世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

土蔵造りや格子のある家々が、驚くほどのボリュームで残されている郡中の町並みです

2012-06-24 08:00:00 | 日本の町並み
 東京で唯一残された路面電車の出発点が早稲田でしたが、日本中で邪魔者扱いをされて消えてしまった路面電車も、四国では2つの県庁所在地で路面電車が健在です。このうち松山市内を走る伊予鉄は、市内中心部を走る路面電車の市内線と郊外に伸び専用軌道を走る郊外線とがあります。郊外線は松山市駅から北、東そして南と3方向に伸びていますが、今回は南に伸びる郡中線の終点駅である郡中港駅の周辺の町並みを紹介します。

 郡中は松山の南11km程、1955年に近隣の村と合併して伊予市の一部となっています。伊予鉄の駅などは郡中となっていますが、JRの駅は伊予市駅になっていて、この伊予市駅は、郡中港駅と道路を挟んで並んでいます。古い町並みは、2つの駅を隔てる南北の道路と平行な一つ西の道路沿いに、伊予鉄の郡中駅の西側を通り越して北に延びています。

 古い町並みを訪ねたときに、再開発などによって伝統的な家並みがほとんど消えてしまっていることもよくあり、ガッカリすることがあります。ところが、比較的便利な場所にあるにもかかわらず郡中の町並みは、土蔵造りの家、格子の美しい家など、かなりのボリュームで景観保存されています。
 
 
 郡中港駅から通りを入るといきなり土蔵造りのどっしりとした商家が目に飛び込んできます。そこからは、次々と商家や旅館や民家など古い家並みが続いて見事の一言です。郡中港駅からの道路を右折して少し北に行った栄養寺というお寺は、栄養学の祖と呼ばれる博士が「栄養」という用語を発想するきっかけとなったお寺だそうです。さらに北に行くと、江戸後期の商家の宮内邸があり、新聞やさんまでが真っ白の土蔵造りです。

 
 
 格子が美しい旅館や板張りと白漆喰のコントラストも鮮やかな造り酒屋、黒漆喰の商家もあります。

 
 老朽化により取り壊された商家の建物跡もありました。商家には珍しい御成門を持ち本陣としても使われた建物だったようですが、平成11年に取り壊され、砥部焼の陶板による記念碑と門瓦が残されていました。焼き物といえば、古い町並みの北の端あたりの太子堂の鐘楼を兼ねた楼門には焼き物の仁王象が並んでいます。江戸時代に活躍した江山という作家が奉納したとのことですが、焼き物による仁王像というのは他ではみたことがありません。

 栄養の用語を提唱した佐伯博士は、幼い頃に通学路で見かけた栄養寺の寺号がヒントになったとのことで、それまでは営養の字が当てられていたそうです。新しい概念にどのような文字を当てるかは難しい問題で、外来語の日本語化も同様です。かつての先人達は、カタカナではなく漢字で表す努力をしたようで、倶楽部などは最高傑作ではないでしょうか。乱打雑音なんていう文字は現在では使われなくなりましたが、これはランダム・ノイズのことです。最近では電子計算機ですらあまり使われなくなって、カタカナ表記一辺倒のようです。computerと英語で表記するならともかく、何でもカタカナ表記で逃げてしまうのは芸が無いように思いますが。

巨大な石仏の間にある彩色の残ったレリーフ群が雲崗石窟の魅力です(中国)

2012-06-17 08:00:00 | 世界遺産
 クロアチアの聖ヤコブ大聖堂は石のみで作られたロマネスク建築としては最大級のものでしたが、巨大石窟は、さしずめ石造りの巨大な建造物の一種ではないでしょうか。中国には三大石窟として、敦煌、龍門それに雲崗とがあり前の2者は、本ブログで紹介しました、今回は世界遺産への登録が最後となった雲崗石窟を紹介します。

 雲崗石窟は、中国の山西省大同市の郊外にあります。大同市は黄土高原の只中にあって、市域を出ると漠々たる黄色の大地が広がっています。大同空港もありますが、北京から地上移動をすると、さすがに中国は広いと感ずる所要時間で、列車でも高速バスでも5~6時間もかかります。列車は北へ遠回りをするので、高速道路がほぼまっすぐに北京に通じているバスのほうが1時間ほど早く着くようです。

 
 さて雲崗石窟ですが、かつては大同駅から直行バスが出ていたようですが、筆者が訪問した2011年には市の西方の交公四公路というバスターミナルから出ていました。20分ほどで終点の石窟入り口に着き、門を入ると象の上に柱が乗っている列柱回廊のようなところを通ってレリーフで囲まれた円形広場に出ます。そこから石窟までは少し距離があるため、苑内を走るトラムがあり、ちょっと楽ができます。苑内トラムで着く所は、長い壁面の右端に近いところで、左端まで行ったところの近くの広場で帰りのトラムが拾ってくれます。

 
 中国の3大石窟のうち、敦煌は石仏に加えて壁画がすばらしく、龍門は則天武后を写したという石仏をはじめとして優雅な石仏が多いようです。これらに対して雲崗石窟の石仏群は、ややきつめの顔立ちで端正な印象を受けます。壁面の右端近くと左端近くに大きな石仏が配されていて、演出をしたのではないでしょうが印象を強くしています。右端の大きな石仏は、石窟の中に収まっていて、外からは見られず、入り口を入ると突然に目の前に飛び込んできます。一方の左端は、岩壁を少し彫り込んだ場所にあって、遠くからでも石仏の全体像が見られます。

 
 これら、両端の大きな石仏に加えて、おびただしい数の立体やレリーフの石仏が壁面を埋めています。レリーフの石仏やその周辺には彩色が残っているものもあって、巨大な石仏とは違った魅力です。敦煌の莫高窟では、壁画になっている部分が、こちらではレリーフになっている感じです。




 大同市内からのバス路線の途中には、観音堂というお寺があり、三龍壁があります。陶板でできた横長の壁に3匹の龍が並んでいます。あまり途中下車をする人は居ないようですが、次のバスが来るまでの間に、ちょっと立ち寄ってみていくのもいいかもしれません。大同市内には、五龍壁と九龍壁もあって、特に九龍壁は故宮のものより巨大で、中国一の規模は見る者を圧倒します。

 壁画などの彩色には通常は顔料が使われます。顔料は金属化合物などの粒子で、水には溶けず、顔料を紙や岩などに固着させるため、膠や油脂などの媒体が必要になります。一方、染料は、水に溶ける溶質で、紙や繊維に染み込んで発色します。パソコンのインクジェット・プリンタには長く染料インクが使われてきましたが、印刷物の退色を防ぐため、より退色に強い顔料インクのプリンタも出回るようになりました。顔料は、色の主体が金属化合物で安定した色素ですが、色の鮮やかさで劣ったりノズルが目詰まりしやすいなどの欠点もあって、どちらのプリンタを選択するか悩ましいところです。将来は、利点だけを持った、まったく原理の違ったプリンタが出現するのかもしれません。

大学や専門学校などの教育施設に加えて宗教施設も色々の早稲田です

2012-06-10 08:00:00 | 日本の町並み
 第三セクタになって生き残り、真っ赤なLRTが走る万葉線がある街が富山県の高岡でしたが、大都市に奇跡的に残った路面電車である都電の起点の一つが早稲田です。今回は、地下鉄東西線の早稲田駅を中心に半径1km程度の範囲の町並みを紹介します。

 現在の早稲田の地域は、江戸時代にはまさしく田んぼの連なる田園地帯であったようです。ここに、早稲田大学の前身の東京専門学校が開学したあと、次々と大学などが作られて、都内有数の学生街となっています。北は学習院や日本女子大、南は女子医大、東は神楽坂駅、西は高田馬場駅で囲まれた地域には、大学や高校、それに高田馬場あたりの専門学校など学校がひしめいている感じです。

 
 さて、早稲田大学ですが大学の象徴とも言える大隈講堂はよく知られていますが、リーガロイヤル・ホテルとの間にある大隈庭園はあまり知られていないようです。大学の授業日のうち水曜日を除く日に開園されていますが、広い芝生が、のびやかに広がっていて気持の良い空間です。

 
 この庭園の一郭に、韓国の早稲田大学校友会から贈られたという「新羅の聖徳大王神鐘」の縮小レプリカがあります。本物は慶州博物館にあり、韓国最大級の梵鐘で、国宝にも指定されているものですが、悲しい伝説を持った鐘のようです。鐘を鋳造するときに響きが悪いとのことで、幼い女の子が人柱にされたのですが、鐘を突くたびに「エミレ(お母さん)」と叫ぶ女の子の声が聞こえるとの言い伝えが残っています。庭園の鐘のそばにある銘板には、この説明はされていないようですが。

 早稲田大学の理工学部は、本部から離れて高田馬場あたりにありますが、明治通りを挟んだ東側には学習院女子大学の鉄門が優雅な姿を見せています。明治初期に学習院正門として神田錦町に建てられたものを戦後に移築して女子大の正門としたもので、重要文化財にも指定されています。





 
 鉄門を北に、学習院女子大に沿って東に曲がって女子大のレンガ塀沿いに500m程行った北側には、早稲田奉仕園の建物群があります。この施設は、早稲田大学の創立者である大隈重信がパブテスト教会の宣教師に依頼して建てた学生寮が母体として発展した団体です。その後、大正年間に米国のスコット婦人から寄贈された礼拝堂のスコット・ホールが中心的な建物になっています。現在は、礼拝堂としてだけではなく会議場やコンサート・ホールそれに結婚式場ん度にも利用されているようで、訪問したときにも結婚式の準備がされていたようです。このスコット・ホールの設計原案は、ウィリアム・ヴォーリス建築事務所によるもので、東京都の歴史的建造物にも指定されてるそうです。ヴォーリス設計事務所は、明治学院大、同志社大、関学大などの大学や、各地の日本基督教団の教会の建物などキリスト教関連の建物を数多く設計しています。レンガ造りで、どこかほっとするような洋館の数多くがヴォーリスの作品のことが多いようです。

 早稲田一帯には、紹介した以外にも山の手線内で標高が最も高い戸山公園内の箱根山、冬至の日には一陽来復のお守りを求めて長蛇の列ができる穴八幡宮があります。さらに、スコット・ホルとは穴八幡宮を挟んで反対側には一陽来福と一字時違いのお守りを出す放生寺などなど、ユニークな場所も多く、足の便の良い場所ゆえ、ちょっと散歩と出かけるのに適地のようです。

 スコット・ホール設計原案を作ったウィリアム・ヴォーリズは、アメリカ生まれで、後に日本に帰化した建築家ですが、本業の他にキリスト教の布教や近江兄弟社の設立などマルチな活動をした人です。賛美歌の作詞作曲も手がけ、シンセサイザーの前身とも言うべきハモンド・オルガンを日本に紹介したのもヴォーリズだったそうです。過去においては、それぞれの分野の技術深度が浅かったので、マルチな分野で活躍ができた、しかし、IT分野など極端に専門家された分野では、不可能!といった意見があります。しかし、これって、本当に正しいかどうか、ちょっと疑問に思います。

ブラームスやシュトラウスも保養に訪れたバーデン・バーデンは緑豊かな温泉地です(ドイツ)

2012-06-03 08:00:00 | 世界の町並み
 漢方ならぬ韓方で使う薬草の流通拠点となる韓国の都市が大邱でしたが、薬だけではなくその温浴効果が見直されつつあるのが温泉です。温泉文化は、日本だけかと思いがちですが、ドイツや東欧諸国では温泉も多く、多くの人が温泉浴を楽しんでいます。今回は、それらの温泉地の中から、ドイツのバーデン・バーデンを紹介します。

 
 バーデン・バーデンはドイツ西南部の人口が5万人程度のこじんまりとした都市ですが、世界的に有名な温泉保養地の一つです。ドイツを代表する音楽家のヨハネス・ブラームス、クララ・シューマンそれにヨハン・シュトラウスなど、多くも保養地として利用していたそうです。また、20世紀を代表する指揮者の一人のフルトヴェングラーも、当地で域を引き取っています。どうも、温泉保養を好むのは、音楽家に多いのかもしれません。地名のバーデン(barden)とはドイツ語で水浴や入浴を意味する言葉です。温泉街まではDB(ドイツ鉄道)の駅からバスで15分ほど乗るとアマデウス広場に着いて、そこから気持の良い町並みが伸びています。観光地のせいでしょうか、さほど人口の大きな町ではない割りに、かなり頻繁にバスが運行されていたように思います。ドイツは鉄道やバスなどの公共輸送機関が、かなり密度の高いダイヤで運行されているので、旅行者にはありがたい国の一つです。

 
 ロマンチック街道では、個性的な看板を数多く見かけましたが、バーデン・バーデンの通りでも美しい看板を見かけました。鋳物製の看板は、文字が無くとも、商売の内容が想像できるような工夫がされたデザインをしています。香港の通りに節操無くはみ出して、自己主張をしている看板群とはずいぶんと違います。ドイツでは、あちこちの都市で似たような風景を見かけますが、これは国民性の差なのでしょうか。

 町並みと緑とが気持の良い通りを行くと、いくつかの入浴施設があります。筆者は、水着で入浴するカラカラ・テルメに入りましたが、近代的な建物が周辺に溶け込むように建っていて、その内外に温水プールがあるといった雰囲気です。屋内の温泉は円形の巨大なプール、屋外の温泉は流れるプールといった雰囲気で、屋内には色々な種類のサウナもあったようですが未探検です。


 
 いっぽう、100年以上の歴史のある建物の温泉がフリードリッヒ温泉で、こちらは日本のように裸で入浴します。建物の外観からは、温泉というより、宮殿のような重厚な感じで、資料によると内部は数多くの小さな浴室に分かれているようです。入浴は、プログラム化されていて、決められた時間で、決められた浴室を順に巡って行くようになっており、曜日によっては一部は混浴だそうです。ゲルマン系の人々は、男女が一緒でも、裸に対して抵抗は少ないようで、サウナも男女一緒で裸で入るようです。

 草津温泉の時間湯は特別として、日本人は41~42℃程度と熱いお湯を好むようです。ところが、ヨーロッパでは38℃以下とぬる目のお湯を好むようで、体温以下の温泉も少なくありません。最近の温泉には、デジタル表示の温度計が設置され、湯に浸かる前に自分好みかどうか判るようになりました。温度を測っているのは温度センサーで、最近は手軽に使えるサーミスターが主流のようです。ただ、測定精度を要求されるような場合は熱伝対(ねつでんつい)が使われ、筆者の学生の頃には熱伝対を使った実験をしました。その時に、あるクラスメイトが「ねつでんつい」のことを「ねつでんたい」と読み、みんなに笑われましたが、「タイした違いではない!」と切り替えしたのを覚えています。ツイ、ツイ間違ったのかもしれませんが。