世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

中国のすぐそばにあり、領有権のある台湾からは遠い金門島は、そばにある厦門とは違って、昔の日本のような景色が広がります(台湾)

2020-01-26 08:00:00 | 世界の町並み
 かつてカナダの首都が置かれましたが、川を挟んですぐ先が当時の敵国であったアメリカといったことで首都の地位をオタワに譲ったのがキングストンでした。日本では国境を意識することはあまりありませんが、ヨーロッパに行くと川の向こうや山の向こうは違う国というこてゃよくあり、極端には道を挟んで隣国といった国境もあります。隣国との関係が良好な場合はいいのですが、キングストンの例のように、仲の悪い国同士が狭い川や海峡を挟んで対峙することも珍しくありません。今回はそれら中から狭い海峡を挟んで中国と対峙する台湾の金門島を紹介します。

 
 金門島は中国大陸から最短で2kmほどしか離れていない台湾領で、かつて金門紛争では中国と台湾が戦闘を交えて領有権を争ったところです。中国大陸に近い島ですが台湾からは100km以上も離れ、台湾との間の交通は通常は飛行機のようです。一方、中国のアモイからはフェリーで30分くらいで着いてしまいますが、これは現在の姿で、紛争の頃にはありえない航路であったわけです。ただ、最近は中国と台湾の関係がギクシャクして中国国民は、個人旅行で台湾には自由に行けなくなったようで、当然ながら金門島へのフェリーにも自由には乗船できないようです。我々日本人は、自由に行き来ができますが、イミュグレーションでパスポートコントロールがあり、それもかなり厳格に行われ時間もかかりました。なぜかアモイのフェリー乗り場には、陶製らしい楽器を奏でる真っ白の群像が並んでいました。

 
 
 
 
 アモイからのフェリーは金門島の西端に近い水頭埠頭に着きます。フェリーに乗船したアモイは高層ビル群が林立する大都会ですが、着いた水頭埠頭からは駐車場の向こうに緑の小山が見えるだけで、なんとものんびりとした風景しか目に入ってきません。水頭埠頭から東南東へ1kmちょっとには水頭集落があって、古い町並みが残っています。古民家あり、学校の跡、廟らしきものあり、お寺もあります。古民家が集中する一帯には伝統建築遺跡保留という名版があって、日本の重伝建といったところでしょうか。建物の一部は内部が公開されていて見学もでき、おそらく裕福な方の邸宅だったのでしょう、なかなか豪華なつくりになっています。

 
 治安が良くなかった頃に建てられた得月楼という望楼風の建物があり、盗賊や海賊から身を守るために20世紀初頭に建てられたそうです。広州の近くにある世界遺産の開平の望楼群と目的も形も似ているようです。

 
 学校は金門尋常小学の看板が残るファサードには天使のレリーフもあって、こんなに美しい校舎は日本にもあまり残っていないようにも思います。 

 
 
 フェリー乗り場から島の中心の金門鎮まで5kmほどバスで15分くらいで着きますが、低層密集住宅が立ち並ぶだけで高い建物は皆無で、大都会のアモイから来ると何となくほっとします。バス停の近くに清金門鎮総兵署がありま、金門県の行政の中心であったところです。昔の建物などが保存されていて、観光の重要スポットのようですが、改修工事中で入ることができず、門の隙間から中を覗くのが精一杯でした。

 
 
 
 
 付近には霊済古寺や邸良功母節孝坊という石造りのアーチ門があり、さらには陳詩吟洋楼なども残る古い町並みがありますが、陳詩吟洋楼は改修中で足場と幕に囲まれていました。

 
 金門鎮の南の町はずれの小高い丘に建つのが莒光楼で、2階建てのコンクリートの四角な建物の上に、中国の楼閣風の建物が乗っかっているという不思議な形をしています。さほど高くはありませんが、ここに上ると金門島やアモイが霞んで見えます。建物の中に展示があって、その中にライオンが立ち上がったような格好の陶器製の風獅爺が立っていました。もともとは、風邪の被害を避ける神として風の強い場所に立てられ、現在は金門島の守り神として祭られているそうです。

 金門島ののんびりとした風景を見ていると、ディジタル・アイランドとしての台湾を忘れてしまいますが、台湾と聞くとIT関連の製品を思い浮かべます。一時期はパソコンのマザ^ボードの大半は台湾製でしたが、現在もその状況は変わっていないのではないでしょうか。新しい電気製品を野心的に世に送り出していたシャープの台湾企業の軍門に下ってしまい、日本人としては、あまり面白くはないのですが。中国が台湾を乗っ取ろうとしているのは、メンツもあるのでしょうが、IT分野での利益が欲しいのでしょうね。

人の流れの中心は東の三宮に移りましたが老舗の店が並ぶ元町は神戸の代表商店街です

2020-01-19 08:00:00 | 日本の町並み
 町の中心街に独特の看板建築が残る商店街があるのが石岡でした。この商店街は、なかなかレトロでいい感じですが、人の姿をあまり見かけず寂しい感じを受けます。人口減少の影響なのでしょうか、寂れた様子です。新しい駅ができたりなどで人の流れが代わったりして、町の様子が変わってしまうことが多いものですが、その一つが神戸の元町商店街です。今回は、学生時代に、よく本屋のはしごをした元町商店街周辺を紹介します。

 
 
 神戸の元町商店街は、JRや阪神の元町駅の南に西に延びる商店街でおよそ1.2kmほどの長さがあります。かつては、現在の元町駅のところに三ノ宮駅があり、1931年に鉄道の高架化に伴い三ノ宮駅は東に移動して現在の場所に、かつての三ノ宮駅は元町駅になったそうです。かつては旧居留地に近く神戸の中心地の西国街道沿いにできたのが元町商店街で、人の流れが三宮に移った現在でも、老舗の本店は元町商店街にあり、どことなく重さの感じる商店街になっています。

 
  
 最近は老舗に交じって商店街に面したマンションが増えて、かつては服屋が多かった街並みに住人目当てでしょうか、生鮮食料品を売る店が増えました。さらには、映画館もあってコンビニや百均の店など何でもあり!の様相です。変わったところでは、店頭に動く恐竜の模型とローマの真実の口の模型の並んでいる商店があって、店内より店頭がにぎわっていて、外人も珍しがって写真を撮っているようです。ただ、筆者がはしごをした本屋はすべて閉店してしまい、古書店が細々と営業しているにすぎなくなりました。

 
 東の一丁目に隣接して大丸百貨店があり、西の六丁目にはかつては三越がありましたが、人の流れが変わって客足が遠のき閉店してしまいました。大丸に近い三丁目あたりまでは、南京町と並行することもあって、人の流れも多いのですが、西に行くほど少なくなり、走水(はしうど)神社にのある五丁目あたりは夜の8時ころともなるとほとんど人通りを見なくなります。走水神社は難読名ですが菅原道真を祭る神社で、境内には狛犬ならぬ狛牛の像が置かれています。

 
 
 
 
 
 
 商店街の南側には南京街があり、春節などには獅子舞や龍踊りでにぎわい、かつては夜光龍といってブラックライトに浮かびあがる龍踊りもありましたが、最近は見なくなりました。この南京街には東西と南に3つの門があって、横浜の中華街と似たような町並みですが、東西250m、南北100m程度でやや小ぶりです。筆者の学生の頃には、観光地といった感じでは無かったのですが、現在は休日ともなれば通り抜けるのに苦労するほど観光客であふれていて、名物店には長い行列ができています。関東では中華まんや肉まんの名称で呼ばれる豚まんは、南京町の老祥記が日本での中華まんの起こりという説があり、広場に面した老祥記の前にはいつも長い列ができています。実はこの老祥記はもう一軒の店が商店街の5丁目にあって、こちらはさほど混雑していないようです。ちなみに、暮れの定番となったルミナリエは、南京町の東端から東に延びる仲町通りから東遊園地にかけて行われます。

 元町商店街を歩くと、いろんな種類の店屋があるにもかかわらず、携帯屋はあっても不思議と家電品を売る店が見当たりません。最近の家電品はネットワークにつながるIoT売りになっているので携帯屋とは親和性がいいように思うのですが。ただこのIoTには疑問があります、最近に聞いた講演で、スパイチップの存在が脅威になりそうだからです。ソフトウエアに感染するスパイウェアは、広く知られるようになり、駆除の方法も広まりました。しかし、ハードウエアに潜むスパイチップは、検出が極めて困難で、あらゆるチップに潜り込む可能性があるようです。そう、家電品をネットにつなぐチップにも容易に潜り込んで様々な悪さをする危険があります。現在の技術レベルでは、家電品がネットにつながる便利さよりも、危険の方が大きいように思います。

面積は狭くても起伏の多いコロンス島の観光ポイントを足で回るとかなり疲れますが絶景のポイントがたくさんあります(中国)

2020-01-12 08:00:00 | 世界遺産
 前回は日本人はあまり見かけないコロンス島の古い町並みを紹介しましたが」、今回は日本人にもおなじみの観光ポイントを紹介します。



  
 
 
 
 
 コロンス島は南北に長い楕円形をしていて、厦門からのフェリーは島の北東部に着きますが、観光ポイントの大部分は南半分にあります。海岸部以外は、ほとんど平地はなく、小高い丘が連なっていますが、それらの中で最も標高の高い所が日光岩です。丘というよりは、巨大な一枚岩が空に伸びていて、その頂上まで上ることができ、展望台からはコロンス島や対岸の厦門のビル群がよく見えます。麓には日光岩寺があって、他の中国の寺院でも見られる屋根の先端の龍などの作り物が面白い景色です。お寺から頂上までは、急な階段で疲れますが、巨岩の表面に朱で書かれた文字が面白くって何となく頂上に着いてしまいます。

 
 日光岩寺とは反対側に降りしばらく丘伝いに行くと琴園で、音楽家の記念館のようでしたが、工事中のために展示館は見られませんでした。ただ、その庭からは、日光岩や島の西側の海岸が望め景色の良い所でした。

 
 
 
 そこから丘を下ると島の南側の海水浴場で、なだらかな砂浜が続いています。海岸の先には小さな岬があって波打ち際に遊歩道も作られています。岬を通り抜けると再び砂浜が広がりその先に菽荘花園があります。20世紀初頭に台湾の富豪によって造られた庭園で、起伏にとんだ庭園にはいろいろなビューポイントがあります。中でも音楽好きにとって外せないのが、一番高い所にあるピアノ博物館です。コロンス島出身の胡友義氏のコレクションした19世紀からのピアノの歴史を見られるのはすばらしいことです。時折、ガイドを兼ねた館の方が演奏もしてくれます。変わったところでは、ピアノの中央が手前に折れ曲がって、2つの部分の鍵盤が90度直行したピアノも置いてありました。

 
 菽荘花園を通り過ぎて島の南東端まで行くと皓月園があります。さほどの庭園ではありませんが、巨大な鄭成功の石像が見ものです。像は対岸の厦門島の方向を向いていて、海の向こうにあるホテル・コンラッドを睨みつけているように見えます。ただ残念なことに、像の正面にある小島は立ち入り禁止のため、像の顔立ちはもひとつはっきりしません。

 
 
 島の東岸をフェリー乗り場に戻る途中の小高い丘の上にあるのがオルガン博物館です。菽荘花園のピアノに対してこちらはオルガンのコレクションの展示で、リードオルガンやパイプオルガンなど数多くのオルガンが所狭しと並んでいます。パイプオルガンの演奏も聞きたかったのですが、残念ながら聴き損ねました、演奏が行われるのかの確認もできてませんでしたが。この博物館は、建物も見応えがあって、八卦楼と呼ばれ、オランダ人の設計によるもので中国とヨーロッパの折衷様式を採りコロンス島を代表する建物の一つです。

 現在のオルガンやピアノは平均律で調律されています。コロンス島の楽器群も平均律で調律されているものが大部分だと思います。平均律は、純正律に対する調音で、純正率では各音程の周波数が簡単な整数比で表されるのに対して、平均律では半音の周波数比が2の12乗根という無理数で表されます。平均律は調によって音高が変わらず鍵盤楽器むきで長所も多いのですが、ハーモニーが美しくない欠点などもあります。また、ピアノの調律などでも無理数の周波数比を採るために困難を極めていたようです。ピアノの調律をやっていた叔父は研修期間中は缶詰で音の洪水を浴びたようです。おそらく現代の調律では、ディジタルの発信機で任意の正確な周波数の音が作れるので、この音源を使っているのではないかと思います。ただ、基準となるAの音は、現在は440Hzですが、昔に比べて高くなっていて、これから先もどんどん高くなっていくのでしょうか。

看板建築が登録文化財として数多く残されている石岡ですが土蔵造りや出格子のある商家も目立ちます

2020-01-05 08:00:00 | 日本の町並み
 蔵王の東側に紅花の集散地として栄えた村田には土蔵造りの商家が数多く残されていました。土蔵造りは、漆喰を厚く塗って防火機能を高めたもので、木造建築が主流の我が国では防火建築の代表的なものの一つでした。一方、関東大震災後に商店の正面のみに衝立のような看板を兼ねた外壁を設けて防火機能を持たせたものが看板建築です。東京の下町などに数多く見られ、その一部は江戸東京たてもの園に移築し保存されていますが、東京以外でも川越や三島などに残されています。今回は看板建築が、かなりの数で残されている茨城県の石岡市を紹介します。

 看板建築とは、関東大震災以降に建てられた木造建築の様式の一つで、コンクリート造りの防火建築を立てる余力のない商店などが、通りに面した部分だけを金属や石造りにしたもので、あたかも看板のような外壁を持つことからこのように呼ばれるようになったようです。東京の築地やたてもの園などで見かける看板建築は、銅板が張られて緑青で真っ青になったものがよく見られますが、石岡の看板建築は、石やモルタル、それにタイルなどを張ったものが目立ちます。

 
 
 石岡市は、常磐線で上野から1時間半、特急では1時間足らずの7万人規模の都市です。かつては、鉾田との間に鹿島鉄道というローカル線が走っていましたが、2007年に廃止になっています。この廃線跡の一部は、茨城空港へのバスの専用道路として使われています。この石岡駅に2つの木になる展示パネルがありました。一つは、石岡で育った切り絵画家の滝平二郎さんの切り絵をステンドグラスに仕立てたもので。橋上駅の通路のガラス場殿前にずらりと飾られています。このガラス窓は南を向いているので、通常のステンドグラスとは逆に外光で光っています。もう一つは、忠犬タローのパネルで、石岡駅で飼い主とはぐれ17年間も飼い主を探して駅に通い続けた犬のものです。どこか、忠犬ハチ公とも似ていますが、絵本にもなり、駅前には銅像まであるのもハチ公と同じかもしれません。駅前といえば、石岡で秋に行なわれる常陸国総社宮の例大祭で使われる大きな獅子頭も鎮座していました。


 看板建築がある町並みは、鹿島鉄道が走っていた駅の東側ではなく、西側の400mほどのところを鉄道とほぼ平行に南北に伸びる中町通りに集中しています。看板建築だけでなく、土蔵造りや、出格子のある商家もあって、なかなか見ごたえのある街並みになっています。

 
 
 
 駅から西に延びる通りを400mほど行くと途中に飯田屋という佃煮屋さんがあり、看板建築ではありませんが出格子のきれいな商家で、その先にはレトロなモルタルの石岡印刷があります。中町通りに突き当たって左折してすぐに右に入ると平松理容店兼住宅で、ギリシャ建築風の看板建築、ファサードの頂上部にアカンサスが彫られています。通りに戻り右手にあるのが、森戸文四郎商店でこちらはアールデコ風の看板建築です。森戸商店の手前を左に入ると喫茶四季で、こちらもギリシャのコリント様式を模した看板建築です。中通りに戻り少し行くと右手にきそば東京庵があり、こちらは純和風の出格子のある建物です。

 
 
 東京庵の先を左手に入ると栗山呉服店で、こちらも2階部分に格子に組子を組み合わせた純和風建築です。中町通りに戻り直進すると、両側にずらりと看板建築や和風建築が並んでいます。右手のすがや化粧品店は、ギリシャのイオニア風の三角形のファサードを持つ看板建築、左手には十七履物店、久松商店、福島屋砂糖店が軒を接して並んでいます。十七履物店は持送風の頭注飾りがあり最も古い看板建築の一つです。久松商店は下見板張りの外壁にかつては銅板が張られていました。3軒の右端の福島屋砂糖店は土蔵造りの和建築ですが、漆喰ではなくコンクリート製なのだそうです。その先の右手には丁子屋のどっしりとした黒壁の和風建築が建っています。この建物は、石岡の大火で焼け残った数少ない和建築なのだそうです。最後に、中町通りをしばらく行って左に入ると府中誉れの造り酒屋で、表からは店舗で使われる和建築しか見えませんが、奥には全部で7棟の登録文化財の建物があるそうです。

 看板建築は、木造建築を安価に火災から守る手段として流行したようですが、それまでの土蔵造りに比べて防火の効果がどれくらいだったのでしょうか。IT分野では、ICメモリの集積度が桁違いに高くなり、1bitを記憶するエネルギーも小さくなるため、放射線で誤動作する恐れがあるといわれ来ました。メモリに限らず、集積度が高く高速で動作するICではソフトエラーと呼ばれる現象が生じます。特に人工衛星など、宇宙空間で動作する電子回路では、宇宙線の影響が大きいため、電子回路を宇宙線から遮蔽するものが必要だそうです。宇宙線はあらゆる方向からやってくるでしょうから、看板建築のように正面だけの防御とはいかないでしょうね。