世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

キナバル自然公園からはキナバル山をまじかに眺められましたが、最大の花と言われるラフレシアの花を見られたのが最大の収穫でした(マレーシア)

2023-11-26 08:00:00 | 世界遺産
 マレーシアには4つの世界遺産があり、そのうちの2か所が2000年に同時に登録されたムル国立公園とキナバル自然公園です。どちらもマレシアで2番目の都市のコタキナバルが観光の基地で、前回紹介したムル国立公園が飛行機で飛ばなければならない距離に対してキナバル自然公園は車で行け、キナバル登山をしなければ日帰り圏です。今回は日帰り圏のキナバル公園を中心に紹介します。

 キナバル自然公園は、コタキナバルの東50km程にそびえるキナバル山の周辺にあり、キナバル公園ツアーとして観光客が気軽に訪れる施設がキナバル山の東南の麓にあるポーリン温泉です。コタキナバルから2時間ほどの行程で、戦前に日本軍が開発したという温泉施設があります。

 

 キナバル山はコタキナバル市内からも見られるマレーシアの最高穂で富士山よりも高い4095mあります。独特の山容で目だった存在です、麓は熱帯雨林から高山帯までの動植物の多様な分布を見せる山です。この生物貴重な多様性から世界自然遺産に登録されています。コタキナバルからよく見えるキナバル山ですが、ポーリン温泉まで行くと近すぎるのか、ジャングルに視界を阻まれるのか、はたまた昼になると雲がほろがるのか、山容が望めなくなります。ツアーではそのあたりを心得ているのか、途中の展望台で休憩し、ごつごつした頂上付近の形を望むことができます。

 
 
 
 ポーリン温泉までの途中で、民家のそばで臨時停車をしてラフレシアを見に行きます。常に咲いているわけではなく、ツアープログラムには入っていないので、入園料は別料金でした。ラフレシアは大きいもでは1mにもなる世界最大の花が咲く寄生植物です。つぼみの状態は10か月近くもかかりますが、開花しても1週間ももたないという貴重な花で、咲いている花を見られたのはラッキーだったようです。近くにはバナナの房も下がっていました。

 
 
 
 
 ポーリン温泉には足湯がありますが、その前にキャノピ・ウォークをやります。キャノピー・ウォークは、木と木の間の渡したつり橋を渡っていくものですが、ほどほどの高さがあって怖い、景色を見る余裕はそこそこになります。スタート地点は、山の中腹で、これが結構くたびれます。いくつもの釣り橋を渡って、徐々に標高を下げて、ゴールは麓に近い木の上にある小屋になりました。ややくたびれた足をポーリン温泉の足湯に漬けてホッとします。

 
 
 
 戻る途中には2か所の寄り道をしました。一つは、日本でドクターフィッシュといって、5cm程の魚に足をかじらせるとこrがあり、マレーシアの首都のクアラルンプールでは、この魚の大きさが10cm異常もあって驚きました、とこrが、こちらでは鯉に足をかじらせるんです。痛くはなく、吸い込まれる感じですが、奇妙な感覚です。もう1か所は牧場で、搾りたてらし牛乳で作ったというアイスクリームなどが売りで、子牛に乳を飲ませることもできるようです。牧場の周りに咲いている花々がきれいでした。

 ラフレシアはいくつかの種類があって、筆者が見られた種類はラフレシア・ケイテイと呼ばれる品種のようで、最大品種のアーノルディよりっや小型で無臭です。花のそばに案内されて、「ちょっと小さいなー、匂いがしないよ」と思ったのは、品種の差のようです。10か月近くもつぼみのままで、咲く時期を推定するのは至難の技だそうで、見に行った民家でも咲いている場所があちこちにあって、筆者の時には入口のごく近くでしたが、時によっては30分近くも歩かされることもあるそうです。ただ、管理している人は1週間も咲かない花があちこちで開花するのを、どのように管理、判断してるのでしょうか。つぼみ状態や天候などを長年の感で総合的に判断しているのかもしれません。この感を体系立ててAIを用いても、開花期の推定が可能かもしれませんが、コンピュータに入力する判断材料がどの範囲なのかを見極めるのが難しいでしょうね。

中山道と例幣使街道の分岐点の宿場町だった倉賀野は日本に2台しか導入されなかった交換機が置かれた町でもありました

2023-11-19 08:00:00 | 日本の町並み
 かつては白砂青松の保養地だったようで著名人の別荘が多く建ったのが稲毛海岸でした。電電公社の無線局も、人口が少なくて雑音の発生が少ない地ということで稲毛近くに建てられ、現在のようなひきょになったのでしょう。無線局は、海に浮かぶ船との通信が目的ですが、固定電話の接続を司るのが交換機です。関東大震災を機に自動交換機が導入されたのですが、2024年から順次インターネットに切り替わり専用の電話交換機は姿を消してしまいます。ステップ・バイ・スッテップ交換機から最新のディジタル交換機までの歴史の中に中に、たったの2台しか設置されなかった交換機がケッログ製クロスバ交換機でした。2台ともに群馬県に設置されましたが、今回はそのうちの1台が設置された倉賀野の町を紹介します。

 現在の電話の交換機は、ダイヤルされた数字の全部を解析して、どの回線につなぐかを判断しており、その走りがクロスバ交換機でした。当時の技術陣はクロスバ交換機というふれ込みを聞いて勇んで導入しましたが、この交換機はそれまでのステップ・バイ・スッテップ交換機の回転スイッチをクロスバ・スイッチに置き換えただけのもの。その後に開発されたクロスバ交換機とは似ても似つかぬ装置で、融通性や発展性の無いしろもので、2台だけが継子として残っただけでした。

 
 
 さて倉賀野は、群馬県の南部の高崎市の一部で、上野からJR高崎線で行くと高崎駅の一つ手前の駅が倉賀野の駅です。旧中山道の宿場町で日光例幣使街道の分岐点として、現在も旧脇本陣の家が残っています。古い町並みは、高崎線の南側に平行に走る旧中山道沿いに伸びており、街道に出る手前には九品寺があります。九品寺は15世紀創建で、創建当時の領主の倉賀野家の菩提寺だったそうです。また町並みの向こう街道の南には、古い町並みよりも古い数多くの古墳も残っています。

 
 
 
旧脇本陣を含めて、町家の多くは土蔵造りに格子が連なる平入りで、道路からは茶色の世界です。ところが、この茶色の世界の中に、青や白の下見板張りのモダンな洋館も建っていて、面白いたい肥を作っています。

 
 
 
 
 古い町家のほかにちょっと違ったポイントをいくつか紹介しましょう。まずは目直し薬師です。民家の庭のようなところにある石仏で、眼病にご利益があるそうですが、石仏の前にある「め」の字を八つも並べた石碑が面白しろかった。同じように馬頭観音の石仏も、道路わきにぽ通と置かれていました。もう一つは、これも道路わきに無造作に置かれている庚申塔と道祖神で、安曇野の田んぼ路でよく見かけますが、これが町中に置かれています。同じ石づくりの常夜灯は、ちょっとした広場の中にありました。

 2024年からの電話網のIP網への移行では、またぞろ詐欺商法が横行しそうです。網はインターネットに移行しますが、電話機はそのまま使えます。インチキ商法では、電話がインターネットに移行するから、これまでの電話機はつながらなくなると言って、新しい電話機をバカ高い値段で押し売りしてくるものです。決して、このような悪徳商法に乗らないよう気を付けてほしいものです。これまでも、IP電話として、電話もパソコンもつながるサービスがありますが、各家庭に置かれたアダプタで電話機のインタフェースをIP手順に変換しています。2024年の移行では、このアダプタが電話局にあると考えればよく、変わるのは目に見えない場所だけで、固定電話は、何もいじらなくても、そのまま使い続けられます。

世界遺産の洞窟へのベースキャンプとしてのムルリゾートですが、テラスから川を行きかう船を眺めながらコーヒーを飲んでのんびりする贅沢な時間も過ごせます(マレーシア)

2023-11-12 08:00:00 | 世界の町並み
 世界遺産の山岳鉄道のレーテッシュ鉄道ベルニナ線がどんどん高度を下げて谷底のような駅に着くのがスイスのクールでした。実は、このベルニナ線の起点は高原リゾートのサンモリッツで、富裕層の保養地として有名です。筆者は、なかなかリゾートには縁が無いのですが、世界遺産のムル国立公園のベースキャンプとなるムルには宿泊施設が少なく、少々奮発をしてマリオットのリゾート・ホテルに泊まりました。

 
 
 
 ムルへは、マレーシア第二の都市のコタキナバルからプロペラ機のATR72でおよそ1時間西南に飛んだところで、ジャングルの中にポツンと滑走路のある飛行場に降り立ちます。海岸寄りにはブルネイがあり、ムルはその南東、海岸から60km程も離れた周りは山ばっかりの場所です。ムル空港は、当然ながら滑走路のみで誘導路が無いので、飛行機は滑走路の端まで行ってUターンし滑走路を通って空港ビルの前に駐機します。当然ボーディング・ブリッジもありませんから、歩いて空港ビルに入ります。マレーシアのボルネオ島では、州が変わればイミュグレーションがありパスポートコントロールがありますが、係官1名の窓口は長蛇の列です。
 やっとイミュグレーションが済んでホテルに向かいますが、公共の輸送機関なんてものはありませんから、ホテルの送迎サービスです。これが、トラックを改造した車で、高級リゾートのイメージとはずいぶんと違います。

 
 
 
 
 
 トラックに揺られて川を橋で越えた処に建つホテルは、ラグジュアリーとまではいかなくても、ゆっくり、のんびりできる施設でした。平地があまりないところに広い敷地を取るために、ジャングルの中にたくさんの木の杭を打ち込んで、その上にコテージ風の部屋やそこへの回廊が作られています。さすがにプールやレストランなどは、少しある平地部分に作られていました。トラックで渡った川にはムル洞窟などに行くためのホテル専用の船着き場も作られています。

 ムルリゾートは、周りはジャングルで陸路でのアクセスもままならないような場所のように見えます。そのためもあって、世界遺産のムル公園への観光客対応の人々が済んでいるだけでは無いかと思うくらい、人と会いません。そのためか、ネット環境が未整備で、ホテルでも衛星かいせんを使ってロビーだけでWi-fiが提供されていました。ラオスのルアンパバーンに行った時には、ネットカフェに観光客が群がっていて、こんなリゾート地に来てまで、ネットを見るのかと、半ば呆れましたが、ムルのように、ネットから遮断された場所が本当のリゾートの要件の一つかもしれません。日本人とは1組の家族としか合いませんでしたが、ネットにつながらない環境を嫌ったというわけではないでしょう。

現在の稲毛からは想像できませんが、多くの別荘などが建てられたということは白砂青松ののどかな場所だったのでしょう

2023-11-05 08:00:00 | 日本の町並み
 六甲山の伏流水が宮水として湧出する場所に五つもの酒造りの里が生まれたのが灘五郷でした。日本酒はコメを原料にしますが、これに水を加えて発酵させるので、加える水は重要だったわけです。一方、リンゴやブドウを原料とする果実酒は水は加えないで発酵させるので、水のよい場所は必須ではなく、よいリンゴやブドウが実る場所が醸造所を決めるキーになります。我が国のワインの産地は甲州の勝沼が有名ですが、牛久にも良質なワインの産地がり、牛久シャトーと呼ばれる素敵な建物もあります。前置きが長くなりましたが牛久シャトーは、このブログで紹介済みですので、今回はこの牛久シャトーを作った神谷伝兵衛の別荘があった稲毛周辺を紹介します。

 
 
 
 
 
 
 今回紹介するエリアは、JR総武線の稲毛から新検見川にかけての海岸より、行政区域としては千葉市の稲毛区と花見川区の一部ということになります。旧神谷伝兵衛別荘はJR稲下駅を下車して南に坂を下り千葉街道に出たら右折して200mほど、街道に面した高台にあり、現在は千葉市民ギャラリーとして公開されています。建物は大正年間に建てられ当時としては珍しかった鉄筋コンクリート製の洋館で国の登録文化財になっています。1階部分は洋室で、しゃれたシャンデリアやピロティーが素敵です。そして2階に上がると、ぐっと趣が変わって純和風の部屋が連なります。当時に建てられた洋館の中に和室を見かけることは多く、日本人として畳の部屋はくつろぎの世界だったん尾かもしれません。

 
 
 かつての稲毛は白砂青松だったのか、神谷伝兵衛の別荘だけでなく、西に5分ほどの場所にはラストエンペラーと知られる溥儀の弟である溥傑が新婚時代を過ごした家が千葉市ゆかりの家として公開されています。こちらのほうは、庭園が美しい純然たる日本家屋です。この家屋も、元は東京の水飴商静稀氏の別荘として建てられたものだそうです。

 
 
 ゆかりの家の手前には9世紀に創建されたという稲毛浅間神社ありますが、千葉街道の南に建つ一の鳥居はかつては海中に建っていたそうで、街道より南は海だったということになります。この海だったであろう処にある稲毛公園には、民間航空発祥の地があり、T字方の記念碑が建っています。そしてそのそばには、戦後まもなく川崎製鉄千葉で資材運搬に使われた蒸気機関車も展示されています。

 
 公園の西には千葉トヨペット本社の建物がありますが、とても自動車会社の建物とは思えません。それもそのはずで、明治後期に内幸町に建てられた旧日本勧業銀行の本社ビルの建物だからです。大正年間からあちこちに移築転用され昭和40年に現在地で千葉トヨペット本社ビルとして使われている、国の登録文化財です。

 
 
 
 そこから検見川方向へは、千葉市内とは思えないのどかな田舎道もあって、明治期に千寿寺と南蔵院都が合併した千蔵院やりっぱな門構えの農家が散在しています。やがて低層の戸建て住宅がたくさん立ち並ぶ台地のような地域を通り抜けることになりますが、その住宅街の中にぽっかりと草ぼうぼうの荒れ地があります。よく見ると、その雑草の中に廃墟状態のコンクリートの建物があって、これはかつての検見川送信所なのです。建物はかなり劣化していますが、大正末期のモダニズム建築で、策に囲まれて近寄れないのが残念です。検見川送信所は対外国との無線交信のために当時の逓信省が建てたものですが、戦後電電公社の管轄となった後、昭和54年に業務を終了した歴史を持っています。廃止から40年以上もなりますが、建物は千葉市による文化財調査などが行われているようですが、公開もされず廃墟状態なのは行政の怠慢のように思えます。

 民間工期発祥の地は、1912年にこの地にわが国で初めて練習飛行場が開設された場所ですが、ライト兄弟が初めてエンジン付きの飛行機を飛ばしてわずか9年後でした。当時の飛行機は主要区が二枚ある複葉機で、特にライトの飛行機は水平尾翼が前方にある、先尾翼軽視で、ライとは二枚の主翼の下のほうに腹ばいになり、飛行機をカーブさせるエルロンを持たない構造だったので、主翼をねじって曲がっていたのだそうです。現在の飛行機には主翼にエルロンと呼ばれ上下する小翼がついていて、車のハンドルのような操縦かんを左右に回すことで、飛行機を左右に傾けて曲がります。しかし、エアバス社の作る旅客機にはこの操縦かんはなく、サイドスティックと呼ばれる握り棒のようなものになり、これを前後左右に傾けて操縦します。この動きをコンピュータが読み取って、エルロンを動かすので、飛行機の操縦は名人芸ではなく安定に重きを置くようになりました。