世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

皇帝の宝物はほとんど残っていませんが故宮の広さは歩き回った後の足が知っています(中国)

2018-08-26 08:00:00 | 世界遺産
 パリの中心部から30分ほどで行けて、世界の宮殿建築のお手本的存在であるのがヴェルサイユ宮殿でした。世界遺産の中で宮殿が登録されている数は40数か所ですが、各国の首都圏周辺のものは10数か所です。今回はそれらの中から中国の北京にある故宮博物院を紹介します。

 故宮博物院は、北京の中央にやや南北に長い1km四方に近い広さで存在する、明代から清朝にかけて使われた宮殿跡です。15世紀に明が都を南京から北京に遷都した時に造られましたが、17世紀に焼失し、現在の建物は清朝時代の再建です。皇帝が居住した20世紀初頭までは紫禁城と呼ばれ、退去後に故宮と呼ばれるようになったようです。宮殿は高さ10mの城壁と幅50m余りの壕に囲まれ、東西南北に4つの門があり、壕の南側に突き出した部分には端門と有名な天安門があります。天安門の南側は天安門広場で、何かとニュースになる場所です。

 
 
 
 
 
 天安門を入ると、浅草の仲見世の通りをグ~~ンと広くしたような通りが北に延び、端門を越えて突き当りが午門で、ここからが場内と言った感じです。ここからは、次々と門が現れその北側には広場で、その北側には次の門があるといった繰り返しです。午門までは城壁の上に建物が乗る形ですが、大和門は基壇の上にあって門というより宮殿の建物そのもののように感じますが、皇帝の居た大和殿は門を抜けた北にあります。大和殿の中には代々の工程が座った玉座も保存されていて、すぐ近くにあるので観光客でも座れそうですが、天命を受けていないものが玉座に座ると真上につるされた軒轅鏡が落下して命を奪ってしまうのだそうです。

 
 
 大和殿までが外朝で、北に進むと内朝になります。外朝はだだっ広い広場が中心ですが内朝は、細かく塀で区切られた建物が密集しています。お寺の塔頭を小さくしたような、北京の町中にある四合院にも似ているかもしれません。工芸品や青銅器などを展示した部屋もありますが、塀で区切られた路地の趣が素敵です。北京の故宮で展示されている宝物類はわずかで、紫禁城で保有していた宝物類の大部分は、現在は台湾の故宮博物院にあります。また、このエリアの東の方に位置する皇極門の前には、中国三大九龍壁の一つ九匹の龍が躍る九龍壁があります。

 北の玄武門を出ると、壕の向こうに景山公園があります。小高い丘になっているので、ここに上れば紫禁城の建物と門が連なる構造がよく解る絶景ポイントなのですが、筆者は時間が無く、足も疲れていて行き損ねました。

 中国を訪問すると、どこに行っても人人人で、北京から遠く離れた地方都市でも人口が100万を超える都市はざらです。故宮でも、天安門あたりはごった返していましたが、中に入ると、意外と人影はまばらで、さすがに故宮が広いという実感です。この人たちが、最近は日本の観光地に押し掛けてくるようになり、どこに行っても中国の人だらけです。総人口が多い分、%が同じなら絶対数が多くなるわけですが、日本の観光地なのに日本人の姿を見かけないような場所にも出没しているようです。どうも、Netで流布する情報を基に行動しているようですが、Netの情報は誰も内容を保証しているわけではなく、悪意の悪口や、宣伝などで右往左往させられる姿も見かけるように思います。

ヴォリーズが奥様の母校の神戸女学院に建てた蜂蜜色の建物は細部にまで神経が行き届いていました

2018-08-19 08:00:00 | 日本の町並み
 女子大の建物の紹介が続きましたが、今回も女子大の建物で、12棟の建物が重要文化財に指定されている大学です。第二次大戦前後に活躍したヴォーリズの設計で、西宮市にある神戸女学院大学です。重文に指定されている個々の建物は12棟ですが、ヴォーリズの設計したキャンパス全体が重要文化財のような環境です。

 神戸女学院は、阪急の神戸線を西宮北口で今津線に乗り換え宝塚方向へ1駅の門戸厄神駅の西500mほどの丘の上に建っています。神戸女学院は、その名前の通り、明治時代(1875年)に神戸市中央区に開設され、1933年に現在地の西宮市に引っ越しました。この時に学舎の設計を行ったのがウィリアム・メレル・ヴォリーズでした。ヴォーリズは近江八幡を拠点に、関西を中心に大正末期から昭和初期にかけて、教会、学校、個人宅など100棟を超える建物を設計しています。建築家としてだけでなく、来日の目的であったキリスト教の伝道者、メンソレータムなどを製造した近江兄弟社の経営者、また讃美歌の作曲などマルチな活躍をしています。子爵で神戸女学院卒の一柳満喜子婦人との婚姻を経て一柳米来留(メレル)の和名で1941年に帰化し日本人となっています。

 
駅から西に行くと敷地の南東角にある正門に突き当り、ここからは学舎のある岡田山の頂上部まではダラダラ坂を上ることになります。坂の途中に音楽館が建ち、建物の背後が崖になって、楽器の音などが他の学舎に影響しないよう遮音を考えた立地なのだそうです。

 


 
 
 
さらに坂を上ると、ミッション・スクールの学内にはなじまない奇妙な風景が目に入ってきます。なんと、神社の社が建っており、岡田神社といって、女学院がこちらに移転してくる前からあった神社なのだそうです。この神社の左手に、中庭を囲んでロの字にある建物群がヴォーリズのスパニッシュ・ミッション・スタイルと呼ばれる図書館、文学館、総務館/講堂、理学館で、女学院の中枢部って感じです。

 
 
 
 建物の間は渡り廊下でつながり、そこに開かれた門にも美しい意匠が施されています。講堂と中高部を結ぶ渡り廊下の門を超えると、左手はグラウンドで、その先には体育館が建っています。グラウンドに沿って進みタルカット記念館とめぐみ会館の間を右手に入ると右手に待合を備えた茶室が目に入ります。さらに進むと、突き当り近くにケンウッド館、さらにその先にエッジウッド館があり、どちらも宣教師の住宅として建てられ、現在はゲストハウスなどに利用されているようです。

 神戸女学院大の建築群はコンクリート製ですが、レッチェ石でできた南イタリアの町並みを思い出します。レッチェ石は石灰岩の一種で、レッチェには、このレッチェ石でできたバロック建築が建ち並び、町全体がレッチェ石の蜂蜜色であふれています。この柔らかな感じが、どこかヴォーリズの建築群と似た感じを作っているように思います。蜂蜜と言えば、学生の頃に読んだ「動物と太陽コンパス」という本を思い出します。ミツバチは、正確な体内時計と、太陽光の偏光面を認識できる能力を持ち、これによって正確に方位を割り出すという記述です。働きバチの仲間たちに、密のある方向を、この認識能力を使って正確に伝え、無駄な飛行をさせないのだそうです。翻って、現代人は、目的地に行くのにスマホのGPS機能などを利用して盲目的に引きずられて行くようになりました。人類はミツバチほど正確な方位検知能力は持っていなかったかもしれませんが、IT機器に頼りすぎて本来持ち合わせている生命維持能力をそがれているように思います。

ジャワ島中部のスラカルタ(ソロ)郊外には他ではあまり見られない奇妙な2つのヒンドゥー寺院があります(インドネシア)

2018-08-12 08:00:00 | 世界の町並み
 英米に蹂躙されて破壊されてしまったのが北京の郊外にある円明園跡でした。残っていれば頤和園と並んで、場合によっては、円明園を含んだ形で世界遺産に登録されていたのではないかと思います。西欧の植民地主義の被害の一つですが、この植民地主義は形こそ変えてはいるでしょうが、現在も変わっていないように思います。英米に限らず、オランダの植民地政策も卑劣を極め、その最大の被害を受けた国の一つがインドネシアです。オランダの植民地時代には、オランダの利益となる作物以外は作らせず、多くの田畑がコーヒー、サトウキビ、紅茶などの栽培を強制され人口が激減したようです。今回は、その名残のジャワティー農園が郊外に広がるソロ(スラカルタ)の周辺を紹介します。

 
 ソロは、インドネシアの古都であるジョクジャカルタから列車で1時間ほど走ったジャワ島の中部やや東の都市で、ジョグジャカルタと並ぶ古都の一つです。18世紀にマタラム王国の王都が置かれスラカルタと名付けられ、スラカルタが正式な都市名ですが、現在でもソロで通っているようです。ソロの地名を聞くと、シニアの方々ではブンガワン・ソロの曲を思い浮かばれると思います。このブンガワン・ソロというのはジャワ島中部を流れるジャワ島最長の川の名前で、この川に因んで作曲された曲がブンガワン・ソロでした。

 
 
 ソロ市内にはマラタム王国の宮殿が2つ残されていて、その一つがマンクヌガラン王宮で、ソロの駅の南側、歩いて20分ほどにあります。行けの後ろにある建物は、吹き抜けのホールで、ここでパーティなどが行われるようです。筆者は、閉門寸前に入ったので馬車などの展示を見られただけですが、時間があればガムラン音楽や王族の宝物が見られるようです。



 ソロの郊外には2つのヒンドゥー寺院があり、チュトとスクーと呼ばれ、タクシーをチャーターして訪問すると、王宮よりも面白いかもしれません。どちらも15世紀に建てられたヒンドゥー教と民間信仰の融合した寺院で、ソロの市内からは40kmほど離れていて、両寺院間も5kmほど離れています。ソロの東にそびえる3270mのラーウ山の西斜面の高台にあり、途中には紅茶の茶園が広がっていて、これがオランダ植民地時代の名残なのか、はたまた日本へのジャワティーの原料なのかは分かりませんでした。




 
 
 
 
 
 北にあるのがチュト寺院で、山の斜面に階段状に建っています。階段の両側には、いくつもの割れ門が鋭い三角形で天を突いています。最も高いところには、石造りの台のような構造物があります。訪れた時は、ちょうどお祭りだったようで、男性は仮面を付けて踊っていましたが、武器のようなものを持った人も居たので戦いを表していたのでしょうか。一方の女性は、バリ島で見たような華やかな衣装で着飾っています。こちらは偶然に出くわしたのですが、多くのカメラマンが祭りの様子を撮っていました。最上部まで登ると、綿々と連なる緑の丘が伸びやかでした。

 
 
 
 
 
 
 
 もう一方のスクー寺院の境内はほぼ平面で、中央にはメキシコにある階段ピラミッドを小さくしたような石造りの台があり、小さな天守台のようにも見えます。チュト寺院では少なかった動物や人間の彫像やレリーフがたくさん並んでいます。ヒンドゥーの神々なのでしょうか、それともなにか物語なのかもしれません。象や牛はリアルですが、明らかに鳥ではない像に羽が付いていたりします。どの像も、よくできていて保存も良く、見ていて飽きません。

 ソロ郊外の2つのヒンドゥー寺院は、石の文化財遺跡で、インドネシアのジョグジャカルタ近くのプランバナンやボルブドゥールも石文化です。さらに、インドシナ半島のアンコール遺跡やタイの遺跡それにベトナムでも石の遺跡が目立ちます。西洋は石の文化で東洋は木の文化だと思っていましたが、木の文化は我が国など北東アジアに限られるのかもしれません。かつて法隆寺などを世界遺産に登録する際に、石の文化の西洋人に木の文化を理解させるのに大変なエネルギーを要したそうです。かつて電子機器の中心素子は真空管で球(たま)と呼んでいましたが、これがトランジスタやICとなった時には石(いし)と呼ぶようになりました。ITの分野でも現在は石文化がメジャーなのでしょうか。

白を基調とした東京女子大の建物群は、高い尖塔が遠くから望め大学の存在を主張しているようです

2018-08-05 08:00:00 | 日本の町並み
 ジョサイヤ・コンドル設計の旧島津邸を本館に使うのが清泉女子大学でした。さすがに、侯爵がコンドルに設計を依頼して建てた建物はだけに至る所に美しい意匠がちりばめられていました。ミッション系の大学には、美しい学舎を持つところが多く、特に女子大にその傾向があるように思います。最近はセキュリティが厳しくなり、なかなか学内に入門ができないのですが、講演会やオープンキャンパスの機会に見学もできるようです。今回は、チャペル・コンサートの機会に学舎を見学した東京女子大の建物群を紹介します。

 東京女子大は、JR中央線の西荻窪から北西に15分くらい歩いたところにあります。400m四方の南西側を斜めに切り取ったような敷地に、レーモンドが設計した7棟の登録文化財を含む数多くの建物が建っています。これらの建物は大正末期から昭和初期にかけて建てられ、最も新しいチャペルが昭和13年です。全体的に白を基調とした建物群は、清楚な女子大生をイメージします。設計者のレーモンドはチェコ出身で、フランク・ロイド・ライトの弟子、旧帝国ホテル建築の際に来日して日本で活躍しました。聖心女子大や聖路加病院、国際基督教大などの作品を残しています。第二次大戦中は、アメリカに日本の木造建築の模型を造り、焼夷弾による攻撃に加担したことで知られています。「日本を早く降伏させるためだ」と言っていたそうですが、多くの非戦闘員に無差別攻撃をして焼き殺した国際法違反行為への加担は許せません。



 
 正門を入ると緑の芝生が広がるVERA広場で、中央の小さな池には水連が植えられていました。その向こうに長く図書館として使われt来た本館があります。上部にはQUAECUNQUE SUNT VERA の標語が、入り口の上部には東京女子大學、創立千九百十八年の文字が右から左に書かれています。入口両脇の門灯や、窓のグリルにあしらわれた木の枝状の意匠が素敵です。この木の意匠は、入り口のガラスドアにも付けられています。

 
 
 正門のすぐ右奥がチャペルと講堂で、城の尖塔が遠くからも望め、大学というより、ここに教会があるよ、と主張しているようです。チャペルは壁面全体が細かい格子状のリムでおおわれていて、そこにステンドグラスがはめ込まれています。外から見ると繊細な感じで、中から見ると豪華に見えます。内部には1991年に鍵盤3段とペダルを備え35のストップを持つ本格的なパイプオルガンが設置されています。チャペルの内部空間が若干狭いので残響時間は短めですが、演奏を聞くと感動します。

 
 広場の左右には、西校舎、東校舎があり、どちらも現役の教室として使われています。西校舎は創建当時に建てられたもので、東校舎も昭和初期に建てられ、映画のロケにも使われたそうです。

 
 本館の裏側には、3棟の登録文化財の建物が建っいます。外国人教師館、安井記念館そしてライシャワー館です。これらの建物も創立当初や初期のもので、建てられた当時は住居として使われたようです。外国人教師館は創建当時に派遣された外国人教の宿舎として建てられ、現在は女性学研究所として使わています。安井記念館は第2代学長の住居として建てられ、現在はキリスト教センターとして使われています。ライシャワー館は創建当時から常務理事を務めたライシャワー一家の住居として建てられ、現在は留学生の交流の場として使われています。ライシャワーさんと聞くと、あの駐日大使のライシャワーさんとどのような関係かと思って調べたら、駐日大使は常務理事の次男だったのだそうです。駐日大使の結婚披露パーティは東女で催されたとか。これら3棟の建物も、緑の木立の中に溶け込むように建っていて、学内ということを忘れさせます。

 パイプオルガンは楽器の女王と言われます。音のバラエティの豊かさは言うまでもなく、建物と融合され、数多くのパイプが並ぶ姿は優雅で絵になります。これだけ巨大な楽器ですが、大部分のパイプオルガンは、機械的な人力で、発音機構を動かしています。ただ、昔と違うのは、パイプに送り込む圧縮空気を送り込むのが人力のふいごから、電気モータに代わったくらいでしょうか。パイプオルガンに似せたエレクトーンとは真逆の構造ですが、アナログ構造で音を出すため、鍵盤などを操作する指の動きで微妙な音色の差を作り出せるのだそうです。エレクトーンでは、鍵盤にいろいろなセンサーを付けて、指の動きを検出しようと思えば可能でしょうが、どうもスマートではないように思います。パイプオルガンでも、キーボードの部分を引き出して、電気信号で制御できるものが作られるようになり、演奏場所をステージ上に移動できるメリットがあるようです。ただ、エレクトーンと同じように繊細な演奏には難があるそうです。