世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

茨城県の小幡は筑波山を望む関東平野のただ中にある宿場町でした

2010-01-31 08:00:00 | 日本の町並み
 江戸時代には織田氏の城下町で明治初期には県の名前にもなった町にもかかわらず、人気のない取り残されたような町が群馬県の小幡でしたが、同じ名称の町が茨城県の筑波山の東にあります。こちらの町も、時が止まったような静かな町でした。今回は、農家の集落の中に宿場町の面影を残す小幡集落を紹介します。
 
 小幡集落は、1955年までは小幡村、そして八つの町村(八郷)が合併して八郷町に、そして2005年には石岡市の一部となっています。JR常磐線の石岡から、2~3時間に1本というバスで30分ほど走った所にあります。群馬の小幡は、関東平野の北西端で農地の先に山々が臨めましたが、茨城の小幡は関東平野の真っ只中という感じで、西にある筑波山以外は、山らしい山は見られず農地と民家が散らばる風景です。小幡は、この筑波山と鹿島神宮を結ぶ参詣道上にあり、農家の副業として旅人をもてなした事実上の宿場町として発展したようです。このことは、バス停名にもなっている上宿、仲宿、下宿という地名にも残されています。
 
 小幡集落は、農家を中心とした町並みのせいか、格子などのある京都の町屋風の建物は見受けられず、茅葺の大きな屋根が目立ちます。

しかし、土蔵作りの建物それに長屋門など他の農村ではあまり見かけないような建物も多く見られるのは、かつての宿場の名残でしょうか。
 
 現在では、公共の輸送機関の不便な場所ですが、大正時代には常磐線の高浜との間に加波山鉄道という鉄道を敷設する計画があり、一部工事もなされていたのだそうです。資金難などの理由から途中で会社自体が倒産し、計画は頓挫してしまったようでが、鉄道が開通していたら、小幡の古い建物群も建て替えられてしまっていたかもしれません。
 鉄道といえば、小幡の近くには気象庁の地磁気観測所があります。地球の微妙な磁気を観測するために、磁場を発生して誤差を与える直流電化の鉄道の敷設は制限されているそうです。この制限距離が30kmで、この区間を走る常磐線は交流電化により、影響を少なくする措置がとられています。もし、加波山鉄道が開通していたら、非電化のままか私鉄では珍しい交流電化となっていたかもしれません。
 地磁気といえば、磁石の指す北は自転軸の北極の位置と微妙にずれています。磁石の指す北の先を北磁極と呼び、現在はカナダの北部に位置していますが、1年に10~40kmも北西方向に移動を続けており50年後にはシベリアに到達するであろうと言われています。現在はGPSやINSで進路を決める飛行機や船舶も、かつては磁石を頼りに航行していましたが、この程度の磁北の移動量では測定誤差のほうが大きかったのでしょうか。しかし、このくらいの移動で驚いていては地球の年齢の規模で見るとついていけません。100万年単位ででは磁極の南北が反転するのだそうです。普遍と思われている磁石の指す北が実はかなりの速さで変わっているのですね。かつて世界の権力の中心はローマやオスマントルコなどでしたが、ゆるぎないと思われている今の権力中心も磁北とともに移動していくのでしょうか。

カルタゴ遺跡は、遺跡の向こうに広がる地中海の青さも魅力的です(チュニジア)

2010-01-24 08:00:00 | 世界遺産
 先代の王のお墓を囲うようにして作られたお城がソウル南の華城でしたが、生贄にささげた子供のお墓の遺跡が残るのがカルタゴのトフェと呼ばれる共同墓地です。今回は、チュニス郊外に広がるカルタゴ関連の遺跡群について紹介します。

 カルタゴ遺跡は、北アフリカのチュニジアの首都チュニスの東10kmほどの海岸沿いにいろいろな種類の遺跡が散らばっています。チュニスからはTGMという郊外電車でチュニス湖の堰堤を通り抜け30分ほど乗ると、遺跡群の入り口になります。

 カルタゴは、ご存知のように紀元前8世紀ごろにフェニキア人によって作られた植民地とされ、強大な海軍力により、紀元前3世紀ごろまでに地中海沿岸の北アフリカやシチリア島などの島々、さらにイベリア半島の南部までを支配下に置いたようです。やがて、ローマと覇権を争うようになり紀元前2世紀前後に 100年に及ぶ3階のポエニ戦争でローマに敗れて国が消滅しました。カルタゴの遺跡は、カルタゴ消滅までのものは、あまり残っておらず、ローマの植民地の頃の遺跡が目立つようです。

 前述のトフェ遺跡は、チュニスに最も近い遺跡の一つで、フェニキア人が生贄にした子供たちのお墓群です。
 
2万個に及ぶ子供の骨が入った壷が発掘されているようですが、極めて地味遺跡で、気が付かないで通り過ぎそうな感じです。遺跡の中は、たくさんの墓石となる石柱が雑然と並んでいるだけで、2,000年以上も前の遺跡という実感は薄いのが正直なところです。ただ、この遺跡はローマ征服後のローマ文化による遺跡ではなく、カルタゴのネイティブな遺跡には間違いなさそうです。

 カルタゴ遺跡群で中心的な存在がビュルサの丘になります。駅を降りて、暑い中を登っていくのは大変ですが、頂上からの眺めはすばらしいものがあります。紺碧の地中海をバックに手前にはポエニ時代の遺跡、そして遠景には緑の中にカルタゴが港に使っていたという入り江も見えます。
 
ビュルサの丘はカルタゴの中心的な場所であったらしく、2,000年以上も前に、当時のフェニキア人もこのような景色を眺めていたのでしょうか。丘の頂上には博物館が建っていて、ローマ時代を中心としたモザイクなどが陳列されていますが、モザイク画のコレクションでは、チュニス市内にあるバルドー博物館のものが絶大で、モザイクに興味のある人はバルドー訪問をお奨めします。

 一方、残された遺跡の規模で大きなものは、アントニウスの共同浴場です。巨大な壁や天井の一部が残されていて、圧倒的な大きさをしています。ローマ人はよっぽどお風呂が好きだったんでしょうか、ローマの遺跡の中には風呂場の遺跡をあちこちで見かけます。ここからの地中海の眺めも美しくて、遺跡のそばのより眺めの良さそうな高台には大統領官邸が建っていました。

 この遺跡の近くには、ローマ劇場があります。トルコなどでもよく見かける、丘の斜面を利用し、半円形の階段状の観客席の底の部分に舞台のある劇場です。ここの劇場は、いまだ現役で、夏場にはオペラなども上演されるようです。いかつい音響機器が階段状の観客席の途中に設置されていました。

 カルタゴを作ったフェニキア人が発明した文字がフェニキア文字で、アジアやアフリカで使われている多くの言語の文字の起源と考えられています。聖書によれば、バベルの塔を建てようとした人間に怒った神が、世界の言葉を乱して、民族間で言葉が通じなくなったとされていますが、元々の共通語は、フェニキア語だったのでしょうか。インターネットの世界では、圧倒的に英語による情報が多く、英語圏の人間が圧倒的に有利になっています。これを救うために、web上で自動翻訳をしてくれるサイトも増えましたが、設計者が英語圏の方なのでしょうか、英語への翻訳は英語っぽく見えますが、日本語への翻訳はほとんど使い物になりません。神様を怒らせていなければ、ネット・サーフィンはもっと便利だったかもしれませんが、ウィルスに感染する機会も増えていたかもしれません。

かつては県名にもなった城下町の小幡ですが、綺麗な水の小川の近くにも人の気配は少なかったです

2010-01-17 08:00:00 | 日本の町並み
 お城から八丁はなれた味噌倉でできた八丁味噌で作られた味噌田楽が美味しかったのが岡崎でしたが、味噌田楽で田出ると美味しい材料がこんにゃくです。こんにゃくの名産地は、北関東に多いのですが、その中でも下仁田はこんにゃくのブランド的かもしれません。今回は、その下仁田ではなく、高崎から下仁田まで伸びている上信電鉄を上州福島で途中下車をして南に3kmほどの小幡(おばた)付近を紹介します。

 小幡は群馬県の聖な部に位置する甘楽(かんら)町の一部で、現在は知る人も少ないところですが、江戸時代には小幡藩として、また明治の初めの一時期は小幡県を名乗ったほどの城下町でした。前述のように、高崎から下仁田まで走っている上信電鉄に乗り、世界遺産暫定リストに載る富岡製糸場の少し手前の上州福島で下車します。駅前からワゴンを使った日に数本の乗り合いタクシーで10分ほど走ったところです。町の中は、観光客も少ないし、そもそも住んでいる人も少ないらしく、ほとんど人の姿を見かけないのんびりした感じです。

 小幡の中心を南北に流れるのが雄川堰で、この流れ沿いに古い町並みや、
 
気持ちのよい並木道があります。

この流れは、古くから灌漑や生活用水として使われていて、日本百名水の一つだそうです。町並みの中を流れる水としては、随分と清冽なのは、そもそも住んでいる人が少ないからかもしれません。古い町並みが残る一郭は、流れに沿って国道があり、さらに国道とは反対の川沿いには砂利道があって町並みはこの砂利道に面しています。写真で切り取ると、背面に交通量の多い道路があることを忘れてしまいますが、車の喧騒さには少々興ざめします。

 雄川堰の西側には、いくつかの観光ポイントが、歩いて回れる範囲に散らばっています。武家屋敷や庭園など、どれもこじんまりしています。松平家の大奥の跡という庭園も大奥というには小さすぎる庭園です。名主の家が移築復元されていて、囲炉裏のある内部も見ることができます。

また、近くにはて、「喰い違い郭」という石垣に囲まれた道があり、戦時の防衛上のために造られたという説もありますが、下級武士が上級武士に出会うのを避けるため隠れる場所になったという説の方が真実味があるようなこじんまりした郭です。

さらに、西に行くと楽山園という大名庭園跡があり、信長の次男が小幡に城下町を築く際に作ったとされていますが、

初めて訪れた時にはブルーシートが被った工事現場って感じでしたが、現在もまだまだ工事は続いているようです。

 磨崖仏もあったのですが、この仏様がどこにあったのかは正確なところは記憶から消えてしまっていて定かではありません。武家屋敷などがある中心地区から、少し南に行った町外れであったようです。大きな岩に、顔だけが彫られたものですが、どことなくユーモラスな感じを受ける仏様でした。また、町中には、お顔の形もはっきりしないような石仏も立っていました。
 
 群馬県は乗用車の普及率では全国でトップクラスと言われています。小幡への公共輸送機関が不便なことも、そのあたりにも理由があるのかもしれません。車が多くて人の少ない土地を走るローカル私鉄の上信電鉄もなかなか大変なのではないかと思います。ただ、この上信電鉄は、かつては下仁田から、さらに西へ延ばして、県境の峠を越えて長野県の小海線の駅と接続する計画があったそうです。上信の社名もその計画にちなんだものでした。開通していれば、上州と信州とを結ぶ経路として、北の碓氷峠越えのJRと、南の余地峠越えの上信電鉄との2つのルートの競演だったのですが。計画断念の理由は知りませんが、コンピュータを使った、需要予測でないことだけは確かでしょう。どこかの空港の需要予測は、計算はコンピュータで正確かもしれませんが、入力するデータが人間の手で加工されたのでは正確な値も出せませんね。

岡崎城から873m離れた味噌倉でできた八丁味噌で食べる田楽は美味しかった

2010-01-10 08:00:00 | 日本の町並み
 阿波踊りにも負けないような活気のあるお祭りがあるのが上田でしたが、故郷の上田城にこもって宿敵の家康を苦しめたのが真田幸村です。その宿敵の家康の故郷は岡崎で、こちらも城跡が公園となった城下町の一つです。城下町らしさはあまり残っていないようですが、城跡公園から北に少し行ったあたりや八丁味噌の蔵元の味噌倉が並ぶ周辺に少し古い町並みも残されているようです。

 岡崎市は、愛知県のほぼ中央にあって、海には面していない内陸の市です。JR東海道線に岡崎駅がありますが、市の中心部は名鉄の東岡崎になります。「東」の文字が余分についているほうがメジャーな駅というのも面白い現象ですが、横須賀駅もJRの横須賀より京急の横須賀中央の方が中心街に近くメジャーかもしれません。徳川家康の生まれた岡崎城跡も名鉄の東岡崎駅の一つ西よりの岡崎公園駅から1kmほどの所です。

 岡崎城は、15世紀に作られた平山城でしたが、江戸時代初期に松平氏により改修され複合連結式望楼型3重3階の天守を持つ平城になっていました。しかし、明治の廃城令により天守をはじめすべての建物が取り壊され石垣と堀などのみを残して岡崎公園となりました。その後、1959年に鉄筋コンクリート製の天守や大手門が再建され市のシンボルとなっています。
 
建物を失った城址は、宗教団体の本部になっているところもありますが、岡崎城址のように、緑豊な公園となっているところが多いようです。また、民謡に「五万石でも岡崎様は、城の下まで船が来る」と歌われている様に、城跡のすぐ南には乙川の流れがあります。陸上の輸送より、水上の輸送がはるかに有利であった江戸時代において、城のそばに船が付けられるということは、大きな利点であったのでしょう。

 この岡崎城から八丁の距離(約873m)の所で作られた味噌が八丁味噌です。現在も「カクキュー」と「まるや八丁味噌」の二軒の味噌倉が伝統を引き継いで八丁味噌を作り続けています。八丁味噌の御園特徴は、米や麦を使わず大豆のみを原料としていることで、麹ももちろん大豆から作るまめ麹が使われます。赤黒い辛口の味噌で、赤出汁はこの八丁味噌を使って作られるのが一般的です。筆者は「まるや八丁味噌」の工場を見学させてもらいましたが、薄暗い工場の中に並んだ桶の上に随分とたくさんの石が積まれていたのが印象的でした。
 
実はこの味噌倉は、今をときめく宮崎あおいが主演をしたNHKの朝ドラ「純情きらり」のロケ地になったところで、中庭に面した壁にはロケにまつわる写真が並べて展示されていました。ガイドをしてくださった方が、ここが宮崎あおいが演ずる主人公が、味噌の桶の中に落っこちたところだよ、と面白おかしく説明をしてくれました。一方の「カクキュー」は、歴史は新しいのですが、古い味噌倉が残されていて有形文化財になっており、
 
オフィスの建物の正面も個性的です。

 味噌倉の見学の後には、八丁味噌で作った田楽をご馳走になりました。関東で田楽、おでんというと、大根や練り物をお出汁で煮たものを指しますが、関西で田楽といえば味噌田楽、こんにゃくなどを煮た物に味噌だれをつけて食べるものでした。関東のおでんに相当するものは、関東煮と呼ばれてきました。ただ、最近はテレビの影響もあってか、この呼び方はすたれてきたようです。ただ、うどんの出汁など、関東と関西ではまだまだ食文化の違いが残るようです。これは文化の違いなので、どちらがよいかという議論ではなく、その文化の背景などを議論すべきでしょう。ところが、世界には食文化の違いを認めず、鯨はかわいい顔をしているから食べるのはかわいそうという議論をする人種が存在するようです。自分たちの文化が絶対で、他の文化を認めない、一種の人種差別につながる主張のように思えます。インターネットが発達して、世界中のコミュニケーションの障壁が減ったといわれますが、それだけでは差別は減らないんでしょうか。