塔を持つ教会が多いのですが、シュヴェリーンは9番目に高い約118mの高さを誇っています。一方、メクレンブルグ州立劇場は、北ドイツで最も有名な劇場の一つで、130年前にネオルネッサンスのファサードとネオバロックの観客席を持っているそうで、客席は542席なのでさほどは大きくはないホールのようです。

 シュベリーン城は歴主義建築都のカテゴリーで、東京駅などと同様の建築様式です。モダニズム様式全盛のころには過去の様式にとらわれた様式という蔑称として使われましたが、都市の美観を形作るということで見直された経緯があります。その東京駅ですが、設計はかの有名な辰野金吾、別名は龍野堅固と言われていますが、それもそのはず、東京駅は関東大震災でびくともしなかったのですから。辰野金吾は東大建築学部の一期生ですが教えたのはイギリスからやってきたジョサイヤ・コンドルで、その先生の設計した国立博物館本館は地震で東海倒壊するという皮肉な結果に。出身の英国には地震が少なかったせいかもしれませんが、我が国の最初の地震計は英国出身の物理学者が作ったのも皮肉です。その後、地震計は大きく発展して、小さな直径20cm程の円筒形となり、中身は加速度センサーとコンピュータの組み合わせに置き換わりました。

堂内を圧するようなワット・シー・チュムの巨大仏を見るだけでもスコタイを訪問する値打ちがあるように思います(タイ)

2024-07-21 08:00:00 | 世界遺産
 前回はスコタイの歴史公園の中にある寺院群を紹介しましたが、今回は歴史公園を取り巻く城壁の北側の外部あるワット・シー・チュムとワット・プラ・パーイ・ルアンの2か所紹介します。

 
  
 
 






ワット・シー・チュムは城壁の北西角の外部にある寺院跡で、14世紀に作られた寺院遺跡です。寺院名は菩提樹の森の意味を持ち、濠に囲まれた字息を持ちますが、主だった建物は中央の仏堂で、スコタイを代表するような巨大な仏像が収まっています。厚さが3mもあって32m四方、高さ15mもある壁で囲まれ屋根のない無いお堂の中に15m程もある降魔仏の座像が空間を圧するように収まっています。入堂すると、押しつぶされるような威圧感です。寺院の入口から入ると、遠くに湖のお堂が見え、近づくに連れて、動の正面に開いた隙間から仏像の中央あたりが見え隠れするのも、演出されたわけではないのでしょうが、期待を膨らませます。多くの日本人ツアーはワット・マハタートを見て帰ってしまうようですが、スコタイで一か所だけ見るとすれば、むしろワット・シー・チュムかもしれません。

 
 
 
 
 
 
 
 
 もう一つのワット・プラ・パーイ・ルアンはワット・シー・チュムの東1kmほどに広がる東西75m、南北600mもの広大な二重環濠に囲まれた市内最大の遺跡群です。ワット・プラ・パーイ・ルアンはスコタイ以前の12世紀に宗教の中心としてさかえましたが、スコタイ成立後に仏教寺院の中心はワット・マハタートい移り、宗教的役割を失ったそうです。このためか、建物はあまり残されておらず、仏塔や仏堂やかつての塔堂の基壇が広い草原に散在するのみで、廃墟のような滅びの美学といった景色です。ただ、3基あった仏塔のうち保存の良い1基には、見事なレリーフが残されていて、単なる廃墟とは違った見どころがあるようです。

 ワット・シー・チュムの居大仏は現役で信仰を集めている仏像だそうです。我が国の大仏も巨大なものは見えざる力を宿すものとして信仰の対象として尊重されたものですが、そもそも原始仏教では仏像は存在せず、釈迦も仏像には否定的でした。仏陀の死後500~600年後にガンダーラ地方(諸説あり)で作られるようになったもので、ギリシャ文明の影響と言われています。釈迦の思想は、仏像など信仰の対象は持たず、もっと哲学的なもので、現在の宗教とは異なるものでした。信仰というものは、何か目に見える対象が必要なのかもしれませんが、見えないから神秘性があるのかもしれません。電気は目に見えませんが、果たして信仰の対象になるのでしょうか。

スコタイの仏教遺跡は、戦争で破壊されてしまったアユタヤに比べて仏像やレリーフなどが残されていて見ごたえがあります(タイ)

2024-06-23 08:00:00 | 世界遺産
 タイの世界遺産に登録されている仏教遺跡は前回までに紹介したアユタヤともう一つスコタイがあります。アユタヤはビルマとの戦闘で破壊されて首の無い仏像が痛々しい状態でしたが、スコタイは建物などはかなり傷みが激しくて屋根はほとんど残っていませんが、多くの仏像が五体満足に残されています。今回と次回でスコタイ周辺の仏教遺跡を紹介します。

 
 アユタヤは、タイの首都のバンコクから列車でもバスでも1時間足らずという近距離でしたが、スコタイはチェンマイとバンコク都のちょうど中間あたり、空港はありますが国鉄の駅は70kmほど東のピッサヌローク二しかなく、タイを縦断する旅行の場合には、ちょっと不便な位置にあります。筆者はチェンマイに滞在の後にタイ国鉄の特急でピッサヌロークまで6時間ほどかけて移動し、駅前からGRABで75分ほどかけて歴史公園近くのホテルにたどり着きました。バンコクまではその逆で、ピッサヌロークまでGRABで移動して駅近くのホテルで半泊まりし、深夜に停車する夜行寝台でアユタヤに向かいました。

 スコタイ歴史公園は、東西1.8km、南北1.6kmの城壁に囲まれた城壁内を中心に東西南北に広がっていて、今回は城壁内を、次回は北部を紹介します。スコタイには、主要な遺跡だけで城壁内に35か所、外に90か所も発見されているとのことで、とてもすべてを回ることは不可能に近いものがあります。城壁内をぐるりと回るトラムもありますが、紹介するのは訪問した城壁内の5か所です。

 
 
 
 
 
 
 城壁内で最も大きく重要な遺跡がワット・マハタートで城壁のほぼ中央に位置します。200m四方で三方を濠に囲まれ200基を越える仏塔や10の礼拝堂など数多くの建造物と石仏が残っていて見ごたえがあります。特に目立つのは、屋根が無くなって基壇の上に柱だけになった堂の跡に首一つ飛び出した巨大な仏像です。また仏像だけでなく、基壇の周りには象やライオンらしき動物の彫像もあって、スコタイの他の遺跡では見られないものが見られました。

 
 
 
 マハタートの南南西にあるのがワット・シー・サワーイで、元はヒンドゥー教の寺院だったそうでクメール様式の3基の仏塔が目立ちます。

 
 
 
 サワーイの北、マハタートの西隣に周りを長方形の池に囲まれているのがワット・タラバン・ングンで、チューディーと呼ばれる仏塔が建ち、かつての礼拝堂は土台と柱だけが残されています。

 
 
 
 ングンの北のさらに大きな池の中の島にあるのがワット・スラ・シーで、こちらもチューディーと呼ばれる仏塔のほかに本堂礼拝堂が残ります。

 
 スラ・シーの東には、遺跡ではありませんが13世紀にスコタイの最盛期を築いたラームカムヘーン大王の像があり、大王のぞうのそばには王の業績をたたえるレリーフも作られています。

 
 
 
 最後のワット・トラバン・トーンは歴史公園の料金所の外で東にある正方形の池の小島にあります。わっと。タラバン・ングンとシンメトリーということですが気が付きませんでした。泊まったホテル(ゲストハウス)のすぐそばにあったのでチューディーに沈む夕日を見ることができました。

 ラームカムヘーン大王は、現在タイで使われているタイ文字の元となるスコタイ文字を作ったとされていいます。このタイ文字はお隣のラオスで使われているラーオ見路に似ていると思ったら、ラーオ文字もスコタイ文字を元に作られたのだそうです。これらの文字はアラビア文字風とも思われる独特の形をしていて、英語以外でもある程度は発音が類推できるアルファベットは違い、ハングルでも同様ですが全く発音すらわかりません。これらの国に行くと船酔い現象を起こしそうになりますが、スマホの翻訳機能が発達した今は、文字にかざして意味も発音も判るようになりました。世界中の文字の形がデータベース化されてるのでしょうが、考えてみると中国の漢字と同様に日本語のデータベースがデータベースの量が大きいものの一つかもしれません。

現役寺院のポピットには多くの参拝者を見かけ、スターラムの微笑をたたえた巨大な涅槃仏も、観光客であふれる遺跡群とは違った顔を見せています(タイ)

2024-05-26 08:00:00 | 世界遺産
 前回はアユタヤの歴史公園の東寄り、国鉄駅に近い部分を紹介しましたが、今回は西寄りにある遺跡を紹介します。

 
 
 
 
 歴史公園のほぼ中央に位置するのがワット・プラ・ラームで初代王の菩提を弔うために2代王により14世紀にj建造されたクメール様式の寺院です。アユタヤの中で最も大きな遺跡の一つで、巨大な塔堂と4つの仏塔が残っていますが、こちらも18世紀にビルマ軍に破壊されて廃墟状態です。

 
 ワット・プラ・ラームの西にあるのがウイハーン・プラ・モンコン・ポピットでラオスでよく見る三角形の屋根を持つ寺院です。17世紀の創建ですが、やはりビルマ軍に破壊され、20世紀に再建された現役の寺院で参拝者も多く見かけます。洞内には17mのブロンズ像を安置していますが、入堂し損ねました。

 
 
 ポピットの北隣にあるのが、ワット・プラ・シー・サンペットで、15世紀に創建され、北隣にあるアユタヤ王宮の守護寺院跡です。高さ16mで200kg近い黄金に覆われていたという塔が存在しましたが、ビルマ軍に跡形もなく破壊されてしまったそうです。現在残る3基の仏塔はスリランカ様式のチェディと呼ばれるもので、前部に着く階段で中段まで上ることができます。

 

 
 サンペットの西には南北に運河があって、対岸に渡るのに橋のあるところまで遠回りをさせられますが、渡った橋はレンガ造りのアーチ橋で、なかなか趣があります。運河の西は歴史公園から外れますが、全長28mの巨大な涅槃仏が横たわるワット・ロカヤ・スターラムがあります。周りには何もない草原の中に巨大物が忽然と現れびっくりします。バンコクにも金色に輝く巨大涅槃仏が横長の堂内に収まっていますが、アユタヤの涅槃仏は素朴そのもので静かに微笑んでいます。


 タイでは2体の涅槃像を見ることができましたが、わが国では仏像としての涅槃仏は岡寺や穴太寺などさほど多くなく、多くは絵として描かれたものです。涅槃の時に釈迦は北二真桑を置いて西を向いたそうです。この電灯でしょうか、人が亡くなった時には北枕で安置するようで、日常に北枕で眠るのは縁起が悪いと言われています。しかし、筆者は可能であれば通常は北枕で寝ています。諸説はありますが、地磁気の関係でよく眠れるとの説もあり、先日に会った方は、磁石が無くても自然に北が判るとおっしゃってました。地磁気に限らず人間がもともと持つ色々なセンサー機能は、スマホに頼ることで、どんどん失われていっているようにも思います。

戦争で破壊されたアユタヤ遺跡には首のない仏像が並んでいるかと思うと、首だけが木の根に挟まって観光客を集めていました(タイ)

2024-04-28 08:00:00 | 世界遺産
 前回は、フランスで新しく登録されたニームのメゾン・カレを紹介しました。訂正ローマ時代に建てられた宗教施設です。用途はいろいろと変わっていますが、破壊されずに現在まで引き継がれてきています。一方、タイにある6つの世界遺産のうち最初に登録された宗教施設のアユタヤと巣個体は、その後の戦争でかなりが破壊されてしまっています。今回から続く4回はこれら2か所の文化遺産について紹介します、今回は、アユタヤの遺跡のなかで東に位置する2か所の寺院を紹介します。

 
 
 アユタヤはタイ首都のバンコクから列車やバスで1じかんちょっと、列車は旧市街を取り囲む運河の外の駅に到着し、運河を渡る橋までが遠いので、ショートカットできる渡し舟が運行されています。乗船したときは朝早かったので通学と思われる学生が多く乗っていました。チャリ通でも電車通でもない船通なんですね。

 アユタヤの歴史公園は旧市街の西に運河に囲まれた東西に長い長方形の部分に集中しています。今回は、その中から旧市街に近い東の端に南北に並んであるワット・マハタートとワット・ラーチャ・プラナの二つの遺跡を紹介します。

 
 
 
 
 
 南に位置する寺院がワット・マハタートで、観光客も大勢やって来るアユタヤを代表するような遺跡です。13世紀に建てられた寺院ですが、誰だ建てたかは諸説あり謎の多い遺跡の一つです。仏舎利を収めて、かつては黄金に輝いていたと言われていますが、ビルマとの戦争によって徹底的に破壊され廃墟のような状態で、首を切り取られてしまった仏像が並んでいます。そうかと思うと、仏像の頭部だけが木の根に挟まって、撮影ポイントになっているのは皮肉です。おそらく、打ち捨てられていた頭部が木の成長とともに巻き込まれたのと思います。

 
 
 
 
 
 ワット・ラーチャ・プラナはワッタ・マハタートの北に隣接する寺院で、15世紀に王位継承の争いで亡くなった2人の兄を弔うために15世にに建てられました。ビルマとの戦争で被害を受けていますが、近年の発掘調査で塔の地下からは破壊を免れた壁画や仏像など宝飾品が数多く発見され博物館に収容されています。

 
 
 
 どちらの遺跡も、日没後にライトアップされ、昼間の猛暑も多少和らいで、昼間とは違った幻想的な姿が楽しめます。境内は18時には閉門されるようですが、寺院寺を取り囲む兵の向こうに仏塔などが望めます。

 戦争になった時には、敵国で崇拝されている宗教施設を破壊するというのが通リになっているようです。アユタヤの寺院群ががビルマなどによって徹底敵に破壊されたのもその例でしょうあ。破壊することによって、戦争に負けたことを思い知らせる効果があるのかもしれません。我が国の最近のスマホの使い方を見ていると、スマホ依存症の病気を越えて一種の宗教の要にも思えてきます。戦争にでもなったら、真っ先にスマホのシステムの破壊のために攻撃があるかもしれません。他だ。これによって依存症の人は救われて、戦争は起こらなくても、破壊があってもいいかとも思えます。

世界遺産に登録されたのは古代ローマ建築のメゾン・カレのみですが、ニームには古代ローマの遺跡がたくさん残っています(フランス)

2024-03-31 08:00:00 | 世界遺産
 昨年と一昨年に新規登録された世界遺産の3回目です。今回は、フランス南部のニームにあるメゾン・カレという建築物です。以前このブログの世界の町並みでニームの町を紹介した時に、その一部を紹介しましたが、今回はめぞん・かれを中心に紹介します。

 ニームは、フランスの南部の人口13万程度のこじんまりとした都市ですが、今回登録の世界遺産のほかに東の郊外には水道橋のポン・デュ・ガールや、もう少し東にはオランジュのローマ劇場、アルルのローマ遺跡それにアヴィヨンの歴史地区と世界遺産が集中しているところです。メゾン・カレをはじめとして、時代は違ってもすべてがローマ帝国の影響を受けた遺跡で、改めてローマの版図の広さを実感させます。


 
 ニームにはメゾン・カレ以外にも世界遺産の対象外なのですがローマ遺跡が残っていて、大きなものは円形闘技場で、現役の劇場として手を加えられていて対象ではないのでしょうか。フォンテーヌ公園には、ローマの神殿跡が、そして背後の山にはやはりローマ時代のマーニュの塔が残っています。

 
 
 
 さて、メゾン・カレですが、紀元前後にアグリッパによって再建されたローマ神殿です。アグリッパと聞くと、木炭画の素描でアグリッパの石膏彫刻を見つめた方もいらっしゃるかもしれません。神殿は4世紀にキリスト教会に転用され会議場に使用されたり、フランス革命後は政府の馬小屋にもなったそうです。さらに、政府の公文書保庫を経て19世紀以降は美術館として利用されています。用途は転々と変わったのですが、ヴィトルウィウス的古典建築の形態を最もよく残した建築物として世界遺産登録となったようです。このような端正な形状は、ギリシャ建築の影響で、コリント模様の柱頭や真珠模様、唐草模様、バラ模様など多彩です。この建物は、18世紀にパリに建てられたマドレーヌ寺院に大きな影響を与えたそうです。どおりで、メゾン・カレを見たときに、「どこかで見たことがあるぞ」と思ったのは、マドレーヌを思い出したのでしょう。、

 高校の部活で素描に使ったのはアグリッパよりもミロのビーナスやブルータスが多かったように思います。先輩から、木炭用紙をいったん灰色に汚してから描くようにとも言われました。ハイライトをパンを使って炭を消すことで、鮮やかな白が浮き立つからだったようです。使う木炭は決まって柳の枝を焼いたもので、ポプラの枝の物はちょっと敬遠されていました。この木炭は炭素原子がランダムに集まったものですが、これが規則正しく集まって結晶になるとダイヤモンドになるわけですが、足の多い4価の原子はいろんな形をとります。しかし同じ4価の原子で、地球表面上で酸素の次に多い元素のケイ素は炭素のようにいろいろな形はとらないようです。しかし、炭素のようにダイヤモンド構造の結晶を作り、こちらは宝石ではなく半導体基板としてITを支えています。

ジョグジャカルタには現在も王宮があってスルタンが特別州の統治権を持っています(インドネシア)

2024-03-03 08:00:00 | 世界遺産
 2回まとめての世界遺産会議での新規登録遺産の2回目はインドネシアのジョグジャカルタです。登録名は「ジョグジャカルタの宇宙論的枢軸とその歴史的建造物群」と言います。ジョグジャカルタはドネシアの朱ともあるジャワ島の南東部にある大都市で現在もスルタンが暮らす王宮がある特別市です。序ぐじゃらるたの北には仏教遺跡のボルブドゥールが、東にはヒンドゥー教の遺跡のオウランバナンがあり、3つの世界遺産が集中する観光都市になったわけです。ジョグジャカルタは古くからヒンドゥー教に基づく都市づくりが行われ、北をメラピ山に、東西を川に、南をインド洋に囲まれた肥沃な土地がヒンドゥーの宇宙観に沿うものとして王都として選ばれたそうです。今回は、ジョグジャカルタの王宮周辺を中心に紹介します。

 
 
 
 
 旧市街の中心部にある王宮は現在もスルタン一族の居住地になっていますが、観光客にその一部が公開されて、王宮の歴史などを展示する博物館の役割もはたしています。現在の建物の基礎は18世紀に作られ植民地支配を経て現在もかつてのスルタンの家臣の末裔がボランティアで警備の役割をになっているのだそうです。公開されている部分は一部と言われるのですが、なかなか豪華で権力の大きさをうかがえます。

 
 これらの建物の中の天井の高い吹き抜けのホールでガムラン音楽の演奏が楽しめます。打楽器が中心のガムラン音楽は、通常は聞こえない20kHz以上の高周波を含み、これらの音は耳にも聞こえなくても、人間の情緒を安定させる効果があるのだそうです。ガムラン音楽のCDも作られていますが、ディジタルの泣き所で人間に聞こえないとされる高周波はカットされて記録できません。したがって、CDの再生音を聞いても情緒は安定しそうにありません。

 
 現在の王宮から西に1km程行ったところにあるのが水の宮殿と呼ばれる施設で、王宮と同時代に離宮として作られたようです。離宮としてだけでなく、要塞の役割も持っていたそうで、5kmにも伸びる地下トンネルがスルタンのシェルターとして機能したそうです。19世紀の地震で壊滅的なダメージを受けた後は、長く放置されてきましたが、水浴用のプールなどを中心に1970年から修復がすすんでいます。

 
 
 
 一方、王宮の北側にはワヤン・クリの常設劇場があって、無形文化遺産に登録されている人形劇が鑑賞できます。ワヤン・クリというのは、スクリーンの裏で縁起をする人形の影を鑑賞するもので、劇の内容は英雄譚が多いようです。通常は一人の演者が複数の人形を操作し歌やせりふまで担当します。加えてガムランの走者が何人かいて伴奏を務めています。観客は普通は影が映る方向から鑑賞するのですが、スクリーンの裏側にも自由に移動でき、カラフルに塗られた人形の動きを見ることもできます。不思議なのは通常は影を見るだけなのに、こんなにカラフルに人形を彩るのでしょうか。

 
 ジョグジャカルタに滞在中に町中を、いろいろな民族衣装を身に着けた人たちが更新するシーンに遭遇しました。帰国後にいろいろと調べてみたのですが、どのような背景があるのかは判らずじまいでしたが、多民族国家のインドネシアを垣間見たように思えました。

 通常のCDは音のアナログ信号を1秒間に4万8千回切り取って、2進数に置きなおして記録しています。2進数の記録や通信は0か1かが識別できればいいので、連続料のアナログ情報に比べて、情報が壊れることはほとんどありません。したがって、遠い宇宙から送っても、鮮明な画像が容易に得られる利点があります。現在はディジタル全盛のようですが、これは一定の品質で諦めたら、高品質が得られるという、方便の技術なんです。アナログ量の数値化のためには、必ず量子化といった、省略過程を伴います。CDでは理論的に24kHz以上の音(実際は20kHz)は再生できません。人間の耳は20kHzまでしか聞こえないと言われていますが、耳以外の感覚器官で、20kHz以上の音を感じているともいわれ、もっと高い音を耳で聞き分けられる人もいます。ディジタル技術は、これらを切り捨てることで、最大公約数的ないい音を作っているのです。

新規登録の世界遺産の遺跡などは見損ねましたが、ジェルバ島は手ごろな費用でのんびり豪華に過ごせるリゾートです(チュニジア)

2024-02-04 08:00:00 | 世界遺産
 2022年度の世界遺産会議はロシアで開催予定でしたが、ウクライナ紛争で中止となりました。このためにサウジアラビアで2年分をまとめた会議が開催され、いつもより多くの世界遺産が新規に登録されました。これら新規登録の中から3か所ほどを取り上げて紹介しますが、今回のジェルバ島は、かなり広い島で、実は今回指定されたエリアには行けていないので、ジェルバ島の紹介になってしまいました。

 
 
 ジェルバ島はアフリカ北部のチュニジアの南部、ガベス湾の中にある北アフリカ最大の島で、面積は514㎢、屋久島よりやや広いくらいです。島とアフリカ大陸との間は狭いところでは7kmほどしかなく、南東部には橋がかけられていると言われていますが、かなりの部分は堰堤状でその上に2車線の道路が引かれています。筆者は、チュニジア南部の城壁都市であるスファックスから長距離バスでジェルバ島に行きましたが、バスはこの堰堤場を延々と走りました。バスの終着点と空港は島の北西部で、世界遺産に登録されているエリアは、空港のやや南側です。一方、筆者が訪れたのは島の北東部でホテルが集中する場所です。

 ジェルバ島の登録名称は「島嶼域での入植様式を伝える文化的景観」となっていて、古代から中世の地中海世界世界において、乾燥の激しい厳しい気候風土の脆弱な土地に人が住み定住する代表的な例ということのようです。世界最古のシナゴーグをはじめ、フェニキヤやローマの昔から多くの民族が残した遺跡が点在するようです。これらの遺跡を訪問しておけばよかったのですが、ホテル周辺でのんびりしてしまいました。

 

 
 

 島の北東部の海岸は、ホテルが林立するリゾートで、バスの起点で会ったスファックスや首都のチュニスとは、目に入ってくる景色が全く違います。おそらく、どこにでもあるリゾート言ってよいのではないかと思いますが、ヨーロッパから飛行機で2時間ほどの距離にあって、南仏などのリゾートより滞在費が安いというメリットのために、地中海を越えて多数の観光客がやってきます。このため、どのホテルも設備やサービスが整っている割に滞在費が安くて、ヨーロッパからの観光客は長期滞在をしているのではないでしょうか。

 ジェルバ島の前に泊まったスファックスで息子からファクスを受け取ったのですが、スファックスでファクスなんて、まるで冗談みたいな出来事でした。ネットが普及しない前には、海外のホテルの予約では、もっぱらファクスを使っていましたが、返事を送ってもらう時間を指定しても、日本時間の深夜にヒンジが来て閉口したものでした。このファクスは、以外にも健在で、固定電話はファクスのために残している人も多いようです。文字の種類が多い日本では、文字種の少ないアルファベット文化圏と違ってテレタイプが普及せず、文字を画像として送るファクスが発達し、技術的にも普及度にしても世界一だったようです。ただ、迷惑電話ならぬメイワクファクスの多さに悩まされます。

シンガポール植物園は、人工物の多いシンガポールで珍しく自然豊かかなオアシスです(シンガポール)

2024-01-07 08:00:00 | 世界遺産
 マレーシアの第2の都市のコタキナバルからさほど遠くない場所で世界最大の花と言われるラフレシアの花が咲いているのが見られました。東京の熱帯植物園には、世界最大の花ということで模型が置かれていましたが、実物が意外と簡単に見れました。植物園は環境の異なる植物を含めて、その国では自然では見られない植物まで見れれることが多く、その典型がイギリスのキューガーデンです。イギリスの植民地政策の生家の一つで、世界中の植民地から集めまくった植物が植えられています。そのイギリスの植民地の一つであったシンガポールにも世界遺産の植物園があります、シンガポールで唯一の世界遺産ですが、今回は駆け足で回った植物園の北半分を紹介します。

 
 
 シンガポール植物園は、トランジットで空いた時間で駆け足で訪れた場所で、本当は全体を見てみたかったのですが、MRTの駅に近い北入口の近くを駆け足で回るだけでした。シンガポールには有名な植物園が2つあって、一つは世界遺産のシンガポール植物園で、他方はMRTのベイ・フロント駅近くのガーデンズ・バイ・ザ・ベイです。ガーデンズ・オブ・ザ・ベイは2012年にできた人口の造作物が気になる植物園で、いかにも力づくで作られた今次のする植物園で行ってません。今回紹介の植物園は、150年以上の歴史を持ち、ラッフルズが植物研究のために作ったといわれるもので、元は自然の森であったところです。面積は82ヘクタールで新宿御苑や東京ディズニーランドの1.6倍ほどですから、全部回ると最低でも3時間はかかると言われています。それを1時間ほどで回ったので、ほんの片隅を撫でた程度で、興味がわいた方は、ぜひ3時間以上をかけてゆっくりと訪問されることをお勧めします。

 
 
 
 
 
 筆者が入園したのはMRTのBotanicGardens駅からすぐのBukit Timah gateで、植物園の北端に近いところです。定評のある、園内なあるラン園からは遠くて、入園したゲートの近くをのんびりと散歩するということになります。植物園と言っても、植生は整理されているようですが、押しつけがましい説明パネルなどはあまりありません。ラン園を除いては入園が無料なので、市民の憩いの場になっているようです。子供たち向けのエリアもあるようでが、もちろん絶叫マシンがあるわけではなさそうです。散策路や池があって、それぞれに向いた植生が施されているように思います。ときおり、木立の上に近代ビルが顔を出して、都会の中の植物絵であることを思い起こします。

 シンガポールは、都市の中に緑があるのではなく、緑の中に都市があるのだと、観光立国を歌っていますが、旅行者には都合の良い国とは言い難い場面に遭遇します。空港にはコインロッカーが無く、空港から市内にアクセスするMRTは、現金では乗れず、乗車料金を払うカードも自国発行のカード以外は制約が多くて不便です。入国に際しても、入国カードは電子申請のみで、例外は認めていません。世界一の空港と吹聴されていますが、広すぎて土地勘のない旅行者にはきわめて不便です。コンピュータの画面上に浮いた幻の国のような感じを受けます。