世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

桜は見事ですが混雑をする桜の時期を外して訪れても価値がある吉野です

2024-08-11 08:00:00 | 日本の町並み
 小豆島は伝統的な製造方法で作られる醤油の醸造所の多い所でしたが、その製造の要になるのが杉桶でした。伝統製法が衰退して木桶の製造も耐えてしまう寸前の危機を回避させたのが小豆島の醤油醸造書の跡取りで、島に自前の木桶の製造拠点まで作ってしまったそうです。木桶に使われるのは、屋久島の縄文杉ではなく、奈良県産の吉野杉です。今回は、難聴の花が開き、春は千本単位で咲く吉の桜の郷である吉野を紹介します。

 吉野は大阪起点では意外と遠くて、まずは天王寺の南にある近鉄の阿部野橋から南大阪線の特急に乗って1時間20分ほど、特急料金の要らない急行では1時間半ほどの終点の吉野からロープウェイで3ふんで上ったところです。通常は、ロープウェイで上った金峰山寺屋千本櫻のあるあたりが観光客が行く吉野なのですが、広義の吉野は高地、盆地それに山岳地帯からなり神奈川県に匹敵する面積だそうです。今回紹介のエリアはさすがに、その広さは無理でロープウェイで上ったあたりになります。

 
 
 
 駅から少し行ったところにあるのが、蔵王権現堂で木造建築としては東大寺大仏殿に次ぐ巨大さで、街並みの上ににょっきりと現れます。道内には秘仏とされている蔵王権現増3体が安置さrていて、彩色も鮮やかに残り巨大さもあって存在感には圧倒されます。秘仏といっても、かなりの期間は開帳されているようで、大仏を拝観するよりも感動するかもしれません。

 
 
 
 
 金峰禅師から吉野神社にかけては古い町並みが残り、名物の吉野葛のお店も並んでいます。ただ、この吉野葛は地名は吉野とついていますが、産地は少し東の大宇陀なのだそうです。また、夏の暑いときには冷やしたくずもちと思いますが、お店屋さんの話では冷やしすぎると液体状態に戻ってしまうとのこと。また、民間療法の胃腸薬として有名な陀羅尼助の店もありました。

 
 吉野といえば、秀吉も花見に行ったという桜で下、中、上それに奥の千本と名称からは4千本の桜が麓から順に咲き、開花期が長い古都でも知られています。ただ、吉野は行き止まりの地形なので桜の頃は大渋滞を覚悟する必要がありそうです。

 
 また、吉野といえば南北朝時代に難聴が置かれた場所で、その御所として使われたのが、吉水神社で多くの遺構があります。書院には後醍醐天皇の玉座や、義経が潜伏したとされる部屋が残されています。

 
 
 
 山上には蔵王堂、吉野神社のほかに竹林院、桜本坊、吉野水分神社など数多くの寺社が立ち並び、寺社の隙間に民家が経っているという漢字もします。建物や庭園など、見ごたえのある場所も多く、桜の季節以外にも訪れたい場所の一つです。

 蔵王権現道の秘仏である蔵王像は比較的会長の機会が多いように思いますが、世の中には絶対秘仏という仏像があって、厨子が開かれたことがない仏像があります。こお仏像って、本当に存在するんだろうか??って疑いたくもなります。見せないことで権威付けをしているようで、好ましくありません。スキャナーで捜査して、内部を暴きたくなります。博物館には巨大なCTスキャンで、厨子の中ならずとも仏像の中身も見られる装置があって、内部構造や、像内納入品などがわかるそうです。罰が当たると言われるかもしれませんが、そもそも釈迦は偶像の存在は否定しているんです。

世界遺産のスコタイまでは距離がありアクセスは困難ですが、かつての王宮のあったピッサヌロークはタイ国鉄の駅ができるだけのことはあるようです(タイ)

2024-08-04 08:00:00 | 世界の町並み
 世界各地の夜景を紹介してきましたが、夜行列車の車窓から見る夜景も旅情を掻き立てるものがあります。それが、外国であればなおのことですが、最近に乗ったタイ国鉄の夜行列車の乗車駅であるタイ中部のピッサヌロークを紹介します。この夜行列車は、北部のチェンマイから首都のバンコクまで走るもので、筆者は深夜にピッサヌロークから乗車してバンコクに早朝に着く6時間ほどの旅でしたが、暑い地方の通例で、利きすぎた冷房のために、ほとんど眠られませんでした。0時過ぎの発車のために、市内の昼間の観光が終わった後に時間が余ってしまって、居場所もありません。そこで、駅に近いホテルを予約して半泊まりをしました。かなりの安宿だったようですが、シャワーを浴びて、宵寝ができる充分の使節は備えていました。

 
 
 ピッサヌロークは、タイ国鉄が通っていないタイ中部の世界遺産のスコタイへの列車でアクセスする場合の入口ですが、70km以上も離れていて個人旅行では移動が不便です。このピッサヌロークじたいは世界遺産の街ではありませんが、かつて都のあった大都会です。長距離列車も、ピッサヌロークで機関区が変わるらしくしばらく停車します。

 
 
 
 
 
 かつてのチャン王宮跡は駅から北北西に2km程のナーンン川の右岸にありますが、草むらの中のところどころに基石が残っているくらいです。王宮の歴史を知るには王宮跡に建てられたチャン王宮歴史センタがあり、かつての王宮の姿を見ることができます。歴史センタの奥にはナレスワン大王をお祭りする寺院があって、現役寺院として参詣の人を多く見かけます。この寺院の周りにはおびただしい鶏の像が置かれていておような光景なのですが、そのいわれはわかりませんでした。また、手前にはワット・ウィハーントーンという寺院跡があり、ミニ・スコタイの感じで、大きな仏像も残っています。ナーン川を駅の方向に行くと、国道と交差する手前にはこじんまりとしたラックムアンの社があります。

 
 
 
 国道にかかる橋を左岸に渡ると、ワット・プラシー・ラタナ・マハタートがあります。こちらは観光寺院でもあり現役の信仰寺院でもあるために境内は多くに人出ごった返していて、お祭りの雰囲気さえします。回廊が幾つもあって、多くの仏像がずらりと並んでいますが、本堂にはタイで最も美しいと評判のチナラート仏が鎮座しています。境内には45度以上もあると思われる階段で上る古都ができる部っとなどもあって、ちょっと遊園地気分になれます。

 
 国道を駅の方に向けて横切るとワット・ラチャプー・ラナがあります。大きな仏塔と転法輪の目立つお寺でした。こちらも、何か仏教儀式があったのか、多くの人が境内にあふれていました。

 
 
 ホテルから駅へは夜中の11時過ぎの町並みを歩きましたが、町並みのあちこちがライトアップされ危険は感じませんでした。

 ピッサヌロークは20年以上も前にパッケージツアーで訪れましたが、その時にワット・プラシー・ラタナ・マハタートだったと思うのですが、参詣者が金箔を買って仏像に張り付けているのを見ました。今回も園光景を見られると思いましたが、ピッサヌロークではお目にかかれず、バンコクで同じような参詣方法を目撃しました。タイで見かける仏像は、どれも金ぴかで、金色に輝いている仏さまがありがたい、といった文化のようです。我が国の仏像もかつては金箔で覆われ同じような輝きを持っていたと考えられていますが、重文や国宝に指定されている仏像の大部分は採食や箔押しは剝がれて、構成の補修でも補われておらず、文化の違いを感じます。金は電気伝導率がよくさびないので、電子回路の接点につかわれます。かつて、廃棄された携帯電話が数多く眠る東京は大きな金鉱山と言われたこともありました。仏像に張った金は電気の伝導性が良いので、お願いもよく伝わるのでしょうか。

小豆島の特産品の塩を原料として醤油産業が興り、その醤油を原料として佃煮が名産品となるという食物連鎖ならぬ産業連鎖で島が栄えてきたのですね

2024-07-28 08:00:00 | 日本の町並み
 小豆島の特産の一つである花崗岩でできた石垣を利用したものが中山の千枚田であり、池田の桟敷でした。小豆島の特産は、石材だけではなく島を有名にしたオリーブや素麺そしてその素麺を作るためのごま油などがあります。さらに、江戸時代に全国で2位の生産量を誇った製塩業が栄えましたが、競争の激化で、その塩を利用した醤油産業が起こり、その醤油を原料として戦後には佃煮が名産となりました。今回は神戸と高松を結ぶフェリーが寄港する坂手港の北に広がる醤の郷を中心に数多くの醤油蔵が並ぶ町並みを紹介します。

 
 20年ほど前には神戸港から坂手港に高速船が運行されていて便利だったのですが、車載フェリーのルートが増えたせいか、旅客専用の船はいつの間には無くなってしまいました。坂手港は土庄港と並ぶ2大旅客ターミナルでしたが、20年ぶりに訪れた坂手港はずいぶんとさびれてしまった漢字を受けました。小豆島というと「二十四の瞳」の舞台で有名ですが、作者の坪井栄の生家跡が坂手港の近くにありました。建物はなくなってしまい、庭だけが残されていますが、高台で眺めの良い場所でした。二十四の瞳は2度映画化され、それぞれのヒロインの像が作られていますが、筆者は土庄港にある像が好きです。

 
 
 
 坂手港から北に向かって最初に出会うのが島で最大と思われるマルキン醤油の工場です。広大な工場内には古い醤油蔵から近代的な生産工場まであり、醤油を絞る現役工場も覗けますが、金属のタンクが並ぶだけで味気がありません。味と言えば、構内のお土産屋で売られている醤油ソフトは安曇野のワサビ田で食べたワサビソフトと同様に意外といけることでしょうか。

 
 
 
 
 
 マルキン醤油の工場から海岸線に沿って幾つもの醤油蔵が立ち並び、醤(ひしお)の郷と呼ばれています。醤油蔵に交じって、小豆島唯一の造り酒屋の蔵もありました。金両醤油の前にある広場には、醤油絞りに使われた石がオブジェのように並べられていました。この辺りは大きな古民家も残っていて、醤油関連で財をなしたのでしょうか。

 
 
 
 
 安田大川の手前を川の上流に向かって1km程も入っていくとヤマロク醤油で、こちらは伝統的な木桶を使った仕込みが行われています。醤油蔵の中も見学ができて、マルキン醤油でのガッカリを打ち消してくれます。ただ、安定した品質で大量生産をするには、金属タンクが優れているそうで、木桶による生産は製品にばらつきが出るそうです。ただ、それだけに味わい深い醤油が」生まれる要素を持っているように思います。全国にある木桶は2,000あまりでその半分がヤマロク醤油和はじめとする小豆島の醤油屋さんで使われているのだそおです。このヤマロク醤油の手前に栄光寺というお寺があり、境内には仏足石も置かれていましたが、このお寺の石塀がりっぱでした、小豆島の特産でしょうか。

 
 
 
 
 ヤマロク醤油から安田大川の左岸を海に向けて折り返し、バス停の安田に向かいます。こちらにも醤油蔵が多く、土蔵造りと黒カビで真っ黒になった板壁の町並みが続きます。町並みの好感度からすると、こちらの町並みの方が絵になるような気がします。バス停近くまで戻ってくると、バス通りの手前に玉姫神社があります、祭神は玉依比売(たまよりひめ)でミコをお祭りしたものだそうです。南北朝時代に足利尊氏の味方し、後に軟調に寝返ったとされる塩飽初冬を本拠とする地方豪族の佐々木信綱の廟が境内になりました。説明文に佐々木信綱とあって、あの歌人の?と思いましたが、明治から昭和にかけて活躍した佐佐木信綱とは同姓同名の別人でした。.

 醤油づくりで金属のタンクを使った安定的な品質の醤油がいいか、杉樽を使った伝統的で品質にばらつきはあるけれど、より味のある醤油がいいか悩ましいところです。企業として安定生産を行うには前者でしょうが、木樽生産の醤油にも需要があることは、多くの工場が現役であることから推定できます。木樽の寿命は100年程度ということで、今から10年ほど前には今ある木樽が朽ちてしまうと後が無いという危機的な状況だったそうです。そこで紹介したヤマロク醤油の山本さんが立ち上がり、全国で唯一の製桶所に出向いて修行をし、小豆島に製桶所を立ち上げたのだそうです。伝統製法は工業製品ではない杉の桶や季候などに品質が左右されるでしょうが、これらのファクタってすべてが数値化できるんでしょうか、AIとて入力情報が無ければ、最適解は出せそうにありません。

堂内を圧するようなワット・シー・チュムの巨大仏を見るだけでもスコタイを訪問する値打ちがあるように思います(タイ)

2024-07-21 08:00:00 | 世界遺産
 前回はスコタイの歴史公園の中にある寺院群を紹介しましたが、今回は歴史公園を取り巻く城壁の北側の外部あるワット・シー・チュムとワット・プラ・パーイ・ルアンの2か所紹介します。

 
  
 
 






ワット・シー・チュムは城壁の北西角の外部にある寺院跡で、14世紀に作られた寺院遺跡です。寺院名は菩提樹の森の意味を持ち、濠に囲まれた字息を持ちますが、主だった建物は中央の仏堂で、スコタイを代表するような巨大な仏像が収まっています。厚さが3mもあって32m四方、高さ15mもある壁で囲まれ屋根のない無いお堂の中に15m程もある降魔仏の座像が空間を圧するように収まっています。入堂すると、押しつぶされるような威圧感です。寺院の入口から入ると、遠くに湖のお堂が見え、近づくに連れて、動の正面に開いた隙間から仏像の中央あたりが見え隠れするのも、演出されたわけではないのでしょうが、期待を膨らませます。多くの日本人ツアーはワット・マハタートを見て帰ってしまうようですが、スコタイで一か所だけ見るとすれば、むしろワット・シー・チュムかもしれません。

 
 
 
 
 
 
 
 
 もう一つのワット・プラ・パーイ・ルアンはワット・シー・チュムの東1kmほどに広がる東西75m、南北600mもの広大な二重環濠に囲まれた市内最大の遺跡群です。ワット・プラ・パーイ・ルアンはスコタイ以前の12世紀に宗教の中心としてさかえましたが、スコタイ成立後に仏教寺院の中心はワット・マハタートい移り、宗教的役割を失ったそうです。このためか、建物はあまり残されておらず、仏塔や仏堂やかつての塔堂の基壇が広い草原に散在するのみで、廃墟のような滅びの美学といった景色です。ただ、3基あった仏塔のうち保存の良い1基には、見事なレリーフが残されていて、単なる廃墟とは違った見どころがあるようです。

 ワット・シー・チュムの居大仏は現役で信仰を集めている仏像だそうです。我が国の大仏も巨大なものは見えざる力を宿すものとして信仰の対象として尊重されたものですが、そもそも原始仏教では仏像は存在せず、釈迦も仏像には否定的でした。仏陀の死後500~600年後にガンダーラ地方(諸説あり)で作られるようになったもので、ギリシャ文明の影響と言われています。釈迦の思想は、仏像など信仰の対象は持たず、もっと哲学的なもので、現在の宗教とは異なるものでした。信仰というものは、何か目に見える対象が必要なのかもしれませんが、見えないから神秘性があるのかもしれません。電気は目に見えませんが、果たして信仰の対象になるのでしょうか。

大阪城の石垣にも使われた小豆島の特産の花崗岩や安山岩は中山千枚田の護岸になり、池田では神社の祭礼の観客席の桟敷に使われていました

2024-07-14 08:00:00 | 日本の町並み
 比叡山の里坊が数多くある坂本には京都の町並みでも珍しくなった犬矢来やばったり床机が残っていましたが、古民家にも穴太衆の仕事と思われる石垣のある民家の風景も目立っていました。石垣は、傾斜のある土地の土留めには必要欠くべからずの土木技術ですが、狭い日本で「耕して天に至る」と言われる棚田も土留めとして石垣が組まれます。この棚田は各地に残りますが、今回は小豆島の中山千枚田と、同じ石垣技術の野外劇場の階段状の観客席として石垣が積まれた池田の桟敷の周りを紹介します。

 農村歌舞伎の舞台や千枚田があるのは中山地区と言って、小豆島の高松や岡山からの入口になっている土庄港から中山経由池田行という一日に5本しかないバスで20分と少しという不便なところ、一方の池田の桟敷はそのバスの終点近くで、池田も高松からの船が着く港で、バス便の数は20本程と格段に便利です。

 
 
 土庄港からのバスはどんどん山の中に入っていき20ほどで春日神社前で下車しますと、目の板壁がの尊歌舞伎の背面でした。舞台を回り込んで鳥居を越えるとその先が神社で神社にむかった上り坂が観客席になった居ます。農村歌舞伎は毎年10月に講演されるそうでs、訪問した時は人の気配すなく、舞台の正面は板戸で閉められています、しかし隙間から中を覗くと、回り舞台らしい切り欠きが見えました。実はこのバスのルートには肥土山農村歌舞伎という舞台も存在するのですが、一度バスを降りてしまうと次は数時間待ちといった所では一か所に絞らざるを得ませんでした。

 

 農村歌舞伎の舞台のある神社から山の上手に向かって折り重なるように連なっているのが千枚田で、実はバス停の下の方にも続いていました。こんな傾斜地で農作業をするのはさぞや苦労妥当と思いますが、少し上ったあたりに天皇皇后両陛下下中山ご視察地という石柱がありました、平成16年においでになったのだそうです。

 
 
 
 
 中山を経由するバスの終点の池田の少し手前のバス停で下車し、池田港の東に張り出した岬に向けて南下すると、江戸時代に重税に苦しめられていた農民の窮状を江戸幕府に直訴をして処刑されてしまった平井兵左衛門を弔う五輪塔があったり、古い町並みが残っていたりします。そこを通り抜けたところに、池田の桟敷があります。亀山八幡宮の観覧席として、島特産の花崗岩を積み上げたもので、海に向かってローマの円形劇場の観覧席のような形で伸びあがって居ます。上ってみると、上がるにつれて景色が広がっていいのですが、一段の高さは意外と高くて、かなり往生します。この観覧席は、現在でも秋祭りの見物席として利用されているそうです。

 花崗岩は別名を御影石と言いますが、六甲山の南にある地名の御影が名前の由来だそうですが、御影石の中には花崗岩でないものも含まれているのだそうです。地球上ではごくありふれた岩石で、どこにでもありますが、地球以外の太陽系では、ほとんど見出せないのだそうで、これは花崗岩の生成に水が関与するためだそうです。荒い斑点のある花崗岩には、多くの鉱物が含まれ、中には水晶やトパーズ、トルマリンなどを含む場合があるそうです。トルマリンと言えば別名を電気石と呼ばれ、結晶を加熱すると電気を帯びるための命名のようです。このために、トルマリンを用いた健康製品が多数作られましたが、どれも根拠に乏しいものでした。加熱して発電に使う、というほどのものでもなさそうです。

日本では治安の良さから夜景を見に行くのに危険は感じませんが、国が違えばホテルの窓からしか眺められない都市もあるようです

2024-07-07 08:00:00 | 世界の町並み
 アジアとヨーロッパの夜景に続いて、今回は最終回として北アメリカ、オセアニアそしてアフリカの夜景を紹介します。前回までと同様に、訪問してかつ夜景にお目にかかった都市のみで、けして網羅的なものではありません。

 
 北米からはカナダが3都市とハワイの夜景です。カナダの最初は、東寄りの世界遺産の都市ケベックの夜景です。河岸段丘から臨んだ町並みと、その向こうを流れるセント・ローレンス川そしてケベックのランドマーク的ホテルのシャトー・フロンテナックです。

 
 少し西に行って次はナイアガラ滝の夜景です、幸運にもホテルの窓から眺めることができました。

 
 最後は、世界自然遺産のカナディアンロッキーのバンフの夜景は絵本に出てくるようにかわいらしさがありました。

 
 北米大陸ではありませんが、ハワイの夜景はフラショーです。

 
 オセアニアからはオーストラリアのシドニーです。

 
 アフリカ大陸はチュニジアの4か所で、最初は首都のチュニスですが、ヨーロッパの都市と見まがうきれいさです。

 
 2番目はチュニジア中央の海岸に面したスファックスで、ちょっと南国風になります。


 3番目は、南部のリゾート・アイランドのジェルバ島で、ヨーロッパからの観光客であふれているホテルの夜景です。

 
 最後はスファックスの北に位置する世界遺産の円形闘技場のエルジェムと、ホテルで行われていた結婚披露宴の様子、イスラム世界では、新郎側の出席者は男性ばかり、新婦側のパーティーがあるのかどうかは不明でした。

 スファックを訪問したのは20年ほど前で、インターネットは普及しつつありましたが、スマホはまだ出回っていませんでした。このスファックスで、父の具合が悪いとのFAXを受け取り、あわてて国際電話を掛けた記憶があります。スファックスでファックスとしゃれみたいですが、電話の内容からは大事にはならなりませんでした。スマホの普及で、よほどの辺鄙な山奥にでも行かない限り、連絡がつくようになって安心ですが、現役の人の場合は、海外まで仕事の話が飛んで来て、気が休まらない問題もあるようです。ただ、このような風習は、どうも日本独特のようで、休日でも自宅に仕事の話で連絡が入るのは日本以外では考えにくいのだそうです。

比叡山の麓の坂本と言えば比叡山の里坊や日吉神社など有名な神社仏閣が並びますが穴太衆の積んだ石垣の連なる古民家の町並みも魅力的です

2024-06-30 08:00:00 | 日本の町並み
 猫の島というキャッチフレーズで観光客を誘致しましたが、猫にはあまりお目にかかれず、斜面に張り付いた古民家を支える石垣が見事だったのが高松の沖合に浮かぶ男木島でした。男木島の石垣は斜面を支えるものでしたが、天守閣などの盛土をを支えるには石垣が必須で、この石垣を積む技術に長けた集団が穴太衆でしした。今回は、この穴太衆が積んだ石垣が町中に残る比叡山の麓の坂本の町並みを紹介します。

 坂本の里坊は、京阪電車の坂本駅の西に広がっており、西の端に日吉神社があります。ただ、今回紹介するのは、これらの場所よりずっと駅の近くで京阪線をまたぐ東西両側と、駅から北に延びる横小路と呼ばれるあたりの古民家や神社、それに小さな祠などが点在するエリアです。

 
 
 京阪電車を降りて出口を出ると目に飛び込んでくるのは左手の石垣で、坂本は石垣の町なのかなと思ってしまいます。右手には茶畑があって、これは最澄が中国から持ち帰った茶の種を植えた場所で、日本最古の茶畑なのだそうです。通りに出ると、左手方向にダラダラ坂があって、はるか先には日吉神社があると思われます。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 日吉神社には向かわずに、すぐに左手に曲がって線路に平行に南に行くことにします。右手にすぐ現れるのが手打ちの蕎麦屋さんで、さらに進むと古民家が連なります。古民家の間に福成神社や榊神社の鳥居が現れます。榊原神社を行き過ぎて左手に京阪の踏切を越えても右手にも神社があって、北陸にある石動に縁があるという石動神社があります。榊原神社の手前の福成神社の角を左に降りてやはり京阪の踏切を越えると、明良地蔵尊と明良弁天が並んでいます。東に向けて緩やかな下りになっていて、通りに面して石垣が積まれた家が目立ちます。駅の南側を左回りにぐるりと回ってきて、駅に戻る手前、東側の大通りに面した建物が公人屋敷で、江戸時代に僧侶の身分でありながら苗字台頭を許され地域のまとめ役を務めた公人の屋敷の遺構です。

 
 
 
 
 
 次は、駅を少し西に行って北に入った横小路です。通りの左手の西側は里坊の寺院が連なっていますが、右手には古民家が残っています。この道路が里坊の境界のような形です。石垣のある家や、茅葺の家まで残っています。驚いたのは、京都の町家のシンボルのような「犬矢来(いぬやらい」と「ばったり床机(しょうぎ)」を隣り合う民家で見つけました。この二つは京都でもあまり見かけなくなってしまった町家を象徴するもので、すごく貴重な風景でした。


 ばったり床机は、格子戸などの前に作られて、使わない時には跳ね上げて邪魔にならないようにし、天板の裏に組み込まれた足を出して下ろした時には床机となるものです。商店では、床机の後ろの格子戸を開けて店頭の接客エリアとして使ったそうです。一方、犬矢来は、道路に直接に接する家屋の格子戸を道路からの泥や犬の小便から守るためのガードとして作られたものだそうです。どちらも狭い町中で空間をうまく使ったりガードしたりの工夫の結果生まれたもので、狭い空間を多用途に使いまわす日本文化の産物の一つです。使いまわすといえば、小さなスマホ一つに、あらゆる機能を集約して使いまわすのは、日本文化をまねたのかもしれませんね。たしかに便利にはなりますが、スマホの場合はリスク分散の意味からはあまりいただけないように思います。

スコタイの仏教遺跡は、戦争で破壊されてしまったアユタヤに比べて仏像やレリーフなどが残されていて見ごたえがあります(タイ)

2024-06-23 08:00:00 | 世界遺産
 タイの世界遺産に登録されている仏教遺跡は前回までに紹介したアユタヤともう一つスコタイがあります。アユタヤはビルマとの戦闘で破壊されて首の無い仏像が痛々しい状態でしたが、スコタイは建物などはかなり傷みが激しくて屋根はほとんど残っていませんが、多くの仏像が五体満足に残されています。今回と次回でスコタイ周辺の仏教遺跡を紹介します。

 
 アユタヤは、タイの首都のバンコクから列車でもバスでも1時間足らずという近距離でしたが、スコタイはチェンマイとバンコク都のちょうど中間あたり、空港はありますが国鉄の駅は70kmほど東のピッサヌローク二しかなく、タイを縦断する旅行の場合には、ちょっと不便な位置にあります。筆者はチェンマイに滞在の後にタイ国鉄の特急でピッサヌロークまで6時間ほどかけて移動し、駅前からGRABで75分ほどかけて歴史公園近くのホテルにたどり着きました。バンコクまではその逆で、ピッサヌロークまでGRABで移動して駅近くのホテルで半泊まりし、深夜に停車する夜行寝台でアユタヤに向かいました。

 スコタイ歴史公園は、東西1.8km、南北1.6kmの城壁に囲まれた城壁内を中心に東西南北に広がっていて、今回は城壁内を、次回は北部を紹介します。スコタイには、主要な遺跡だけで城壁内に35か所、外に90か所も発見されているとのことで、とてもすべてを回ることは不可能に近いものがあります。城壁内をぐるりと回るトラムもありますが、紹介するのは訪問した城壁内の5か所です。

 
 
 
 
 
 
 城壁内で最も大きく重要な遺跡がワット・マハタートで城壁のほぼ中央に位置します。200m四方で三方を濠に囲まれ200基を越える仏塔や10の礼拝堂など数多くの建造物と石仏が残っていて見ごたえがあります。特に目立つのは、屋根が無くなって基壇の上に柱だけになった堂の跡に首一つ飛び出した巨大な仏像です。また仏像だけでなく、基壇の周りには象やライオンらしき動物の彫像もあって、スコタイの他の遺跡では見られないものが見られました。

 
 
 
 マハタートの南南西にあるのがワット・シー・サワーイで、元はヒンドゥー教の寺院だったそうでクメール様式の3基の仏塔が目立ちます。

 
 
 
 サワーイの北、マハタートの西隣に周りを長方形の池に囲まれているのがワット・タラバン・ングンで、チューディーと呼ばれる仏塔が建ち、かつての礼拝堂は土台と柱だけが残されています。

 
 
 
 ングンの北のさらに大きな池の中の島にあるのがワット・スラ・シーで、こちらもチューディーと呼ばれる仏塔のほかに本堂礼拝堂が残ります。

 
 スラ・シーの東には、遺跡ではありませんが13世紀にスコタイの最盛期を築いたラームカムヘーン大王の像があり、大王のぞうのそばには王の業績をたたえるレリーフも作られています。

 
 
 
 最後のワット・トラバン・トーンは歴史公園の料金所の外で東にある正方形の池の小島にあります。わっと。タラバン・ングンとシンメトリーということですが気が付きませんでした。泊まったホテル(ゲストハウス)のすぐそばにあったのでチューディーに沈む夕日を見ることができました。

 ラームカムヘーン大王は、現在タイで使われているタイ文字の元となるスコタイ文字を作ったとされていいます。このタイ文字はお隣のラオスで使われているラーオ見路に似ていると思ったら、ラーオ文字もスコタイ文字を元に作られたのだそうです。これらの文字はアラビア文字風とも思われる独特の形をしていて、英語以外でもある程度は発音が類推できるアルファベットは違い、ハングルでも同様ですが全く発音すらわかりません。これらの国に行くと船酔い現象を起こしそうになりますが、スマホの翻訳機能が発達した今は、文字にかざして意味も発音も判るようになりました。世界中の文字の形がデータベース化されてるのでしょうが、考えてみると中国の漢字と同様に日本語のデータベースがデータベースの量が大きいものの一つかもしれません。

ネコにはあまり出会いませんでしたが男木島の石垣と石段それに斜面に張り付いたような古民家はそれだけで芸術品のように思います

2024-06-16 08:00:00 | 日本の町並み
 前回は上野の隣の谷中を紹介しました。美術館や博物館の集中している上野の隣にあることもあって、谷中にも大名時計博物館や朝倉彫塑美術館があります。朝倉美術館には猫の部屋があって、数多くの猫の彫塑であふれていますが、本物の猫が町中にあふれるほどいる所もあちこちにあります。その中でも尾道が有名ですが、尾道はこのコラムでも紹介してしまったので、今回は島中に猫が居る香川県の小さな島の男木島を紹介します。

 
 
 
 男木島は高松の沖合10kmほどに浮かぶ小さな島で行政区画としては高松市になります。人口は160人程度ですが、さすがにどうもネコよりはまだ人間の方が多そうで、観光情報に書かれてるようにはネコには会いませんでした。高松港からフェリーは高松港の防波堤に建つ玉藻灯台をかすめ屋島を右手に見て20分ほどで経由地の鬼が島伝説のある女木島に入港します。鬼が島伝説の女木島らしく防波堤の上には港の方を眺める鬼の像が置かれています。女木島のフェリー乗り場の建物は斜めの屋根のある建物をやや低い廊下でつないだきれいな建物です。さらに20走って男木島に到着しますが、こちらのフェリー乗り場は網目模様の屋根で覆われた建物、女木島も男木島もフェリー乗り場は凝っています。

 高松港からのフェリーは、2時間おきで男木島で折り返しの時に20分ほど停泊するので、島の滞在は2時間20分か4時間20分ということになりますが、島の北端の岬まで足を延ばさないのであれば2時間20分あれば散歩できそうなくらいの小ささです。このフェリーで往復ともに何組かの同じ家族に会いました。春の彼岸の頃でしたから、島を離れた人たちが墓参りに訪れたのではないかと思います。過疎の進む島でお墓だけは島に残しているのでしょう。

 
 
 
 
 
、男木島は、石垣と階段の集落しかないような島ですが、のんびりと散策してもよさそうな島の一つです。男木島の港は西向きで、港の周辺に集落があります。この集落の後方の小高い山の中腹に豊玉姫神社があって、石垣の間の石段を上ってゆくと小さな社があります。神社そのものより、ここからの瀬戸内海の眺めがゆったりしていて、はるか遠くには瀬戸大橋の主塔らしきものも眺められます。石段は少々きついのですが、上る価値ありです、というよりは、この神社以外にはさしたる観光名所はあまりなさそうです。島中の家の壁などに前衛的なアート作品が点在しますが、はっきり言って、あまり見たいという気持ちは起こりません。石垣と石段と古民家の作り出す風景の方が芸術的のように思います。ところで、島にいる猫ですが、ほとんどみかけませんでした、なので写真もありません。

 桃太郎伝説は日本中にありますが、有名なものは岡山県のもののようです。桃太郎が対峙したと言われている鬼の住む鬼が島もあちこちにありますが、桃太郎が岡山県ならば、対岸の香川県の沖合に浮かぶ女木島は格好の位置関係になりそうです。女木島には鬼が住んでいたという洞窟もありますが、いかにも観光用という匂いがするので下船をしませんでした。男木島には鬼にまつわる伝説はなく、観光客の目的はもっぱら猫なのだそうです。猫は年老いると鬼ではありませんが鬼と同様に人間に危害を与える猫又と呼ばれる妖怪になるという伝説がありますが、そうだとしたら男木島は猫又だらけになってしまいそうです。各地に伝わる伝説は、人から人へ口伝えで引き継がれて北でしょうが、現在では民話のしゃべり口を含めて映像のデータベースかされて保存されているようです。コンピュータやスマホの規格は日々変わっているの現状、これらのデータベースって未来にも再生できるのでしょうか。

ヨーロッパの夜景は、石づくりの建物が暖かい感じのオレンジ色に浮かぶ景色が多いようですが、北欧の白い雪景色の中にでの暖かい光はさらに格別です

2024-06-09 08:00:00 | 世界の町並み
 夜景の2回目はヨーロッパ編です。アジアと同様に消して網羅的ではなく、筆者が出会った夜景のみで、3大夜景のナポリやモナコは残念ながら含まれていません。ただ、どこの場所も特徴的な風景が楽しめる夜景でした。北ヨーロッパから順に南下して紹介しましょう。

 
 最北の都市はノルウェーのトロムソです。オーロラを見に行ったのですが、3泊しても位置にちょも晴れなくって、オーロラは見損ねました。写真は薄暮の頃の町の様子とホテルの様子ですが、絵本に出てくるようなかわいらしい町並みでした。

 
 北欧からもう一か国、デンマークの首都のコペンハーゲンの市庁舎前広場の夜景です。

 
 海を渡ってドイツを通り越しベルギーの首都ブルッセルの世界遺産に登録されているグランプラスの広場の夜景は豪華でした。カメラのフィルムが残ってないことに気が付いて、慌てて現地調達をして撮影した景色です。有名な小便小僧がグランプラスのすぐそばに板のが意外でした。


  
 旧東欧圏からは3か国、ハンガリーの首都のブダ・ペストの夜景はくさり橋と国会議事堂です。この夜景を見に行った時には、ガイドブックに注意書きがあったのと同じシナリオで窃盗に会いそうになりました。「ポリス!ぽりす!」といって近づきパスポートを見せろと言って金品を盗み取る輩です。

 
 次の国は、かつてのユーゴスラビアを構成していた国の一つのクロアチアの世界遺産の都市であるスプリトです。みなとのそばに城壁が伸びて、現役で使われて明るく輝いていました。

 
 旧東欧圏の最後はルーマニアです。首都のブカレストから列車で北に小高い丘の上にある世界遺産の町のシギショアラです。吸血鬼の伝説もある町ですが、小説のモデルとなった城は別の町にあるブラン城ですが、シギショアラには、ドラキュラのモデルとなったツェペシュの生家が残りドラキュラ料理が名物となっています。

 
 フランスは4か所もあります。パリではオルセ美術館とエッフェル塔です。エッフェル塔の写真は塔が建ってから百年の年で1989年、1889年に開催されたパリ万博で建てられたのがエッフェル塔で、最初は悪評さくさくでしたが百年後の現在ではパリの風景とに欠かせないものになりました。


 パリからTGVで南に、ディジョンの夜景は旧ブルゴーニュ公宮殿の夜景です。


 旧ブルゴーニュ公宮殿と同様に横に広がった建物の夜景が素晴らしいのがボルドーのブルス広場で、ここでは世界一の広さを誇る水鏡が景色をもりあげます。この水鏡は広さは世界一ですが、推進派わずか2cmだそうで、少ない水の量で大きな効果を得ているように思います。


 夜景になるまで待つのが大変だったのがカルカソンヌのお城でした。経度ではロンドンと変わらないほど西で、さらに夏時間ですからなかなか」暗くなりません。たしか、午後10時頃になってやっと薄暗くなって見切り札駅でした。

 
 ヨーロッパの西端のポルトガルの中でさらに西の端で、ユーラシア大陸の西の端というのがうたい文句のロカ岬が大西洋に断崖で落ち込んでいます。このろ過岬への観光拠点の人タウが、岬の南東に位置するカスカイスで、リスボンからジェロニモス修道院などを見た後に肝がん沿いに西に行ったリゾート地です。

 
 最後はイタリアの宗教都市のアッシジです。世界遺産の境界は地震で壊滅的な被害を受けたようですが、訪れた時には修復が終わっていました。

 カルカソンヌの夜景を見るために、あたりが暗くなるのを待つのが大変でしたが、スペインはもっと西にあるにも関わらずフランスと同様にヨーロッパ標準時ですから、夏の日没はもっと遅くなります。ただ、そこはよくしたもので、スペインでもポルトガルでも、食事の時間は日本人の常識から3時間以上も遅くなっています。これで、あくる日の朝から仕事になるのか疑問に思います。標準時を決めているのは、本来は地球の自転周期で、とんでもない時間に太陽が出て来ないようになっていますが、この自転周期というのはかなりふらつくので、現在ではセシュウム発信機を心臓部に持つ原子時計が世界標準時を刻んでいます。自転がふらついて、日の出時刻がおかしくならないように、地球の自転との差をうるう秒の挿入で補正してきましたが、これをやると、色々なIT機器の調整が大変で、今後はうるう秒の挿入は中止するようです。