世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

新市街に浮かぶ島のような高台にあるシギショアラ歴史地区は時間が止まったような美しい街並みが広がっています(ルーマニア)

2018-12-16 08:00:00 | 世界遺産
 ローマとは地中海の対岸になるチュニジアに元の形に近いローマ遺跡の円形闘技場が残るのがエルジェムでした。言うまでもなく、円形闘技場は、音楽会やオペラを演じる場所ではなく、人間同士や人間と動物を戦わせて観戦する血なまぐさい場所だったわけです。血なまぐさいと言えば、その血を栄養源としていたのが吸血鬼ドラキュラで、そのモデルとなる人物が世界の町並みのブカレスト編で紹介したルーマニアのツェペシュ公です。ルーマニアには、このツェペシュ公にゆかりの場所が多いのですが、彼の誕生の地で世界遺産の町のシギショアラです。

 
 シギショアラは、ルーマニアの首都のブカレストの北北西150kmほど、列車で4~5時間の標高が400m程度の山の中の町です。新市街は2km四方ほどに広がり鉄道駅は北のはずれにあります。世界遺産の歴史地区は、新市街が広がるほぼ中央当たりに東北から南西に長い島のような高台があり、その高台にできた中世の城塞都市です。トランスシルバニア地方の中心都市ですが、歴史地区は時間が止まったような静かな町です。歴史地区の広場には生誕地ということからツェペシュ公の銅像があり、近くのレストランには、血のスープというメニュー(実際はトマトス^プ)があるそうです。

 
 
 
 歴史地区の中央当たりには3つの広場があり、この広場の周辺にレストランやホテルが集中して居ます。ドミニコ会修道院や時計塔などの観光施設もこのあたりに集中しています。ペシュ公の銅像もこの広場にあります。広場の近くでは、観光用の馬車が走っていたり、野外演劇が始まったりしましたが、この劇は特別に上演されたのか、なにかお祭り関連なのか不明でした。また、このあたりには醸造所があって、お酒も売っていて2本買ってきたのですが、飲めない筆者は、いまだに棚の飾りで、中身の状態も解りません。

 
 時計塔は、14世紀に建てられ、17世紀の火災の後にバロック様式で再建されたものです。歴史地区の高台を囲む城壁の南の端に建つため、南側の新市街からも目立つ存在です。現在、内部は歴史博物館として使われ、毎正時にはからくり人形も表れます。昼の間も目立つぞんざいですが、闇夜にライトアップされた時計塔も存在感があります。

 
 

 高台の南西部にさらに高い丘があり、その頂上には16世紀にゴシック様式で建てられた山上教会があります。この教会に上るために作られたのが屋根付き階段で、冬場に礼拝に訪れる信者のために屋根が付けられたとのことですが、階段が不ぞろいで、ちょっと歩きづらいのが難点です。山上教会からは、さすがに高台だけに新市街だけでなく歴史地区の町並みも良く見渡せます。

 
 
 歴史地区の下界の新市街にも、オルトドクス教会というルーマニア正教の綺麗な教会があります、残念ながら中には入れなかったのですが、真っ白の外観だけでも素敵です。この新市街に不思議なものを2つ発見しました。一つは、ローマを建国したというロームルスとレムスの像、よく見るオオカミの乳を飲んでいる像です。ルーマニアってローマ帝国の一部だったことあったっけ?って感じです。もう一つは、町の中を流れる川の河原に放牧された牛が居るんです。言ってみれば、多摩川や荒川の河川敷で牛を飼ってる感じです。

 シギショアラの時計塔のからくり人形は、正時に見に行きましたが、人形が現れるだけでした。ヨーロッパの時計塔のからくり人形の大部分は、人形が現れるだけで特別な動作をしないものが多いようです。一方、日本にあるからくり人形は、御茶を運んだり、字を書いたり、宙返りをしたりで複雑な動きをします。これらが作られた時代にはコンピュータは当然あるはずもなく、すべて歯車とカムを複雑に組み合わせて、動作手順を規定していました。科学博物館には、江戸時代に我が国が採用していた不定時法という複雑な時刻のシステムを、やはり歯車の組み合わせだけで作り上げた万年時計が展示されています。おそらく、現代人がコンピュータを使わないで、この時計を実現するのは不可能ではないかと思ってしまいます。
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聖徳太子が通ったであろう竹ノ内街道の近くには太子が眠る廟もあります

2018-12-09 08:00:00 | 日本の町並み
 四国を代表するというより日本を代表する温泉の一つと言ってよい温泉が道後温泉でした。かの聖徳太子も入浴したという逸話が残りますが、飛鳥から道後まで往復するのは交通手段が脆弱だった時代に大変であったでしょう。おそらく、飛鳥から難波津に出て船で瀬戸内海を渡ったのではないかと思います。当時、飛鳥から難波に抜ける街道の一つが竹ノ内街道で、現在も旧街道の面影が残されており、街道の途中の太子町には聖徳太子の廟もあります。今回は、竹ノ内街道の大坂側と太子町界隈を紹介します。

 竹ノ内街道は7世紀に難波と京(飛鳥)を結ぶ官道として整備され、奈良葛城市の長尾神社から大阪府堺市まで26km余りの街道です。このうち、奈良側の当麻寺南の竹内から大坂側の古市あたりまでに古い街並みが残っています。今回紹介するのは、竹内峠を西に越えた太子町の孝徳天皇陵あたりから西北西に羽曳野市の駒が谷あたりまでの竹ノ内街道と、孝徳天皇陵から西に太子町の太子廟のある叡福寺までを取り上げます。

 
 
 
 スタートの孝徳天皇陵は旧街道から北に坂道を上がったところにある小さな円墳です。地味な陵墓は、孝徳天皇が、大化の改新で中心的役割を果たした中大兄皇子と反りが合わなく、不遇のうちに亡くなったことを象徴しているのでしょうか。陵墓の入口と反対側には古民家の旧山本家の大きな茅葺の屋根の大和づくりの母屋が旧街道より一段下がって見下ろせます。ここから西へ旧街道が国道166号と交差する六枚橋あたりまで街道が右に左に蛇行する街道沿いに板壁に白壁の土蔵造りの町並みが続いています。

 
 
 六枚橋あたりから近鉄の駒が谷あたりまでは、新しい街並みに飲み込まれてしまった感がありますが、駒が谷駅の手前の500mほどの区間には、国道166号の北を通る旧街道沿いに再び古い街並みが出現します。こちらは、駅にも近いせいか、竹ノ内街道と書かれた灯篭や竹ノ内街道の地図が描かれた看板が目立ちます。

 
 一方、六枚橋の東の太子町項番前から国道166号を外れて県道を西南西に500mほど、右折して200mほど北に行くと左手に用明天皇陵の方墳が見えます。こちらは、孝徳天皇陵より60年ほど古く陵墓の辺の長さが60mと随分と大きな陵墓です。

 
 
 
 さらに北に、六枚橋から西に延びるバス道に突き当たって、このバス道を西に300mほど行くと、道路の北に叡福寺の門が見えます。道路から石段を上がると山門で、境内は100m四方ほどで、多宝塔、金堂、聖霊殿などの建物が並びます。聖霊殿を通り過ぎて突き当りの石段を上ると聖徳太子の墓で、直径50m、高さ10mほどの円墳です。石室には太子本人と太子の母君、妃の3人の管が収められているそうです。

 今回紹介をしたあたりは「近つ飛鳥」と呼ばれる土地で、古事記に「遠つ飛鳥」と共に記述があるそうです。現在では知る人も少なくなり、明日香村あたりの遠つ飛鳥が飛鳥の地名としてポピューラーになっています。古代人が撮ったであろう竹ノ内街道も、現在では、ほとんど人と逢わない田舎道になってしまっています。都の位置が変わったり、交通の手段が変わったりという外的要因で街道に流行り廃れが生じたのでしょう。ITの分野でも、色んな要因で流行があるようで、少し前までもてはやされた「ファジー家電」は、言葉すら知らない人の方が増えたかもしれません。現在もてはやされているAIもいつまでもつことやら。
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ブルース・リーの父方の故郷の順徳にある清暉園には彼の記念展示館もありました(中国)

2018-12-02 08:00:00 | 世界の町並み
 独裁者のチャウセスクが最後に演説を行ったのがルーマニアの旧共産党本部のバルコニーでした。ルーマニアの革命では民衆が独裁者の排除に立ち上がりましたが、映画の世界では正義の味方が活躍することが多いようです。その中で、カンフー映画の基礎を築き、諸悪に立ち向かったキャラクタを演じた一人がブルース・リーで、アメリカ生まれ香港育ちで、後に渡米して映画スターになったことは皆さんご存知の通りです。このブルース・リーの父方の出身地が中国広州の西方の佛山市順徳区で、清暉園という庭園にはブルース・リーの展示館があります。今回は、佛山市の順徳区や禅城区を紹介します。

 佛山市は、広東省の省都である広東市の西南に接していて、市の中心となる禅城区までは20kmほど、順徳区は禅城区の南に接しています。広州との間はバスや地下鉄が通じ、広州市と並んで一大経済圏を作っています。

 
 
 
 
 さて、ブルース・リーの展示館のある清暉園ですが、広州からのバスが到着する順徳バスセンタから市内バスで10分ほどの場所にあります。広さは2万㎡ほどなので東京ドームの半分弱とさほど広くありませんが、庭園としていろんな要素がてんこ盛りで、一巡するのに2時間もかかりました。ブルース・リーの展示館は入り口近くにあり、館の作りは周りの建物と同じようですが、看板が周りの雰囲気とは違っています。清暉園は明代の末の頃の造園で、中国十大庭園の一つなのだそうで、園内は回廊がめぐらされ、意匠の異なる数多くの建物をつないでします。中国ですから焼き物の飾りなどが数多くあるのは、納得できますが、美しいステンドグラスが多いのは驚きです。木の枠で囲まれた四角なガラス窓がステンドグラスになっている光景は、教会のステンドグラスとは違った美しさです。庭園には、中国の江南にある庭園に共通する、巨大な石が置かれていましたが、竹藪があるのが他と違って見えました。

 
 この清暉園の近くに鐘楼があり、道路のそばに、まるで歩道を分断するように建っています。、西安にある鐘楼ほど大きくはありませんが、ほどほどの大きさの建物に鐘もつるされています。ただ、この鐘楼は80年代に再建されたものでコンクリート製のようです。

 
 
 さらにその先に西山廟がありますが、ガイドブックには地図が無く、たどり着くのに苦労しました。現地の人に尋ねてもわからない人が多く、やっと筆談で地図を描いてもらいました。知らない人が多かった西山廟ですが、屋根の形や、その上に乗っている動物や人間の彫刻がなかなか面白く時間があれば行ってみてもよさそうです。

 
 
 
 
 
 順徳から佛山の中心の禅城区までは市内バスで1時間ほどかかります。禅城区を代表するお寺が祖廟で、11世紀に創建の北方玄天大帝を祀る道教寺院です。祖廟の名前は、市内に数多くある道教寺院の中で最も古くからある都の意味合いで呼ばれているのだそうです。祀られている北帝とは北地方を統括しすべての水生生物を統治するといわれています。境内は広く数多くのお堂があり、西山廟と同じように屋根の上におびただしい彫刻が乗っています。これらのお堂の中心に金ぴかの巨大な北帝の像が祀られています。不思議なのは、この北帝を取り巻く像のどれもが極端に前傾をしているのです。お辞儀のように腰の部分からの前傾ではなく、体全体が前傾しているので、すごく不安定な感じです。また、金ぴかの像に、灰色の長い髭が植えられていて、嘔吐をしているようにも見えます。

 道教は中国の三大宗教の一つで、その中でも漢民族の土着宗教として最も古くから信仰されてきたものです。土着宗教ということから、わが国の神道と似たところがあるように思います。わが国では唐から道教の受け入れを迫られたときに、わが国の天皇を中心とする神道と相いれないと断ったそうです。ただ、一部の欧米人が仏教の神髄と思っている禅宗は仏教本来の哲学とは乖離し、道教の思想の影響を受けたものと考えられており、陰陽道は道教の考えの一部が伝わって発展したものと考えられています。陰陽道は占いと呪術によって、時には国を動かすまでの影響を持ったこともありますが、要は経験則から導いた相関分析ではないでしょうか。コンピュータのインテリジェント・マイナーと呼ばれる手法は、相互に関連のなさそうな大量のデータから、相関の大きな因子を導き出してくれますが、コンピュータのはじき出した結果では、信心の対象にならないでしょうか。
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かの聖徳太子も入浴したという道後温泉ですが、入浴だけでなくいろいろな建物も見られます

2018-11-25 08:00:00 | 日本の町並み
 群馬県の山奥にあって、ひなびた温泉の風情を残すのが四万温泉でしたが、その中の積善館は「千と千尋の神隠し」の構想を得たモデルの旅館と言われています。ただ、この千と千尋のモデルと言われる温泉はほかにもあって、その一つが松山の道後温泉です。今回は、道後温泉の一帯を紹介します。

 
 
 道後温泉は、松山市街の東2kmほど、平地が山にぶつかる麓にあります。JR松山駅や伊予鉄松山市駅から伊予鉄の路面電車で20~30分です。終点の道後温泉の駅は下見板張りの洋館で、明治の後期に建てられたものが老朽化し、昭和60年代に、元の姿を残して再建されたものです。駅前広場には、坊ちゃんやマドンナの人形が現れるカラクリ時計も設置されています。そしてこの道後温泉駅と松山市駅との間には、蒸気機関車を模したディーゼル駆動の「坊ちゃん列車」が走っています。漱石の「ぼっちゃん」の中に道後温泉まで走る軽便鉄道が登場しますが、その頃の機関車と客車をを復元したものです。道後温泉駅と松山市駅では、機関車の方向を180度転換の必要がありますが、ターンテーブルなどを設置する場所が取れないため、機関車の下にジャッキがあって、これで車体を持ち上げた後に、人力で180度回転させています。人力というところは、サンフランシスコのケーブルカーと似ています。

 道後の歴史は古く、大化の改新の時に現在の今治あたりに置かれた国府から都へ向かう道の後方という意味で付けられた地名だそうです。また、温泉は今から三千年も前に足に傷のあるシラサギが飛んできて傷を治したという伝説があり、日本三大古湯の一つとされる古さです。6世紀には聖徳太子も入浴に来たとの伝説も残っています。伊佐爾波神社の社伝などによると、聖徳太子だけでなく天智天皇、天部天皇それに神功皇后などそうそうたる皇族が道後を訪れたとの記録があるそうです。そのような歴史のせいでしょうか、温泉本館には皇室専用の浴室が存在します。

 
 
 温泉街の中心には、坊ちゃんにも登場する温泉本館があり、日帰りで少々熱めの温泉に浸かることができ、追加料金を払えば、3階の休憩所も使え、このことは「ぼっちゃん」の中にも登場します。現在の建物は、明治の中期に建てられた木造3階建てで、重要文化財に指定されています。唐破風のある入口は堂々としており、銭湯で唐破風が多いのは、温泉本館の影響なのかもしれません。訪問した日には、日没後に2階3階の窓にカラフルな絵が投影されて、また違った印象でした。日帰りの湯は、温泉本館の他に椿の湯や新しく飛鳥の湯も加わりました。

 
 
 
 
 道後温泉の近くには、商店街だけでなく、古い街並みが残り、高台には伊佐爾波神社、ちょっと歩けば四国五十一番札所の石手寺などもあります。伊佐�爾波神社の社殿や回廊そして楼門などは重要文化財ですが、境内で観光客の姿は見かけないようです。一方の、石手寺は四国巡礼の札所ということもあり、多くの観光客であふれていました。こちらの建物群も、国宝の仁王門を始め、三重塔や鐘楼、護摩堂など重文の建築物がぞろぞろです。また、初詣では愛媛県の中で最も参詣客が多く、こちらも参詣客がぞろぞろ状態のようです。

 聖徳太子には、色々な逸話が残されています。例えば母親が厩の戸にぶつかった際に生まれたとのことで、厩戸王子との名前でも呼ばれます。それらの逸話の中でも有名なものは、同時に10人の言うことを聞き分けられたというものです。脳の中の音声認識機能が多重処理で働いていたということでしょうか。最近の車内広告で、同時には一人の声ですが、74言語に対応する翻訳端末が現れたようです。かつては、音声を認識するだけで、大型のコンピュータを駆使しなければなりませんでしたが、便利になったものです。翻訳エンジンは、ネットを利用するようですが、同時通訳がそばにいるように即応してくれます。ただ、あくまで字面の翻訳で、旅行などには便利でしょうが、国際会議や契約を伴う商談では、言葉の裏まで知って翻訳できる通訳の仕事は無くならないでしょう。
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コロッセオほど足の便は良くありませんが、エルジェムの闘技場は、迫力も美しさもあり、地中海を渡ってでも訪問したくなります(チュニジア)

2018-11-11 08:00:00 | 世界遺産
 故宮、チュニス、ドゥブロクニクと城壁に囲まれた街を紹介しましたが、城壁なら観覧席で周りを囲まれたのが円形闘技場です。円形闘技場は4.6万人収容のローマのコロオセオが有名ですが、チュニジアの中部のエルジェムには、コロッセオにも匹敵する3.5万人が収容できる円形闘技場跡が残っています。今回は、この円形闘技場周辺を紹介します。



 

 エルジェムは、チュニジアの首都のチュニスの南150kmほど、列車で3時間程度の、海岸から30kmほど内陸にあり、人口2万人ほどの小さな町です。家が建っているのは直径が3kmほどの中で、その外は延々と続く砂漠、鉄道の線路沿いにオリーブの林があるくらいです。この小さな町の中央当たりに3世紀ころにローマが作った円形競技場が建っています。列車でエルジェム駅に到着の場合は、駅から線路と直行する通りを500mほど行くと闘技場に突き当たります。楕円形の競技場の長径は150m、短径は125mで周囲は400m、内部の楕円形のアリーナは67m×37mほどもあり、観客席の高さは36mで現存の円形闘技場では3番目の規模を誇ります。

 
 
 
 コロッセオに比べて、保存性が良いように思われますが、ほぼ完全な姿であったのは17世紀ころまでで、戦争によって破壊されたり、モスクの建材に転用されて、現在残っているのは2/3程度なのだそうです。ローマのコロッセオが、廃墟のような様相なのに対して、エルジェムのものは、現在でもちょっと手直しをすれば、陸上競技場や野外音楽劇場として使えそうです。石積みによる建築の構造上の制約からでしょうか、開口部や内部廊下の天井を支えるところははアーチ状で、この連続アーチが建物の美しさを際立たせています。夜になるとライトアップされ、真っ暗の夜空や、周辺の景色が闇に沈んでしまって、美しさが倍増するように感じます。

 
 夜と言えば、宿泊した駅前のホテルでは、結婚式の披露宴らしきパーティが行われていました。太鼓とチャルメラに似た笛それに歌が加わって夜半まで大騒ぎです。冷房のないホテルだったので、締め切るわけにもいかず、少々難儀をしましたが、不思議なのは、参加者は全員男性で、新郎は居ても、新婦は見当たりません。夕方に闘技場を見に行きましたが、道路にはみ出したベンチに居るのはすべて男性で、カミサンと一緒に歩くのは、ちょっと不気味でした。イスラムの国に来たんだと思いましたが、首都のチュニスではあまり感じませんでした。エルジェムは首都から離れた地方の町のためだったのかもしれません。

 
 
 時間があれば立ち寄りたいのが博物館で、駅から線路沿いに南西に500mほど、遺跡のそばに建っていて、遺跡から出土したモザイクのコレクションが展示の中心です。モザイク画のコレクションでは、チュニスのバルドー美術館が最大のコレクションを誇っていますが、こちらは多少小ぶりでも、なかなかの見ごたえです。都会の喧噪と砂埃の中に建っているバルドー美術館と比べて、のんびりとした中にあるのも好ましいところかもしれません。

 現在のエルジェムの周りは一面の砂漠ですが、闘技場が作られた頃は、一面のオリーブ畑がある緑豊かな都市であったようです。古代のエルジェムは、オリーブの木から採れるオリーブ油で潤っており、この富が円形闘技場を作らせとも言われています。アフリカ大陸は、かつては緑豊かな大地が広がっていましたが、人間が増えすぎ、生活のため燃料となる木を切りすぎて現在のような砂漠化が拡大しています。大地が支えられないほどの人間が増えると、一種の自然淘汰で、人間が滅びていくのは、人間も、地球に存在する動物の一つということを物語っています。免罪符のように、これらの人々に、単純に施し物をする団体の行動は、長い地球の歴史の中で、自然破壊の一種と思うのですが。
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夢のお告げの温泉と言われる四万温泉には特色のある温泉だけでなく自然も見事です

2018-11-11 08:00:00 | 日本の町並み
 海沿いの温泉の紹介が続きましたが、今回は山の温泉です。山の温泉は、沢山ありますが、それらの中から、今回は群馬県の山奥にあって、レトロな温泉の一つである四万(しま)温泉を紹介します。

 四万温泉は、東京の北北西100kmほど、中之条町のはずれにあります。JRの吾妻線中之条駅から路線バスで40分ほど北に向かって分け入ったところです。東京駅からは、直通バスも一日に1往復が運航されているようです。温泉街は南北5kmほどの5か所に分散し、南から温泉口、山口、新湯(あらゆ)、ゆずり葉、日向見(ひなたみ)と四万川に沿って並んでいます。中之条駅や東京駅からのバスは、5つの温泉場の中央の新湯までで、これより北の温泉場では、そこから歩くことになります。

 
 このうち最も北にある日向見地区が四万温泉発祥の地と言われ、10世紀にこの地で夢のお告げで温泉がわいたという逸話があり、夢に現れた薬師如来を祀ったのが重文の薬師堂です。また、四万温泉の名前の由来は四万の病を治す霊泉ということだそうです。

 
 
 
 各地区には、近代的なホテルやレトロな旅館が建ち並び、レトロな温泉街の町並みも、小規模ですが残っています。

 
 
 
 
 旅館の中でも有名なものが積善館です。元禄年間に旅館として開業し、3階建ての本館は木造旅館として日本最古のものです。目玉の元禄の湯がある3階建ての建物も昭和9年に建てられアーチの連続する窓などレトロな雰囲気があり、日帰り入浴も可能です。この積善館は、「千と千尋の神隠し」の構想を得た温泉の一つとされていて、本館から山荘に上るエレベータに通じるロマンのトンネルは、千尋の家族が通った神々の世界に通じるトンネルを思わせるものです。

 
 
 
 温泉はホテルや旅館だけでなく、共同浴場や足湯、それに飲泉場まであります。日向見には御夢想の湯が夢のお告げの場所にあり、そばには足湯もあります。ゆずり葉には飲泉の周りに足湯が組み合わさった施設があります。新湯の四万川の河原には河原の湯が、少し手前には塩之湯飲泉場があります。山口には上之湯があり、香茶房おきなやの店先には足湯があります。温泉口には町営の清流の湯が四万川の対岸の木立の中にあります。

 
 
 四万川を取り巻く自然も雄大で、温泉街を通り抜ける道路から見える滝が2か所、桃太郎の滝と小泉の滝とがあり、中之条駅寄りの河原には甌穴群があります。ただ、甌穴群は四万川の水量が多い時には水没してしまって、どこにあるのかよく見えなくなるようです。

 
 
 自然に変化を加えている四万川ですが、いくつかのダムがあって、自然な流れに人造湖や深い色の淵が加わっています。日向見の上手には四万川ダムがあり、人造湖の奥四万湖を作っています。ダムは重力式で高さが90mあり、奥四万湖はコバルトブルーの湖水が周りの自然の景色に変化を与えています。下流には中之条ダムがあり人造湖の四万湖がありますが、こちらはバスの車窓から見ただけ、代わりに温泉口近くの桃太郎の滝の下流にある四万取水ダムを見学しました。小ぶりなダムですが、堤体に石が張り付けられ、のっぺりとした四万川ダムとは趣が違います。堰止湖というほどの人造湖はありませんが、深くなった四万川はこちらもコバルトブルーでした。

 四万温泉では、日本では数少ない飲泉があります。ヨーロッパなどでは、浸かる温泉と飲む温泉とは同じくらいの数で存在すようです。チェコのカルロビバリで飲んだ飲泉は、随分と苦かった記憶がありますが、四万のものは無味無臭に近いものでした。飲泉の効能は、大体が胃腸病に効くとのことですが、浸かる温泉と違って、飲むとなると、毒性などが気になります。毒物を検出するセンサーはいろいろなものがあって、かなりの毒物の含有量が電子的に測定可能になっているようです。ただ、検出できない毒物や未知の毒物などが気になりますが、飲んでみて経過観察ということだけはゴメンこうむりたいですね。
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独裁者が最後に演説をしたブカレストの旧共産党本部のある革命広場には、旧本部とは対照的な色々なビルや教会が取り囲んでいます(ルーマニア)

2018-11-04 08:00:00 | 世界の町並み
 前回の世界の町並みでは、国民の館などがあるDombovita川周辺を中心に紹介しました。今回はブカレストの2回目として、チャウセスクが最後の演説を行った旧共産党本部のある革命広場がある市街地のやや北側を紹介します。

 
 チャウセスクが旧共産党本部のビルのバルコニーで演説をしたのが12月21日で翌日には革命運動が起こり、夫妻は、このビルの屋上からヘリで逃亡しました。翌日に捕らえられ、その翌日に処刑されルーマニア革命はクリスマスの日に集結します。旧共産党ビルは現在は中央官庁のオフィスとして使われていますが、かつての東欧圏で抑見かける威圧的なシカクイビルで、国民の館とも似ています。ビルの前は広場になっていて、この広場を囲むように、色々なビルや教会などが建っています。北隣には大学図書館が、図書館の向かい側にはかつての共和国宮殿/大統領府が美術館として使われています。さらに、広場の南端あたりには茶色の外観が美しいクレッレスク教会が、逆に北側にはアテネ音楽堂の丸屋根が見えます。

 
 
 大学図書館は、19世紀に建てられたバロック建築で、図書館というより宮殿のような建物です。大学自体は、離れた所にあるようで、この図書館は、もとは宮殿か何かの建物で転用されたのかもしれません。
 国立美術館は、チャウセスクの現役時代には大統領府で、その地下には治安部隊の詰め所があって、革命の時には、多くの市民がここから出てきた治安部隊の銃撃で犠牲になったそうです。

 
 
 クレッレスク教会は、16世紀に建てられたブカレストで最も古いルーマニア正教の教会です。国立美術館などの建物群に囲まれて押しつぶされそうですが、2つの塔を持つ教会は、小さくても存在感があります。

 
 
 一方の、アテネ音楽堂は、19世紀の後半の1888年にフランス人の設計で建てられたギリシャ神殿風のコンサートホールです。外観もなかなか優雅ですが、内部は豪華です。ドーム状の屋根から想像できるように、内部は円形で、客席の上部の壁には、ルーマニアの歴史がフレスコ画でぐるりと描かれています。客席以外のエントランスなども、大理石がふんだんに使われていて豪華そのものです。

 
 また、このアテネ音楽堂の周辺には、公証人役場やその対角線向かいにある真っ白で3つの塔がある正教会Biserica Boteanuの建物などガイドブックには載っていない建物も綺麗です。

  
 
 革命広場の西側、クレッレスク教会の裏あたりには東西200m、南北500mほどのチシュミジウ公園があり、池が2つと残りはうっそうとした緑に覆われています。広さや周りが市街地で市民の憩いの場所ということで日比谷公園と似ていますが、こちらの方が自然に近い形をしています。この公園の中で、小指の爪の大きさくらいのカエルを見かけました。写真の左に写っているのは、直径が22mmの1,000レウコインです。公園の南側には市役所・区役所の建物があり、これまた綺麗な建物です。日本の役所というと、さしたる不都合が無くても味もそっけもない長方形のコンクリートの容器を新調に立て直したがるようで腹立たしい限りです。

 アテネ音楽堂の円形ホールは、音響効果が良いホールとして知られているようです。円形劇場の音響特性が良いことは、ギリシャなどの円形劇場が知られ、舞台でささやくような声が客席の最上段でも聞こえると言われています。ただ、これらの円形劇場は、野外で客席は半円形、舞台はその直径部分に張り出しているので、客性が円形で屋内のアテネ音楽堂とは性格は違います。コンサートホールの設計では、事前にホールの模型を作って、実際の音を出して音響効果を確認することが行われてきましたが、現在ではコンピュータによるシミュレーションに代わってきているそうです。また、最終的には、実際の観客を入れて、オーケストラなどの音を出して、特性を測定すそうで、このような機会にめぐり合わせた友人が羨ましいです。ただ、ホールは、使われる用途によって、目的とする音響特性は代わって来るし、聴衆の好みもあるので、正解の無い問題なのかもしれません。あまりに、多目的にすると、個性のない音しか聞けなく、オーケストラを聞くホールではないと言われる公共放送が作ったホールのようになってしまうようです。
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石見銀山が華やかりし頃の繁栄ぶりが想像できないレトロで寂しい町並みが続く温泉津です

2018-10-28 08:00:00 | 日本の町並み
 東側に海を臨み、町中に温泉が湧いているのが別府でした。レトロな町並みが残っているかと思えば、世界的に有名なアルゲリッチの名前を冠したコンサートがある華やいだ面もあって、温泉だけではない町でした。同じように海に面した温泉でも、華やいだところは無く、レトロな町並みが続き、町が訪れた時には小雨混じりのせいもあったでしょうが、ほとんど人に会いませんでした。このような温泉津ですが、こちらは石見銀山と併せ世界遺産に登録されており、唯一の温泉街として登録された街です。今回は、この温泉津を紹介します。

 温泉津は、島根県の中央東寄りの海に面した太田市の一部です。最寄りの駅は、JR山陰線の温泉津駅で、温泉街は駅からいったん西に海岸線まで出た後に、東にぐるりと回ったところで、約1.3km、20分くらいの距離にあります。温泉津は、石見銀山の積出港として栄えた歴史を持ち、駅からの道が海岸線に出たあたりが深い入り江の奥にある港です。

 
 
 温泉街は500mほどで、その中央あたりに共同浴場が2つあります。元湯泉薬湯と薬師湯で、特に筆者が入浴した薬師湯は日本温泉協会の審査でオール5評価を獲得したそうです。お湯は、少々熱めだった様な気がしますが、それ以外の記憶があまりありません。また、元湯泉薬湯と道路を隔てた向かいには浄土真宗の在俗の篤信者であった浅原才市の像が置かれてあります。


 温泉街の入り口付近には、400年続いた内藤家の庄屋屋敷があります。内藤家は、毛利氏が温泉津に築城をした時に奉行として赴任し、その後は庄屋を始め廻船問屋や酒屋などを営んできた名家です。現在も、子孫の方が住んでおられるので非公開ですが、道路が微妙にカーブをしたあたりに長屋門を構えた塗籠の母屋が外からも眺めることができます。
 
 
 庄屋屋敷と温泉街の間には、神社やお寺が集中していて、石見銀山が栄えていた頃には、住む人も多くその信仰の対象であったのかもしおれません。これらのうち、恵こう寺は、日蓮宗のお寺で天将年間に細川幽斎が連歌の会を設けたことで有名だそうで、道路からも雄大な山門が見られます。また、龍御前神社は、温泉津港に出入りした北前船の守り神として進行を集めた神社で、もともとは神社の背後にある巨岩信仰の信者だったそうです。

 温泉津が積出港となっていた石見銀山は、17世紀前半の最盛期には世界の銀の1/3を産出していたと推定されています。しかし、現在では、商業的に成り立つような銀含有量の鉱脈は掘りつくして廃鉱になりました。銀は、大部分が工業用で、かつては写真用に大量に使われましたが、現在はデジカメの普及で写真分野での消費量は減ってきています。IT分野でも銀の消費量は大きく、今後も増えていきそうですが、大部分の銀が回収されることなく使い捨てられるため、世界の銀資源は窮屈になっているそうです。かつて、写真を現像した後に使う定着液には多量の銀が溶け出していたので、回収して再利用されましたが、レアメタルと同様に、電子機器から銀をリサイクルしなければならなくなるのではないでしょうか。
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ドゥブロクニクの城壁からは赤い屋根のつらなりの向こうに真っ青のアドリア海に浮かぶクルーズ船が望めます(クロアチア)

2018-10-21 08:00:00 | 世界遺産
 かつての城壁の中のメディナは迷路になっているのがチュニジアの首都のチュニスの旧市街でした。一方、中国の城壁都市では内部が碁盤の目のように道路が入り巡らせています。かつての都であった西安(長安)や世界遺産の平遥古城などです。この伝統が我が国の平城京であり平安京でした。そうすると今回は、中国の城壁都市のどこか?・・ではなくヨーロッパです、クロアチアの城壁都市のひとつドゥブロクニクを取り上げました。

 
 
 ドゥブロクニクは、クロアチアの南東の端、少し南東に行くとモンテネグロに、逆の北西方向にはボスニアです。このボスニア領が海岸まで張り出していて、首都のザグレブを含めてクロアチアの他の都市に陸路では行けない、いわば陸の孤島状態です。旧市街は、500m四方程度の広さの周りを城壁が囲み、何か所かの階段から城壁の上に出ることができ、町の周りをぐるりと一周することができます。城壁の2/3以上は海に面していて、陸との接点は少なく、アドリア海に突き出たこぶのような形をしています。この海との接点は、町の東側で、ヨットハーバーのような小さな港で、大型船は接岸できず、クルーズ船は沖合に停泊していました。筆者は、イタリアのバーリからフェリーで移動したのですが、フェリーの着く港は旧市街から西へ2kmほど離れた湾の奥になります。

 
 その歴史は帝政ローマまでさかのぼるとされ、海洋貿易によって発展した都市の一つです。特に、15~16世紀にはアドリア海のを取り巻く都市国家の中でヴェネチアと対抗できる力を持っていたようです。巧みな外交と富によって戦争をすることなく発展をしましたが、敵から都市を守る城壁を作ることは忘れていなかったようです。さらに1970年代には非武装化をしたのですが、皮肉なことにそれから20年ほど後のユーゴ崩壊による内戦でセルビア・モンテネグロから攻撃を受けて多大の損害を受けました。筆者が訪問した時には、ドゥブロクニクのす裏山のロープウェイの駅は廃墟状態で上る事ができませんでした。ここはドゥブロクニク全体を見下ろすことができる絶景ポイントなのですが、ここに敵が陣取って、砲弾を浴びせたそうで、見晴らしが良いということは、攻撃にも絶好の場所だったわけです。

 
  
 旧市街への入り口は、北東と北西の二か所で、空港からだと北東のプロチェ門、新市街jからだと北西のピレ門からになります。ピレ門から入ると広場がありその中央にはオノフリオの大噴水があります。周りに彫られた人面の口から蛇口になっています。

 
 左手にはフランシスコ会修道院で、外の喧騒が嘘のような静かな中庭が落ち着きます。

 
 
 
東に延びる広い通りがプラッツア通りでドゥブロクニクのメインストリートです。この通りを東に進むと、ルジャ広場の周りに旧総督邸、スポンザ宮、ドミニコ会修道院、大聖堂など大きな建物が集中しています。旧総督邸の前には衛兵が立っていて、交代のセレモニーもあるようです。

 

 
 
 
 
 城壁に上る入り口は三か所で、そのうちの一つがドミニコ会修道院の裏にあります。城壁に上ると、内部には赤い屋根の家並が続き、南側には真っ青のアドリア海が広がります。教会などの名所も見どころですが、城壁から眺める民家の家並も素晴らしい景色です。どこかの国では日常になっている景観を乱すような建物が無いことも素晴らしいです。もともと、この城壁は外敵から町を守るために作られたものですから、要所要所には要塞が建てられています。さすがに、見晴らしの良さそうな場所で、円筒形や四角な建物に小さな窓が開いてにらみを利かしています。

 ドゥブロクニクとバーリ以外にも、イタリアからアドリア海を横断してクロアチアとを結ぶフェリーが運航されています。高々200~300km程度ですがその割に時間がかかるのは夜行故でしょうか。寝ている間に対岸に着いてしまい、効率の良い旅ができ、シャワー付きの個室を利用しても、日本の運賃と比べて随分と安いようです。ただ、困るのは朝早くに到着すると、両替ができないことでした。当時クロアチアはEU二は加盟していなくユーロとの両替が必要でした。すべての支払いがクレジットカードで可能ならば、両替といった面倒なことは必要ないのですが。これだけネットが発達し無線でも自由に情報が飛ばせるので、そのようなインフラを作ってほしいものです。そうなれば、スイカなど、無利子で\500ほどを強制預金させる利権の塊のようなカードも亡くなってしまうのですが。


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温泉天国の別府ですが、レトロな町並みの散歩もお勧めです

2018-10-14 08:00:00 | 日本の町並み
 かつての武庫離宮は現在須磨離宮公園となって神戸市民の憩いの場になっていますが、この武庫離宮は大谷光瑞の別邸の一つを買い上げて離宮としたものでした。大谷光瑞は、浄土真宗大谷派22代法主でしたが、宗教活動以外にもいろいろな面で活躍し、政治面にも手を染め戦後はソ連に抑留、帰国後も公職追放され、翌年に別府で没しました。その屋敷跡は、鉄輪温泉にあり現在は大谷公園となっているようです。今回は、温泉だけでない別府の顔を紹介したいと思います。

 
 
 
 別府はご存知、大分県の県庁所在地の大分市の北隣の温泉都市です。町の至る所に温泉が湧いていて2,300か所以上の泉源は全国の泉源数の1/10を占め一日の湯量12万㎘㎘も日本一を誇っています。別府に行くと地獄巡りのツアーバスがありますが、この観光バスを初めて運行したのが油屋熊八で、別府駅の正面に銅像が建っています。別府地獄めぐりは、間欠泉の龍巻地獄を初め血の池地獄、坊主地獄、山地獄、明礬地獄などを回るようです。別府の地獄は、作り物が多くて、何とはなしに不自然という評判もありますが、種類の違う泉源を見て回れるのは悪くないとも思います。観光バスの訪れる対象ではありませんが、市内には多くの共同浴場があって、なかなかレトロな風合いを残しています。

 レトロと言えば町中にレトロな雰囲気が残り散歩コースは大きく2種類あり、JRの線路の西側と東側に分かれています。山側の西側は山の手レトロ散歩、海側の東側は路地裏散歩というような名称で呼ばれているようです。

 
 
 
 山の手のコースのスタートは京大地球熱学研究施設です。大正年間に建てられたレンガ色の建物で、中央の塔に時計があれば京大本部の時計台記念館と似ています。京大地球熱学研究施設と道路を挟んで建っているのがB-CONプラザのグローバルタワーで、他ではあまり見かけないデザインのタワーです。巨大なジェットコースターの一部を切り取ったようにも見えます。このプラザのしきアルゲリッチ・ハウスで毎年開催されるのがアルゲリッチ音楽祭で、世界的なピアニストの名前を冠したコンサートです。ビーコンプラザの竣工時に別府市長が「世界に発信する場を」と伊藤京子を経由して呼びかけたのが始まりだったようです。そこから別府公園の西を南に、野口原五輪塔群、報国丸マストの遺構の南には聴潮閣がありますが、現在は閉館中で門などが見られるだけです。

 
 
 ここから東に向かうと公会堂の裏にでます。公会堂は昭和初期の建物で、途中でいろいろと手が加えられたようですが、2014年に当初のデザインに復元され、添乗の伝統や、廊下の突き当りのステンドグラスなどが目を楽しませてくれます。ここから、北に曲がり、駅の西口からの通りを横切って行くと旧野口病院本館です。大正年間に建てられた木造モルタルの2階建てで、東側の中央に赤いとんがり屋根の陶冶があります。現在病院は、他の場所に移転して、この建物は管理棟として使われているようですが、とても病院とは思えない素敵な建物です。

 
 
 一方の路地裏散歩は、別府駅の東口をスタートです。東口を海岸方向に少し行くと右手に駅前高等温泉があり、大正時代に建てられたレトロな建物が目に入ります。銭湯というより、小さなホテルかレストランのような感じです。さらに、海方向に歩き、海岸沿いの国道10号の近で南に入ると竹瓦温泉で、昭和初期に建てられたからは封を持つ堂々たる建物です。どこか、道後温泉の温泉本館の建物にも似ているような気がします。南に行くと、日本最古のアーケードの一つである竹瓦小路アーケードがありますが、行った時はシャッター通りの状態でした。

 
 
 
 
 アーケードを通り抜けて西に行くと松下金物店の看板建築があり、少し戻って南に折れると旅館の建物を転用した隠れ家カフェのアホロートルが古風なたたずまいを見せています。さらに南に行き一筋西の道には長寿味噌の昔風の店屋があり、筋向いには電話局を転用したレンガ色の児童館があります。旧電話局の角を西に入ると別府カソリック教会の建物があります。現在の聖堂は、フランスのルルドにある教会を模して1950年に建てられ、ステンドグラスも美しい教会です。庭には岩の祠にマリアの像があり、ルルドでマリアの出現があったことを象徴しているのでしょうか。

 温泉には、お湯だけでなく噴出ガスがつきものです。炭酸ガスだけでなく硫黄系の亜硫酸ガスや硫化水素が噴き出ている温泉も多いのですが、これらのガスは人体に有害なだけでなく、電子機器にも有害なのです。金属類が、これらのガスに触れると錆びてしまって、接触不良だけでなく電子回路が乗っている基盤を壊してしまいます。携帯やスマホなどが短時間にこれらのガスに触れるだけでは問題は無いのでしょうが、温泉地の住宅に置かれた電子機器では問題になることもあるようです。電子回路だけでなく、人間にもよくないと思うのですが、有毒ガスの濃度を検出するのも電子技術のセンサなのです。
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