世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

鯖街道に残る時間の止まったような宿場町、熊川

2006-04-25 14:37:58 | 日本の町並み
 東京の魚の集散地は築地ですが、かつて日本海で採れた魚を京都に運んだ道の一つが鯖街道です。鯖街道は若狭、現在の小浜から南下して朽木、大原を経由して京都に至る70kmあまりの街道でした。その鯖街道の小浜寄りに、宿場町の雰囲気を残す熊川宿があります。熊川は、住所を福井県遠敷(おにゅう)郡上中町熊川といい県の南の端、峠を越えると滋賀県という場所にあります。

 鯖街道は、名前の通り鯖を中心とした海産物を、十八里の山道を越えて運んだ街道です。かつては不眠不休で一晩で運ばれていたこともあるそうです。塩をした鯖が、京都に着く頃にはちょうどいい食べごろになっていたとか。熊川はその鯖街道の要所に位置することから、16世紀後半に若狭領主の浅野長政によって諸役免除をされ宿場町として発展したようです。江戸中期の18世紀後半から大量の鯖が京都に運ばれにぎわったようですが、現在は訪れる人もさほど多くない静かな町になっています。

 熊川を訪れるためには、湖西線の近江今津と小浜とを結び鯖街道に沿って走るJRバスがに乗るのが便利です。蘇洞門(そとも)観光や海の京都と呼ばれる仏教遺跡などのある小浜を訪れるついでに、このバスを途中下車してアクセスできます。若狭熊川のバス停で下車し、バス道を逸れてだらだら坂を上る途中に熊川宿の標識があり、

ここが町の西の入り口になります。坂を上りきったところから、東の端の道の駅までの1kmほどに、かつての宿場町の雰囲気を残す家並みが通りを挟んで続いています。

 古い町並みが残り観光客が大勢訪れる場所では、古い家を利用した博物館やみやげ物屋などが軒を並べていることが多いのですが、ここでは、かつての村役場を利用した宿場館や旧逸見勘兵衛住宅が公開され内部を見学できる程度で、いたって地味なのです。個々の町家は真壁造や塗込造などに虫籠窓を配した伝統的な家々が多いのですが、茶店ふうの喫茶店があるくらいで、日常の生活のままの町並みが、時間に取り残されたかのように存在しています。映画村に迷い込んだような錯覚を覚えるのは、電線などが地下化され電柱が見当たらないのも理由の一つかもしれません。

 通りの端にはきれいな水が流れる前川と呼ばれる流れの速い小川もあり単調になりがちな風景にアクセントを与えています。心地よい町並みに共通することの一つに、水の存在があるように思います。郡上八幡、五個荘、秋月、近江八幡など、水というのは日本の風景にすわりがよいのかもしれません。

 町並み景観保存地区では電線の地中化によってすっきりとした通りが増えているように思います。大都市では、逆に電力需要の増加のため、大部分の電柱に変圧器が乗っていて圧迫感を受けることが多いようです。ケーブルを地下に埋める工事は、交通への影響などもあって、電柱への敷設に比べて困難を伴うようですが、熊川などで道路から見上げる遮るもののない空を見ているとちょっとうらやましい気もします。ただ、電線に荷物をくくり付けて相手に運んでもらうのには不便でしょうか、いやいやこれは明治時代に電信が入ってきた時の奇行でした。当時は電報が電線で運べるのなら、物も電線にくくりつけておけば運んでもらえると考えたようです。

菜の花畑の中に菜の花色の小さなディーゼルカーの走る房総の小江戸、大多喜

2006-04-17 14:39:24 | 日本の町並み
 春を代表する花としてチューリップは欠かせませんが、菜の花も重要な位置を占めているかもしれません。今年の菜の花は咲くのが少し遅くなり、桜との競演は難しかったようですが、首都圏ではさすがに見ごろはすんでしまったでしょう。この菜の花色のディーゼルカーが走っているのがいすみ鉄道で、上総中野と大原の間を結ぶローカル線の線路に沿って菜の花畑が広がっています。

今回は、いすみ鉄道のちょうど中央の駅、大多喜周辺を紹介します。

 大多喜は房総半島の中央の外房寄りの夷隅(いすみ)郡の町で、ややこしいことに、大多喜町に接した太平洋側には、平仮名表記のいすみ市もあります。この、いすみ市も元は夷隅郡の夷隅町と隣の大原町とが合併して誕生したものです。いすみの地名は古事記や日本書紀にも登場する古い地名のようですが、大多喜は江戸時代の本多忠勝の築城になる城下町として発展してきました。駅の裏手の小高い丘には、大多喜城の天主が再建され博物館になっています。この丘に登る道はいったん丘の裏に回って随分と遠回りをしなければなりませんが、帰路に近道を見つけました。丘の手前にある大多喜高校を突っ切って、高校の裏にある階段を登れば丘の上に出られ、駅から歩く距離は6割程度に縮まります。

 丘から見える大多喜の町は、房総の小江戸と呼ばれる町並みで、そこかしこに古い城下町の雰囲気が残っています。重要文化財の渡辺家住宅のほかに、いくつかの造り酒屋もあって、緑色のさかばやしも下がっています。

このさかばやしは、本来は新酒ができたという目印ですから、緑色の杉玉のはずですが、よく見かけるのは茶色に変色した形ばかりのものが多いように思います。変わったところでは、房総中央鉄道館という鉄道マニア必見の博物館もあります。総延長1kmにも及ぶ模型線路の設備は県内最大で、模型以外にもいろいろなサボ(列車につけられたホウロウ製の行き先表示板)や鉄道の小物類が展示されています。

 鉄道といえば、先に紹介したいすみ鉄道は、上総中野でJR内房線の五井から伸びてきた小港鉄道と接続しています。首都圏から、内房線(五井)小港鉄道(上総中野)いすみ鉄道(大原)外房線と回れば、房総半島を輪切りにした日帰り小旅行ができます。この2本の鉄道の本来の目的地は上総中野ではなく、いすみ鉄道の前身の国鉄木原線では、内房線の木更津まで伸びる予定でした。一方の小湊鉄道は、名前のように外房線の安房小湊まで達するはずでした。この両者が、予定通りに線路を伸ばしていれば、房総半島を2種類の線で串刺しできたはずなんですね。ただ、2種類の鉄道会社での縦断路線であっても、両線を通しで乗り継げる割引切符が用意されていて、個別に乗車券を買うよりも安くなっています。また、本数の少ないダイヤは、上総中野でのぴったりの接続になっていて、列車が遅れても待っていてくれるようです。

 インドに旅行をした時に、一面の菜の花畑に出くわしたことがありました。しかし、ガイドさんの説明ではカラシの花だとか。カラシと菜の花は同じアブラナ科なので似ているようです。携帯電話とPHSも外観や使い勝手は似ていますが、電波の出力は10倍ほども違います。携帯電話の使用が制限されている病院などで、お医者さんが使っているのは、"内線用"と大きく表示されたPHSで、電波出力が小さく医療機器への影響の心配が無いものです。それなら、外部から持ち込んだPHSも使えるのでは?と思いますが、外観の似ている携帯電話と区別するのが難しいので一律禁止のようです。

まもなくチューリップが満開になる砺波平野の南端にある越中の小京都、城端

2006-04-14 14:40:58 | 日本の町並み
 これまでは、書き溜めていたものをリライトしてきましたが、新しく書き起こしたものを交えて公開してゆくことにしました。新旧を区別するために、新たに書き起こしたものは表題の先頭に"N"の文字を付け加えることにしました。

 新規の初回は、まもなくチューリップが満開になる砺波平野の南端の城端を紹介します。城端のある富山県の南砺市は、チューリップ祭りのある砺波市に隣接する富山県の西南端の市です。8つの町村が合併して誕生したもので、市の南端には世界遺産で有名な五箇山も含んでいます。城端までのアクセスは高岡から伸びるJRの城端線で、屋敷林を持つ典型的な散村の砺波平野を眺めながらの移動になります。1時間に1本程度の割合で、1~2両編成のディーゼルカーがのんびりと走っています。

 城端は越中の小京都と呼ばれていて、駅から山田川を渡ったあたりから池川にはさまれたあたりに古い町並みが残っています。町並みの中心には善徳寺があり、その巨大な山門は京都の禅寺を思わせまが、こちらは北陸に信者の多い真宗のお寺です。お寺を通り抜けたところに、曳山会館があり、5月14、15日の曳山祭りで使われる3基の山が展示されています。ただ、筆者は早朝に訪れたため、入館できませんでしたが、会館の裏にある蔵回廊は外部からの見ることができ、連続する蔵を背景に花壇のサルビアが綺麗でした。

 古い家並みが多く残されているのは、曳山会館の前のバス道路を渡って池川に行く途中を右折したあたりで、お醤油屋の看板が下がっていたり、微妙に曲がった通りに格子の連なる家があったり、小川の流れがあったりで、昔にどこかで見たような風景が続いています。さらに、池川を渡って東にしばらく行くと、水車の里があります。道路沿いの小川に50基近くの水車があり、おのおのにカラクリ人形などが組み合わされた創作水車で面白いのですが、かなりの部分が傷んでいて動きません。保守の手が回らないのか、観光客が壊してしまうのか、ちょっと残念です。

 クリーンなエネルギーとして燃料電池が注目を集めていて、自動車やJRのディーゼルカーへの導入試験が進んでいます。また、消費電力が大きくなる一方の携帯電話での利用も期待されているようです。一方、自然のエネルギーを有効活用する動きとして風力発電や太陽電池の普及も進んでいます。水車は、水の流れという自然エネルギーを利用したもので、電気エネルギーが利用される前は動力の主役だったわけです。そういえば、水力発電所で発電機を回しているのも、巨大な水車なんですね。

魚市場の近くにほっとする町並みも残る築地

2006-04-09 14:42:09 | 日本の町並み
 穴太寺の布団を着て横たわる涅槃仏もユニークですが、築地の本願寺も他の日本の仏教寺院に無いユニークなインド様式の建物で有名です。今回は本願寺周辺、築地の町から紹介します。

 先日久々に築地本願寺にお参りして驚いた発見がありました。本尊にお参りして振り向いた視線の先にパイプオルガンのパイプの集合を発見してしまいました。パイプオルガンはキリスト教会にはつきものですがお寺にあるのには驚きました。以前から存在したかどうか分からないのですが、本堂に張ってあったポスターから、その用途が推測できました。そのポスターは結婚式のPR用だったのですが、そこに写っていた新婦はウェディングドレス姿だったのです。おそらく入場の時にパイプオルガンの演奏があるのではないでしょうか。ただ、新婦の姿はウェディングドレスでも、式の進行は焼香などを取り入れた仏式のようです。

 仏式といえば、かつてお盆の期間は魚屋さんが休みだったことがありますが、魚の卸売市場も築地を代表するランドマークではないでしょうか。都内にいくつかの卸売市場がありますが、卸売り市場と聞くと築地を思い浮かべます。市場内には1000軒近くの水産仲卸の店がありますが、4~5年に一度の頻度で市場内の引越しが行われます。店の位置によって売り上げに影響があり、公平さを保つために行われ、最近では今年の5月に実施され話題になりました。店舗の移転に伴い冷凍庫や水槽なども移設する必要があり、その費用は莫大なものといわれています。店舗には通信回線も引かれていて、数日の間に1000回線を超える電話を一挙に移設するのは大仕事とは、築地を受け持ち区域とする電話局で10数年前に聞いた話です。現在は携帯電話が普及して固定電話が減り、移設工事量も減ったのではないでしょうか。

 店舗の引越しといえば、当然看板も引っ越すことになりますが、看板建築という名前をご存知でしょうか。日本の伝統建築様式で建てられた町家の通りに面する部分に看板状に洋風の意匠を貼り付けたような建築様式のことです。看板状の意匠は銅板やタイルで葺かれていて、関東大震災の後に防火の意味合いから流行したスタイルだそうです。築地本願寺の裏、卸売市場の北側に広がる町並みの中に、この看板建築がかなりの数で残っています。銅板は緑青を吹いて、貼り付けた銅板がうろこ状になっているので、まるで巨大な蛇を見ているようにも感じます。築地界隈には、細い路地や、通りに並べられた草花、それに格子の付いた木造の旅館など、昔にはどこにでもあった、生活のにおいのする、どこかほっとする町並みが残っています。

 魚や野菜などを卸売り市場に運ぶときに、どこの市場に持っていくと高値で売れるかという情報をもとにトラックの行き先を変更するということを聞いたことがあります。商品の値動きなどの情報をもとに携帯電話を使ってドライバと連絡をとって指示するようです。物の移動には時間がかかり、市場の開く時間は決まっているわけですから、単純に一番高い市場に持ってゆけばよい、とはならないでしょう。GPSなどによるトラックの位置管理や道路の状況などを含めた情報を総合的に判断するようなシステムが必要なのでしょうが、技術が進んで情報は瞬時に伝わっても、物の動きにはエレルギーと有限の時間がかってしまいます。物の動きを最小限にして効率化を図るのもITの役割のひとつかもしれません。

明智光秀の城下町で布団を着た仏様にも出会う亀岡

2006-04-02 14:43:40 | 日本の町並み
 わたらせ渓谷鉄道のトロッコ列車は通常の列車の間に運転される特別車両ですが、すべての列車がトロッコ列車という鉄道が嵯峨野観光鉄道、通称嵯峨野トロッコ列車です。かつて保津峡の崖っぷちを通っていた山陰線は、輸送力増強のために複線電化をしてトンネルでバイパス線を作りました。非電化単線の旧線は不要になりましたが、景色のよさを買われてトロッコ列車が運行されるようになりました。路線は京都の嵐山から保津川を遡って亀岡までで、トロッコ列車に乗って亀岡に行って保津川下りの船で嵐山に戻るのが観光コースになっているようです。
 現在トロッコ列車の走っている山陰線旧線は、かつては私鉄の京鶴線として建設されたのですが、その生みの親の田中源太郎翁の生家が亀岡市に残っています。楽々荘の名称で素敵な料理旅館になっています。広大な庭園の中に折衷様式の建物群があり、その中のイタリアンレストランはサンルーム状のテラスが付いた木造洋館です。料理もなかなか美味でしたが、それにも増して周りの景色の緑と建物の淡い緑のコントラストがとっても美味でした。
 緑といえば、市の中央辺りの緑の固まりは、本能寺の変の一方の主役、明智光秀が築城した丹波亀山城(明治期に伊勢亀山との混同を避けるために、現在の亀岡の地名に変更されました)の城跡です。現在、城跡には石垣などが残っていて、本丸跡などは宗教団体の本部として使われています。城跡を中心とした一郭は、駅周辺の雑踏とは異なり、古い家並みなど城下町の雰囲気を残す町になっています。
 古いといえば、駅前からバスで20分ほどの穴太寺(あなおじ)は、奈良時代に創建された丹波地方でも屈指の歴史の古いお寺です。西国21番の札所になっていて、仁王門あたりから眺めた雰囲気は、他の西国の札所の寺々とどこか似たところがあるように思います。札所のざわめきから逃れて、本堂に続く渡り廊下でつながった本坊の庭は本堂や多宝塔を背景にしてこじんまりとまとまっていました。一方の本堂には、本尊の秘仏の観音像を差し置いて、ユニークな仏様が横たわっていらっしゃいます。いわゆる涅槃仏なのですが、信者に撫で回されて黒光りのする木造仏が、なんと布団を着せられていたのには驚きました。
 本能寺の変では、岡山で毛利軍と戦う秀吉へ当時としては極めて短時間で情報伝達が行われたといわれています。事件を知らない毛利軍と和議を結び、急いで京都に取って返し、山崎の戦いで明智軍を破ったことはよく知られています。光秀は、こんなに早く秀吉が戻ってこられるとは読んでいなかったようです。すばやい情報伝達と、その情報をうまく生かした判断が勝利を生んだわけですが、情報伝達が格段に早くなった現代では、膨大な情報の中から生きた情報を如何に的確に早くつかんで行動するか、という教訓を持つ事件ではなかったでしょうか。