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世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

日が沈んでランタンの灯りに浮かび上がるホイアン町には昼間よりも多いのではと思う人が繰り出します(ベトナム)

2025-07-27 08:00:00 | 世界遺産
 ホイアンの紹介が続きましたが、今回は3回目で夕刻からのホイアンを紹介します。

 
 
 ホイアンでは満月の夜にはランタン祭りがあって、ナイトマーケットを中心にランタンだらけになるそうですが、お祭りの日でなくても、夕刻から町中のランタンに灯がともります。故郷の神戸の南京町でもランタン祭りがあって、中華街のランタンに一斉に灯が入りますが、南京町でもランタン祭り以外の日にもランタンを目にします。ただ、最近はメリハリをつけるためか、お祭りの日以外のランタンは少なくなったようです。

 
 
 
 
 
 
 
 話を戻して、ホイアンのランタンですが、ベトナムでは日中は暑いので夕涼みを兼ねて、ランタンの灯る町中に人波が押し寄せます、ほんと押し寄せるといった感じで、日中よりも多いのではないかと思うくらい。団体と思しき一行も、旗を持ったガイドさんに連れられ通りいっぱいになって、ぞろぞろと歩いています。土産物屋は稼ぎ時なのでしょう、開店していますが、前回紹介したような古民家などの内部の見学は5時ころまでなのでできません。

 ランタンに限らず多くの観光地でライトアップが日常的になりました。光源がLEDになったおかげで、電気代もかからず、色合いも自由に選部ことが可能になったからではないでしょうか。1回目のホイアン訪問では、泊まったホテルが旧市街からちょっと距離があって、おまけにクリスマスイブの日だったので、ホテルでショーなどをやってくれ、夜に出かけ損ね、ランタンに町並みは見損ねました。代わりにステージを彩るスポットライトでしたが、その頃の光源は白熱灯かキセノンだったのでしょうか。

ホイアンの古民家はどこも同じような作りですが、日本の京都の古民家を思わせ、どこかで文化がつながっている感じです(ベトナム)

2025-07-06 08:00:00 | 世界遺産
 古都ホイアンの2回目です。前回は町並みの様子を紹介しましたが、今回は公開されている施設をいくつか紹介します。ホイアンでは、古民家などの内部を見学するには5枚綴りの入場券を購入する必要があります。入場券が必要な施設は20か所ほどあるので、ゆっくり滞在する場合は1組では足らず、筆者は2組を購入しました。

 ホイアンの古民家は似たような作りで、10か所も見るとどうもどこがどこだか?記憶がはっきりせず、写真の整理をしても、時系列的なことしかわからず、施設名が曖昧模糊になってしまいます。それで、印象に残ってはっきりした施設を紹介し、残りは時系列的に写真を紹介することにします。

 
 
 
 最初に博物館に寄ってから、事前学習をして町並み散歩といった手順なのですが、ホイアンにあるサーフィン博物館のテーマは、ホイアンの全体像をつかむためではありませんでした。サーフインとは波乗りではなく、ベトナム中南部に存在した青銅器文化で、展示はサーフイン文化の遺跡発掘で発見された生活用具やアクセサリー、それに埋葬要の甕棺などが中心です。ただ、それらの中に、朱印船の模型や中国の獅子舞の獅子頭などもありました。

 
 もう一つは、ホイアン伝統芸術パフォーマンスセンターで、訪問した時は入場券は不要でした。ただ、世界劇場で人気があるので、早く入らないと札止めになります。一日に数回ベトナム各地の少数民族の音楽、舞踏などが20分ほどクリ広がれます。傾斜のきつい観覧席で広くないので、どこに座ってもよく見られ、これが無料では人気も出ます。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 これから先は、訪問した古民家などの時系列の写真です。ホイアンの古民家で共通するのは、京都のような間口が狭く奥行きの長いウナギの寝床状で、中央当てりに壺庭があってひかりを取り込んでいます。ホイアンでは、雨期に氾濫することが多いために、多くの商家では2階の床に穴が開いていて、いざとなるとこの穴から商品などを2階に引き上げて避難できるようになっています。中国文化の影響と港町であることから、海の守り神の媽祖も祀られていたようです。

 朱印船は江戸時代に瀑布の発行した朱印状を携えて貿易を行った船で、日本での港は長崎に限定されていました。行先は台湾、フィリピン、ベトナム、カンボジア、タイ、マレーシアなど広く東南アジア諸国で、ベトナムだけでもハノイ、ホイアンそれにチャンパ王国だったそうです。ただ、朱印状って偽造できなかったんでしょうか、中国や日本はハンコ文化ですが、今では、陰影があれば3次元プリンタで簡単に偽造できてしまいます。当時は、偽物を比較して判別するための本物が簡単には手に入らなかったのでは。現在に朱印状を作るとすれば、公開暗号を使った電子サインというというところでしょうが、、これとて現用のコンピュータの能力では短時間に解析できないというだけで、論理的に解読不能というわけではありませんから、偽造朱印状が出回る可能性は零ではなさそうです。

17年前に比べて少々俗化と、観光客の多さが気になるホイアンですが、町並みのしっとり感はまだまだ衰えないようです(ベトナム)

2025-06-08 08:00:00 | 世界遺産
 ベトナム戦争で文化を理解できないアメリカから徹底的に破壊されてしまったチャンパ遺跡がミーソン聖域でした。このミーソンはアルファベット表記をすると My Son 私の息子 です。17年前にホイアンからワゴン車でミーソン聖域に行った時には、道路の表示に「私の息子!」と書かれてあって、はて?なぜ私の息子なんだろう?と思った記憶がありました。2回目のミーソンもホイアンの街から往復しましたが、今回から3回に分けて、そのホイアンを紹介します。最初の回は、古い町並みが続くホイアンの町の様子を中心に紹介します。

 
  
 ホイアンは、ダナンの南30kmほど、車で1時間ほど行った所にある古都で、ホアイ川の河口近くの町です。かつては、安南焼などの陶器などの積出港として栄え、多くの日本人も住んでいたそうで、その名残が日本橋(来遠橋)という名前の橋です。しかし、川が運んできた土砂で、港が浅くなり、大型船が入ってこれなくなりさびれてしまいましたが、そのおかげで町が冷凍保存されて、古い町並みが残って世界遺産になりました。

 
 
 
 
 
 
 古い町並みは、ホアイ川と平行に東西に延びていて、チャンフー通りを中心に、南北にそれぞれ1本ずつの東西の通り、計3本に挟まれた地域に古い建物が集中しています。観光客が集中する部分は車の乗り入れが規制され、歩きたくない人はリン宅に乗って移動をしているようです。ただ、狭い道路にリン宅がひしめいて走るので、あまり感じはよくありません。面白いのは、リン宅に警笛が無いので、運転手さんが口でベルの音をまねて車の接近を知らせていました。

 
 
(17年前の風景)
 
(現在の同じ場所など)
 今回訪問して、17年前の状態と比較して驚いたというか、ちょっとがっかりだったのが観光客の多さでした。前の沖は、大リオ歩く観光客はまばらで、土地っ子がほとんどだったように思いますが、現在の姿は銀座通り並みの混雑です。時間帯によっては、入城した古民家に観光客があふれて、押し合いへし合いです。具言う全に同じ場所で撮った写真を見ると、かつては人通りもまばらな通りに、人が増え、にぎやかな装飾が増えています。このまま俗歌が進むと機器遺産になってしまうのではと心配になります。

 
 ホイアンの名物料理にホワイトローズというのがあります。中華料理の海老雲吞の一種なのですが、ホイアンで食べると格別においしいと言われています。これは、ホイアンの井戸の水に含まれる不純物が味に微妙に影響をして美味しくしているためと言われています。これとは逆に、紅茶や緑茶を持って行ってヨーロッパなど硬水の国に行って飲んだお茶のまずかったこと。紅茶の国のイギリスでは、その土地の水の硬度に合わせた紅茶の葉が売られているそうです。お酒などの醸造や料理に使われる水によって味が変わるのはよく知られていますが、どのように使いこなすかは料理のプロの腕前です。それらのノウハウの伝承が難しくなった時にはAIの出番なのでしょうか。

ベトナム戦争末期に米軍の暴力で破壊されてしまったミーソン聖域ですが、残された遺蹟からでも当時の繁栄を垣間見ることができます(ベトナム)

2025-05-11 08:00:00 | 世界遺産
 京都や奈良の世界遺産は仏教文化が中心でしたが、仏教の創始者の釈迦が生まれた頃のインドではヒンドゥー教が中心の宗教でした。その後のインドでは、仏教は忘れ去られ、そこから伝わった東アジアやトウナンアジアで佐南になりました。一方、ヒンドゥー教の方は、インドだけでなく東南アジアで大きな影響量を残し、アンコールわったなど有名な世界遺産を残しています。今回は、これらのヒンドゥー教遺跡の中で、あまり知られていないミーソン聖域を書愉快します。

 
 ミーソン聖域はベトナム中部、古都の風情があるホイアンから内陸に1時間ほど走ったところにあります。ベトナム中南部で1世紀から19世紀まで栄えたチャンパ王国が7世紀から13世紀に築いたヒンドゥー教の遺蹟がミーソン聖域ですが1969年まで続いたベトナム戦争で米軍の攻撃でほとんどが破壊されてしまっています。建物だけでなく、遺蹟にあった彫刻なども、フランスの植民地であった頃に盗掘にあって、あまり残されていないようです。何とか残された彫刻の一部は、ダナン市内にある彫刻博物館で見られます。ベトナムを始め東南アジアの諸国は、白人たちからさんざんな目に遭ったことになります。

 
 
2025年         2007年
 遺蹟は比較的比較的足の便の良いホイアンやダナンから1時間以上もかかるため、個人旅行で行く時にはアクセスに困ります。筆者は、ミーソンを2回訪問していますが、1回目はパッケージだったので、車で連れて行ってもらいました。2回目は個人旅行だったので、ホイアンから足だけを提供してくれるパッケージを予約し、現地で3時間ほど自由に見て回ることができました。1回目は17年以上も前でしたが、その間の観光客の増加には驚きました。1回目は小雨模様のせいもあったかもしれませんが、人っ子一人見かけませんでしたが、2回目は天気も良く観光客だらけで、マナーの悪いアジアの某国の団体客にうんざりでした。

 
 入場料を払ってゲートを通り、少し行くとカート乗り場があって分散している遺蹟の中の一番手前のところまで運んでくれます。遺跡にはグループA~Hまでのグループ名がつけられていて、グループ間は隣接しているのもあれば、少しの道を歩くところもあります。遺蹟は煉瓦を積み上げて作られ、煉瓦をsっ着するためのセメント状のものは使われていなかったそうです。征子に積み上げられた日本の石垣を思わせる高等技術ですが、おそらく接着していないことが裏目に出たのか、アメリカの爆撃で、ほとんどの塔は原型をとどめていません。歴史が浅くて文化のない国が、時刻とは関係のないところに攻め入って高度な文化を破棄するのは怪しからん話です。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 塔の上部は破壊されて痛々しいのですが、被弾部分は金井保存性が高く、人間や動植物の彫刻や紋章のような彫刻が残されてます。ただ、年月とともに風化されて、凹凸が小さくなっているものが多いのが残念ですが。一部の堂の中には、残されてた聴覚なども展示されていて、塔などの建物以外も見て楽しむことができます。

 
 以前に訪問した時に無くて、今回はあったのがダンスショーで、公開されている時間よりも多くの回数が上演されていたようです。おそらく、観光客が多くて、少ない公演回数ではさばききれないためでしょう。チャムの伝統舞踊で、頭上に壺や冠を載せて踊るものなど、15分くらいだったでしょうかなかなか見ごたえがありますが、ここでも某国観客のマナーの悪さで、立ち上がって後方の観客の視界をさえぎることを平気な輩に邪魔をされます。

 ヒンドゥー教では、あらゆる物に神が宿ると言われ、日本の多神教と似たところがあります。神の存在を規定せず、執着心を捨てることを教えとする哲学の仏教とは相容れないところがあったようです。仏像は後世の偶像崇拝の影響によって生まれたものですが、そのおかげで多くの美しい仏像彫刻を見ることができるようになりました。一方、ヒンドゥー教では、ありとあらゆる物が神像として作られるので、ヒンドゥー寺院では仏像の範囲をはるかに超えたモティーフの彫刻を目にすることができます。あらゆるものに神が宿るヒンドゥーでは、コンピュータ特に、はやりのAIにも神が宿るのかもしれません、さてどのような神像になるのでしょうか。

古都京都の文化時に指定されているのは17か所もあって、奈良と違って物量で迫ったという感じもします(日本)

2025-04-13 08:00:00 | 世界遺産
 世界遺産の奈良を紹介した次には京都でしょう、ということで、「古都京都の文化財」をざっと紹介します。全部で17か所もあるので、筆者の感想を述べる程度かもしれません。また、登録されたすべての神社仏閣を訪問していますが、学生の頃に行った場所などは、アナログの写真で、かつ行方不明のものもあるので、それらは写真抜きになりました。

 
賀茂別雷神社
 いわゆる上賀茂神社です。神社内を流れた「ならの小川」が、神社外に出て明神川と名前を変えますが、この川沿いにある社家町(しゃけまち)の散策がお勧めです。社家町とは神社の神職の家屋が集まる町並みです。

 
賀茂御祖神社
 いわゆる下鴨神社です。近くに旧三井家下賀茂別邸があって、こちらのお庭と家屋もお勧めです。

 
教王護国寺
 いわゆる東寺です。京都で最も高い五重塔で有名で、新幹線の車窓から東寺の塔が見えると関西に帰って来たと実感するそうです。講堂内の立体曼陀羅の諸仏は密教彫刻の宝庫です。

 
清水寺
 良くも悪くも京都を代表するような、社寺入門者向け、修学旅行ご用達のお寺ですが、舞台づくりの本堂はさすがの圧巻です。
 
 
延暦寺
 高野山とと並ぶ鎌倉期以降の仏教の源となるお寺です。ただ、修行道場という性格のほかに、政治色もするお寺で、京都御所の鬼門をふさぐ役割を果たしていたようです。ちなみに、江戸城の鬼門封じは寛永寺で、東の延暦寺という意味合いから東叡山と称しました。

醍醐寺
 醍醐の花見で有名で、現在も数ある京都の桜の名所でもトップランクのようです。こちらは写真が行方不明です。こちらの五重塔は昭和時代に解体修理をしましたが、その後の台風で九輪が傾いてしまったそうです。修理前にはびくともしなかったそうですが。

 
仁和寺
 御室と呼ばれ、こちらは遅咲きの桜の名所です。電子体温計や血圧計でおなじみのオムロン株式会社は、創立時には立石電機という名前でしたが、仁和寺近くに工場があることから御室が変じてオムロンとなったそうです。

 
平等院
 おなじみの10円玉のデザインに取り入れられた鳳凰堂です。筆者は本像の背後の飛天がかわいらしくて好きです。平泉に鳳凰堂を燃して作られた無量光院は、ほとんど田畑になって、昔をしのぶものはありません。池が残る毛通寺の庭園で奥州藤原氏の繁栄をしのぶのでしょうか。

宇治上神社
 平等院の陰に隠れて地味な存在ですが、現存最古の神社建築です。



 
高山寺
 デュークエイセスの女一人で歌われた京都の3つの寺の一つとして、鳥獣戯画のあるお寺として有名ですが、紅葉の時には渋滞で大変になるので、新緑の頃をお勧めします。

西芳寺
 別名は苔寺、学生の頃の小雨の夕方に訪問し苔がしっとりといい感じでしたが写真が行方不明です。荒れ放題で苔がはびこっために有名になったようで、これだけ人気のお寺になるとは思いもよらなかったと言われています。

天龍寺
 こちらも写真が行方不明です。25年ほど昔にドコモが10年後はドコモがこのように世の中を変えるといったプロモ-ションビデオがありましたが、その中でなぜかロケ先に天竜寺が使われていました。ビデオが作られて10年以上が経ちますが、彼らの言うようにはなってなさそうです。

 
鹿苑寺
 いわゆる金閣寺で、清水寺と同様に京都観光の入門寺ですが、金閣以外にも風情のある茶室の夕佳亭(せっかてい)などがあって金閣だけ見て帰るのはもったいない。また、いまだ実現していませんが雪化粧の金閣は幻想的のようです。

 
慈照寺
 金閣寺と並ぶ銀閣寺ですが、金閣と違って、銀閣には銀箔は張られなかったそうです。銀閣ばかりが目だちますが、向月台を挟んで建つ東求堂の書院は、書院茶室の始まりと言われています。

龍安寺
 石庭であまりにも有名ですが、こちらも写真がありません。石庭は室町末期の作庭ですが、江戸時代には池泉式回遊庭園の方が有名だったそうです。

 
西本願寺
 本願寺は東本願寺もありますが、飛雲閣や唐門など西本願寺の方が寺宝に恵まれているようです。同じ本願寺なのに、東西であまり仲はよろしくないようです。

 
二条城
 徳川幕府が京都に建てた城郭ですが、実は徳川の建てた二条城の前に足利氏、信長そして秀吉と時の権力者が幾つも二条城と呼ばれる城を建てたようです。江戸初期に落雷で焼失した天守は再建されず、城というより御殿といった性格に思います。

 国宝の金閣は1950年に青年僧の放火で炎上し、現在のものは1955年に再建されたものです。1905年に行われた解体修理の時の図面が残っていたために、ほぼ元通りの形に復元できたのだそうです。この時に使われた漆は1.5t、金箔は通常の5倍の厚さ0.5μmのものを20万枚、約20kgが使われたそうです。再建されてから70年が経ちますが、防食性に優れた金のおかげで、まだまだ黄金色に輝いています。この防食性を利用したのが電子海路で接点などのは金が多用され、国内の大きな金脈は東京とも言われています。携帯電話やスマホが買い替え需要で大量に排気されるからだそうで、そんな短期に買い替えが必要ということがおかしいと思うのですが。

世界遺産の奈良は日本文化の基礎を作りましたが数多くの仏像を配管できるのが魅力です(日本)

2025-03-16 08:00:00 | 世界遺産
 中国の雲崗石仏は、北魏様式の巨大な仏像や、数多くの小さな石仏の数に圧倒されます。インドに興った仏教のうち大乗仏教と呼ばれる教派は、雲崗などの仏教文化を中国に残して、東に伝わり我が国の飛鳥に伝わりました。平城遷都とともに、仏教文化は現在の奈良市を中心とした文化として花開き日本全国に広がりました。今回は、古都奈良の文化財として世界遺産登録をされている寺社を紹介します。

 古都奈良の文化財として世界遺産登録をされているのは、全部で7か所(春日山原始林は春日大社に含めて1件とした場合)あり、デジカメ以降に撮影した写真を元に、筆者の好みを中心に紹介しようと思います。アナログ・カメラの頃の方が面白い写真が採れていたように思いますが、大方は行方不明になってしまいました。

 
 
 
 東大寺は、奈良時代に総国分寺として創建され、奈良観光の中心的な存在です。大仏殿だけでなく、二月堂や三月堂など数多くの諸堂をもって、常に観光客であふれています。この大仏殿は毎年お盆のころに夜間開放があって、大仏殿の上部の扉が開かれて、外からも大仏の顔が拝めます。お堂の中からは見上げた顔ですが、扉の向こうに正面の顔が拝めます。大仏は何度も火災で焼け落ちて、元の顔立ちは失われてしまったと言われていますが、戒壇院には天平仏の四天王像が残されています。四天王の中で、虚空を見つめるような広目天がお気に入りです。

 
 
 興福寺は藤原氏の氏寺として奈良時代に創建されたお寺で、猿沢の池の向こうに建つ五重塔も奈良観光の目玉的な存在です。ところが、この五重塔が明治期の廃仏毀釈で売りに出され、危うく取り壊されそうになりましたが、壊す費用がかさむとのことで見送られたそうです。興福寺には数多くの国宝物があり、阿修羅は特に女性に人気があるようで、2009年に東博で開催された阿修羅展には長蛇の列ができたようです。阿修羅も展示される国宝館には数多くの国宝物が安置されていますが、それらの中で白鳳仏の顔立ちが素晴らしい旧山田寺の仏頭がお気に入りです。

 
 春日大社は奈良時代に平城京の守護のため創建された藤原氏の氏神です。神仏習合の頃には、興福寺との関係が深くなり、興福寺の南円堂の不空羂索観音は本地物とされていたそうです。また、春日大社の境内には五重塔が建っていたこともあったそうです。年に2回行われる万燈会は観光客であふれかえりますが、なかなか幻想的です。一方、春日山原始林は春日大社の神域として伐採や首領が禁止されて来たことから、市街地のそばにある原始林として基調とのことで、世界遺産の一部となっています。

 
 
 元興寺は飛鳥にあった法興寺(飛鳥寺)が平城遷都で移ってきたもので、権力を失った曽我氏の氏寺の割にはその後大きな寺域を持ったようです。ただ、徐々に衰退して現在は極楽坊野実を残すお寺になっています。まさしく、元興ったお寺となってしまいましたが、境内にある宝物館には国宝で2基しか残っていない五重の小塔が置かれています。五重塔は通常見上げるものですが、宝物館の2階に上がると目の高さに五重塔が見られます。

 
 
 薬師寺はブロンズの薬師さん尊像と東西両塔がそろうことで有名ですが、西塔は最近の再建で、木造で作られたのが救いです。国宝の東塔は凍れる音楽との表現や、本尊の薬師像はアメリカからの船賃(明治時代で飛行機は無かった)を払ってでも見に来る価値ありとフェノロサに言わしめたことは有名です。ただ、薬師如来の無機質な感じより、東院堂の聖観音の優美さに惹かれます。

 
 
 唐招提寺は、中国から何度も遭難をして視力まで失ってしまった鑑真によって建てられたお寺で、西ノ京では薬師寺に比べてやや地味ですが、唐招提寺の方に惹かれます。鑑真は日本でおろそかになっていた戒律を授けるために来日しましたが、戒を授けた戒壇は基壇を残すのみです。本堂には、わが国では数少ない手が千本付けられた千手観音が存在感を持って安置されています。開山堂には鑑真の像が安置され年に1日だけ開扉される秘仏ですが、以前に国宝展で展示されているのを見た覚えがあります。レプリカだったのかもしれません。この像のレプリカが、鑑真が旅立った中国の揚州にある大明寺にありました、1973年に安置されたそうです。

 
 最後は、奈良の基礎となった平城宮跡です。2000年頃までは、西大寺駅の北東に広がる野原で南端を近鉄戦が通り抜けていました。国の整備計画によって1998年には朱雀門が、2010年には第一次大極殿が復元され、埋蔵文化財の発掘調査も進んでいるようです。近鉄が大極殿と朱雀門の間を横切るのは無粋とのことで移設案が検討されているようですが、移設は進んでいないようです。

 唐招提寺を造営した鑑真は、当時の遣唐使から日本に戒律を伝えてくれとの依頼を受けて何度も失敗の末にやっとのことで来日を果たしています。鑑真のトライを阻んだのは、暴風雨などの自然災害だけではなく、唐の国として彼を失うことを惜しんで阻止した人的なものもあったようです。日本から唐へ、逆の唐から日本へ船で渡ることは命がけで、成功率は極めて低かったそうです。GPSもなく、追い風でしか進まない船ですから、どこに行くかは風任せで、鑑真も最初に上陸したのは屋久島だったそうです。現在の船も飛行機もGPSで位置検出を行っていますが、GPSの無いころでも加速度センサとコンピュータによる慣性航法装置でハワイまで1km以下の誤差で飛べたそうです。鑑真の頃に慣性航法装置があったとしても、自分の居る位置は判っても、船を操ることがままならなかったわけで、かえってストレスがましたかもしれません。

中国三大石窟の一つの雲崗石窟は、アクセスはちょっと不便ですが大きな仏像が大きな目で出迎えてくれます(中国)

2025-01-19 00:08:00 | 世界遺産
 ラオスの最南端の丘の中腹にある遺跡がワット・プーでした。ワット・プーは当初はヒンドゥー教の寺院でしたが後に上座部仏教に改修され、建物は半ば朽ちかけていますが現地の人々は仏教の現役寺院としてお参りに来るようです。仏教は大きく分けると、東南アジアに伝わった上座部仏教と中国経由で我が国にも伝わった大乗仏教の二つに分類されます。北に伝わった大乗仏教は中国に数々の遺跡を残していますが、中でも巨大な遺跡として有名なものが三大石窟です。今回は三大石窟の中で、北魏様式の仏像が圧倒的に数で残る雲崗石窟遺蹟を紹介します。

 雲崗石窟は、高度高原の北東の端に位置する都市の人口300万程の大同市の郊外にあります。大同の中心部の西20km程で路線バスが1時間足らずで石窟公園に運んでくれます。一方、大同市は北京の西300km程で、通常の観光客は北京などから空路で大同に入るようです。筆者は中国の洛陽から世界遺産の幾つかを見ながら、平遥の観光基地の太源から高速バスで入りましたが、この区間を鉄道で移動するのはずいぶんと時間がかかるようで、お勧めではありません。

 
 
 石窟公園は東西が1km、南北が500mほどあってバス停を降りてから石窟までもだいぶあって、園内をトラムが走っていたように思います。

 
 
 
 石窟は敦煌石窟の次に古くから造営され、4世紀から5世紀にかけて総数5万を超える石仏が彫りこまれています。雲崗の岩肌は荒い砂岩質のために巨大な石仏を彫りやすく、かたい岩肌のために大きな石仏は彫ることができなかった竜門石窟に比べて巨大な石仏が多く見られます。露座の釈迦牟尼大仏の高さは約14mもあって、東大寺の大仏とほぼ同じで、遠くからでも目だった存在です。寺院風の建物に覆われた石窟の中には17mを越える石仏が彫られています。

 
 
 
 
 
 
 巨大な石仏ばかりに目を奪われますが、石仏巖の壁面には小さな石仏がぎっしりと彫り込まれていて、かなり彩色も残されていて、華やかな感じがします。レリーフ状のものや、巨大石仏のように彫りだされた仏像もあります。ただ、フラッシュの撮影は禁止されているため、10年以上も前のコンデジでは巨大仏像は撮影し損ねましたし、壁面の仏像群もきれいに撮るのは難しかったです。これらの仏像は、北魏様式という技法で彫られていて、一目見ると分かるような特徴的な顔立ちをしていて、いつまでも印象に残ります。

 
 公園内には寺院もあって、濠をめぐらした所に大雄宝殿というお寺が建っていたように記憶していますが、石仏群との関係はよくは分かりませんでした。ただ、環濠を橋で渡ってお参りするのは、石仏とは違った趣がありました。また、公園内には大同雲崗石仏博物館があるようですが、筆者が訪問した時には無かったのではないかと思います。変わった外観の建物で、あれば写真に収めているはずですが、見当たりません。

 中国の三大石窟のうち敦煌を除いては石仏群の撮影が可能でした。ただ、岩壁に彫り込んだ洞窟のような中に彫られた仏像などは、内部が薄暗く、訪問当時のコンデジでは、感度不足でなかなかうまく取れなかったような記憶があります。古いコ

ワット・プー遺蹟はべとなむのミーソン遺跡と同様に石がゴロゴロの廃墟っぽく地味な遺蹟ですが、壁に施された彫刻などは緻密できれいです(ラオス)

2024-12-08 08:00:00 | 世界遺産
 前回はラオスの北部の世界遺産の町のルアンパバーンを紹介しました。ラオスには3か所の世界遺産があり、ルアンパバーンが町並みの指定に対して、ジャール平原とワット・プーは遺跡が指定されています。今回はそのうちのワット・プーを紹介します。

 
 ルアンパバーンがラオスの北部に位置する街でしたが、ワット・プーはラオスが南に細く突き出した南端に近いメコン川の右岸、西側の丘にある遺跡です。この遺跡はアンコールワットと同じクメール人が作ったもので、5世紀から1,000年も続いた都市遺跡でワット・プーは狭義には寺院群の遺跡になります。神が宿る山であるカオ山の東斜面に広がっていて、メコン川河畔に近い入口から、麓までシャトルバスで送ってくれますが、そのあとは、階段を含む急な坂が続きます。所が、この急な坂を飲み物のパッケージを担いで上る少年たちが数多くいました。坂の上部などで売られている飲み物を運びあげるアルバイトのようですが、足元も悪い上り坂を重い荷物を持ってスタスタと追い抜いていきます。

 
 ワット・プーの観光基地となるのは、ラオス最南端の土地であるパークセーで、このパークセーから南に40kmほど田舎道を走ることになります。ラオスは公共輸送機関が貧弱で、ワット・プー二はツクツクをレンタルすrか、ツアーに参加するしかないようです。筆者は、ワット・プーよりさらに南のシーパンドンを含めて1泊2日のツアーで行きました。これだけ足の便が悪いこともあって、世界遺産とは思えない程人は少なく、もちろん日本人はお目にかかりません。ただ、遺跡に残る寺院には現役の寺院もあるようで、現地の方々がお参りに来ていました。

 
 
 
 
 
 
 
 遺跡の麓には広い池があって、アンコール遺跡の東西のバライを思い起こしますが、こちらもバライの名称がついています。ただ水の存在はそこまで、建物群の遺跡は山の斜面に建っているので、アンコールワットのような環濠はありません。また、アンコール遺跡は石の構造物が積まれて山のようになっていますが、こちらは石造りの建物の形です。ほとんどの建物は屋根が陥没して壁のみが残り、ビルマの攻撃を受けて破壊され廃墟状態となったタイのアユタヤ遺跡の建物群と似た感じがします。平地に建つアンコールやアユタヤに対して、山の斜面のワット・プーの建設では、資材の石を運び上げるのが大変だったでしょう。

 
 ワット・プーの遺跡の南側1km程に隣接した遺跡のPrasato Hong Nang Sidaは平地に建っています。アンコールと同時代の12世紀に建てられましたが、こちらも破損がひどく長く放置されていた遺跡なのだそうです。さらに南に1km程行くとThao Tao Templeという遺蹟もあるそうですが、森の中にうずもれたような遺蹟らしく、さすがにここまでは訪れませんでした。

 
 ラオスの国花はプルメリアで、ラオスではチャンパーと呼ばれラオス航空の飛行機の尾翼にも描かれています。良い香りのする花で、ワット・プーの境内にも咲いていましたし、現役の寺院でも献花として飾られていました。タヒチやフィジーそれにハワイのレイにも用いられ、髪飾りとして未婚者は右に、既婚者は左に飾られます。インドではお香にも使われるそうです。これらの国々ではプルメリアはポジティブな印象を与える花ですが、インドネシアやマレーシでは幽霊や墓地を連想するはななのだそうで、正反対のネガティブなイメージです。一方、ヒ素という元素をご存じでしょうか。森永ミルク事件でも話題となった猛毒の元素で、かつては殺人にも盛んに使われたそうです。このネガティブイメージのヒ素ですが、ITを支える発光ダイオードや高速動作が必要な通信用トランジスタ向けには化合物のガリュウムヒ素は欠かせないものなんです。

15年の間に観光客が増えて町全体から素朴さが減ったようにも思えるルアンパバーンですが喧噪さはまだまだ少なそうです(ラオス)

2024-11-10 08:00:00 | 世界遺産
 ルアンパバーンの2回目は、お寺以外の博物館などの施設や旧市街の町の様子などを紹介します。

(15年前の托鉢の様子)
 
 

(今年の2月の托鉢の様子)
 
 
 ルアンパバーンの朝は、修行僧の托鉢から始まります。ナムカーン川とメコン川とが作る半島状の中心部を東西に縦断するサッカリン通りが園会場で、ルアンパバーンに数多くある寺院の僧侶が通りを西進して布施を受け取ります。15年前も托鉢行為は観光化されていて、お布施として差し出すご飯などが売られていて、前もって購入した観光客が托鉢の容器に差し出していました。今年に再訪の時には、観光化がさらに進んでいて、サッカリン通りには有料観覧席ができ椅子が並べられていました。徳島の阿波踊りのような状況です。

 
 
 
 托鉢が済んだら、サッカリン通りの東端の博物館周辺で朝市が立ちます。この朝市で売られているのは、野菜や果物、それにネズミらしき動物など日常の食料品で、市民のための青空市場です。一方、サッカリン通りを博物館の前あたりに店屋が出るのが夜市で、こちらは財布やランタン、うちわなどなどお土産品が中心の観光客相手になります。

 
 
 周りで朝市や夜市が開かれる国立博物館は、1959年までは王宮として、その後1975年までは王族の居所として使われ、その後は博物館として開放されたそうです。そのため博物館という名称ですが、展示品はかつての王族の所蔵品が中心で、ルアンパバーンを網羅的に解説するものではありません。ただ、王様の御殿がそのまま保存されて観覧できるので、なかなか豪華です。

 
 
 一方、庶民の暮らしぶりがわかる博物館は、国立博物館の東にあるファンチャン・ヘリテイジ・ルアンパバーンでルアンパバーンの伝統建築を利用しルアンババーンの文化や生活様式が展示解説されています。こじんまりとした博物館ですが、表通りから奥まった静かな場所に広い緑の庭園の中に立っていて観光客も少なく一息付ける場所です。

 
 もう一つの博物館は、国立博物館の南西、プーシーの丘を回り込んだところにある伝統芸術民族センタで、少数民族の衣装、儀礼、風賞につて展示解説されています。こちらはさらに小ぶりですが、展示されている民族衣装が素敵です。

 
 
 国立博物館の南側、伝統芸術民族センターの東に小高く聳えるのがプーシーの丘で、頂上にはタート・チョムシーという仏塔が建っています。標高差にして、150mくらいなのですが、他に高い山が無いので遠くまでよく見えます。北側にはルアンパバーンの町並みが俯瞰でき、東南東には空港の滑走路も見えます。メコン川に沈む夕日を眺めるの場所として、日没前には頂上あたりはカメラを持った観光客であふれかえります。

 

 
 15年前には、このメコン川で採れた川海苔のようなものや煎餅状のものが道端に干してある光景が、再訪の時には見かけなかったのは、観光産業の方が楽なのでしょうか。ビエンチャンではメコン川の向こうはタイですが、ルアンパバーンではラオス国内で、向こう岸まで渡し舟が通っています。渡った対岸は観光客の姿は見えず、牛がのんびりと闊歩する田舎でした。

 
 
 
 国の内外からやってくる観光客を受け入れるのがホテル群で、五つ星からゲストハウスまで、それこそ星の数ほどあるように思えます。ゲストハウスの中にはユニークな建物やサービスを売りにしているのも見かけますが、ネット予約ができなかったり、つぶれてしまったりで、不安定です。15年前はルアンパバーン王朝の王女様が暮らしたというヴィラ・サンティに宿泊しましたが、こじんまりとしたフレンチコロニアルの建物が素敵で、托鉢僧もホテルの目の前を通ります。夕食の時には伝統の踊りも披露してくれました。2度目はやや格落ちでしたがナムカーン川のほとりに建つホテルで、こちらは近くのレストランでの民族舞踊をテラスから遠望です。どちらのホテルもライトアップされた姿がきれいでした。

 ラオスでは、男子と生まれると一度は出家をして、これが親孝行につながるという習わしが続いてきたようです。親にとって、子供を出家させれば、死後に地獄に落ちることは無いと信じられてきたそうです。ラオスをはじめ東南アジアの仏教は部派仏教(日本では小乗なぞと呼ばれていますが)で出家修行をすることが一般的です。一方、日本の仏教は大乗仏教で、修行にはさほどこだわりません。どちらも仏教ですが、どうもおおもとの釈迦の教えから逸脱しているようにしか思えません。釈迦の教えは、世の中の苦しみは生老病死でこの苦痛から逃れるためには執着心を捨てることという言葉につきます。したがって、信仰ずればご利益があるなんてことは執着心以外の何物でもありません。ただ、この執着心は研究者にとっては必須で現在のIT技術は執着心に後押しをされた研究者たちの成果でもあるんです。

ルアンパバーンのメインストリートのサッカリン通りは1km程の長さに数多くの寺院がひしめいて、それぞれの寺院を区別するのが難しいのですがどれも美しい(ラオス)

2024-10-13 08:00:00 | 世界遺産
 前回と前々回は新しく登録された世界遺産を2件紹介しましたが、相変わらず世界遺産の数では世界の一二を争うのは中国のようです。その中国の南にあって、近年は中国資本による中国への鉄道が開通したのがラオスです。世界遺産の数は文化遺産が3か所で、中国と比べようもありませんが、数ではなく美しさや独自性で貴重な文化遺産です。鉄道で流入してくる中国に押し流されないか心配ですが、今回と次回とは町並み全体が文化遺産となっているルアンパバーンを紹介します。

 ルアンパバーンの地名は昔はルアンプラバンと言ってましたが、現在はラオ後の発音に近いルアンパバーンになっています。かつての表記はタイ語に起因しているのだそうです。ラオスの首都のビエンチャンからメコン川を400kmほどさかのぼった、ナムカーン川がメコン川に合流するあたり、半島のような地形のところが町の中心部です。空港はナムカーン川の向こう側で、小さな空港ながら4か国に向けて国際線が飛んでいるのは世界遺産のおかげかもしれません。15年前訪問した時には鉄道が無い国でしたが中国資本によりビエンチャンを起点にルアンパバーンを通って中国の昆明まで通じています。しかし、ビエンチャンもルアンパバーンも鉄道駅は町から遠く、せっかくビエンチャンからルアンパバーンに2時間で行けても、駅へのアクセスで無駄な時間を費やしそうです。

 

 ルアンパバーンの中心街は幅が南北に300m程の半島状の場所に集中しており、主だったホテルや寺院それに食堂や土産物屋もこのエリアに集中しています。極端に言えば、この辺りはホテルや寺院の間に民家が建っているといった図式です。ただ、例外的に巨大な涅槃仏を安置するベトナム様式のワット・パバートタイだけは、中心街から西に2.5km以上も離れており暑い中を歩くのは辛くツクツクによる移動になります。市街地からここまでくると、さすがに民家も減り、人通りも無くってのんびりした田舎風景になります。このワット・パーバタイは17世紀に創建の寺院ですが、19世紀に火災に遭い現在の建物はその後の再建だそうです。涅槃物はトンネルのような堂の中に少々窮屈双の収まっていました。

 
 
 
 多くの寺院の中でルアンパバーンの象徴的な寺院は岬の最東端に近い16世紀創建のワット・シェントーンです。本堂はルアンパバーン様式と呼ばれる雄大なもので、湾曲した屋根は東側が三重に西側が二重に折り重なり、それぞれの屋根が途中の傾斜が変わる部分でも折り重なり、合計九つの部分から構成されるという複雑な形をしています。ファサードの装飾も豪華できらびやかです。

 
 
 
 
 
 
 
 ワット・シェントーンの南側から東西に延びるサッカリン通りがメインストリートで、道路の両側に次々とお寺が現れ、早朝の托鉢もこの通りの西寄りでお紺われます。寺々の外観はおおむねワット・シェントーンに似て反りのある旧な勾配にある屋根の下に、きらびやかな装飾を施されたファサードを持っている寺院が多く見られます。これらの寺院の多くは早朝や日没後にライトアップされ、暗闇の中に浮かぶ建物も幻想的で美しい姿です。堂の内部に安置された仏像は、ほぼ例外なく黄金に輝く金銅物で、日本との文化の差を感じます。境内に船が飾られている寺院もありますが、この船も黄金で装飾されていました。この寺院が軒を接して連なるのは、プーシーの丘と国立博物館に挟まれた部分で終わり、通りの名前も変わります。

 ルアンパバーンは15年前と今年の2度訪れましたが、15ねんの間に観光客が増えたことに驚きました。15年前は田舎の空港だったルアンパバーン国際空港も立派な建物に変わった見違えるようでした。15年前は、東南アジアでアメリカ人が最も行きたい場所だったそうですが、現在の評価はどうなっているのでしょうか。のんびりした環境に、美しい建物などが建っているのが良かったのかなーと思いますが、驚いたのは町中にネットカフェーがたくさんあって、欧米人と思しき人たちであふれていて、紙屑文明から逃げられない人々に異質な感じを受けました。ただ当時はスマホがはびこっていなかったので、異質な空間はネットカフェの中だけで、現代のようにスマホと一緒に現代病を引きずって歩いてはいなかったんですね。