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世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

かつて無錫旅情という歌がありましたが、太湖以外には工業都市の無錫は魅力に乏しい都市でした(中国)

2020-10-04 08:00:00 | 世界の町並み
 バルト三国の最も南に位置するリトアニアの首都から日帰り圏にあって、多くの湖水やお城のあるピクニックに好都合な場所がトラカイでした。山ばかりの風景の中に水があると絵になることが多く、それが川であったり湖水であったり、時には海の場合もあります。中国の清朝の出身は旧満州で山ばかりの風景の中で育ったため、江南地方の水のある風景にあこがれ、承徳の秘書山荘の庭園には江南の湖水を模した池があり、北京郊外の頤和園の中にも規模は小さいのですが水のある風景が作られています。その江南地方の水郷風景は、世界遺産の蘇州など上海の西側に日理がっていますが、今回はそれらの中から、中国で三番目に大きな淡水湖の太湖の北岸にある無錫を紹介します。ただ、訪問したのは20年以上も前で、デジカメの性能はおもちゃの域を出ず、画素数も色合いもかなりひどく、アナログの写真をスキャナで取り込んで補いました。

 無錫は上海の西130kmほど、在来線では80分ほど、新幹線では30分ほどですが、新幹線の駅は市街地から離れているようです。無錫とは、字の通り錫(スズ)が無いということですが、かつては豊富なスズの産地で有錫とも称される鉱業都市であったのが前漢時代までに掘りつくしてしまって無錫になってしまったと言われています。ただ、この地方で話された越語の研究から、この説を否定する見解もあるようです。錫は青銅の原料の一つですから、青銅器文化華やかりし頃は、大いに栄えた都市の一つだったのでしょう。この錫が取れなくなっても、7世紀に開通した京杭大運河が通り、江南と北京とをつなぐ物流都市として発展をつづけたようです。

 現在の無錫市は人口が500万人を超えているので東京23区と横浜市との間くらい、福岡県の総人口ほども生活をする大都市になっています。市域の大部分が沖積平野で、一番高い山でも600mほどと、土地の利用効率が良いことも理由の一つかもしれません。工業化が進み、日本をはじめ外資系企業の進出も盛んなところのようです。

 
 
 工業都市のイメージが強く、観光の中心はお隣の蘇州で、無錫には観光ポイントは、あまり多くありません。おそらく最大の観光ポイントは太湖で、竜宮線のような観光船で巡りますが、なにせ琵琶湖の3倍以上の面積のある湖ですから、無錫の近くをチラと巡るだけです。この太湖の水のおかげで、太鼓の島々や無錫の丘にある石灰岩が侵食され穴だらけの太湖石を産み、お隣の蘇州の庭園には数多くの太湖石が並んでいますが、司馬遼太郎氏には酷評されています。

 
 
 
 
 かつて錫が採れたという山が錫山で、現在は頂上には龍光塔が建っています。そしてこの龍光塔の麓に広がるのが錫恵公園で、かなりの広さがあり、その中の寄暢園には蘇州にあるような庭園があります。筆者府が訪問した時は花まつりの最中で、公園中に花があふれていました。この園の中に天下第二泉という唐代に開かれた泉があります。「茶経」の著者の陸羽によると、この泉は、お茶を点てるための水として二番目に優れているというものです。ちなみに天下第一泉は山東省済南にあるのだそうです。

 錫というと、かつてはブリキのおもちゃに代表されるブリキ板の原料として鋼板にメッキをするための原料としての性格が強かったように思います。ブリキと聞くと安物の代名詞のように聞こえますが、錫を主成分とするピューターで作られた食器は高級品のイメージがあります。IT分野では、配線を接続するための半田が古くから使い続けられています。融点の低いことを利用したもので、筆者の若いころは真空管式のアンプなどにコンデンサや抵抗などを半田ごてを使って取り付けていました。現代では、ICなど部品の載ったプリント基板を溶けた半田の池に浸したり、半田の粉末をプリント基板に印刷して加熱したりと、半田ごての出る幕はありません。回路の大部分がIC化され、壊れたら全取り換えという技術の流れは、ちょっと寂しい感じもします。

首都のヴィリニュスから1時間足らずで行けるトラカイは湖水や緑がたくさんある羨ましい場所です(リトアニア)

2020-09-06 08:00:00 | 世界の町並み
 かつての都であった西安(長安)から日帰り圏の近くにあって、青銅器博物館やアショカ王が贈った舎利を祀る塔がある法門寺など個性的な見どころのあるのが宝鶏でした。海外旅行で訪れるのは時間の制約などで、どうしても大都市中心になりますが、その周辺にも見どころがあることが多いものです。このような場所は五万とあるでしょうが、今回はそれらの中から、リトアニアの首都のヴィリニュスの西にあるトラカイを紹介します。

 
 トラカイはヴィリニュスの西30km,、バスで40分、人口5,000人ほどの小さな町です。近郊には200もの湖水があって、国立公園に指定されています。30kmというと東京駅と横浜駅との距離程度ですが、トラカイは首都の近郊とは思えない緑豊かな田舎です。湖のそばで見る景色は、北海道の大沼やイギリスの湖水地方と似たような感じがします。

 
 
 
 
 
 前出の2か所とは違って、湖水の景色に加えて、ガルヴェ湖の島にあるお城があり景色に変化を当てえています。14世紀に造られたトラカイ島城です。トラカイはリトアニア公国にとって戦略上重要拠点であり、現在ののびやかな景色からは想像もできませんが、過去には何度も激戦を経験したお城だったようです。離宮や牢獄として使われたこともありましたが、17世紀にモスクワ大公国との戦いで破壊されてしまいました。その後は廃墟となりましたが、現在ある城は20世紀に15世紀の様式で再建されたものです。湖岸から飛び石のような小さな島を経由し二つの橋を渡ってお城の中に入れ、内部は武具や美術品が飾られた博物館になっています。外部から見ると、湖に浮いているおとぎ話のお城のように見えるのですが、内部は少し物々しさもあって、実際に戦争で使われた要塞だったと感じます。北ドイツのシュヴェリーンに、やはり湖に浮いているようなお城がありますが、シュヴェリーン城は白が基調で空を突くような塔がたくさんあって、豪華な感じがしますが、トラカイ島城はオレンジ色が基調で、こちらの塔はムーミンに出てきそうで、かわいらしさが目立ちます。

 
 トラカイ島城の手前にも要塞跡があって、湖に突き出した半島にその遺跡が残っていたように思いますが、記憶がはっきりしません。壕のような地形や快挙のような建物が残っていたようにも思います。詳細な情報も乏しいようですが、華やかなトラカイ島城と対照的に滅びの美学があったような気がします。トラカイに行ったら皆が買って食べるのがキビナイというミートパイの一種で、外見は揚げ餃子って感じです。筆者は、売店で買ったキビナイを食堂で頼んだボルシチと共に食べましたが、お勧めの味です。

 島に建っているといえば、城ではなくて教会ですがモンサンミシェルが飛びぬけて有名で、日本人も好んで訪れるようです。現在は島へ渡る橋がありますが、かつては干潮時に海を歩いて渡ったそうです。渡っている最中に潮が満ちてきて溺れてなくなった人も多かったとか。渡っている人はスマホを持ってなかったでしょうから、潮汐のデータは把握できていなかったのでしょう。スマホを持っていれば、多くの情報が簡単に手に入り便利ですが、それと引き換えに人間が持っている第六感のようなものが衰えているように思います。災害などで、最後に身を守るのは第六感なのでしょうから。

高雄郊外の龍虎塔では流の口から入って虎の口から出ましたが悪行のリセットができたでしょうか(台湾)

2020-07-12 08:00:00 | 世界の町並み
 かつては9か国もの租界が存在し、その名残が町中に残るのが天津でした。北京に比較的近く、高速鉄道もあって30分で着いてしまうので、北京の郊外といった感覚です。この高速鉄道は、天津から先は海になってしまうせいか、行き止まりで、北京と天津間を結ぶだけの高速鉄道のようです。一方、台湾の2つの都市である台北と高雄とはもっと離れていて、急ぎの人は国内線の飛行機で往来していましたが、両都市間を結ぶ台湾高鉄ができて最速で1時間半で行けるようになりました。この高鉄は天津3倍ほどの距離ですが地点間を結ぶだけで台湾を一周する構想は無いようです。今回は、台湾高鉄の南のターミナルである高雄を紹介します。

 高雄は台湾の南端に近い、台北に続く第2の大都市で人口は300万人弱で大阪市と同程度の人口です。良港に恵まれ港湾で栄えた商業都市で、商都の大阪と似ているかもしれません。首都圏の人たちはタカオと聞くと高尾山を思い浮かべますが、こちらのオは尾っぽ、逆に関西人は神護寺のある高雄山を思い浮かべ、こちらは高雄市と同じ文字です。高雄の地名は先住民が呼びならわしていたtakauを表音文字化して打狗とされた表記が日本統治時代に京都の高雄にちなんで現在の表記になったのだそうです。

 
 ところで、中国の鉄道は、日本と同様に在来線も高速線も国営ですが、台湾では在来線は国営で高鉄は民営です。高鉄が開通する前の在来線では、特急の自彊号で4時間もかかっていたので半分以下の所要時間となったのですが、開通までは紆余曲折があったようです。路盤工事は韓国、車両は日本そして無線などのシステムは欧州といった混成で、システムとしての統一性が無くトラブル続きで、2年近く開業が遅れました。外国のハードをコピーしただけの中国と共に、危なっかしい高速鉄道と言えるかもしれません。

 
 
 
 この高鉄の駅は左営といって市の北部で在来線で6駅、地下鉄線で5駅も離れた郊外にあります。高雄の有名な観光地の一つの蓮池潭は、この新佐営駅の南西に南北に長い楕円形の池で、池の北端から西側にかけて見どころが広がっています。北端に並んであるのが文昌祠と孔子廟都が並んでいます。文昌祠は学問の神様の文昌帝を祀ったもの、孔子廟は台湾屈指の規模です。ここから水辺に沿って左回りに散歩をすると対岸に建物の上に仏像が乗った清水宮が見え、やがて屋根の上の彫刻が賑やかな天府宮に出ます。

 
 
  
 そこからさらに進むと、湖上に突き出た先に巨大な玄天上帝神像が周りを威圧しています。そして、ゴールは湖上に2つの塔がある龍虎塔です。それぞれの塔の入り口には龍と虎が口を開けていて、龍の口から入り虎の口から出てくると、それまでの悪行を帳消しにしてくれるという免罪符のようなご利益があるそうです。

 一方、在来線の高雄駅は市の中心部、在来線の旧駅は戦前に造られ帝冠様式の駅舎で、ちょっと旧JR奈良駅舎に似た格好でしたが、鉄道の地下化工事の際に保存運動が起こり曳家され展示館として使われ、新駅ができたのち元の場所に再移動して地下駅への入り口として利用されるそうです。筆者の訪問の時には、工事の真っ最中で駅舎は仮駅、南北間の自由通路が無かったため、改札で通行許可証をもらって通り抜けた覚えがあります。

 
 
 
 在来線高雄駅の南口から西南西に少し行ったところにあるのが三鳳宮で、巨大な門を入ると極彩色の彫刻と真っ赤な提灯に出迎えられます。元来は道教寺院らしいのですが仏像も置かれていて、わが国の江戸時代に神社とお寺がごちゃ混ぜになったのと同じ様子です。観光バスでどやどやとやってきた白い帽子をかぶって同じような格好をした一団が、何かしら儀式めいたことをやって、またどやどやと去っていきました。

 
 
 南口から地下鉄を1駅、美麗島で乗り換えて西に2駅乗ったところの愛河河畔に建つのが高雄市立歴史博物館です。日本統治時代の1938年に高雄市役所として建てられ、戦後も役所として使われ、役所が引っ越したのち後の1998年から博物館として使われています。高雄市の歴史にまつわるレンジがありますが、建物だけでも見る価値のある美しさです。

 
 一方、高雄駅から地下鉄を北に1駅乗った後駅から西に1kmほど歩くと客家文化館があります。客家とはもともと黄河流域に住んでいた民族でしたが、内乱などで中国の各地に散らばり、高雄にも人口の2割を占める客家の流れをくむ人々が住むそうです。文化館にはこれらの人々の衣食住の文化にまつわる物や行事の様子が展示されていますが、さほどの内容が無かったような気がします。むしろ隣接した朝市でかって食べた、焼き芋と桃とがおいしかった印象が残っています

 台湾の高速鉄道は、いろんな国の技術の寄せ集めで成り立っていて、とても統一されたシステムとして動いているとは思えません。通常の運行ではそれなりに走っているのでしょうが、いったんトラブルが起こると、どうなるのか心配です。鉄道の世界では、国際標準や業界標準というものが、通信やコンピュータの世界ほどには進んでいないように思います。例えば、東京の都営地下鉄など軌間、保安方式、動力方式などすべてばらばらで、4路線の電車は全く互換性が無いという無駄なことをやっています。コンピュータの周辺機器では、アップルなどの製品を除けば、どこの会社の製品を買っても問題なく動作する互換性が保証されているのですが。

中国の中で最も多くの国の租界があった天津は上海よりもさらに西欧の香りが残っているように感じます(中国)

2020-06-14 08:00:00 | 世界の町並み
 北アフリカにありながらヨーロッパの香りがする都市がチュニジアの首都のチュニスでした。これは、元の宗主国のフランスの影響のようで、街中でも英語よりフランス語の方が伝わるようです。アフリカに限らず、アジア諸国には植民地や租界の宗主国の影響を受けてアジアの街並みとは思えない場所が多いものです。今回は、19世紀の末に中国の中で最も多い9か国の租界が存在した天津の中心部を紹介します。



 
 天津は北京の東南100kmほど、海河が渤海湾にそそぐ湾の一番奥の港町です。海河は天津市内で5つの川が合流したもので、全長は73kmほど天津市内を北西から南東に流れています。天津駅近くの船着場からは、観光クルーズ船が出ていて、筆者は夜に乗りましたが、きれいな夜景を楽しむことができました。中央駅の天津駅から北京南駅までは、300km/hで疾走する高速列車で30分で到着します。筆者が訪問した時はE2系をベースとしたライセンス生産の和敬号が走っていましたが、その後は中国の独自技術と称する日本やドイツの技術のコピー列車が走っているようです。

 天津租界は、1860年の北京条約締結に基づくもので、9か国が覇権を競っただけでなく、中国官憲の権力が及ばないことから、旧清朝の王族なども集まり独特の租界文化を型作りました。戦後の新中国の政権は上海などを重要視し、天津は取り残された形で、その結果旧租界の建物などの景観が冷凍保存されたようです。旧租界地区は、天津駅を頂点にして南に広がり、フランスやイギリス租界の跡は、まるでヨーロッパの街並みを歩いているような景色が広がっています。

 
 
 筆者が訪れた、旧居留地の駅周辺、解放北路、五大道と中国人の暮らしていた天津城の周辺を紹介してゆきます。海河のクルーズ船の乗り場近くの広場には世紀鐘と呼ばれる巨大な時計が置かれていて、夜にも昼にも存在感があります。この広場から海河を渡るのが解放橋で、もとは跳ね橋だったそうですが、現在の橋からはその形跡は見られません。このあたりの川沿いは、古い建物や近代的な高層建築などが入り混じって、面白い景色が広がっています。

 
 
 
 
 解放橋を渡って、川沿いに下流、東に行くと解放北路に至りますが、この道筋は旧居留地の古い建物のラッシュです。建てられてから150年ほどはたっていようかと思いますが、まだまだ軍港の建物など現役で使われているようです。その中でも天津利順徳飯店(アスターホテル)は、孫文や袁世凱も止まった由緒あるホテルで、建物を追加新築していますが、旧館も現役の五つ星ホテルです。

 
 
 
 
 
 解放北路の南西にあるのが五大道で、中国南西部の都市名を付けた通りが5本あることに由来した地名です。こちらは、ビルに交じって高級住宅街の景色が広がり、公園には子供の群像のブロンズも置かれています。町並みを一周する観光用の乗合馬車も走っていて、有名人の邸宅の説明もあったんだと思いますが、周りの景色を楽しむのみでした。

 
 
 天津城地区は、租界地区の西北にあって、こちらは町の景色がヨーロッパから中国に一変します。中央にあるのが鼓楼で、上に上ると周辺の町の様子がよくわかります。通りの先には、横浜や神戸で見かける城門のようなものも見えます。ただ、鼓楼というと楼閣の上には太鼓があるはずなんですが、大きな鐘があって、これだと鐘楼ではないのかなって感じです。天津城地区から駅に戻るため東に行くと古文化街があり、こちらも中国の香りの町並みです。古文化街の中央あたりには天后宮があり、祭神は中国の沿海部で祭られている媽祖(まそ)で海の安全を祈るものです。このあたりの街並みはアモイやマカオの古民家街で見られる景色に似ているようです。

 
 
 天津というと天津飯を思い浮かべる方も多いと思いますが、この料理は日本が発祥で、中華料理にはご飯に蟹玉を乗せたものは無かったそうです。中華料理と日本の丼文化とを融合させた傑作かもしれません。天津に行っても天津飯は日系のスナックなどで出されるくらいでしたが、元来の中華料理店にも類似の料理が広まりつつあるのだそうです。和製英語でも、便利な使い方から、本来の英語圏でも使わあれるようになったものがあるようです。ナイターやケースバイケースがその例で、本来はIt depends onやNightgameですが和製英語の方が使い易い面があるとのこと。Laptop computerのノートパソコンやOutletのコンセントなどは、日本のIT輸出がいくら盛んになっても本来の英語にはなりそうにありませんが。

東京より北に位置していても熱帯の雰囲気が漂うチュニスはイスラム圏でありながら南仏を感じる風景がひろがります(チュニジア)

2020-05-17 08:00:00 | 世界の町並み
 世界遺産のセーヌ河岸やヴェルサイユ宮殿だけでなく見るべきものが数え切れないのがパリでした。アフリカ諸国、特に北アフリカにはかつてのフランスの植民地が多く、これらの国々へはパリ発の空路が便数も多く便利です。今回は、これらの国のうちチュニジアの首都のチュニスを取り上げます。チュニスは、パリの姉妹都市の一つにもなっています。チュニスには旧市街と、近郊のカルタゴが世界遺産に登録されており、すでに本ブログで紹介済みなので、なるべく重複を避けて紹介します。

 
 
 チュニスは、チュニジアの北部にありパリからの飛行機で2時間半ほどで市街地の北東にある国際空港に着きます。緯度は北緯37度ほどで、東京より北にあって、地中海に面しているのも関わらず、空港ビルから外に出ると、足元から熱気が上がってきます。東西を2つの湖に囲まれた市街地は2km四方ぐらいでこじんまり、路面電車も走っていて、旅行者にも分かりやすい町並みです。路面電車のほかに、世界遺産のカルタゴや保養地のシディブサイドに向けて走っているTGMという郊外電車が市街地の東端から、市街地の中心部にはチュニジア鉄道の中央駅があります。

 
 
 
 
  
 市街地の中央あたりにメインストリートが東西に通るハビブ・ブルギバ通りで、街路樹が茂り、主だったホテルやレストランが並んでいます。通りの東端にはTGMの駅があり、西の端には世界遺産のメディナへの入り口のフランス門があります。東京より北なのに、煮中は暑いせいか、日が傾くと夕涼みなのでしょうか、通りを散歩する人が増えるようです。また、あちこちに噴水があって、涼感を演出しています。チュニジアは回教国で国民の大部分がイスラム教徒でメディナの中には大きなモスクがありますが、ハビブ・ブルギバ通りに面してキリスト教会が建っています。フランス統治時代に建てられたセント・ビンセント・デ・ポール大聖堂といいますが、南国の青い空をバックに2つの銭湯を持つ白い教会は中々奇麗で、内部も一見の価値があります。

 
 
 
 チュニスの市内で、世界遺産のメディナを除けば、世界的な観光拠点がバルドー国立博物館です。2015年に武装集団によって襲撃を受け、日本人の被害者も出て有名になりました。博物館の建物は13世紀に建てられた宮殿を流用したもので、19世紀後半に創設され世界の1,2を競う規模のモザイク画のコレクションが展示されています。元が宮殿であった琴から、建物内部の装飾も中々奇麗ですし、モザイクが以外にも、古代カルタゴの土器や工芸品も数多く陳列されています。

 モザイクと言えば、画像をモザイク処理して細部を見えなくする技法があります。元の画像を格子状に区切り、各格子ごとにを平均化してしまってぼやかすのですが、平均化過程で元の情報が失われ再現は無理です。周辺情報から高度の予測をして多少の再現を試みる手法はあるようですが。再現が難しいモザイク化ですが、モザイクをかけたからといって安心できないようです。文字をモザイク化したデータを数多く集めておいて、モザイク化された画像をコンピュータで読み取り、文字のデータと照らし合わせれば、元の画像は再現できなくても、書かれている文字が分かるということです。現在の暗号は、量子コンピュータが実用化されれば簡単に解読できると言われ、秘密を守るのは総簡単ではなさそうです。

パリ市内の美術館だけを回っても、1週間、いやいや1か月でも足りないかもしれません。(フランス)

2020-04-19 08:00:00 | 世界の町並み
 政権が変わったりコロナ騒ぎで、遠い存在になってしまったソウルですが、なかなか見どころいっぱいで面白い町の一つでした。このソウルは、数多くの都市と姉妹都市となっていて、その多くが首都で東京もその一つです。意外とヨーロッパが少ないようにも思いますが、今回はその中からフランスの首都のパリを紹介します。パリのセーヌ河畔の名称で世界遺産に登録されている施設も多く、本ブログの世界遺産編ですでに紹介済みですので、なるべく重複しない場所を重点的に紹介します。

 
 
 
 名所の多いパリで、筆者の訪問したところは美術館が多く、偏りがあるので、とても網羅的なものではありませんし、かなり昔の情報が含まれていることをお許しください。


 パリを象徴する建物と言えば色々あるとは思いますが、エッフェル塔は外せないと思います。今から130年以上も前に、パリ万博の目玉として建てられましたが、当初の予定では20年後に解体されるはずでした。エッフェル塔に設置された、軍需用の受信アンテナが功を奏して、現在まで生き延びています。筆者が初めてパリを訪れたのは1998年でエッフェル塔が建てられて100年の節目で、島には100ansの文字が浮かんでいました。建てられた当時は奇抜な姿ゆえ酷評されたようですが、その後に建てられた塔の多くがエッフェル塔をまねているように思います。特に、東京タワーは、エッフェル塔より使用する鉄材が少なくって済んだ、と威張ってますが、100年間の構造計算の進歩のおかげにほかありません。デザイン的には、エッフェル塔が4本の脚の間に何も跨がなくてすっきりしているのに、東京タワーではビルを跨いでいる分ごちゃごちゃしてます。びっくりしたのは、上部の展望台の上層階にガラスが無いことでした。悪意で物を投げられ、地上にいる人に当たるとケガで済まないと思うのですが。

 
 さてパリ市内の美術館ですが、数えたらきりがないほどにあり、東京との違いは、特定の作家のための美術館がかなりの数あることでしょうか。画家や彫刻家たちがパリに集まり、その作家にゆかりのある場所などが美術館になったようです。それらの中で、筆者がお気に入りの美術館はギュスタフ・モロー美術館とマルモッタン美術館です。
 モロー美術館は、モローの晩年の邸宅を利用したもので、住宅街にひっそりと建っていたように思います。螺旋階段(この階段もなかなか美しい)で上層階に上っていく狭い空間に、モローの絵が所狭しと並べられ、展示できないものはストッカーに収納され引き出して見られるようになっていました。そこにあること自体が見落とされそうな美術館で日本人には会いませんでしたが、モローのファンにほ絶対にお勧めです。
 マルモッタン美術館は、モネの絵だけではありませんが、印象派の名前が付く元となった「印象 日の出」の作品が展示されてる美術館です。パリの中心街から西に外れたブローニュの森の端に位置していて、ちょっと足の便が良くないせいか、こちらでも日本人の来館者の顔は見ませんでした。ちなみに、水連の絵で一番見事な展示はオランジュリ美術館でした。

 
 モネと言えば、水連などの連作のほかに、サン・ラザール駅の連作も有名です。パリには廃止されたものも含めると22の鉄道駅があり、サン・ラザール駅は最も中心部に近く、主にノルマンディー方面への列車が発着しています。鉄道駅舎の建物は重厚で美しいものが多く、リヨン駅など内部にル・トラン・ブルーという有名なレストランがある駅もあります。古くて由緒のある駅舎を簡単に壊してしまうどこかの国とは文化が違うようです。


 
 ルーブルやオルセーは紹介するまでもありませんが、ルーブルではモナリザとミロのヴィーナスそれにニケの展示場所がわざわざ日本語の矢印があり驚きましたが、今は中文やハングル表記も加わっているのでしょうか。個別の作者だけを展示する美術館ではない美術館の中でお勧めは、国立中世美術館です。クリニュー修道会の修道院長の別邸を利用したもので、中世の教会を中心とした絵画、彫刻、宝飾品などが展示されています。ルーブルやオルセーの美術館もそうですが、美術館の建物自体も見る価値があります。こちらの美術館の目玉の一つの「貴婦人と一角獣」のタピストリーは7年前に日本で展示され記憶されている方も多いかもしれません。

 
 
 
 パリ市内の教会というと、これまた星の数ほどもあるかもしれません。日本人にとって最も有名なものの一つが、シテ島に建つノートルダムであり、さらにはモンマルトルの丘近くのサクレクールかもしれません。初めてパリを訪問したころは、ノートルダムにはすぐに入道できたものですが、8年前ですら前庭に長蛇の列ができていて驚いたものです。ただ、ノートルダムも火災にあってしまったので、シテ島に行かれたら、ノートルダムのすぐそばにあるサント・シャペルをぜひとも訪問されることを勧めます。個々のステンドグラスを見てしまうと、他のステンドグラスが輝きを失ってしまいます。

 日本の鳴門には、世界的に名だたる絵画などを陶板に焼きこんで展示する大塚国際美術館があります。オリジナルの絵画無くなったとしても、ここの絵画は残ると豪語しています。そのような意味で、法隆寺金堂の壁画は象徴的です。保存のための模写の最中に画家の寒さ防止に使われた電気座布団から出火したとされています。オリジナルの壁画は、黒焦げの痛々しい姿で収蔵庫に保管され、金堂には模写された絵がパネルに入れられて下がっています。法隆寺では人間の手による模写ですが、東博の茶室の応挙館には、ディジタルスキャナと高精細プリンタにより複製された応挙の襖絵がはめ込まれています。人間の手による模写より、ディジタルスキャナによる複製の方が精度は格段に高いと思いますが、一方向からの光で見た画像にすぎません。絵は光の当たり具合で、見え方がさまざまに変化し、2次元の絵画といっても、表面はまっ平ではありません。陶板の名画も所詮は、名画集の書籍と同じ価値しかないのではないでしょうか。

一千万都市のソウルには宮殿や仏像や民族舞踊など歴史の証人がたくさんあります(韓国)

2020-03-22 08:00:00 | 世界の町並み
 日本人の観光客の姿はあまり見かけませんが、近くにある2つの世界遺産の拠点として、大都市であるにも関わらず広大な植物園があるなど、もっと注目されていい都市がアモイでした。アモイと言えば、ラジオ世代にとっては、気象通報の観測地点名として聞き覚えのある地名の一つです。外国の地名があまりポピュラーではない頃に、カタカナ地名を聞くと、どんなところだろうかと思ったものですが、現在でもなじみの少ない地名もあったように思います。アモイもそのうちの一つかもしれません。お隣の韓国には5つの観測点があって、モッポやウルルン島など聞きなれない地名もあります。その中から、この観測点地名は知らない人はいないソウルを紹介します。筆者が訪問したのは2006年と1993年とずいぶんと昔で、旧朝鮮総督府の建物や南大門が建っていた頃で、現在はずいぶんと様子が変わっていることと思います。

 
 
 ソウルは1000万人の人口を擁する韓国の首都ですから、とても隅々まで紹介できるはずはないので、訪問したところを世界遺産を除いて虫食い状に紹介します。まずは宮殿跡を2つ、景福宮と徳寿宮です。景福宮は14世紀に朝鮮王朝がソウルに首都を定めた時に王宮として建てられたものですが、16世紀に火災や秀吉の出兵や日本の朝鮮併合など歴史の荒波にさらされ何度かの復元工事で再建されたものです。そのためか、中心の建物の勤政殿はなかなか美しく、見上げた垂木やその周りの彩色も見事でした。また、なぜか宮廷内で済州島伝統の石像であるトルハルバンが立っていました。27年前の訪問時には、景福宮の正門であった光華門の後方には、旧朝鮮総督府の建物が残っていました。

 
 徳寿宮も歴史に翻弄された宮殿で、15世紀に当時の国王の兄君の邸宅として建てられ、16世紀には荒廃した景福宮の代わりの王宮として使われましたが、19世紀末まで荒廃にまかされたそうです。19世紀末になって国王が邸宅として、日韓保護条約締結の場などとして使われたそうです。東洋風の宮殿の建物群の中に、周りの風景とあまりにも違う石造殿とイギリス式庭園があります。この石造殿は朝鮮王朝の迎賓館として使われたそうです。

 
 
 続いてお寺を一つ、韓国の仏教の最大宗派である曹渓宗の総本山である曹渓寺です。ソウルの中心街にあって14世紀に創建されたお寺ですが、日本の古寺とは趣がだいぶ違います。境内にあるおびただしい数のカラフルな提灯にびっくりさせられます。境内にあった石仏のあどけない顔が印象的でした。韓国の宗教人口は53%ですが、仏教徒が最も多いのではなく、カトリックとプロテスタントを合わせたクリスチャンが仏教徒より1.3倍ほど多いそうです。ソウル市内にも多くの教会があって、明洞大聖堂は韓国最初のカトリック教会で19世紀に建てられたもので信徒から精神的シンボルとしての存在となっているようです。

 
 
 
 曹渓寺のあるあたりは仁寺洞と呼ばれる地区で、アンティークショップやお土産屋などが並ぶ繁華街で、その中に店名がハングルで書かれたスタバがあります。できた当時は、店名が英語表記以外の世界唯一の店だったそうですが、現在はソウル市内に3店舗あるのだそうです。地下鉄の鐘閣駅まで行くと鐘閣があります、わが国や中国では鐘があるのは鐘楼ですが、ソウルでは宮殿状の大きな建物なんです。正面が5間もあって、その中央の1間に鐘がぶら下がっています。夜もライトアップアされてなかなかきれいです。このそばには鐘路タワーという一風変わったタワーが建っていて、最上階のレストランからみた夜景はなかなかきれいでした。

 
 
 
 2回目の訪問の時には、国立博物館が光華門近くから現在の米軍跡地に移転した直後でした。基地の跡ということから市街地からちょっと離れてますが、日本の東博と同じ広さの敷地に一日では到底見学できないような数多くの文化財が展示公開されています。その中には、4年前に東博で中宮寺の弥勒と並べて展示された半跏思惟像もありましたが、撮影禁止だったように思います。動かない文化財だけでなく、民族芸能を上演する劇場もあります。1回目は、夕食を食べながらの鑑賞で、2回目は見るだけでしたが、上演後に演者と一緒に写真を撮るおまけが付いていました。

 韓国に行くと、なんとなく船酔いのような気分になります、原因はハングルが文字として認識できないからです。アルファベットを使う国であれば、意味は分からなくても近い発音はできることが多いのですが、まったくお手上げ状態です。ただ、このハングルは全くの記号文字で最も進んだ文字の一つとされています。子音と母音を表す2種類の記号を組み合わせたもので、これさえ覚えれば発音だけはできそうです。たあd、全くの表音文字で、英語などのように単語で区切られないので、パターン認識ができず、交通標識などでとっさの判断が難しいそうです。このハングルは、パソコンでどうやって入力するのか調べてみました。原理は日本語をローマ字入力するのと同じで子音と母音とを2ストロークで入力するのですが、ハングルのそれぞれの子音と母音とがどのキーに対応するのかを覚えたり、それが刻印されたキーボードを使うとのことです。入力方法の異なる国のスマホがわが国で一番売れている機種の一つと言うのも面白い現象です。

日本人にはなじみの少ないアモイですが、大都市の顔と自然とが共存しています(中国)

2020-02-23 08:00:00 | 世界の町並み
 領有権のある台湾からより、かつて戦闘を交えた中国からの方が近い島が金門島でした。金門島からは台湾は見えませんが、中国のアモイははっきりと見えます。この距離でドンパチやったら大変だっただろうとおもいます。

 金門島は緑が多くて、のどかな島ですが、隣の中国のアモイは高層ビルが立ち並ぶ300万人を擁する都市で対照的です。今回は、アモイの島の主として南部を紹介します。

 アモイという地名は、ラジオの気象通報で観測点の一つと言えば聞いたことがある方も多いかもしれません。学校の地学の時間に、気象通報を聞きながら天気図を書く練習をされた方だと、場所も分かるかもしれません。上海と香港の間の香港寄りで、台湾の台中の対岸といったあたりにあります。日本からは全日空と厦門航空とが直行便を飛ばしていますが、香港や上海と比べると便数も少なく街中で日本人を見かけません。かといって、香港や上海から地上移動は、高速鉄道で深圳まで3時間半くらい、上海までは6時間以上のようです。アモイ市は、島の部分だけでなく大陸部分の方が広く、地下鉄も海峡を渡って大陸部分まで延びていますが、人口の中心は島の方で空港も島の北端部にあります。島には2つの行政区があり南部の思明区に人口が集中し高層ビルや商業施設があります。

 
 
 この島の南部の最南端に近い小山の上にあるのが胡里山砲台です。19世紀のアヘン戦争の時に造られたものですが、当初の大砲は据えられた方向にしか打てないため、大砲の向いた横の方向から攻めてきたイギリスに大敗したそうです。これに懲りて、ドイツから砲身の方向が回転するクルップ砲をドイツから輸入しましたが、試射を除けば撃ったのは日本の軍艦向けの1発のみとのこと。1990年代までは一般人は立ち入ることはできませんでしたが、現在は金門島をも望めるピクニック地になっています。

 
 
 
 胡里山砲台への途中の五老山の南麓にあるのがアモイ切手の古刹の南普陀寺で、千年以上の歴史があるようですが、たびたび破壊を受けて現在の建物は20世紀初頭の再建です。境内は思いのほか広く3万㎡ほどで東京ドームの客席を含めた広さ程度です。中国の方々の観光コースになっているらしく、おびただしい観光バスが駐車場を埋め、境内も人だらけですが、日本人には会いません。世界遺産のコロンス島の日光岩の麓でも見た岩に書かれた巨大な「佛」の文字は清時代の僧侶のものだそうです。観光寺院化しているようにも見えますが、僧侶の教育機関としても機能している現役寺院の一つです。

 
 
 五老山の西麓に広がるのがアモイ園林植物園で、広さはなんと2.3㎢もあり、神戸の六甲山の西の山の中にある森林植物園の1.5倍ほどの広さということになります。山の中の植物園ではなく、市街地のそばにこれだけの広さの植物園を作ってしまうのは中国らしいのかもしれません。とてもこの広さを歩き回るのは大変で、西に面した入り口から入って、多肉植物やサボテンの植えられたあたりまでが限界です。これは、広さだけでなく入り口からず~っと上りになるからです。行儀よく見本市のように植物が並んでいるのではなく、自然の森のような形が多いのは神戸の森林植物園と似ていますが、菊人形のような作りでブーゲンビリアの花で作られた動物もありました。多肉植物のエリアは、サボテンや多肉植物を行儀よく集めれた地区で、ボリュウムもあって見ごたえがあります。

 
 この植物園の西側に広がる商業地が中山路で、その入り口あたりにあるのが中山公園です。東西200m、南北500mほどの都市公園ですが、中国のほかの公園でも見られるように、太極拳をやる人、音楽を奏でる人、それに旗を持って踊る人など日本の公園とはちょっと雰囲気が違います。

 
 
 
 中山路は公園から西に行ったところで、レトロな白いビルが立ち並ぶ商店街です。中国風の門があったり、ビルの壁面や屋根に中国風の庇や屋根が乗っていたりしますが、ちょっと中国を忘れる風景です。ただ、土産物屋に入ると巨大な魚の干物がぶら下がっていたりで中国らしさも感じます。


 気象通報の観測拠点としてアモイの地名を聞いた方も多く、天気図を描かれた方もいらっしゃるかもしれません。かつての天気図は、気象通報で読み上げられる観測点から人手によって描かれていて、地表部の現状を表すものだけだったのでしょう。現在では、地上の固定観測点のデータだけでなく、船舶などからの意カンソクデータや気象衛星からのデータを使って描かれています。もちろん、地表の現状だけでなく、高層の天気図や48時間後の予想天気図も作られています。これらは、コンピュータにより過去のデータも利用した高度な予測によるもので、天気予報のロジックと同じようなものと思います。ただ最近の天気予報は、スパコンを使う割には当たらないようで、人間の感の方が当たるような気もします。

中国のすぐそばにあり、領有権のある台湾からは遠い金門島は、そばにある厦門とは違って、昔の日本のような景色が広がります(台湾)

2020-01-26 08:00:00 | 世界の町並み
 かつてカナダの首都が置かれましたが、川を挟んですぐ先が当時の敵国であったアメリカといったことで首都の地位をオタワに譲ったのがキングストンでした。日本では国境を意識することはあまりありませんが、ヨーロッパに行くと川の向こうや山の向こうは違う国というこてゃよくあり、極端には道を挟んで隣国といった国境もあります。隣国との関係が良好な場合はいいのですが、キングストンの例のように、仲の悪い国同士が狭い川や海峡を挟んで対峙することも珍しくありません。今回はそれら中から狭い海峡を挟んで中国と対峙する台湾の金門島を紹介します。

 
 金門島は中国大陸から最短で2kmほどしか離れていない台湾領で、かつて金門紛争では中国と台湾が戦闘を交えて領有権を争ったところです。中国大陸に近い島ですが台湾からは100km以上も離れ、台湾との間の交通は通常は飛行機のようです。一方、中国のアモイからはフェリーで30分くらいで着いてしまいますが、これは現在の姿で、紛争の頃にはありえない航路であったわけです。ただ、最近は中国と台湾の関係がギクシャクして中国国民は、個人旅行で台湾には自由に行けなくなったようで、当然ながら金門島へのフェリーにも自由には乗船できないようです。我々日本人は、自由に行き来ができますが、イミュグレーションでパスポートコントロールがあり、それもかなり厳格に行われ時間もかかりました。なぜかアモイのフェリー乗り場には、陶製らしい楽器を奏でる真っ白の群像が並んでいました。

 
 
 
 
 アモイからのフェリーは金門島の西端に近い水頭埠頭に着きます。フェリーに乗船したアモイは高層ビル群が林立する大都会ですが、着いた水頭埠頭からは駐車場の向こうに緑の小山が見えるだけで、なんとものんびりとした風景しか目に入ってきません。水頭埠頭から東南東へ1kmちょっとには水頭集落があって、古い町並みが残っています。古民家あり、学校の跡、廟らしきものあり、お寺もあります。古民家が集中する一帯には伝統建築遺跡保留という名版があって、日本の重伝建といったところでしょうか。建物の一部は内部が公開されていて見学もでき、おそらく裕福な方の邸宅だったのでしょう、なかなか豪華なつくりになっています。

 
 治安が良くなかった頃に建てられた得月楼という望楼風の建物があり、盗賊や海賊から身を守るために20世紀初頭に建てられたそうです。広州の近くにある世界遺産の開平の望楼群と目的も形も似ているようです。

 
 学校は金門尋常小学の看板が残るファサードには天使のレリーフもあって、こんなに美しい校舎は日本にもあまり残っていないようにも思います。 

 
 
 フェリー乗り場から島の中心の金門鎮まで5kmほどバスで15分くらいで着きますが、低層密集住宅が立ち並ぶだけで高い建物は皆無で、大都会のアモイから来ると何となくほっとします。バス停の近くに清金門鎮総兵署がありま、金門県の行政の中心であったところです。昔の建物などが保存されていて、観光の重要スポットのようですが、改修工事中で入ることができず、門の隙間から中を覗くのが精一杯でした。

 
 
 
 
 付近には霊済古寺や邸良功母節孝坊という石造りのアーチ門があり、さらには陳詩吟洋楼なども残る古い町並みがありますが、陳詩吟洋楼は改修中で足場と幕に囲まれていました。

 
 金門鎮の南の町はずれの小高い丘に建つのが莒光楼で、2階建てのコンクリートの四角な建物の上に、中国の楼閣風の建物が乗っかっているという不思議な形をしています。さほど高くはありませんが、ここに上ると金門島やアモイが霞んで見えます。建物の中に展示があって、その中にライオンが立ち上がったような格好の陶器製の風獅爺が立っていました。もともとは、風邪の被害を避ける神として風の強い場所に立てられ、現在は金門島の守り神として祭られているそうです。

 金門島ののんびりとした風景を見ていると、ディジタル・アイランドとしての台湾を忘れてしまいますが、台湾と聞くとIT関連の製品を思い浮かべます。一時期はパソコンのマザ^ボードの大半は台湾製でしたが、現在もその状況は変わっていないのではないでしょうか。新しい電気製品を野心的に世に送り出していたシャープの台湾企業の軍門に下ってしまい、日本人としては、あまり面白くはないのですが。中国が台湾を乗っ取ろうとしているのは、メンツもあるのでしょうが、IT分野での利益が欲しいのでしょうね。

かつてはカナダの首都も置かれたキングストンですが、小さな都市部の周りは一面の雑木林でした(カナダ)

2019-12-15 08:00:00 | 世界の町並み
 首都のオタワより人口が多く、北米に居てヨーロッパの香りがする都市がモントリオールでした。カナダのセントローレンス川沿いには下流からケベック、モントリオール、キングストンと連なり、オンタリオ湖のほとりのトロントと続きます。この地域はアメリカとの国境も近く、歴史的にアメリカとの紛争も多かった地域です。今回はこの地域の中から、一時はカナダの首都が置かれたキングストンを紹介します。ただ、キングストンはセントローレンス川を挟んで、対岸はアメリカになり、あまりに敵国に近いという理由から、首都であったのは短期間ですぐにオタワに引っ越したのだそうです。

 
 キングストンは、カナダ鉄道VIAでモントリオールから3時間ほど、トロントから2時間ほどの場所ですが、鉄道駅は市街地から離れたところにあり周りは雑木林とのっぱらです。ちっぽけな駅舎のほかは、路面電車の電停のような低くて屋根すらないプラットフォームが2本あるだけの殺風景さです。駅舎が無ければ、信号所かと思うくらいで、日本でいえばよほどのヨーカル線の、無人駅って風情です。町の中心部は駅から30分ほど、セントローレンス川のそばにあります。さほどの見どころは無くって、市役所の建物と、港から出るサウザンド・アイランズ巡りの観光船、それにフォート・ヘンリーくらいでしょうか。町はずれには、オタワとを結ぶ世界遺産のリドー運河の一方の起点にもなっています。

 
 
 
 筆者はこれらのうち、市役所の建物を見学しただけで、他の施設は、観光船の時間と合わないなどで訪れることはできませんでした。ただし、観光船ならぬ無料のフェリーで、セントローレンス川に浮かぶウォルフ島に往復し、千もの島々は見られませんでしたが、片道20分の船旅と、いくつかの島々も眺めることができました。日本では、勝鬨橋が開閉しなくなって大きな跳ね橋は見かけなりましたが、片持ちながらかなりの規模の跳ね橋が上がるのも見られました。また、フォート・ヘンリーはフェリーの航路から距離があってよく見えませんでしたが、その隣の岬の突端にあるフォート・フレデリック(フレデリック要塞)のビル群や赤い丸屋根の建物はよく見えました。このウルフ島はセントローレンス川の中央よりアメリカ側に位置していて、狭いところでは2kmも離れてなく、確かにかつての敵国と至近距離のようです。

 
 
 
 さて、内部を見学した市役所ですが、1844年に建てられ175年間も現役を続けています。建物は公園を隔ててセントローレンス川に面していて、ウォルフ島へのフェリーからもよく見えます。中央には時計台のあるドームがあり、外壁はライムストーン(石灰岩)で作られています。19世紀を代表する建物として、カナダの国定史跡になっているそうです。業務に支障のない範囲で見学が可能で、外観だけでなく、内部もなかなか重厚感漂う美しさです。市役所前の公園には、Spirit Of Sir John Aという蒸気機関車が展示されていて、この機関車は、キングストンからペンブルークというところまで材木や鉱山資源を運ぶために引かれた鉄道で活躍した機関車のようです。

 ヨーロッパに行くと、電車や電気機関車が目立ちますが、カナダでは5万キロの鉄道路線農地電化区間は100キロちょっとの約0.25%にすぎません。したがって、キングストン周辺も、当然ながら架線のないレールだけで、ある意味景色はすっきりしています。このレールの上を、巨大な客車を巨大なディーゼル機関車が引いて疾走・・ほどではありませんが走っています。レールの幅は標準機の1435mmなので新幹線と同じですが、内部はもっとゆったりとして幅があるように感じます。ただ、筆者が乗った列車は、ケベックとモントリオールの間でエンジントラブルでストップ、列車の頻度が極めて少ないので、原野に取り残された感じでした。結果的に、何とか修復して3時間遅れでモントリオールまで到着しました。携帯は持ってませんでしたが、周りの風景からは圏外の雰囲気、異常という通知は、VIAの指令室に届いているのでしょうか。