世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

荒涼たる砂漠の中を山の頂上に向かって伸びる懸壁長城は、北京郊外で緑の中に見る八達嶺長城とは趣が違います(中国)

2021-11-28 08:00:00 | 世界遺産
 インドを代表する白大理石でできたタージマハルはシャー・ジャハーンが無き妃のムムターズ・マハルのために建てたものですが、黒大理石で建てられるはずであった自身の聖堂は、息子の反乱で果たせませんでした。本来は最も信頼できる血縁者であるはずの息子に捕らえられたわけですが、ジャハーン自身も肉親を殺害して権力の座に座ったので、息子ばかりを責められません。肉親でさえ信頼できないわけですから、ましてや権力者にとって異民族から攻撃される恐れは大きく、このために作られたものの一つが中国の万里の長城ではないでしょうか。このブログで万里の長城をこま切れに紹介してきましたが、今回は長城の最西端の嘉峪関に近い懸壁長城を紹介します。

 
 
 
 
 

   
 
 
 懸壁長城は、万里の長城の最西端に作られた関所である嘉峪関の北東8kmほど、ウイグルや敦煌に向かう列車の駅のある嘉峪関市街地からは北方になります。東から延びる長城の嘉峪関の手前という位置関係になります。さらに、嘉峪関からは長城の西の端に向かって、砂漠の中に土塀のような城壁の名残が南に続き北大河の絶壁で終わっています。一方の懸壁長城の方は、対照的で、はげ山の稜線を急角度で山頂に向かって伸びています。おそらく長城の上面は45度くらいもあるのではないかと思う急斜面です。玄奘三蔵一行の像がある麓から見える見張り台まで標高差にして200~300mほどもあるでしょうか。上るのはかなりきついですが、頂上からは漠々とした砂漠の中に、嘉峪関市が幻のように浮かぶ景色が楽しめます。玄奘三蔵の一行は、この何もない砂漠をほとんど歩いて横断したのかと思うと、天竺から経典を持ち帰るという執念に恐ろしさも感じます。この懸壁長城は、かなりの部分が1980年代に再建されたものでオリジナルは少しだけなのだそうです。おまけに個人がこの長城を2000年頃にコピーして再建をしたものが近くに存在するそうです

 
 
 
 基地となる嘉峪関市へは、かつての長安の西安駅から夜行の特急で18時間ほど、市街地の南西の端の駅に着きます。市街地は、南北が4kmほど、東西に3kmほどのオアシス都市で、きっちっと碁盤の目に区切られた町並みは人工的な感じがします。鉄道駅だけでなく空港もありますが、市街地から10km以上も離れた砂漠の中のようです。小ぶりな市街地でしたが、なかなか賑わいもあって、中国ではよく見かける露天で安くておいしいものがたくさんあって、何を食べようか迷ってしまいます。筆者が泊まったホテルは駅から2kmほどの長城賓館というホテルでしたが、夜行列車で早朝に着いたためもあって、人けが無くて、廃業してしまったのではと思いました。もちろん、通常の時間帯になると、宿泊客を見かけることも増えて、ほどほどのクラスのホテルの賑わいになったようです。

 万里の長城は英語ではGreat Wall、大きな壁で今回紹介の懸壁長城は英語の表現そのものです。IT技術者はWallと聞くとFire Wallを思い起こすかもしれません。オフィスや家庭のネットワーク内には他人に見られたり書き換えられては困るデータがたくさんあり、これらを外部からの侵入者に対して城壁のように立ちはだかるのがFire Wallです。Fire Wallの外は敵だらけというのは、万里の長城の外は敵だらけという状況と似ています。ただ、万里の長城が外敵を完全には防ぎきれなかったのと同様に、Fire Wallも完全ではなくいくつものトラブルが報告されています。もともとインターネットは大学や研究機関をつなぐネットとして、性善説を前提に仕組みができているので、これを商用に使うこと自体に無理があると思います。

江差線の廃線で足は不便になりましたが、北前船の寄港地の遺構などがある江差はまだまだ港でうるおっているようです

2021-11-21 08:00:00 | 日本の町並み
 竿灯でおなじみの秋田は小樽を起点とする新日本海フェリーの寄港地の一つでした。新日本海フェリーの寄港地は、江戸時代の北前船の寄港地と重なりますが、新日本海フェリーでは寄港しませんが、北前船の重要な寄港地の一つが北海道の江差です。その江刺を今回は、北前船にちなんで、江刺港の周辺を中心に、次回は古い町並みを中心に紹介します。

 江差町は、函館の西50kmほどの日本海に面した人口7,000人ほどの町で、2014年までは木古内からJR江差線が伸びていました。天然の良港として江戸時代から北前船の寄港地として栄え、現在は砂利や石材の搬出港として、また離島の奥尻島へのフェリーの発着港として、北海道初の公共マリーナも併設しています。

 
 
 江差が北前船など港で反映した名残は3つほど残されてます。一つは鴎島にある北前船を係留するための柱の跡でこれは後述します。2つ目は廻船問屋の豪商であった横山家の建物で、古い建物を利用したニシンそばの食堂として営業を続けていたようですが、店主の逝去で現在は閉店中でした。最後の3つ目は、港の近くに残されているアネロイド気圧計で、昭和初期に設置され、出漁する漁師たちが気圧計の針を見て天気を予想したそうです。

 
 
 
 鴎島は港の西側に砂州が伸びて陸続きとなった島で、北前船の係船跡の木の杭が残されているのは島の東側(陸地側)になります。現在の江差港は陸側にありますが、北前船の時代には、係船杭が残っている鴎島の陸側が港で、鴎島が天然の防波堤の役割を果たしていたようです。係留杭の跡の近くには、高さ10mの瓶子岩と呼ばれる奇妙な形の岩があり、その先にある厳島神社を見通す位置に鳥居が立てられています。鴎島の陸地と反対側は断崖あり、灯台あり、草原ありで住民の憩いの場になっているようです。島の西には日本海が広がり、海に沈む夕日の名所にもなっています。

 
 北前船に加えて江戸時代の遺構がもう一つ、現在の江差港の南側、鴎島に向き合う岸壁には復元された開陽丸が係留されています。開陽丸は、平和産業の北前船とうちがって軍艦で、幕末にオランダで建造され幕府の旗艦として使われた船です。幕府の反乱軍の榎本武揚は五稜郭の戦いで有名ですが、この北海道行のために使われたのが開陽丸で、帰属が徳川幕府から明治政府にうつっていた開陽丸を略奪して函館じゅりくを果たしたようです。その後、江差に回航されましたが暴風雪のために座礁沈没してしまったそうです。

 復元された開陽丸は、ほどほどの大きさがあって、この船なら外洋に出て行っても大丈夫かなと思います。しかし、北前船の模型などを見ると、いかにも貧弱で、こんな小さな船で日本海に出ていきたくないと思ってしまいます。反戦やヨットはベルヌーイの法則を利用して、ジグザクながら風上に航行できますが、日本の帆前船は追い風でしか前に進めませんでした。そのために、数多くの風待ち港が必要だったようです。当時は無線やGPSなど船の航行を支援するシステムは皆無で、おそらく天測だけが頼りだったのではないでしょうか。ただ、道具が貧弱な分、人間の感は研ぎ澄まされ、スマホが無ければどこにも行けない現代人とは大違いであっただろうと思います。

聖母の出現はにわかに信じがたいところですが青空に映えるファティマのバシリカは一見の価値があります(ポルトガル)

2021-11-14 08:00:00 | 世界の町並み
 台湾の東海岸から西に延びるタロコ渓谷は大理石の断崖が続く世界自然遺産級の迫力ある渓谷でした。大理石は石灰岩が変性したもので、中国の大理で産出したための命名だそうです。この白さは宗教的にも説得力があるのか、インドのタージマハル二代表されるように聖堂を作る素材に使われることが多いようです。今回は、大理石の白さが際立つカソリックの重要な巡礼地の一つであるファティマを紹介します。

 
 
 ファティマは、ポルトガルの中央部、リスボンの北120kmあまりポルトの南190kmほどの人口1万人ほどの小さな都市ですが、1917年に起こったとされるファティマの奇蹟で世界に知られるようになりました。それは、3人の子供の前に聖母マリアが出現したというもので、ローマカソリックもその奇蹟を認めているという聖地です。聖母が出現したという場所には出現の礼拝堂が建ち、巡礼者を迎えるためにネオクラッシックの様式で純白の大理石を用いた高さ65mの塔を持つ聖堂(バシリカ)と広場を囲む回廊が作られています。訪れた時は晴れていたこともあって、真っ白の聖堂は青空に映えていました。バシリカの内部の装飾は少なく、大理石の白さとステンドグラスの輝きが際立っていました。入堂した時には実さが行われていて、聖歌隊の歌に加えてパイプオルガンの心地よい響きも聴くことができました。

 
 聖母が出現したという5月13日には全世界から数万人の巡礼者が訪れるそうですが、筆者が訪問した時にも、巡礼者と思しき方々をたくさん見かけました。写真には撮ってませんが、ローソクを建てるところには信者が立てた背の高いローソクがグニャグニャsになりながらも得ていました。たださすがに、広場のどこにも我々以外に東洋人は一人も見かけませんでした。広場には祈りの道という白い一本の道が引かれていますが、敬虔な信者の中には、この道に沿って尺取虫のように地面に伏したり立ち上がったりを繰り返して前進している人を見かけました。信者でない筆者は、この一種異様な情景に、宗教の持つ怖さを感じてしまいました。

 これだけ科学が発達した現代においても、神の存在を説く宗教は健在です。たしかに、地球の歴史の長さに比べて、人類の歴史は瞬時ともいえる短さで、携帯を支える技術の電波も発見されてから高だか120年ほど。人類の短い歴史の中でもさらに短い一瞬の出来事です。この先に、どのような未知の未発見のことが存在するかわからないわけで、その中には神の存在もあるのかもしれません。ただ、現代のほとんどの宗教は、権力を得るための手段になり下がり、権力者の都合の良いように神に語らせているように思います。未来に発見されるかもしれない神のような存在は、宗教権力者が作り上げた神とは違ったもののになりそうです。

秋田の竿灯は通常の1/10の重さのものでも持って立てるのがやっとです

2021-11-07 04:08:00 | 日本の町並み
 前回は幕末に諸外国に向けて開港した5つの港の一つでもある新潟の市街地を紹介しました。現在でも新潟港は日本海側を代表する港の一つで、北海道を起点とする新日本海フェリーも寄港します。そこで、今回は小樽を出た新日本海フェリーが新潟の手前に停泊する秋田を紹介したいと思います。

 
 秋田港は新潟港が信濃川の河口に位置していたのと同様に秋田運河の河口に位置し、市街地からは10kmほど離れ、秋田の次の駅の土崎からも1kmほどあります。土崎から貨物支線が伸びていて貨物専用の秋田港駅がありますが、クルー船が入港した時のみ客扱いをする駅なのだそうです。港のそばにはセリオンという高さが100mのポートタワーがあって、なんと無料で上ることができ、市街地や足元の秋田港が眺められます。

 
 
 秋田運河のやや上流には8世紀に作られた秋田城の遺構もあるようですが、現在の秋田市街地は江戸時代に作られた久保田城をを中心とする城下町です。久保田城は明治期まで生き延びていましたが明治13年に火災で焼失し、跡地は桜の名所の千秋公園となっています。平成になって、隅櫓と本丸表門が復元され、その前の昭和28年の秋田市建都350年記念に宣庵という茶室が庭園内に造られています。

 
 
 
 
 秋田市街には、前回紹介の新潟と同じように「ぐるる」という循環バスが20分毎に走っていて、主だった観光地を順にめぐってくれて便利です。古い建物などが見られるのは、このバスが南北に流れる旭川を渡ったあたりからで、川を渡ってすぐに古風な建物のリンゴ餅を売る店と蒲鉾屋が通りを挟んで建っています。少し西に進むと、右手に民俗伝承館があり、竿灯の実演が見られ、子供用の竿灯を使った体験もできます。通常の竿灯は50kgもあるのですが、体験用の竿灯はその1/10の5kgでしたが、思いのほか重くてバランスもとれません。50kgの竿灯を軽々とさばくのは並大抵の技ではなさそうです。東北三大祭りのうち秋田の竿灯だけは見ていなかったのですが、ショーの形式とはいえ実物が見られました。この伝承館の裏には、江戸末期に建てられた商家の遺構である旧金子家住宅も見ることができます。

 
 
 旧金子家の東側の道を南に行くと赤れんが郷土館で、外観から想像できる通りかつての銀行の建物です。明治の末期に秋田銀行の本店としてルネサンス形式で建てられ重文指定です。現在は、赤れんが郷土館と呼ばれ秋田の伝統工芸などの展示館として使われいます。内部は銀行時代の様子がよく残っていて、吹き抜けの営業室、頭取室、金庫などが見られるのは、他の銀行の遺構と同じです。竿灯の実演が見られる伝承館や旧金子家住宅はこの郷土館の分館扱いなのだそうです。

 
 赤れんが館の西には寺町が広がり、千秋公園と同様に見事な桜並木があります。駅に戻る途中には、お菓子を売る銀行ならぬ銀光堂や和紙を扱う那波伊四郎商店などの商家の建物が残されています。
 竿灯は沢山の提灯がぶら下がっていますが、支えているのは中央にある1本の竹だけです。演者は、手や腰、ある時には額でこの1本の竹を支えるのですが、竹はかなりしなりはしますが、折れたりはしません、しなる柔軟さが丈夫な理由なのでしょうか。竹は木よりも丈夫で、大きく育ったものはチェーンソーも寄せ付けないとも言われています。ただ、この丈夫さが管理されていない竹藪では困りもので、地下茎でどんどん伸びて、挙句はいえの土台まで持ち上げてしまうこともあるようです。かつて、この竹の丈夫さに目を付けたのが、外ならぬエジソンで、白熱電灯のフィラメントに竹を炭化させた物を使って長寿命化に成功しました。竹は竹でも京都の南の石清水八幡宮の竹が良いとのことで、現在でも残る竹藪には、エジソン電球に使われたという碑が建てられています。フィラメントの長寿化は岩清水八幡の神がかりだったのかもしれません。