世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

源氏物語の舞台にもなった明石ですが、魚の棚にぶら下がっている足を広げたタコにはギョッとします

2019-03-31 08:00:00 | 日本の町並み
 日本標準時の子午線の通る位置に天文科学館がある町が明石でした。明石城や科学館のあるのは、JRや山陽電車の線路の北側ですが、線路の南側にも西国街道の名残や源氏物語ゆかりの場所があります。今回は前回に続き明石の町を取り上げますが、線路の南側を紹介します。

 
 前回に紹介の、天文科学館の東側の道を南に下ると山陽電車の人丸前駅の西側、高架を通り越したあたりに両馬側旧跡の比があります。一の谷の源平の戦いの後、敗走する平忠度に岡部六弥太が追い付いて二人の乗る馬が川を挟んで対峙した場所だそうです。線路の北側にはなるのですがやはり源平の合戦の時に平経正が討ち取られ乗っていた馬を埋めたという馬塚もあります。

 
 
 さらに南に行くと国道2号線で、国道を東に行くと稲爪神社で、素っ気ない神社ですが推古天皇の頃ですから6世紀の創建です。朝鮮半島より来襲した敵を討ち取るため大山祇に祈ったところ稲妻と共に神が現れた場所に社殿が作られたのだそうです。国道を横切って南に行くと旧西国街道で、街道沿いには出格子をはめた古民家が残っています。西国街道がクランクになっている所の項番のそばには、子午線表示柱なる石柱が立っています。さらに南に突き当たると中崎公会堂で明治期に建てられた内部空間の大きな公会堂が存在感を示しています。

 
 公会堂から西に駅の方に戻ります。明石駅の南側にある商店街が魚の棚、地元では「うおんたな」と読みます。全長は350mくらいですが、名前の通り魚屋さんが多く、中でも明石のタコを売る店が目立ちます。年末には、東京のアメヨコのようにお正月の準備の買い物客でごった返します。また。最近はくぎ煮が有名になり、春先には材料のいかなごの買い物客の行列ができます。

 
 
 魚の棚を西に通り抜けて明石川の近くを南に曲がり、しばらく行くと源氏物語の「明石」のゆかりの場所に出ます。その場所には蔦の細道と、その先には無量光寺が建っています。蔦の細道は、光源氏が明石の上野基に通ったロマンの道と言われていますが、なんとも素っ気ない道ですが、角の祠に祀られているお地蔵さまが微笑んでいました。一方、無量光寺は光源氏の月見の館の跡と言われているお寺で、こちらも素っ気ない感じがします。

 源氏物語は54帖からなる長編小説で、各帖ごとに主人公の光源氏の相手が変わります。明石の上の登場するのは13帖で、、書き出しからまだ1/4程度の部分になります。源氏物語にゆかりのものが沢山ありますが、その中に源氏香という香道の遊びがあります。香を5回嗅いで、そのうちのどの回が同じ香であったかということを当てるものです。この組み合わせの種類数が54になるの源氏香の名前が付けられました。参加者は、解答用紙に描かれた5本の縦棒に、同じ香と思う部分を横棒で結んで提出します。それぞれの組み合わせに、源氏物語の各帖が対応していて、回答を競うだけでなく、該当する源氏物語の帖に思いをはせる優雅な遊びのようです。ちなみに明石の帖は右のような図柄になります。人間の嗅覚は犬とは比べようもありませんが、これだけITが進んでも嗅覚に対するセンサは、まだまだ開発途上のようです。

京都の世界遺産は個々の寺社だけでなく、町並み全体を世界遺産にしてもよいかもしれません(日本)

2019-03-24 08:00:00 | 世界遺産
 都から遠く離れた平泉に独自の文化を築いたのが奥州藤原氏でした。結局、新興勢力の源頼朝に滅ぼされ4代で平泉文化は消滅してしまいました。奥州藤原氏は、遠くにある京の文化にあこがれて、短期間に小京都ではなく京に負けない都市を作ってしまいました。ただ、本家本元の京都は、平安遷都から1200年以上も京文化の中心として、いまだ健在です。今回と次回は、この京文化の具現として世界遺産に登録された「古都京都の文化財」を紹介します。今回は、京都市中心部にある文化財を、次回は周辺部を取り上げます。

 京都の世界遺産への登録は17の社寺と城郭で、そのうち京都市の中心部には、6つの寺院と城郭があります。ここでは、北にある文化財から順に紹介します。

 
 市街地の北西に位置すのが金閣寺、室町幕府三代将軍義満が建てた寺ですが、この金閣は正式には鹿苑寺舎利殿で室町前期の北山文化を代表する国宝建築でした。しかし、渋金の金閣に、見せられた若僧の放火によって焼失、5年後に現在の金ぴかの金閣が完成しました。勿論、現在の金閣は文化財としては無指定ですが、金閣を取り巻く回遊庭園や北条の庭など昔のままと思われる風景が楽しめます。外人や修学旅行生には、最も人気のある施設の一つと言えます。

 
 金閣寺と対をなす銀閣寺は市街地の北東の隅にあって、室町幕府町代将軍義正が建てた寺で、正式には慈照寺観音殿で、東山文化を代表する国宝建築です。こちらは、室町建築が健在ですが、銀閣の名称で呼ばれますが、銀箔を張られた痕跡すらありません。銀箔が張られなかった理由は諸説あるようですが、室町幕府も八代将軍の頃には財政事情が悪くなって銀どころではなかったという理由になるほどと思います。ただ、こちらには、茶室の原型となった東求堂も国宝建築で、文化財の価値としては金閣より上のようです。

 
 現在の京都市街のほぼ中央の西に位置するのが二条城で、御所の南西1kmほどの場所です。徳川が天皇を監視するのに程よい距離だったのでしょうか。広さは500m四方程度ですが、国宝の二の丸御殿や重文の本丸など文化財がぞろぞろあります。、天守は落雷によって失われ、現在は天守台が残るのみです。天守にとって強敵は、対抗する大名ではなく雷だったのかもしれません。江戸城も天守台だけで、こちらも落雷で天守を失っていますから。京都の七夕では、二条城の東を流れる堀川で灯篭流しなどのイベントがあり、二条城も夜間公開されます。筆者が訪れた時には、二の丸御殿にプロジェクション・マッピングでカラフルな模様が描かれていました。堀川沿いと言えば、現在明治村で走っている小さな路面電車のN電が最後まで残って走っていました。京都駅から北野神社まで、町家の軒先をかすめていて走り、明治村とはまるで違った景色でした。小学校の頃に、廃止直前に乗る機会に恵まれました。

 
 
 二条から下がって次は五条の清水寺です。修学旅行生にとっては金閣寺や二条城と同様にお馴染みかもしれません。舞台づくりの本堂が国宝で、他に三重塔などが重文指定になっています。創建は諸説があるようで8世紀後ののようです。ただ、この本堂は本堂に居ては構造が解らないわけで、迫力のある下から見上げる構図を採るか、泰産寺への道の途中で舞台と対面から遠望するかでしょう。清水寺のある東山界隈は清水への参道の一つの産寧坂や八坂の塔(法観寺の塔)んど、世界遺産にはなっていませんが京都らしい風景のある界隈です。

 
 
 さらに下がって七条の北には東西の本願寺があります。このうち世界遺産に登録されているのは西本願寺で、聚楽第の遺構が威光として光っているのかもしれません。飛雲閣に限らず御影堂や唐門など国宝建造物は7棟、重文に至っては20棟もあり、その数は京都の世界遺産では飛びぬけていて、京都駅のすぐ近くにこれだけの文化財があるのは意外です。南西端に隣接する竜谷大の洋館も立ち寄る価値のある建物です。

 
 さらに南に、最後は九条の東寺です。京都駅より西に在って東寺という名称は不思議ですが、平安京のエリアは現在の京都市街より西寄りだったわけで、現在は残っていない西寺はもっと西寄りの西大路近くに建っていました。官寺としての東寺より、空海後の東密の中心寺院としての文化財が多く残され、講堂には立体曼荼羅として密教系の仏像が須弥壇の上に林立しています。建物の文化財も多く、仏像などの文化財を加えれば、京都市内で最も文化財の多いお寺の一つと言えるでしょう。これらの仏像の一部などが明後日から東京国立博物館の特別展で展示され、細身のスタイルの良さで有名な兜跋毘沙門像も展示されるようです。

 京都に行くと通りが東西と南北に直行していて、よそ者にも分かり易くて助かります。その真逆が、農道がそのままメインの道路になってしまって、方向感の読めない東京かもしれません。、ただ、もっと進んでいるのが大坂で、南北が筋、東西が通という名称で分かり易くなっています。地理が分かり易い京都ですが、春秋に訪れると、道路がが渋滞で大変になります。市バスは大混雑で、途中のバス停で待っていても、満員通過です。バス停には、バスの接近を知らせる案内板はありますが、満員通過では用をなしません。バス停の方にも、待ち行列のセンサを付けて、混雑に応じてオンデマンドで運行してほしいものです。特に最近は、アジア系の観光客が増えてひどくなりました。勝手の分からない彼らのために、停車時間が長くなり、余計に団子運転になり混雑します。イギリスでは、通常の運賃を高くし、手間のかかりコストがかかる観光客などは、この運賃を負担させ、一般市民にはいろんな割引制度を準備しているようです。そろそろ、悪平等や止めて、コスト見合いの費用負担を考えるべきではないでしょうか。

日本標準時の子午線がとおる明石には、城跡だけでなく宮本武蔵や柿本人麻呂の名前の付いた遺構もあります

2019-03-17 08:00:00 | 日本の町並み
 秀吉の頃に播磨から有馬温泉に通ずる街道として整備され江戸時代には宿場町であったところも、現在では人通りの見かけに集落になってしまったのが淡河でした。有馬温泉には、秀吉のおひざ元の大坂かkら六甲の裏を廻る街道もあったようですが、湯乃山街道の名前が残るのは明石あたりの播磨地区から三木あたりを東北東に横切っていく街道です。明石には標準時の子午線が通るからというわけではないでしょうが、今回はこの日本標準時子午線が通る町の明石の子午線の周辺を紹介します。

 日本の標準時は東経135度に太陽が南中する時刻で決められています。この東経135度の子午線が通過するのが明石で、その子午線上に天文科学館が建ち、日本標準時子午線表示柱なのです。ところが、この東経135度という線、実は2本あり、天文科学館の建つのは天文経度の135度上で、地理経度の135度は西に120mほど西にずれています。このずれは、地球の形が真球ではなく楕円球のためで、天文経度は重力線から決められた南を太陽が通過する時間で決められ、地理経度は、地球を北極と南極を通る面で切り取った時にできる面とグリニジを通る面との角度で決められます。

 
 
 
 JRや山陽電車の明石駅の北側には、旧明石城の石垣や櫓があり、その南には公園が広がります。公園の入り口付近にはとき打ち太鼓の遺構があり、公園の中には武蔵の庭なるものがあります。さらに、標準時の町とお城とをあわせもつことから、兜と槍とを組み合わせた日時計も作られています。公園からは明石城の石垣の上に2つの櫓が望めます。明石公園とJRの線路との間には堀があって、その堀の南西角あたりには旧織田家長屋門があります。現在の場所から西に1kmほどの旧船上城の門を移築したと言われています。明石公園を抜けて、明石城の石垣の間を上って櫓まで行くと、足元には明石の町並み、その向こうには淡路島、そして東には明石架橋が望めます。

 
 
 
 明石城跡の東側には、小高い丘の上に寺や神社、それに教会まであります。明石城の本丸跡を東に行くと明石博物館の裏に出ます。東に坂を下って広い通りの向かい側の道を行くと、大聖寺で、本堂の上に日蓮の像が立っています。その隣は上ノ丸教会で、さらに行くと妙見社の南側にでます。元は本松寺の鎮守社で、神仏分離で神社になっていますが、どことなく御寺っぽい建物です。道は右に曲がって、本松寺があり、本堂の裏に庭園があります。

 
 
 
 本松寺の角から急な石段を上ると月照寺で、本堂の左手には石庭風の庭が作られています。月照寺の住職が夢野お告げを受けて柿本人麻呂を祀るために人丸社を作り、これが現在隣にある柿本神社です。こちらも、明治の神仏分離の際に神社とお寺に分かれました。月照寺と柿本神社の間の向かい側には標準時を示すトンボの標識があり、その向こうのがけ下には天文科学館があります。また、柿本神社の東側の参道を天文科学館の東を通る道路側に降りて、北に行くと人円山公園で、こちらには「時のふるさと明石」の群像が建っています。

 時刻の標準は、地球の自転から決められましたが、現在は国際原子時計の刻む時刻が世界の標準となっています。これは、地球の自転速度が微妙に揺らぐためですが、原子時計の時刻が地球の自転が示す時刻と乖離しないため、何年かに一度うるう秒を挿入したりして調整をしています。一方、長さの基準は、メートル原器から、真空中を光が一定時間で進む距離に置き換えられています。さらに、質量は最後までキログラム原器が使われてきましたが、昨年の秋にプランクの定数を基にした基準に置き換えられました。これらは、まず日常生活には影響をしませんが、厳密性を必要とする物理などの議論では重要な定義変更になるそうです。とこrで、国際原子時計の精度ですが、1億年に1秒以内なのだそうですが、誰が測ったのでしょうね。

ガソリン車が乗り入れないツェルマットの道路をヤギの大群が闊歩していました(スイス)

2019-03-10 08:00:00 | 世界の町並み
 敦煌には仏典を運んできた白馬を鳩摩羅什が弔ったと言われる白馬塔がありました。当時は、広大な砂漠の移動にも歩くか、せいぜい馬に頼ることしかできなく、排気ガスは出さない自然に優しい移動だったわけでしょう。世界の観光地で内燃機関の車の乗り入れを禁止している所は意外に多く、アメリカでは、映画「ある日どこかで」の舞台になったマキノー島が有名で、スイスには、いくつかの観光地で禁止されています。今回は、これらの中で、マッターホルン観光の基地の一つツルマットを紹介します。

 
 
 ツェルマットは、スイスの南西部、マッターホルンやモンテローザの観光基地ですが、それらの峰の向こうは、もうイタリア領です。ブリークから南進をしてきたマッターホルン・ゴッタルド鉄道の終点で、サンモリッツからオーバーアルプ峠を越えてきた氷河急行の終点駅でもあるのがツェルマット駅です。車で来た観光客は、ツェルマットの手前のテッシュで車を駐車場に停めて、テッシュ駅で鉄道に乗り換えてツェルマット駅まで行くことになります。ツェルマットの中は電気自動車や馬車の実が走れ、ガソリン車は緊急車両など、特別に許可された車両だけです。町中の道路には、電気自動車や馬車や歩く人間だけでなく、時折ヤギの集団が通り、まるでアルプスの少女ハイジの世界です。ヤギの行進する道路沿いのホテルの窓からは、マッターホルンが望め、居ながらにして、太陽の動きによる色合いの変化も楽しめます。

 
 ツェルマット駅周辺は、窓に花鉢が並んだ綺麗な山小屋風のホテルなどが建ち並んでいますが、少し離れた場所には木造の倉庫群があります。食糧倉庫は石の基壇の上に建ち、これは鼠返しなのだそうです。16世紀ごろに建てられたものだそうで、冬場は羊小屋になるものもあります。これらの倉庫の窓も花鉢で飾られていました。

 
 
 
 ツェルマットは言わずと知れたマッターホルンの観光基地で、ここからマッターホルンまで登山をする人、マッターホルンの肩の部分までハイキングをする人なども居ますが、ほとんどはゴルナーグラートまで登山電車で上って景色を眺める観光客です。このゴルナーグラート鉄道の終点からは、ツェルマットの向こうにマッターホルンが見えますが、北壁が良く見えないようです。また、この鉄道は混雑することで有名で、乗車できるまで随分と待たされます。筆者は、このルートを避けて、ロートホルンに上ることにしました。こちらは、地下駅を走るケーブルでスネガまで登り、ここからロープウェイに乗り継ぎます。頂上は、ゴルナーグラートより高く、北にあり、マッターホルンの北壁も良く見えます。何より良いのは、このルートは、なぜか空いているのです。頂上駅の近くには、高山植物らしい花々が咲いていました。

 現在の電気自動車は、随分と性能が良くなって、一家の充電で何百kmも走れるようになりました。バッテリーとモータで動く自動車の歴史は意外と古く、ガソリン車より早くに製造されたようです。ただ、電池の性能などの問題から、その後はガソリン車が大勢を占めたようです。最近の蓄電池の性能向上は素晴らしいもので、モーター駆動の飛行機も出現しそうな勢いです。ただ、電池の充電時間が長いことから、次世代の本命は燃料電池という議論もあるようです。電気自動車は自然に優しい、と言われますが、原発を止めてしまって、火力発電ばかりの現状では、化石燃料を燃やす場所が変わっただけなんですね。

有馬温泉への街道の宿場町として栄えた淡河ですが、今はひっそりとして人影も見当たりません

2019-03-03 08:00:00 | 日本の町並み
 三田から三木を経由して北播磨への街道筋の宿場町として繁栄し、現在は取り残されたような集落が吉川でした。吉川から谷筋を一つ南にある集落が淡河(おうご)です。吉川は三木市の一部になっていますが、その吉川が合併の直前までになってご破算になった神戸市ですが、淡河は神戸市の北西端になります。今回は、吉川同様に、時間が止まって取り残されたような淡河周辺を紹介します。

 
 
 
 
 吉川が中国道の通る谷筋でしたが、淡河は山陽道が通る谷筋になります。淡河の集落は、山陽道の南を道場から西へ三木に抜ける県道38号線沿いに広がっています。かつてこの県道は、播磨から有馬温泉に通じる湯乃山街道の名残で、淡河は街道の宿場町として本陣も置かれました。道の駅淡河の東100mほどで、旧街道が38号から北に分かれて少し行ったところに旧本陣跡が残されています。この旧本陣跡の村上家は、老朽化が進んだために改修されて、町のコミュニティ・スペースとして利用されているようです。428号線との角の所に、湯乃山街道淡河宿本陣跡の石柱が立っています。 旧街道を西へ、38号線と再合流するあたりにかけて、土蔵造りで板壁の古民家や茅葺の農家が点在しています。筆者が訪れたのは8年ほど前ですが、現在の様子をgoogleで見ると、土蔵の塀はブロック塀に、茅葺はトタン葺きになってしまったようです。

 淡河は神戸市北区の一部で、中国道のインターチェンジがあるとは言え、吉川と同様に陸の孤島のような場所で、有馬温泉までは17kmほど、神戸電鉄の箕谷駅まででも11kmほどもあり、もちろん集落の中に鉄道は走っていません。公共輸送機関と言えば、路線バスが三木や神戸電鉄の岡場、三田に向けて2時間に1本ほど走っているだけです。陸の孤島と書きましたが、伝説によると、この辺りは飛鳥時代には、島ならぬ泡河湖という湖で、徐々に水位が低下し、干拓なども進んで江戸時代には湖は無くなってしまったのだそうです。淡河のさらに南の谷筋に「つくはら湖」という人造湖がありますhが、淡河の谷筋も四方を山に囲まれていて、谷筋の全体が湖でも不思議ではないような感じもします。

 
 古い町並みからは外れますが、東北東3kmほどの淡河町神影には7世紀に創建され9世紀に建てられた重文の三重塔のある石峯寺(しゃくぶじ)があります。鎌倉時代には広大な寺域を誇っていましたが、現在は三重塔の他に重文の薬師堂と本堂があるばかりです。ただ、こんな山の中に、これほどの三重塔があるのは驚きですが、辺鄙なところゆえに建物が残ったのかもしれません。

 本陣は各地の大名が江戸への参勤交代で宿泊した施設ですが、この参勤交代は大人数で行ったり来たり、随分と無駄のように思います。江戸幕府としては、無駄をさせて、諸大名を弱体させるのが目的ですから、無駄は大きいほどよかったのかもしれません。徳川だけに都合の良い政策で、身勝手なものですが、街道や、宿泊施設の整備など、旅行に対するシステムの確立や、情報、モノのの流通を促進したというメリットの副産物を生んだようです。一方、マイナンバーのシステムは、権力機構が国民の財産を始め色々な情報を把握するために導入した、権力に都合の良いシステムですが、全国どこでも戸籍などの証明が取れるという副産物を生んだようです。出先で、住民票が必要になり、困ったのですが、近くのコンビニでマイナンバー・カードで得ることができました。ただ、この便利さは、プライバシーを悪用される温床になる怖さを忘れてはいけませんが。