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世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

石見銀山が華やかりし頃の繁栄ぶりが想像できないレトロで寂しい町並みが続く温泉津です

2018-10-28 08:00:00 | 日本の町並み
 東側に海を臨み、町中に温泉が湧いているのが別府でした。レトロな町並みが残っているかと思えば、世界的に有名なアルゲリッチの名前を冠したコンサートがある華やいだ面もあって、温泉だけではない町でした。同じように海に面した温泉でも、華やいだところは無く、レトロな町並みが続き、町が訪れた時には小雨混じりのせいもあったでしょうが、ほとんど人に会いませんでした。このような温泉津ですが、こちらは石見銀山と併せ世界遺産に登録されており、唯一の温泉街として登録された街です。今回は、この温泉津を紹介します。

 温泉津は、島根県の中央東寄りの海に面した太田市の一部です。最寄りの駅は、JR山陰線の温泉津駅で、温泉街は駅からいったん西に海岸線まで出た後に、東にぐるりと回ったところで、約1.3km、20分くらいの距離にあります。温泉津は、石見銀山の積出港として栄えた歴史を持ち、駅からの道が海岸線に出たあたりが深い入り江の奥にある港です。

 
 
 温泉街は500mほどで、その中央あたりに共同浴場が2つあります。元湯泉薬湯と薬師湯で、特に筆者が入浴した薬師湯は日本温泉協会の審査でオール5評価を獲得したそうです。お湯は、少々熱めだった様な気がしますが、それ以外の記憶があまりありません。また、元湯泉薬湯と道路を隔てた向かいには浄土真宗の在俗の篤信者であった浅原才市の像が置かれてあります。


 温泉街の入り口付近には、400年続いた内藤家の庄屋屋敷があります。内藤家は、毛利氏が温泉津に築城をした時に奉行として赴任し、その後は庄屋を始め廻船問屋や酒屋などを営んできた名家です。現在も、子孫の方が住んでおられるので非公開ですが、道路が微妙にカーブをしたあたりに長屋門を構えた塗籠の母屋が外からも眺めることができます。
 
 
 庄屋屋敷と温泉街の間には、神社やお寺が集中していて、石見銀山が栄えていた頃には、住む人も多くその信仰の対象であったのかもしおれません。これらのうち、恵こう寺は、日蓮宗のお寺で天将年間に細川幽斎が連歌の会を設けたことで有名だそうで、道路からも雄大な山門が見られます。また、龍御前神社は、温泉津港に出入りした北前船の守り神として進行を集めた神社で、もともとは神社の背後にある巨岩信仰の信者だったそうです。

 温泉津が積出港となっていた石見銀山は、17世紀前半の最盛期には世界の銀の1/3を産出していたと推定されています。しかし、現在では、商業的に成り立つような銀含有量の鉱脈は掘りつくして廃鉱になりました。銀は、大部分が工業用で、かつては写真用に大量に使われましたが、現在はデジカメの普及で写真分野での消費量は減ってきています。IT分野でも銀の消費量は大きく、今後も増えていきそうですが、大部分の銀が回収されることなく使い捨てられるため、世界の銀資源は窮屈になっているそうです。かつて、写真を現像した後に使う定着液には多量の銀が溶け出していたので、回収して再利用されましたが、レアメタルと同様に、電子機器から銀をリサイクルしなければならなくなるのではないでしょうか。

ドゥブロクニクの城壁からは赤い屋根のつらなりの向こうに真っ青のアドリア海に浮かぶクルーズ船が望めます(クロアチア)

2018-10-21 08:00:00 | 世界遺産
 かつての城壁の中のメディナは迷路になっているのがチュニジアの首都のチュニスの旧市街でした。一方、中国の城壁都市では内部が碁盤の目のように道路が入り巡らせています。かつての都であった西安(長安)や世界遺産の平遥古城などです。この伝統が我が国の平城京であり平安京でした。そうすると今回は、中国の城壁都市のどこか?・・ではなくヨーロッパです、クロアチアの城壁都市のひとつドゥブロクニクを取り上げました。

 
 
 ドゥブロクニクは、クロアチアの南東の端、少し南東に行くとモンテネグロに、逆の北西方向にはボスニアです。このボスニア領が海岸まで張り出していて、首都のザグレブを含めてクロアチアの他の都市に陸路では行けない、いわば陸の孤島状態です。旧市街は、500m四方程度の広さの周りを城壁が囲み、何か所かの階段から城壁の上に出ることができ、町の周りをぐるりと一周することができます。城壁の2/3以上は海に面していて、陸との接点は少なく、アドリア海に突き出たこぶのような形をしています。この海との接点は、町の東側で、ヨットハーバーのような小さな港で、大型船は接岸できず、クルーズ船は沖合に停泊していました。筆者は、イタリアのバーリからフェリーで移動したのですが、フェリーの着く港は旧市街から西へ2kmほど離れた湾の奥になります。

 
 その歴史は帝政ローマまでさかのぼるとされ、海洋貿易によって発展した都市の一つです。特に、15~16世紀にはアドリア海のを取り巻く都市国家の中でヴェネチアと対抗できる力を持っていたようです。巧みな外交と富によって戦争をすることなく発展をしましたが、敵から都市を守る城壁を作ることは忘れていなかったようです。さらに1970年代には非武装化をしたのですが、皮肉なことにそれから20年ほど後のユーゴ崩壊による内戦でセルビア・モンテネグロから攻撃を受けて多大の損害を受けました。筆者が訪問した時には、ドゥブロクニクのす裏山のロープウェイの駅は廃墟状態で上る事ができませんでした。ここはドゥブロクニク全体を見下ろすことができる絶景ポイントなのですが、ここに敵が陣取って、砲弾を浴びせたそうで、見晴らしが良いということは、攻撃にも絶好の場所だったわけです。

 
  
 旧市街への入り口は、北東と北西の二か所で、空港からだと北東のプロチェ門、新市街jからだと北西のピレ門からになります。ピレ門から入ると広場がありその中央にはオノフリオの大噴水があります。周りに彫られた人面の口から蛇口になっています。

 
 左手にはフランシスコ会修道院で、外の喧騒が嘘のような静かな中庭が落ち着きます。

 
 
 
東に延びる広い通りがプラッツア通りでドゥブロクニクのメインストリートです。この通りを東に進むと、ルジャ広場の周りに旧総督邸、スポンザ宮、ドミニコ会修道院、大聖堂など大きな建物が集中しています。旧総督邸の前には衛兵が立っていて、交代のセレモニーもあるようです。

 

 
 
 
 
 城壁に上る入り口は三か所で、そのうちの一つがドミニコ会修道院の裏にあります。城壁に上ると、内部には赤い屋根の家並が続き、南側には真っ青のアドリア海が広がります。教会などの名所も見どころですが、城壁から眺める民家の家並も素晴らしい景色です。どこかの国では日常になっている景観を乱すような建物が無いことも素晴らしいです。もともと、この城壁は外敵から町を守るために作られたものですから、要所要所には要塞が建てられています。さすがに、見晴らしの良さそうな場所で、円筒形や四角な建物に小さな窓が開いてにらみを利かしています。

 ドゥブロクニクとバーリ以外にも、イタリアからアドリア海を横断してクロアチアとを結ぶフェリーが運航されています。高々200~300km程度ですがその割に時間がかかるのは夜行故でしょうか。寝ている間に対岸に着いてしまい、効率の良い旅ができ、シャワー付きの個室を利用しても、日本の運賃と比べて随分と安いようです。ただ、困るのは朝早くに到着すると、両替ができないことでした。当時クロアチアはEU二は加盟していなくユーロとの両替が必要でした。すべての支払いがクレジットカードで可能ならば、両替といった面倒なことは必要ないのですが。これだけネットが発達し無線でも自由に情報が飛ばせるので、そのようなインフラを作ってほしいものです。そうなれば、スイカなど、無利子で\500ほどを強制預金させる利権の塊のようなカードも亡くなってしまうのですが。



温泉天国の別府ですが、レトロな町並みの散歩もお勧めです

2018-10-14 08:00:00 | 日本の町並み
 かつての武庫離宮は現在須磨離宮公園となって神戸市民の憩いの場になっていますが、この武庫離宮は大谷光瑞の別邸の一つを買い上げて離宮としたものでした。大谷光瑞は、浄土真宗大谷派22代法主でしたが、宗教活動以外にもいろいろな面で活躍し、政治面にも手を染め戦後はソ連に抑留、帰国後も公職追放され、翌年に別府で没しました。その屋敷跡は、鉄輪温泉にあり現在は大谷公園となっているようです。今回は、温泉だけでない別府の顔を紹介したいと思います。

 
 
 
 別府はご存知、大分県の県庁所在地の大分市の北隣の温泉都市です。町の至る所に温泉が湧いていて2,300か所以上の泉源は全国の泉源数の1/10を占め一日の湯量12万㎘㎘も日本一を誇っています。別府に行くと地獄巡りのツアーバスがありますが、この観光バスを初めて運行したのが油屋熊八で、別府駅の正面に銅像が建っています。別府地獄めぐりは、間欠泉の龍巻地獄を初め血の池地獄、坊主地獄、山地獄、明礬地獄などを回るようです。別府の地獄は、作り物が多くて、何とはなしに不自然という評判もありますが、種類の違う泉源を見て回れるのは悪くないとも思います。観光バスの訪れる対象ではありませんが、市内には多くの共同浴場があって、なかなかレトロな風合いを残しています。

 レトロと言えば町中にレトロな雰囲気が残り散歩コースは大きく2種類あり、JRの線路の西側と東側に分かれています。山側の西側は山の手レトロ散歩、海側の東側は路地裏散歩というような名称で呼ばれているようです。

 
 
 
 山の手のコースのスタートは京大地球熱学研究施設です。大正年間に建てられたレンガ色の建物で、中央の塔に時計があれば京大本部の時計台記念館と似ています。京大地球熱学研究施設と道路を挟んで建っているのがB-CONプラザのグローバルタワーで、他ではあまり見かけないデザインのタワーです。巨大なジェットコースターの一部を切り取ったようにも見えます。このプラザのしきアルゲリッチ・ハウスで毎年開催されるのがアルゲリッチ音楽祭で、世界的なピアニストの名前を冠したコンサートです。ビーコンプラザの竣工時に別府市長が「世界に発信する場を」と伊藤京子を経由して呼びかけたのが始まりだったようです。そこから別府公園の西を南に、野口原五輪塔群、報国丸マストの遺構の南には聴潮閣がありますが、現在は閉館中で門などが見られるだけです。

 
 
 ここから東に向かうと公会堂の裏にでます。公会堂は昭和初期の建物で、途中でいろいろと手が加えられたようですが、2014年に当初のデザインに復元され、添乗の伝統や、廊下の突き当りのステンドグラスなどが目を楽しませてくれます。ここから、北に曲がり、駅の西口からの通りを横切って行くと旧野口病院本館です。大正年間に建てられた木造モルタルの2階建てで、東側の中央に赤いとんがり屋根の陶冶があります。現在病院は、他の場所に移転して、この建物は管理棟として使われているようですが、とても病院とは思えない素敵な建物です。

 
 
 一方の路地裏散歩は、別府駅の東口をスタートです。東口を海岸方向に少し行くと右手に駅前高等温泉があり、大正時代に建てられたレトロな建物が目に入ります。銭湯というより、小さなホテルかレストランのような感じです。さらに、海方向に歩き、海岸沿いの国道10号の近で南に入ると竹瓦温泉で、昭和初期に建てられたからは封を持つ堂々たる建物です。どこか、道後温泉の温泉本館の建物にも似ているような気がします。南に行くと、日本最古のアーケードの一つである竹瓦小路アーケードがありますが、行った時はシャッター通りの状態でした。

 
 
 
 
 アーケードを通り抜けて西に行くと松下金物店の看板建築があり、少し戻って南に折れると旅館の建物を転用した隠れ家カフェのアホロートルが古風なたたずまいを見せています。さらに南に行き一筋西の道には長寿味噌の昔風の店屋があり、筋向いには電話局を転用したレンガ色の児童館があります。旧電話局の角を西に入ると別府カソリック教会の建物があります。現在の聖堂は、フランスのルルドにある教会を模して1950年に建てられ、ステンドグラスも美しい教会です。庭には岩の祠にマリアの像があり、ルルドでマリアの出現があったことを象徴しているのでしょうか。

 温泉には、お湯だけでなく噴出ガスがつきものです。炭酸ガスだけでなく硫黄系の亜硫酸ガスや硫化水素が噴き出ている温泉も多いのですが、これらのガスは人体に有害なだけでなく、電子機器にも有害なのです。金属類が、これらのガスに触れると錆びてしまって、接触不良だけでなく電子回路が乗っている基盤を壊してしまいます。携帯やスマホなどが短時間にこれらのガスに触れるだけでは問題は無いのでしょうが、温泉地の住宅に置かれた電子機器では問題になることもあるようです。電子回路だけでなく、人間にもよくないと思うのですが、有毒ガスの濃度を検出するのも電子技術のセンサなのです。

ブカレストの国民の館は権威の象徴で不快ですが、近くには美しい教会が数多く散在しています(ルーマニア)

2018-10-07 08:00:00 | 世界の町並み
 EUから離脱をしても、金融や情報の中心として巨大な影響力を保持している都市がロンドンでした。ロンドンには、多くの姉妹都市や友好都市があり、姉妹都市は15都市、友好都市は各国の首都が多く東京を初め14都市にもなります。今回と次回はこれらの友好都市の中から、ルーマニアの首都のブカレストを紹介します。今回は、市の中央部を南東に向けて流れるDombovita川周辺を紹介します。


 ブカレストは、ルーマニアの南東部、ブルガリア国境のドナウ川の北50kmほどに位置する内陸都市です。人口は167万人程度で、神戸市より少し多いくらい、面積は228㎢で大阪市程度で市域はほぼ円形をし、串刺しにするようにDombovita川が流れています。ルーマニアは、名前からわかるようにローマ帝国とのつながりが大きく、文字はローマ字アルファベットで意味は分かりませんが、街中の表記は、何となく発音は想像がつきます。一方、南隣のブルガリアは、スラブ系で、文字はロシアと同じキリル文字で、ギリシャと同様にとっつきにくさがあるかもしれません。

 
 
 
 ルーマニアと聞くと、オリンピック選手だったコマネチを思い出しますが、そのコマネチを私物化しようとしたのが独裁者のチャウセスクです。チャウセスクは、数々の悪政を重ね、最後は後ろ盾となるソ連にも見放され、ルーマニア革命によって処刑されました。このチャウセスクの残した悪政を象徴する建物がルーマニア議会の議事堂、通称国民の館です。国民とは真逆の建物で、物資が無くて困っている国民をしり目に、贅沢の限りを尽くした宮殿です。チャウセスクばかりが悪く言われるわけですが、ヨーロッパの大部分の宮殿は、絶対君主が国民から巻き上げた金で、贅沢な宮殿を建てたわけですから同罪です。この、国民の館はDombovita川から公園を挟んだ南側の小高い丘に建っていて、とにかく目立ちます。ソ連時代の建物は、四角くって威圧的、権威の象徴のような格好をしていて好きではありません。ワルシャワでも同じような建物を見ましたし、西新宿でも見たように思います。建物は観光客にも公開されていて、内部の見学が可能ですが、なにせペンタゴンに次ぐ床面製で、部屋数も3,000を越えるため、見ることのできるのはごく一部のようです。その一部を見られるだけでも、無駄遣いのほどは十分に見て取れます。豪華なシャンデリア、壁や柱には華麗なレリーフがあり、廊下は赤いじゅうたんが敷き詰められています。階段部分は総大理石でしょうか。バルコニーに出ると、イギリスのバースにあるロイヤル・クレセントを思わせるビルの向こうにウニリィ通りがまっすぐに遠くまで伸びています。

 
 
 
 
 国民の館を出て、バルコニーから見えていたウニリィ通りを東に、ロータリーの所を北に曲がってDombovita川を渡った先にグルティア・ヴェケ教会があります。ベージュ色の綺麗なルーマニア正教会で、訪れて時にはちょうど結婚式が執り行わられていました。カトリックやプロテスタントの教会と違い、堂内には椅子が無く参列者は立って参加です。また、この結婚式では、神父さんが歌いながら式が進んでいました。教会近くの町並みには、美しい装飾のある建物や、素敵な感じの中庭を囲んだホテルなどを見かけます。中には宮殿風の建物もあり、グルティア・ヴィケ教会の隣には、かつての宮殿であったであろう旧王宮の廃墟もあります。正面には吸血鬼のモデルとなったドラキュラ伯爵の像が立っていますが、地上部っ分はほとんど瓦礫で、地下部がかろうじて残っているくらいです。

 
 
 さらに北に行くと、歴史博物館があり、地下の国宝室(と表記され地他のでしょう)の宝飾品の展示は圧巻です。この歴史博物館の筋向いにはブカレストで最も古いというスタヴォロ・ボレオス教会が建っています。町並みに飲み込まれそうな建物ですが、内部のフレスコ画も、外からの建物も素敵なので見過ごさないように。

 吸血鬼ドラキュラは、イギリスの作家ブラム・ストーカーの小説に登場する仮想上のキャラクタですが、そのモデルはルーマニアの領主であったツェペシュ公とされています。ただ、ルーマニアには、吸血鬼の伝説は一切なく、吸血鬼のキャラクタはストーカーの創作です。実際のツェペッシュ公は、裏切り者の家臣や、攻めてきたオスマントルコの兵士を串刺し刑で処刑したそうです。この残酷な処刑が、吸血鬼のイメージに発展したのかもしれませんが、領民にとっては良い領主だったようで、背反する2面性があるようです。ITの分野で便利なインターネットは、そもそも研究機関や大学間の情報交換のために考えられたもので悪用する人間は居ませんでした。ところが、基本的にその仕組みをそのまま商用に使ったために、悪意のある人間がネットを使って問題が生じているのが現状で、便利と危険の2面生を持つものになっています。ところで、ドラキュラは処女の血を吸って生きていると言われていますが、現代では生きていくのが大変なようです。