世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

上海から高速列車で着いた鎮江には揚子江のそばの古刹だけでなく古い洋館もあります(中国)

2014-11-30 08:00:00 | 世界の町並み
 スイスの最南部に位置していて、湖畔にリゾートが広がる町がルガーノでした。イタリア国境も近く、イタリア製の高速電車がチューリッヒやドイツに向けて通り抜けていきます。しかし、スイスは、鉄道網は発達していますが、他のヨーロッパの国々のように自国製の高速列車は持っていません。一方、国産技術とうたった高速列車網を拡充しているのが中国ですが、なんとなくわが国の新幹線の技術を移植したようで、自国技術とは言いがたい感じです。このような高速列車が駆け抜けていく町の中から、今回は上海から高速列車で100分ほどの鎮江を紹介します。

 鎮江は、上海と南京とを結ぶ高速鉄道の南京よりに位置し、すぐ北に揚子江が流れています。かつては揚子江の対岸に行くには渡し舟があったようですが、現在は立派な橋が架けられ、橋を北側に渡ると、鑑真和尚の出身寺院がある揚州があります。鎮江の市街地は、弓なりに蛇行する揚子江に、半島状に北に張り出して東西に広がっています。在来線の南側に高速鉄道の駅があり、揚子江の川岸から南に1.5kmほどになります。見所は、揚子江の川岸に沿って東西に広がっていて、主なものは東に甘露寺、中央あたりに古西津渡街、そして西には金山寺があります。

 
 甘露寺はバス停から公園を横切って揚子江のそばまで行った岩山の上に建っていましたが、訪問時は工事中で詳しい紹介はできません。上れば揚子江の眺めが良かったのかもしれません。麓には、揚子江の観光船らしき船着場がありました。

 
 
 
 古西津渡街は、川岸から南側にせりあがる丘の北斜面に広がった古い町並みです。石造りの建物や木像の中国風の建物に混じって、旧イギリス領事館のレンガ造りの建物も残されています。ドアーに彫られた透かし彫りが美しい建物や、2階で楽器を演奏している建物もありました。かなり多くの観光客が通りを埋めていましたが、さすがに日本のパッケージツアー客は見かけません。

 
 
 
 
 そして西の金山寺は、甘露寺と同様に揚子江のそばにそびえる小山に建っている寺院で、頂上あたりの七重の塔が目立ちます。上るのはかなりくたびれますが、頂上からの眺めはそれなりに雄大なようです、ようですというのは、天気が良くなく揚子江の対岸までは望めなかったからです。中国の寺院なので、日本のように枯れた間寺は望めませんが、塔などの建物や雨水の吐水口の動物の造作などそれなりに楽しめます。

 中国の高速鉄道の乗車券は、原則的にどこの駅でも買うことができるようですが、在来線の乗車券は、その列車が通る駅でしか購入できません。おまけに、始発駅以外では、ほとんどの場合「無座」、つまり立席乗車券なのです。どうしても、乗車券が欲しい場合は、前もって当地の旅行社に手配を頼むより仕方ない状況です。高速列車はオンライン化されているのですから、このシステムを拡張すればとも思うのですが、広い国土をすべてカバーするのは大変なのでしょうか。日本では、どこの駅でも即座に特急券が当たり前のように購入できますが、マルスシステムができる1960年までは、似たような環境でした。中国では、列車というハードウェアの高速化はできているのでしょうが、それを支える列車の監理システムや乗車券の発見システムなど周辺のソフトは、まだまだ遅れているようです。これらの技術は国威発條につながらないからでしょうか。

列車が行きかう瀬戸大橋そばの塩飽本島には車内から想像も付かない古民家が並んでいます

2014-11-23 08:00:00 | 日本の町並み
 岬が風を防いだ良港が風待ちの港となっていた引田には、マゼンタ色の漆喰壁のお醤油屋さんが目立っていました。江戸時代は陸路による物の移動が大変だったので北前舟に代表されるように船による運搬が盛んでした。しかしながら、エンジンを持たない船は、風が頼りで、また潮流などにも左右されました。このため、北前舟の航路には風待ち港や潮町港といわれる港が数多く存在しました。今回は、これらの中から、香川県の西部の塩飽諸島の本島を紹介します。


 塩飽諸島は18に島々からなり、香川県の坂出市や丸亀市などに属しています。塩飽とは、塩を焼くまたは潮湧くに由来して、製塩業の歴史から名付けられたものと考えられています。中心となる島が塩飽本島で、現在は丸亀市の一部になっています。島には、丸亀港からフェリーや旅客船に乗って20~30分ほどで、岡山県の児島からも旅客船が通っています。この船は、瀬戸大橋の下をくぐって走っていますが、丸亀ルートより便数が少ないのが難点です。瀬戸大橋は、フェリーの港から、古い町並みの残る笠島集落に行く途中の海岸から全貌が見渡せて、橋を通ったのでは見られない、橋そのものの姿が見られます。

 
 フェリーの港から北へ10分ほど歩いたところには、江戸時代の政庁であった勤番所の建物が残されており、建物内には、塩飽水軍や咸臨丸の資料が展示されています。幕末にアメリカに渡った咸臨丸の乗組員の実に70%は塩飽諸島の出身者で占められ、これは塩飽水軍の名残のようです。江戸初期に出羽の米を江戸に運ぶ事業は河村瑞賢が立ち上げた西廻海運が独占しましたが、その運行の一切を仕切ったのが塩飽衆で、その本拠地であった塩飽は風待ち港として栄えました。

 
 
 
 
 
 
 勤番所からさらに北東から北へ瀬戸大橋を眺めながら海岸沿いに20分ほど歩くと重伝建地区となっている笠島地区に着きます。かつて、塩飽衆が本拠地としていたところで、三方を小高い山に囲まれた海沿いの集落です。ここ、笠島地区には、なぜこんな所に、これだけ多くの古い民家が残されているのだろうか?と驚くほどの物量で白壁、なまこ壁それに格子の家並みが続いています。フェリーの本数も少なく、島内のバスの便も良くない笠島地区ですが、それらの不便さを忘れさせてくれるすごさです。皮肉にも、島のこの不便さが、伝統的な町並みの景観を再開発という名の文化の破壊から守ってくれたのではないでしょうか。

 本州と四国とを結ぶ瀬戸大橋は開通して1/4世紀がたちましたが、開通当時は世界一の鉄道併用橋でしたが、現在は香港にある青馬大橋に1位の坐を譲っています。しかし、瀬戸大橋のすごいところは、1,000tの列車の通行を想定している所です。建築や土木の分野では早くから構造計算に大型コンピュータが利用され、電電公社が提供した大型コンピュータの共同利用サービスのDEMOSを利用する企業には建築関連の企業も多くありました。構造計算で大丈夫といっても、実際に1,000tの貨物列車を通す実験では、関係者の方々は、はらはらされたのではないかと思います。その時の様子の放送を見ましたが、列車の重さでたわんだ橋の付け根の所ははレールが折れ曲がらんばかりだったように思います。瀬戸大橋の貨物列車の通る上には道路があり、貨物輸送の主役は鉄道からトラックに移って久しいのも皮肉です。

リゾートの島のペナンには多民族の文化がごった煮状態になったジョージタウンがあります(マレーシア)

2014-11-16 08:00:00 | 世界遺産
 ヨーロッパ列強が入れ替わり侵略をして、次々と宗主国が変わる植民地になったマレーシアの町がマラッカでした。中国の華僑の文化も入り混じった混沌さが世界遺産に登録される元となったようですが、このマラッカと同じくくりとして世界遺産に登録されたのがペナン島のジョージタウンです。今回は、前回に引き続いてマラッカ海峡の歴史的都市群のうちジョージタウンを紹介します。

 
 ペナン島は、クアラルンプールの南100kmほどに位置するマラッカとは逆に、北300kmほど飛行機で50分ほどの位置にあります。島といっても、マレー半島とはさほどの距離ではなく、対岸のバターワースとは3kmほどの海峡を隔てるのみで、フェリーもしくは2本の橋を渡ってすぐの距離です。東西が12km、南北が24kmの長方形をしており、世界遺産に登録されているジョージタウンは、島の東北部でバターワースのフェリ-が発着する港の南西に広がる町並みです。ジョージタウンの名前は、200年前にイギリスに植民地として支配された時の英国王ジョージ四世にちなんでいます。フェリーの港の近くには、イギリスが植民地時代に作ったコーンウォリス要塞跡が残され、そばには東寺の提督のフランシス・ライトの像が建っています。今も残る大砲にはなぜかオランダの東インド会社のマークのVOCが残っていました。

 
 
 
 マレーシアなのに、ペナンの人口は華僑の末裔の中国系が多くを占め、次いでマレー系やインド系が多いようです。人種の坩堝のようで、この中に宗主国のイギリスの影響も加わって宗教施設を始め色々な文化がごった煮になっているようです。フェリーの港の近くにシティホールやタウンホールそれに税関の建物があり、これらの公共の建物はイギリスの影響を受けたコロニアルスタイルです。

 
    
       
            
 一方、そこから南西に広がる町並みは、混沌とした低層密集地で、華人街、インド人街などがあってその中心にはそれぞれの宗教施設があります。

 
 
 
     
 華人関連では仏教寺院として観音寺があり、クー・コンシーやヤップ・コンシーなどの霊廟に潮州会館などがあります。マラッカと同様にプラナカン文化もあり、裕福な邸宅のプラナカン・マンションが博物館として公開されています。概観のそっけなさに比べて、内部は豪華で、結婚前の写真の撮影にも使われていました。インド人街にはのヒンドゥー寺院があり、マレーシアは回教国なのでアチュ・モスクやカピタン・クリン・モスクの丸屋根もあ見えますし、宗主国が建てたセントジョージ教会のとんがり屋根もそびえています。

 
 この街中の壁に、自転車などの実物と絵とを組み合わせたり、針金を曲げて描いた絵などのストリート・アートが描かれています。このアートをめぐるツアーも企画されているくらい、なかなか面白くて見ごたえのある作品が多いようです。

 多民族国家では、宗教によって食べられるものが違ったり、しきたりが違ったりで、ホテルの顧客管理も大変ではないかと思ってしまいます。ホテルで使われている通信システムでは、泊り客への電話や泊り客からの電話に連動して、そのお客の情報が表示されてオペレータに知らされるシステムが数十年前から使われていました。現在では、もっと発達しているのではないかと思いますが、本当のサービスは、表示を見た後のオペレータの気配りによるんでしょうね。

白壁と茶色の格子が並ぶ引田の中でマゼンタ色の壁はなぜかマッチするように思います

2014-11-09 08:00:00 | 日本の町並み
 畑の続く風景の中の方形の大仏様の浄土堂の中で、日没前に阿弥陀三尊像がオレンジ色の光の中に浮かぶお寺が小野市の浄土寺でした。赤という色は華やかさの中に、危険な匂いもする扱いの難しい色の一つです。ベンガラを混ぜた漆喰で塗られた町並みが続いていたのは岡山の吹屋で、赤の中でも渋い色の壁が印象的です。ところが、岡山から海を渡った香川県の引田(ひけた)には原色のマゼンタ色に近いど派手な壁のお醤油屋さんがあります。これが、漆喰で固めた屋根やなまこ壁との組み合わせで意外と絵になる風景を作っています。今回は、香川県の東の端にある引田を紹介します。

 引田は、香川県の最東端に位置する東かがわ市の一部で、徳島と高松をつなぐJR高徳線の引田駅が最寄り駅になります。徳島と高松とのちょうど中間あたりで特急停車駅なのですが、徳島から各駅停車で向かおうとすると本数が少なくて不便です。高松と間の区間運転の各駅停車の列車があり、高松までの足がほどほど便利なのは、ここが香川県なのだと感じさせます。

 現在は街中で人の姿をあまり見かけない静かな町ですが、町の歴史は平安時代まで遡るようです。北側に突き出た半島の城山が風除けになる天然の良港「風待ちの港」として開かれたそうです。その後も、中世には引田城ができ、港を利用した物資の集散地として発展し、さらに安土桃山時代に起こった醤油醸造は現在まで続く産業です。古い町並みは、醤油醸造や港を利用する流通業の建物が多いようです。

 
 
 古い町並みは、引田駅から北の方角の引田港に至る500mほどの間に広がっています。マゼンタ色のベンガラ壁をの持つお醤油屋さんの「かめびし」は、川の向こうに誉田八幡宮が望める、こちらも真っ赤に塗られた御幸橋の手前にあります。「かめびし」は、江戸中期の18世紀に創業し、現在も現役で醤油の醸造を行っています。場所はさぬきなので、こちらで醸造をしたお醤油を使った「さぬきうどん」の店が併設されていました。

 
 
 井筒屋敷は、「かめびし」の手前にあり、かつては醤油や長家を醸造していた商家ですが、現役ではなく博物館とお土産屋の役割をしています。こちらは白漆喰に格子の仕上げで、普通に見られる土蔵造りの商家の遺構です。庭には、かつて醤油作りに使った木ダルが並べられていました。

 
 江戸時代から続く産業は醸造業ですが、明治後期に興った手袋製造は、90%という驚異的な全国シェアを誇る産業です。井筒屋敷の並びには、かつての手袋工場を利用した、東かがわてぶくろギャラリーがあって、手袋の製作過程がわかるだけではなく、手袋を利用したアートが楽しめます。日本一長い手袋が展示され、手袋を花に見立てたオブジェが飾られていました。

 
 
 このほかにも、日本家屋の中のレトロな洋館である、かつての郵便局の建物を利用した風の港館という名前のギャラリーと併設のカフェーがあり、青色の漆喰が塗られた土蔵造りの家など、かなりのボリュームの町並みが残っています。

 IT分野の半導体製造、液晶製造さらにはマイクロマシンの工場では、ほこりなどが全く無いクリーンルームは必須です。ほこりがあると製品の必死つが下がって使い物にならなくなるからです。この部屋に出入りをする人間は、防塵福などを着た上で、前室でエアシャワーを浴びてほこりを落としてからでないと入室できません。この時に、手にはめるのがクリーンルーム用の手袋で、この手袋も東かがわ市が主生産地のようです。ほこりの元となるめばが出ず、耐熱性、耐磨耗性があり、滑りにくい、などなど、普通の手袋に比べると要求される仕様は高いようで、電子産業はいろんな産業で支えているんですね。

ルガーノはスイス第3の経済の中心地という顔が不思議に思う湖畔の素敵な町です(スイス)

2014-11-02 08:00:00 | 世界の町並み
 町の中に多くの丘があって、丘に登るためのエレベータやケーブルカーがあったのがポルトガルの首都のリスボンでした。登山用のケーブルカーはわが国でも数多くありますが、スイスではケーブルカーより傾斜の急なピラタス登山電車もあって、登山電車のほうが目立つような感じもします。こんなスイスにあって、鉄道駅から、町の中心のある湖畔までケーブルカーのあるのがルガーノです。こんかいは、そのルガーノ近郊を紹介します。

 
 ルガーノは、スイスが東西幅10km程度でイタリアに大きく食い込んでいて、南に20kmほど行くとイタリアのコモになります。イタリアのコモは、コモ湖の湖畔のリゾートですが、その北のルガーノも、コモに似てルガーノ湖畔のリゾートです。口の悪い人に言わせると、両者の違いは、北イタリアで治安の悪いコモに比べて、スイスのルガーノは安心に過ごせる町との評です。イタリアまで通じている鉄道の駅は、町の西側の小高い所を通り抜けていて、駅のそばからケーブルに乗って下ると湖畔に出られます。カナダのケベックにもセントローレンス川の河畔にケーブルが通じており、ナイアガラにも同じように河畔に下りるケーブルがあり、共に水のそばまで下りてゆく状況が似ています。

 
 
 ケーブルで下った湖畔には、気持ちのよい散歩道が続いていて、特徴的な山容のサン・サルバトーレ山やモンテ・プレ山が湖の向こうにそびえています。湖岸から見上げると、大きなホテルや別荘と思しき建物が斜面に張り付いている様子は、ここが保養地場と感じさせてくれます。ところが、ここルガーノはスイス第3の経済・金融の中心地で、100を越える銀行が集中しているという顔も持っています。

 
 一方、ケーブルカーの上の鉄道駅のそばからは、世界遺産に登録されているベルニナ鉄道の南端の駅のティラーノまで走っているポストバスが出ています。ポストバスといのは、かつては郵便物を運んでいた馬車の名残で、鉄道の走っていないところを網の目のように結んでいるバスです。現在でも、郵便物も運んでいるそうですが、ほとんどが地元民や観光客の足となっています。このバスは、ルガーノ湖やコモ湖の湖岸に沿って走り、なかなか眺めの用路線の一つです。コモ湖ってイタリア領のはず?そうなんです、スイスのバスなのですが、路線のほとんどがイタリア領内を走ります。途中の休憩地点もイタリア領ですし、終点のティラーノもイタリア領です。ちなみに、ベルニナ線のティラーの駅は、駅の外はイタリア領なのですが、改札を入るとスイス領になるため、パスポート・コントロールがあります。ティラーの駅を出発しても、しばらくはイタリア領内を道路との併用軌道で走ります。

 ルガーノを通っている鉄道線は、イタリアとスイス、あるいはスイスと通り抜けてドイツの都市とを結ぶ国際列車が頻繁に走っています。ヨーロッパは、陸続きのために、列車が国境を通り抜けて走り回っています。国によって電化の方式が違うのが当たり前で、通行する側もフランスからドイツでは左側通行から右側通行になります。電源だけでなく、信号システムも多種多様なようで、かつては機関車を付け替えていたようですが、現在は複数のシステムに対応する列車が生まれています。フランスからオランダまで走っているタリスでは4種類の異なる電源、信号システムに対応しています。一方、わが国でも交流と直流の両方に対応できる電車もありますが、何とはなしに大層で、特別なんだ!と言いたげです。たしかに、コストはかかるんでしょうが、これだけコスト削減に努力していて、なぜヨーロッパの鉄道に比べて料金が高いのでしょうか。