世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

パリのノートルダム大聖堂の火災は9.11と同じく世界を驚かせた映像でした(フランス)

2019-04-21 08:00:00 | 世界遺産
 パリの象徴のようなノートルダム大師堂が火災に遭いました。今回は、予定を変更して火災に遭う前の画像を中心にあらためてノートルダム寺院を紹介します。

 
 
 ニュースなどの映像を見ると、尖塔は崩れてしまいましたが、聖堂の壁などは石造りのためか大部分が残り、身廊の屋根が抜け落ちたのが最大の被害のようです。大統領は5年で修理と豪語していますが、修理を急ぐあまり、大切な文化的な情報を失わないか心配です。火災後の映像を見ると、屋根が焼け落ちた瓦礫が身廊に降り注いで、祭壇までかなりひどい状態で、バラ窓側で火災を免れたパイプオルガンも消火のための水や煙、炎を浴びていて修理が必要ではないかと言われています。大聖堂の修理のための失火が原因というのは皮肉ですが、我が国の法隆寺の金堂壁画を保存のために模写を行っていた時に電気座布団が原因で火災に見舞われたことを思い起こします。

 
 
 ノートルダム大聖堂は、1163年に建設が始まり、ファサードの両塔が完成したのが1250年で、さらに飛び梁が完成するのは1345年すから、建てるのにほぼ2世紀の時間がかかったことになります。建っているシテ島はパリの発祥の土地で、ノートルダムが建つ前にはバシリカが建っていたそうです。現在の聖堂は長さ128m、身廊の高さが33m、幅が13m、南棟の高さは63m、焼け落ちた尖塔は93mありました。

 
 ロマネスクの影響を一部残しながらも、初期のゴシック様式で建てられ、側廊の外部は多数の飛び梁で支えられています。外壁の柱の上には怪物が大口を開けて周りをにらんでいます。これらの様子は実物でうまく写真に撮れなかったので、東武ワールドスクエアの模型を撮った写真を載せておきます。

 
 
 
 ゴシック様式は、壁で建物を支えるロマネスク様式に比べて、壁の開口部を大きく取れ、見事なステンドグラスが窓を飾っています。一方、正面のファサードを飾る彫刻は、ロマネスクの雰囲気があって、物量もすごく、見ていて飽きません。

 ノートルダムとは「われらの貴婦人」の意味で聖母マリアを差します。火災に遭ったパリの大聖堂が有名ですが、同じ名前の大聖堂が沢山あります。フランス国内で世界遺産に登録されている聖堂だけでも、ランス、シャルトル、アミアン、ルーアン、ストラスブール、アヴニョン、ル・ピュイとあり、他にもベルギー、ルクセンブルグ、カナダなどのフランス語圏にちらばっています。

 最初にノートルダムを訪れたのは30年以上も前で、GW中であったのも関わらず入堂に行列した覚えがないのですが、最近訪問すると長蛇の行列だったのは驚きです。アジア系の観光客が行列の中に目立ちました。また、最初に訪問したの時には、壁がやけに煤けていたのが綺麗になりました、その間に洗浄したのでしょうか。今回の火災で、また煤けてしまったかもしれません。

 今回の火災では、一度火災報知器が作動し、確認をしたけれど火災を発見できなく、二度目の通報では手遅れだったと言われています。いろんな文化財の防火や防犯のセンサ設置は、費用との兼ね合いもあってなかなか行き届かないと言われています。各家庭への火災警報器の設置が義務付けられていて、数多くの感熱や煙センサが作られているのですからセンサのコストは下がってると思うのですが。それとも、文化財などに設置されるものは、競争下で決まる価格ではなく不透明な価格設定がなされているのでしょうか。
コメント

面倒な手続きが要らなくなった京都御所は思い立ったら一度は訪れてみたいところです

2019-04-14 09:20:00 | 世界遺産
 魚ん棚の魚屋の商店街の近くには源氏物語の「明石」の帖の舞台であったという小道が残っているのが明石でした。源氏物語は、皇室を舞台とした大長編小説ですが、平安時代から連綿と続く皇室の住まいは京都御所で、京都の人に言わせると東京の皇居は御所ではないので仮住まいとも言われるようです。今回は、この京都御所を中心に紹介します。

 現在の御所は、東西を烏丸通と寺町通りの間の700mと南北を今出川通りと丸太町通りに挟まれた1.3kmで囲まれた京都御苑の中心にあります。現在の御所の位置は14世紀(室町時代)頃からのもので、紫式部の生きた平安時代には、もっと西の今出川通りに面していたそうです。京都御苑は、天皇家を取り巻く公家屋敷が建ち並んでいた場所で、明治と共に天皇に連れだって東京に引っ越し、現在のような広大な公園が残ったわけです。

 
 京都御苑と通りを隔てて北に残る上冷泉家は、これらの公家屋敷の唯一の名残かもしれません。現在の御苑内には、京都御所の他に2004年に開館した京都迎賓館や、仙堂御所、京都大宮御所があり残りはテニスコートなどの公園になっています。このうち京都御所は、京都御苑のおよそ1割ほどの広さで、周りを築地塀で囲まれています。



 
 
 
 かつての京都御所は、春と秋の一般公開以外は事前の申し込みが必要でした。桂離宮や修学院離宮ほど敷居は高くはありませんでしたが、皇居の東御苑と同じような状況になって身近になりました。参観は建物を外部から眺めながら順路に沿って一巡するので、内部は廊下越しなどで見える範囲だけです。建物の中心は紫宸殿で、天皇関連の儀式が行われた御所の正殿です。建物の前には、左近の桜と右近の橘が植わっていて、お雛様飾りと同じです。この左右は逆のように感じますが、これは紫宸殿に居る天皇から見ての左右で、建物に向かってではないからです。これと同じことが、左京区と右京区で、現代の地図は北を上にして描かれるので東山の方が右京のように思います。ところが、これも南面している天皇から見ての左右で、東山の方が左京になります。

 紫宸殿以外にも、清涼殿、春興殿、小御所、御学問所、御常御殿などの建物を参観できます。



 
 清涼殿の前には桜と橘ではなく、呉竹(くれたけ)と漢竹(かわたけ)と2種類の竹が植えられ、こちらも中国のしきたりに沿っているのだそうです。

 
 小御所と御学問所の間には蹴鞠の庭があり、前方には池泉式庭園の御池庭があります。

 
 さらに、その北の御常御殿の前には小ぶりの御内庭がります。御池庭の池には州浜があり、開放的な感じがしますが、御内庭の方は、木が多くて雰囲気が全く違います。

 左京区と右京区とが現在の常識とは逆になっていますが、北を上にして地図を描くのは16世紀ごろから既成事実になったようです。これにはいろいろな理由があるそうで、2世紀に活躍したギリシャのプトレマイオスに起源があるとか、北極星が天測に利用されたからとか・・・。地図を見ながら、目的地に行けるのは、日本人以外には難しいようで、外国でタクシードライバに地図を渡して目的地を指示しても、無理だそうです。ただ、地図を片手に散歩をするときには、常に北を上にして持つより、現場の方位に合わせた方が直観的です。自動車のナビゲータも、車の進行方向を上に表示するようになっています。GPS利用のスマホの地図も、表示を回転できますが、頼りすぎると日本人も地図をみて目的地に行けなくなるかもしれません。
コメント

フロム鉄道はオリーブグリーンの車体で周りの緑と一体化して地味ですが、車窓の景色は滝の連続で華やかです(ノルゥエー)

2019-04-07 08:00:00 | 世界の町並み
 マッターホルンの観光基地で自働車の乗り入れが禁止されている町がツェルマットでした。ツエルマットまで走る氷河急行のもう一方の終点はレーテッシュ鉄道のサンモリリッツですが、このレーテッシュ鉄道は、スイスの登山電車では珍しくラックレールがありません。我が国の箱根登山鉄道も80‰という急坂を上りますがラックレールを使わないことから、この二つの鉄道は終い鉄道の関係を結んでいます。勾配を緩やかにするために、ループ線やスイッチバックが各所に設けられています。一方、標高差が900mほどもあるフィヨルドの谷底に岩肌に張り付くように走るフロム鉄道もラックレールは使っていません。今回は、ノルウェーのミュルダルかとフィヨルドの最深部にあるフロムとを結ぶフロム鉄道周辺を紹介します。



 
 
 フロム鉄道は、ノルウェー国鉄のベルゲン線の支線として、建設され1998年に民営化されたものです。線路は現在もノルウェー国鉄が所有するので、ベルゲン鉄道は二種鉄道事業者ということになります。ノルウェーの首都オスロからベルゲン急行でおよそ5時間で乗換駅のミュルダールに着きます。途中列車は北欧の鉄道で最も高い地点の一つ標高1,237mのハルダンゲル高原を通りますが、さほど高くないわりに緯度が高いので夏でも白銀の世界です。ベルゲン急行は、真っ赤な機関車と客車で緑の中を走ると映えます。一方の、フロム鉄道は、日本のトワイライトと似たオリーブグリーンで、客車の内部は木を多用し赤が基調のレトロスタイルです。

 
 
 
 
 フロム鉄道の列車は、急坂の路線のために前後に電気機関車がついてプッシュプル運転をしています。坂道に有利なだけでなく、終点で機関車の付け替えもいりません。全線単線なので、途中で対向列車と交換する場所が設けてられています。車窓からの風景は、断崖の連続で、の断崖に無数の滝があります。途中のショース滝には、観瀑台があって、しばらく列車が止まります。乗客が下りてきたのを見計らって、滝の中間あたりのテラスに滝の精のような格好をした人が現れる演出があります。

 
 
 やがて、視界がひらけて平地が見えてくると終点のフロムです。フロム駅のすぐ隣は、フィヨルド観光の船が接岸している岸壁です。フロムには、鉄道の駅と船着き場以外に、断崖が海に落ちる手前に少しある平地にホテルやレストランがひしめき合っています。フィヨルド観光船に乗ると、もっと狭い平地しかなく、後方の断崖にも道らしきものが無い場所に人家を見があって、寄港もします。おそらく、船が唯一の外部との連絡手段なのではないかと思います。西表島でも、船でしか行けない集落が存在しますが、こちらは陸路がジャングルに阻まれているようです。

 フィヨルドは、ご存知の通り氷河期に氷河が大地を削り取った後に海水が入り込んだものです。ノルウェーの海岸の専売かと思ってたのですが、南米のチリやニュージランドにも多くのフィヨルドがあります。これらは緯度の高いところですが、緯度の低いところにも意外ですがあり、世界遺産にもなっているのがモンテネグロのコトル湾です。北緯42度というと函館くらいですが、南欧と呼ばれるヨーロッパの暖かい地方より南になります。現在の地球は間氷期で、温暖化と言っても、つかの間の暖かさで、また氷河期がやってくるかもしれません。地球規模環境シミュレータというスパコンシステムがあり、地球温暖化や近く変動などのシミュレーションに使われ、ベクトル演算用スパコンとしては世界最高速の計算機の一つです。現在の天気予報は、このシステムの流れをくむスパコンを用いていますが、明日の予報もよく外れるシステムが、温暖化や氷河期の再来などの予測って大丈夫でしょうか。
コメント

源氏物語の舞台にもなった明石ですが、魚の棚にぶら下がっている足を広げたタコにはギョッとします

2019-03-31 08:00:00 | 日本の町並み
 日本標準時の子午線の通る位置に天文科学館がある町が明石でした。明石城や科学館のあるのは、JRや山陽電車の線路の北側ですが、線路の南側にも西国街道の名残や源氏物語ゆかりの場所があります。今回は前回に続き明石の町を取り上げますが、線路の南側を紹介します。

 
 前回に紹介の、天文科学館の東側の道を南に下ると山陽電車の人丸前駅の西側、高架を通り越したあたりに両馬側旧跡の比があります。一の谷の源平の戦いの後、敗走する平忠度に岡部六弥太が追い付いて二人の乗る馬が川を挟んで対峙した場所だそうです。線路の北側にはなるのですがやはり源平の合戦の時に平経正が討ち取られ乗っていた馬を埋めたという馬塚もあります。

 
 
 さらに南に行くと国道2号線で、国道を東に行くと稲爪神社で、素っ気ない神社ですが推古天皇の頃ですから6世紀の創建です。朝鮮半島より来襲した敵を討ち取るため大山祇に祈ったところ稲妻と共に神が現れた場所に社殿が作られたのだそうです。国道を横切って南に行くと旧西国街道で、街道沿いには出格子をはめた古民家が残っています。西国街道がクランクになっている所の項番のそばには、子午線表示柱なる石柱が立っています。さらに南に突き当たると中崎公会堂で明治期に建てられた内部空間の大きな公会堂が存在感を示しています。

 
 公会堂から西に駅の方に戻ります。明石駅の南側にある商店街が魚の棚、地元では「うおんたな」と読みます。全長は350mくらいですが、名前の通り魚屋さんが多く、中でも明石のタコを売る店が目立ちます。年末には、東京のアメヨコのようにお正月の準備の買い物客でごった返します。また。最近はくぎ煮が有名になり、春先には材料のいかなごの買い物客の行列ができます。

 
 
 魚の棚を西に通り抜けて明石川の近くを南に曲がり、しばらく行くと源氏物語の「明石」のゆかりの場所に出ます。その場所には蔦の細道と、その先には無量光寺が建っています。蔦の細道は、光源氏が明石の上野基に通ったロマンの道と言われていますが、なんとも素っ気ない道ですが、角の祠に祀られているお地蔵さまが微笑んでいました。一方、無量光寺は光源氏の月見の館の跡と言われているお寺で、こちらも素っ気ない感じがします。

 源氏物語は54帖からなる長編小説で、各帖ごとに主人公の光源氏の相手が変わります。明石の上の登場するのは13帖で、、書き出しからまだ1/4程度の部分になります。源氏物語にゆかりのものが沢山ありますが、その中に源氏香という香道の遊びがあります。香を5回嗅いで、そのうちのどの回が同じ香であったかということを当てるものです。この組み合わせの種類数が54になるの源氏香の名前が付けられました。参加者は、解答用紙に描かれた5本の縦棒に、同じ香と思う部分を横棒で結んで提出します。それぞれの組み合わせに、源氏物語の各帖が対応していて、回答を競うだけでなく、該当する源氏物語の帖に思いをはせる優雅な遊びのようです。ちなみに明石の帖は右のような図柄になります。人間の嗅覚は犬とは比べようもありませんが、これだけITが進んでも嗅覚に対するセンサは、まだまだ開発途上のようです。
コメント

京都の世界遺産は個々の寺社だけでなく、町並み全体を世界遺産にしてもよいかもしれません(日本)

2019-03-24 08:00:00 | 世界遺産
 都から遠く離れた平泉に独自の文化を築いたのが奥州藤原氏でした。結局、新興勢力の源頼朝に滅ぼされ4代で平泉文化は消滅してしまいました。奥州藤原氏は、遠くにある京の文化にあこがれて、短期間に小京都ではなく京に負けない都市を作ってしまいました。ただ、本家本元の京都は、平安遷都から1200年以上も京文化の中心として、いまだ健在です。今回と次回は、この京文化の具現として世界遺産に登録された「古都京都の文化財」を紹介します。今回は、京都市中心部にある文化財を、次回は周辺部を取り上げます。

 京都の世界遺産への登録は17の社寺と城郭で、そのうち京都市の中心部には、6つの寺院と城郭があります。ここでは、北にある文化財から順に紹介します。

 
 市街地の北西に位置すのが金閣寺、室町幕府三代将軍義満が建てた寺ですが、この金閣は正式には鹿苑寺舎利殿で室町前期の北山文化を代表する国宝建築でした。しかし、渋金の金閣に、見せられた若僧の放火によって焼失、5年後に現在の金ぴかの金閣が完成しました。勿論、現在の金閣は文化財としては無指定ですが、金閣を取り巻く回遊庭園や北条の庭など昔のままと思われる風景が楽しめます。外人や修学旅行生には、最も人気のある施設の一つと言えます。

 
 金閣寺と対をなす銀閣寺は市街地の北東の隅にあって、室町幕府町代将軍義正が建てた寺で、正式には慈照寺観音殿で、東山文化を代表する国宝建築です。こちらは、室町建築が健在ですが、銀閣の名称で呼ばれますが、銀箔を張られた痕跡すらありません。銀箔が張られなかった理由は諸説あるようですが、室町幕府も八代将軍の頃には財政事情が悪くなって銀どころではなかったという理由になるほどと思います。ただ、こちらには、茶室の原型となった東求堂も国宝建築で、文化財の価値としては金閣より上のようです。

 
 現在の京都市街のほぼ中央の西に位置するのが二条城で、御所の南西1kmほどの場所です。徳川が天皇を監視するのに程よい距離だったのでしょうか。広さは500m四方程度ですが、国宝の二の丸御殿や重文の本丸など文化財がぞろぞろあります。、天守は落雷によって失われ、現在は天守台が残るのみです。天守にとって強敵は、対抗する大名ではなく雷だったのかもしれません。江戸城も天守台だけで、こちらも落雷で天守を失っていますから。京都の七夕では、二条城の東を流れる堀川で灯篭流しなどのイベントがあり、二条城も夜間公開されます。筆者が訪れた時には、二の丸御殿にプロジェクション・マッピングでカラフルな模様が描かれていました。堀川沿いと言えば、現在明治村で走っている小さな路面電車のN電が最後まで残って走っていました。京都駅から北野神社まで、町家の軒先をかすめていて走り、明治村とはまるで違った景色でした。小学校の頃に、廃止直前に乗る機会に恵まれました。

 
 
 二条から下がって次は五条の清水寺です。修学旅行生にとっては金閣寺や二条城と同様にお馴染みかもしれません。舞台づくりの本堂が国宝で、他に三重塔などが重文指定になっています。創建は諸説があるようで8世紀後ののようです。ただ、この本堂は本堂に居ては構造が解らないわけで、迫力のある下から見上げる構図を採るか、泰産寺への道の途中で舞台と対面から遠望するかでしょう。清水寺のある東山界隈は清水への参道の一つの産寧坂や八坂の塔(法観寺の塔)んど、世界遺産にはなっていませんが京都らしい風景のある界隈です。

 
 
 さらに下がって七条の北には東西の本願寺があります。このうち世界遺産に登録されているのは西本願寺で、聚楽第の遺構が威光として光っているのかもしれません。飛雲閣に限らず御影堂や唐門など国宝建造物は7棟、重文に至っては20棟もあり、その数は京都の世界遺産では飛びぬけていて、京都駅のすぐ近くにこれだけの文化財があるのは意外です。南西端に隣接する竜谷大の洋館も立ち寄る価値のある建物です。

 
 さらに南に、最後は九条の東寺です。京都駅より西に在って東寺という名称は不思議ですが、平安京のエリアは現在の京都市街より西寄りだったわけで、現在は残っていない西寺はもっと西寄りの西大路近くに建っていました。官寺としての東寺より、空海後の東密の中心寺院としての文化財が多く残され、講堂には立体曼荼羅として密教系の仏像が須弥壇の上に林立しています。建物の文化財も多く、仏像などの文化財を加えれば、京都市内で最も文化財の多いお寺の一つと言えるでしょう。これらの仏像の一部などが明後日から東京国立博物館の特別展で展示され、細身のスタイルの良さで有名な兜跋毘沙門像も展示されるようです。

 京都に行くと通りが東西と南北に直行していて、よそ者にも分かり易くて助かります。その真逆が、農道がそのままメインの道路になってしまって、方向感の読めない東京かもしれません。、ただ、もっと進んでいるのが大坂で、南北が筋、東西が通という名称で分かり易くなっています。地理が分かり易い京都ですが、春秋に訪れると、道路がが渋滞で大変になります。市バスは大混雑で、途中のバス停で待っていても、満員通過です。バス停には、バスの接近を知らせる案内板はありますが、満員通過では用をなしません。バス停の方にも、待ち行列のセンサを付けて、混雑に応じてオンデマンドで運行してほしいものです。特に最近は、アジア系の観光客が増えてひどくなりました。勝手の分からない彼らのために、停車時間が長くなり、余計に団子運転になり混雑します。イギリスでは、通常の運賃を高くし、手間のかかりコストがかかる観光客などは、この運賃を負担させ、一般市民にはいろんな割引制度を準備しているようです。そろそろ、悪平等や止めて、コスト見合いの費用負担を考えるべきではないでしょうか。
コメント

日本標準時の子午線がとおる明石には、城跡だけでなく宮本武蔵や柿本人麻呂の名前の付いた遺構もあります

2019-03-17 08:00:00 | 日本の町並み
 秀吉の頃に播磨から有馬温泉に通ずる街道として整備され江戸時代には宿場町であったところも、現在では人通りの見かけに集落になってしまったのが淡河でした。有馬温泉には、秀吉のおひざ元の大坂かkら六甲の裏を廻る街道もあったようですが、湯乃山街道の名前が残るのは明石あたりの播磨地区から三木あたりを東北東に横切っていく街道です。明石には標準時の子午線が通るからというわけではないでしょうが、今回はこの日本標準時子午線が通る町の明石の子午線の周辺を紹介します。

 日本の標準時は東経135度に太陽が南中する時刻で決められています。この東経135度の子午線が通過するのが明石で、その子午線上に天文科学館が建ち、日本標準時子午線表示柱なのです。ところが、この東経135度という線、実は2本あり、天文科学館の建つのは天文経度の135度上で、地理経度の135度は西に120mほど西にずれています。このずれは、地球の形が真球ではなく楕円球のためで、天文経度は重力線から決められた南を太陽が通過する時間で決められ、地理経度は、地球を北極と南極を通る面で切り取った時にできる面とグリニジを通る面との角度で決められます。

 
 
 
 JRや山陽電車の明石駅の北側には、旧明石城の石垣や櫓があり、その南には公園が広がります。公園の入り口付近にはとき打ち太鼓の遺構があり、公園の中には武蔵の庭なるものがあります。さらに、標準時の町とお城とをあわせもつことから、兜と槍とを組み合わせた日時計も作られています。公園からは明石城の石垣の上に2つの櫓が望めます。明石公園とJRの線路との間には堀があって、その堀の南西角あたりには旧織田家長屋門があります。現在の場所から西に1kmほどの旧船上城の門を移築したと言われています。明石公園を抜けて、明石城の石垣の間を上って櫓まで行くと、足元には明石の町並み、その向こうには淡路島、そして東には明石架橋が望めます。

 
 
 
 明石城跡の東側には、小高い丘の上に寺や神社、それに教会まであります。明石城の本丸跡を東に行くと明石博物館の裏に出ます。東に坂を下って広い通りの向かい側の道を行くと、大聖寺で、本堂の上に日蓮の像が立っています。その隣は上ノ丸教会で、さらに行くと妙見社の南側にでます。元は本松寺の鎮守社で、神仏分離で神社になっていますが、どことなく御寺っぽい建物です。道は右に曲がって、本松寺があり、本堂の裏に庭園があります。

 
 
 
 本松寺の角から急な石段を上ると月照寺で、本堂の左手には石庭風の庭が作られています。月照寺の住職が夢野お告げを受けて柿本人麻呂を祀るために人丸社を作り、これが現在隣にある柿本神社です。こちらも、明治の神仏分離の際に神社とお寺に分かれました。月照寺と柿本神社の間の向かい側には標準時を示すトンボの標識があり、その向こうのがけ下には天文科学館があります。また、柿本神社の東側の参道を天文科学館の東を通る道路側に降りて、北に行くと人円山公園で、こちらには「時のふるさと明石」の群像が建っています。

 時刻の標準は、地球の自転から決められましたが、現在は国際原子時計の刻む時刻が世界の標準となっています。これは、地球の自転速度が微妙に揺らぐためですが、原子時計の時刻が地球の自転が示す時刻と乖離しないため、何年かに一度うるう秒を挿入したりして調整をしています。一方、長さの基準は、メートル原器から、真空中を光が一定時間で進む距離に置き換えられています。さらに、質量は最後までキログラム原器が使われてきましたが、昨年の秋にプランクの定数を基にした基準に置き換えられました。これらは、まず日常生活には影響をしませんが、厳密性を必要とする物理などの議論では重要な定義変更になるそうです。とこrで、国際原子時計の精度ですが、1億年に1秒以内なのだそうですが、誰が測ったのでしょうね。
コメント

ガソリン車が乗り入れないツェルマットの道路をヤギの大群が闊歩していました(スイス)

2019-03-10 08:00:00 | 世界の町並み
 敦煌には仏典を運んできた白馬を鳩摩羅什が弔ったと言われる白馬塔がありました。当時は、広大な砂漠の移動にも歩くか、せいぜい馬に頼ることしかできなく、排気ガスは出さない自然に優しい移動だったわけでしょう。世界の観光地で内燃機関の車の乗り入れを禁止している所は意外に多く、アメリカでは、映画「ある日どこかで」の舞台になったマキノー島が有名で、スイスには、いくつかの観光地で禁止されています。今回は、これらの中で、マッターホルン観光の基地の一つツルマットを紹介します。

 
 
 ツェルマットは、スイスの南西部、マッターホルンやモンテローザの観光基地ですが、それらの峰の向こうは、もうイタリア領です。ブリークから南進をしてきたマッターホルン・ゴッタルド鉄道の終点で、サンモリッツからオーバーアルプ峠を越えてきた氷河急行の終点駅でもあるのがツェルマット駅です。車で来た観光客は、ツェルマットの手前のテッシュで車を駐車場に停めて、テッシュ駅で鉄道に乗り換えてツェルマット駅まで行くことになります。ツェルマットの中は電気自動車や馬車の実が走れ、ガソリン車は緊急車両など、特別に許可された車両だけです。町中の道路には、電気自動車や馬車や歩く人間だけでなく、時折ヤギの集団が通り、まるでアルプスの少女ハイジの世界です。ヤギの行進する道路沿いのホテルの窓からは、マッターホルンが望め、居ながらにして、太陽の動きによる色合いの変化も楽しめます。

 
 ツェルマット駅周辺は、窓に花鉢が並んだ綺麗な山小屋風のホテルなどが建ち並んでいますが、少し離れた場所には木造の倉庫群があります。食糧倉庫は石の基壇の上に建ち、これは鼠返しなのだそうです。16世紀ごろに建てられたものだそうで、冬場は羊小屋になるものもあります。これらの倉庫の窓も花鉢で飾られていました。

 
 
 
 ツェルマットは言わずと知れたマッターホルンの観光基地で、ここからマッターホルンまで登山をする人、マッターホルンの肩の部分までハイキングをする人なども居ますが、ほとんどはゴルナーグラートまで登山電車で上って景色を眺める観光客です。このゴルナーグラート鉄道の終点からは、ツェルマットの向こうにマッターホルンが見えますが、北壁が良く見えないようです。また、この鉄道は混雑することで有名で、乗車できるまで随分と待たされます。筆者は、このルートを避けて、ロートホルンに上ることにしました。こちらは、地下駅を走るケーブルでスネガまで登り、ここからロープウェイに乗り継ぎます。頂上は、ゴルナーグラートより高く、北にあり、マッターホルンの北壁も良く見えます。何より良いのは、このルートは、なぜか空いているのです。頂上駅の近くには、高山植物らしい花々が咲いていました。

 現在の電気自動車は、随分と性能が良くなって、一家の充電で何百kmも走れるようになりました。バッテリーとモータで動く自動車の歴史は意外と古く、ガソリン車より早くに製造されたようです。ただ、電池の性能などの問題から、その後はガソリン車が大勢を占めたようです。最近の蓄電池の性能向上は素晴らしいもので、モーター駆動の飛行機も出現しそうな勢いです。ただ、電池の充電時間が長いことから、次世代の本命は燃料電池という議論もあるようです。電気自動車は自然に優しい、と言われますが、原発を止めてしまって、火力発電ばかりの現状では、化石燃料を燃やす場所が変わっただけなんですね。
コメント

有馬温泉への街道の宿場町として栄えた淡河ですが、今はひっそりとして人影も見当たりません

2019-03-03 08:00:00 | 日本の町並み
 三田から三木を経由して北播磨への街道筋の宿場町として繁栄し、現在は取り残されたような集落が吉川でした。吉川から谷筋を一つ南にある集落が淡河(おうご)です。吉川は三木市の一部になっていますが、その吉川が合併の直前までになってご破算になった神戸市ですが、淡河は神戸市の北西端になります。今回は、吉川同様に、時間が止まって取り残されたような淡河周辺を紹介します。

 
 
 
 
 吉川が中国道の通る谷筋でしたが、淡河は山陽道が通る谷筋になります。淡河の集落は、山陽道の南を道場から西へ三木に抜ける県道38号線沿いに広がっています。かつてこの県道は、播磨から有馬温泉に通じる湯乃山街道の名残で、淡河は街道の宿場町として本陣も置かれました。道の駅淡河の東100mほどで、旧街道が38号から北に分かれて少し行ったところに旧本陣跡が残されています。この旧本陣跡の村上家は、老朽化が進んだために改修されて、町のコミュニティ・スペースとして利用されているようです。428号線との角の所に、湯乃山街道淡河宿本陣跡の石柱が立っています。 旧街道を西へ、38号線と再合流するあたりにかけて、土蔵造りで板壁の古民家や茅葺の農家が点在しています。筆者が訪れたのは8年ほど前ですが、現在の様子をgoogleで見ると、土蔵の塀はブロック塀に、茅葺はトタン葺きになってしまったようです。

 淡河は神戸市北区の一部で、中国道のインターチェンジがあるとは言え、吉川と同様に陸の孤島のような場所で、有馬温泉までは17kmほど、神戸電鉄の箕谷駅まででも11kmほどもあり、もちろん集落の中に鉄道は走っていません。公共輸送機関と言えば、路線バスが三木や神戸電鉄の岡場、三田に向けて2時間に1本ほど走っているだけです。陸の孤島と書きましたが、伝説によると、この辺りは飛鳥時代には、島ならぬ泡河湖という湖で、徐々に水位が低下し、干拓なども進んで江戸時代には湖は無くなってしまったのだそうです。淡河のさらに南の谷筋に「つくはら湖」という人造湖がありますhが、淡河の谷筋も四方を山に囲まれていて、谷筋の全体が湖でも不思議ではないような感じもします。

 
 古い町並みからは外れますが、東北東3kmほどの淡河町神影には7世紀に創建され9世紀に建てられた重文の三重塔のある石峯寺(しゃくぶじ)があります。鎌倉時代には広大な寺域を誇っていましたが、現在は三重塔の他に重文の薬師堂と本堂があるばかりです。ただ、こんな山の中に、これほどの三重塔があるのは驚きですが、辺鄙なところゆえに建物が残ったのかもしれません。

 本陣は各地の大名が江戸への参勤交代で宿泊した施設ですが、この参勤交代は大人数で行ったり来たり、随分と無駄のように思います。江戸幕府としては、無駄をさせて、諸大名を弱体させるのが目的ですから、無駄は大きいほどよかったのかもしれません。徳川だけに都合の良い政策で、身勝手なものですが、街道や、宿泊施設の整備など、旅行に対するシステムの確立や、情報、モノのの流通を促進したというメリットの副産物を生んだようです。一方、マイナンバーのシステムは、権力機構が国民の財産を始め色々な情報を把握するために導入した、権力に都合の良いシステムですが、全国どこでも戸籍などの証明が取れるという副産物を生んだようです。出先で、住民票が必要になり、困ったのですが、近くのコンビニでマイナンバー・カードで得ることができました。ただ、この便利さは、プライバシーを悪用される温床になる怖さを忘れてはいけませんが。
コメント

平泉の毛越寺あたりは、ほとんど何も残っていませんが栄華の残り香の滅びの美学があるようです(日本)

2019-02-24 08:00:00 | 世界遺産
 平泉の世界遺産紹介の2回目は毛越寺周辺です。中尊寺には諸堂が数多く残されていますが毛越寺にはほとんど残されておらず、毛越寺のお隣の観自在王院は寺院の跡のみで、池と原っぱです。

 
 中尊寺がJRの駅から2kmと離れているのに比べ、毛越寺は駅から西に延びる道が南に曲がるあたり、およそ駅から700mと歩いて行ける距離にあります。手前には、奥州藤原氏2代目藤原基衡の妻が造営した観自在王院の跡があります。奥州藤原氏の滅亡後は荒廃して水田になっていましたが、近年の発掘調査により伽藍の遺構と庭園の修復が行われていますが、大部分は史跡公園の原っぱで奥の方に池があるようです。

 
 一方の毛越寺は、9世紀に中尊寺と共に創建された寺院ですが、その後は荒廃していたものを藤原基衡とその子3代秀衡によって、中尊寺をしのぐ壮大な寺院に再興されました。その後兵火に逢うなどして、大部分の伽藍は消失し、観自在王院と同様に水田化してしまったようです。明治の後半になって、南大門跡の外側に本堂や栗が建てられ、お寺の形態を取り戻し、昭和になり発掘調査により元の壮大な姿が明らかになりました。

 
 
 現在残る遺構は大泉が池を中心とする浄土庭園で、この池の北側に金堂跡などが並んでいます。宇治の平等院を彷彿とするような浄土の世界が広がっていたのではないでしょうか。常行堂のそばには曲水の宴が催された遣水の遺構もあり、平安時代の遺構としては唯一のものです。毛越寺の遺構は、ほとんど何もないところに、大泉が池が広がっているだけですが、何とはなしに滅びの美学を感じます。筆者の学生時代には、毛越寺ユースホステルとして宿泊でき、暗闇の向こうに広がる大泉が池が、かつての栄華をしのばせるように広がっていて印象的でした。

 平泉に繁栄を築いた奥州藤原氏の財源は、大陸貿易と砂金だったそうです。この砂金が金色堂を覆っているんですね。金は宝飾品としてだけでなく、IT分野では、やわらかくて錆びにくい金は無くてはならない金属の一つです。一年間に産出される金のおよそ1/6程度が電子機器に使われるそうです。オリンピックのメダルの材料に、不要になった携帯電話などを改修しようという動きがあり、都市鉱山とも呼ばれました。携帯電話には金だけでなくレアメタルなども沢山使われているわけで、これらが2~3年ごとに買い替えられて捨てられること自体がおかしいのではないかとも思います。
コメント

北播磨と京大坂を結ぶ街道の宿場町の吉川は、高速道のICのある交通要所ですが眠ったような静かな町でした

2019-02-17 08:00:00 | 日本の町並み
 東京などへのベッドタウンとして団地が林立し、作りかけで放置されてお化けマンションまであった鶴川には、昔の田舎も、点在して混在していました。白洲次郎夫妻の武相荘もこのような風景の中に建つ何でもない農家の一つです。白洲次郎は芦屋の生まれで神戸一中を卒業していますが、白洲家の墓は神戸や芦屋から六甲山を裏に越えた三田の郊外の心月院にあります。この辺りは、田んぼの広がる平地に、ぽつぽつと岡が点在し、神戸市へ流れ下る川と三木を経由して明石に流れ下る川沿いに町並みが伸びています。今回は、心月院から西へ、三木に延びる川ぞいに古くから栄えた町の一つである吉川(よかわ)町を紹介します。

 吉川町は、現在は合併によって三木市の一部となっています。神戸市の北、三田市の西、三木市の東とといった場所なので、何れの市と合併しても不思議ではなく、現に神戸市への編入の動きもあったようです。ただ、この案は、内定まで進んだものの県の横やりで実現しなかったのだそうです。一方、吉川へのバスの運行は三田とのつながりが深く、この面から三田との考え方もあったようですが、行政の接点がなくこの案も実現しなかったそうです。

 
 
 
 吉川と書いて「よかわ」と読む地名はちょっと無理があるようにも思えますが、中国道の吉川ICがあることから、全国的に知名度が上がったのかもしれません。歴史的には、北播磨と京都と大阪を結ぶ街道の大坂道の宿場町として栄え、現在の県道17号線は旧大坂道に沿って伸びています。古い街並みは、稲田村と呼ばれた地区の旧街道沿いに、土蔵造りに板壁や格子のある古民家がひっそりと残されています。

 
 
 日本酒の原料として有名な酒米に山田錦がありますが、吉川はこの山田錦発祥の地とされていて、山田錦の館という施設もあるようです。江戸時代から明治にかけての頃に、吉川から伊勢参りの際に酒造りに適した稲を見つけて持ち帰り、これを改良したものが山田錦ということですが、神戸市北区藍那が発祥の地という説もあり、互いに自説を譲らないようです。

 山田錦など農業分野で新しい品種を作り出した時には、育成者権という知的財産権で保護されるようです。一種の特許権ですが、一方「山田錦」という名称をブランドとして差別したい場合は、登録商標として商標権で保護されます。ただ、これは法律上の話であって、新しい品種の種などを海外に持ち出されて栽培される恐れは大きく、現に多くの日本人の血と汗の結晶が不当に海外に持ち出されてしまっているようです。ただ、持ち出された品種であるということを証明するのは、どうするのかと思います。DNAによって鑑定するのでしょうか、まさか植物にICタグをつけて、センサーで検出、なんてことはできないでしょうね。
コメント