かつては海のシルクロードの中継港として反映し、海が浅くなって衰退したおかげで、古い町並みが残り、船ならぬ観光客が押し寄せたのがホイアンでした。シルクロードは、海のシルクロードに加えて、陸路として南北に2本があり、南のシルクロードは中国の西安を通って中央アジアの南を通りヨーロッパに延びていました。今回からしばらくは、このシルクロードの中k理知として繁栄したウズベキスタンの世界遺産の都市を世界遺産の登録年代順(偶然にも西から順番)に紹介していきます。


まず最初は、今回から3回連続で最も西のヒヴァ(イチャンカラ)から紹介しましょう。イチャンカラというのは内城という意味で、世界遺産の町並みが残る城壁内の町で、イチャンカラを含む都市がヒヴァになります。ウズベキスタンの首都のタシケントの日1,000kmほどに位置していますが、空港は無く40~50km北にあるウルゲンチに飛行機で飛んだ後に地上移動となります。1,000kmというと東京から鹿児島くらいの距離で、飛行機でも1.5~2時間ほどかかります。ウズベキスタンの面積は日本の1.2倍なので国内移動も思いのほか時間がかかります。おまけに、便数も一日に2~3便程ですから観光需要が大きい割には観光客が少ないのは、移動の足が貧弱だからです。往路は飛行機でしたが、戻りはと地位の都市に立ち寄るので列車で、ブハラまで、およそ6時間かけて移動です。この列車も一日に2本ほどで、予約は困難を極めます。



筆者は、夜の遅い便でウルゲンチに到着し、車でイチャンカラに着いたのは午後11時頃でした。ホテルは城壁の中に位置していて、闇夜の中にイチャンカラを代表するようなキャルタ・ミナレットが浮かびあげっています。城壁に囲まれたイチャンカラは東西300m、南北600mほどのエリアで、上野公園位の広さのところに歴史的な建物がぎっしりと詰まっています。狭いエリアなので歩いても半日くらいで廻れてしまうのですが、盛りだくさんなので頭の整理が追いつかないくらいです。

今回は、ホテルの近くのオタ・ヴァルダサ門からムハンマド・アミン・ハン・メドレセとキャルタ・ミナレットまでを紹介します。オタ・ヴァルダサ門は城壁に4つある門のうち西門に当たるもので、散歩を初めてのが朝だったので、門の写真はもろに逆光です。門の、北側には町を囲む城壁が北門まで続き、南側50mほどは上部が失われているようですが、その先には南門まで城壁が続いています。外敵が陸続きで攻めてくる恐れのある都市の転形のようで、中国でよく見られるような都市の形です。


門を入って右手にあるのがハンマド・アミン・ハン・メドレセで、メドレセとは神学校のことで、全寮制で、神様のことだけでなくあらゆることを勉強する、いわば大学のようなものだそうです。ウズベキスタンのメドレセとモスクで共通する建築様式は正面入り口に巨大な長方形のファサードがあって、その中央に釣鐘を半分にしたような形のくぼみがあります。くぼみの前部が入口かというと僧ではなく、出入口はくぼみの株に小さな木戸が作られているだけです。ファサード面やくぼみは、青色を基調とした青色のタイルで飾られていることが多く、ウズベキスタンが青色の都と言われる所以です。この青色が、空の抜けるような青と共演をして、ウズベキスタンの魅力を増幅しています。現在は、ホテルに改造されていますが、中庭を含む施設は見学ができます。ウズベキスタンのオーバーツーリズムは移動の足だけでなくホテルも不足しているようで、全寮制の神学校は小部屋が多くホテルに好都合のようです。


このメドレセのそばに建つのがキャルタ・ミナレットで、ずんぐりとした形のミナレットです。このミナレットも青のタイルで装飾が施され、このミナレットよりも高いミナレットよりも目立つ存在です。ずんぐりしているのには理由があって、現在の高さは26mですが計画では70~80mの当時は世界で最も高いミナレットを建てる計画で、基部はそれに見合う太さになっています。工事を指示した権力者が死亡して工事が中dンしてしまったようです。計画通りのミナレットができていれば壮大であったでしょうが、現在のずんぐりの形もそれなりにかわいらしい塔です。

メドレセ近くの露店で毛皮の帽子が売られていました。当然冬の寒さを防ぐための物だと思ったら、夏の暑さも防いでくれるそうです。この帽子は、名前をチュグルマといって、各家庭のアイデンティティとして親から子へ代々受け継がれて来た性格のものだそうです。そんなに大切なものを、道端で打ってもいいのかとも思いますが、筆者が訪問したのは6月上旬でしたが気温は37~38度もあったので、これをかぶれば脳が暑さでやられるのを防いでくれそうです。熱に弱いパソコンやスマホの電脳が壊れるのも防いでくれるでしょうかね。




まず最初は、今回から3回連続で最も西のヒヴァ(イチャンカラ)から紹介しましょう。イチャンカラというのは内城という意味で、世界遺産の町並みが残る城壁内の町で、イチャンカラを含む都市がヒヴァになります。ウズベキスタンの首都のタシケントの日1,000kmほどに位置していますが、空港は無く40~50km北にあるウルゲンチに飛行機で飛んだ後に地上移動となります。1,000kmというと東京から鹿児島くらいの距離で、飛行機でも1.5~2時間ほどかかります。ウズベキスタンの面積は日本の1.2倍なので国内移動も思いのほか時間がかかります。おまけに、便数も一日に2~3便程ですから観光需要が大きい割には観光客が少ないのは、移動の足が貧弱だからです。往路は飛行機でしたが、戻りはと地位の都市に立ち寄るので列車で、ブハラまで、およそ6時間かけて移動です。この列車も一日に2本ほどで、予約は困難を極めます。






筆者は、夜の遅い便でウルゲンチに到着し、車でイチャンカラに着いたのは午後11時頃でした。ホテルは城壁の中に位置していて、闇夜の中にイチャンカラを代表するようなキャルタ・ミナレットが浮かびあげっています。城壁に囲まれたイチャンカラは東西300m、南北600mほどのエリアで、上野公園位の広さのところに歴史的な建物がぎっしりと詰まっています。狭いエリアなので歩いても半日くらいで廻れてしまうのですが、盛りだくさんなので頭の整理が追いつかないくらいです。


今回は、ホテルの近くのオタ・ヴァルダサ門からムハンマド・アミン・ハン・メドレセとキャルタ・ミナレットまでを紹介します。オタ・ヴァルダサ門は城壁に4つある門のうち西門に当たるもので、散歩を初めてのが朝だったので、門の写真はもろに逆光です。門の、北側には町を囲む城壁が北門まで続き、南側50mほどは上部が失われているようですが、その先には南門まで城壁が続いています。外敵が陸続きで攻めてくる恐れのある都市の転形のようで、中国でよく見られるような都市の形です。




門を入って右手にあるのがハンマド・アミン・ハン・メドレセで、メドレセとは神学校のことで、全寮制で、神様のことだけでなくあらゆることを勉強する、いわば大学のようなものだそうです。ウズベキスタンのメドレセとモスクで共通する建築様式は正面入り口に巨大な長方形のファサードがあって、その中央に釣鐘を半分にしたような形のくぼみがあります。くぼみの前部が入口かというと僧ではなく、出入口はくぼみの株に小さな木戸が作られているだけです。ファサード面やくぼみは、青色を基調とした青色のタイルで飾られていることが多く、ウズベキスタンが青色の都と言われる所以です。この青色が、空の抜けるような青と共演をして、ウズベキスタンの魅力を増幅しています。現在は、ホテルに改造されていますが、中庭を含む施設は見学ができます。ウズベキスタンのオーバーツーリズムは移動の足だけでなくホテルも不足しているようで、全寮制の神学校は小部屋が多くホテルに好都合のようです。




このメドレセのそばに建つのがキャルタ・ミナレットで、ずんぐりとした形のミナレットです。このミナレットも青のタイルで装飾が施され、このミナレットよりも高いミナレットよりも目立つ存在です。ずんぐりしているのには理由があって、現在の高さは26mですが計画では70~80mの当時は世界で最も高いミナレットを建てる計画で、基部はそれに見合う太さになっています。工事を指示した権力者が死亡して工事が中dンしてしまったようです。計画通りのミナレットができていれば壮大であったでしょうが、現在のずんぐりの形もそれなりにかわいらしい塔です。


メドレセ近くの露店で毛皮の帽子が売られていました。当然冬の寒さを防ぐための物だと思ったら、夏の暑さも防いでくれるそうです。この帽子は、名前をチュグルマといって、各家庭のアイデンティティとして親から子へ代々受け継がれて来た性格のものだそうです。そんなに大切なものを、道端で打ってもいいのかとも思いますが、筆者が訪問したのは6月上旬でしたが気温は37~38度もあったので、これをかぶれば脳が暑さでやられるのを防いでくれそうです。熱に弱いパソコンやスマホの電脳が壊れるのも防いでくれるでしょうかね。