世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

神楽坂の表通りを歩いていたのでは色町の雰囲気は判りません、右か左の路地に曲がって迷子になると町並みの深さが判るかもしれません

2024-04-21 08:00:00 | 日本の町並み
 伎芸天の秋篠寺、七福神の弁財天と芸事の神様にゆかりのある場所を紹介しましたが、芸事というと色町を思い起こします。色町と言われるところは、日本全国津々浦々にあるようですが、これらの中から東京のほぼ中央にある神楽坂を紹介しましょう。


    
 神楽坂は、飯田橋から地下鉄東西線の神楽坂駅に向かって坂を上り、大久保通との交点の神楽坂上までで、神楽坂駅はこの道路の延長線上ですが、厳密には神楽坂ではないようです。神田川に向かって東になだらかな斜面が続く町は、神楽坂以外にも有名な坂や名もなき坂など数多くの坂があります。朝日坂は江戸時代に朝日天満宮があったため、袖すり坂は短くて狭い坂で、行違う人の袖が擦れ合うような狭さからの命名のようです。また、瓢箪坂は坂の途中がくびれているためで、軽子坂は江戸時代の飯田濠にあった神楽河岸に荷揚げされた荷物を軽籠に入れて江戸市中に運搬する人たちが多く住んでいたことによるようです。


  
 これらの坂の途中には神社仏閣も多く、色町との対比が不思議なような気もします。有名なところでは、飯田橋から少し上った毘沙門天の善福寺、色町にふさわしくしゃみせん寺と呼ばれる大信寺、大奥ゆかりの円福寺、身代わり地蔵の祠のある龍門禅寺などなど。

 
 
 
 
 
 これらのお寺や坂の神楽坂は迷路の町並みで、数多くの横町の奥には、敷居の高そうな料亭や、飲食店が並んでいます。神楽坂の本通りには背の高いビルが立ち並び車が頻繁に通る、どこにでもあるような店舗が並んで、これが有名な神楽坂なのかとがっかりします。この本通りから、右や左にある路地に入っていくと景色は一変します。雑然としていて、迷子になりそうですが、色町というのはこのような雰囲気なんだと感じます。

 都内を自転車で走ると坂が多いのに驚きます。干拓地でまっ平らなオランダではサイクリングが盛んなのだそうですが、わが国で電チャリが増えたのは、都内の坂の多さも理由の一つかもしれません。この電チャリはペダルのテンションを検出するセンサの出力が大きくなると坂だ!ってわけで、モーターの電源が入るようです。身の回りでコンピュータが入ってない装置を探すのが難しくなってきましたが、電チャリも一種の自動制御なんですね。モーターはあくまで補助的なものなので、免許なしで運転できるのですが、紛らわしいのは電動自転車で、こちらは原動機付き自転車として免許が要ります。不心得者になると、この電動自転車を無免許で載って歩道を走る輩がいます。スマホを見ながら歩道を走る自転車と言い、倫理観のない時代になりました。

夕焼けは明日が晴れ、朝焼けは天気が下り坂と言われますが、どちらも自然が作るカラフルなショーです

2024-04-14 08:00:00 | 世界の町並み
 前回は各地で開かれる青空市を紹介しましたが、今回は各地の青空になる前の朝焼けと、青空の後の夕焼けを紹介しましょう。アジア→ヨーロッパ→アフリカ→オセアニア→アメリカの順です。


  
 中国からは、世界遺産の西湖に沈む夕日れと蘇州の灯りがともりだした夕暮れです。


 
 ベトナムでは、世界遺産のフエと南端のフーコック島の夕日で日中の暑さが和らいだころです。

 

 
 インドネシアからは、世界遺産のボルブドゥールの朝日と夕日を、バリ島では海に沈む夕日です。

 

 マレーシアではボルネオ島のコタキナバルの市場から海に沈む夕日で、こちらも少し暑さが和らいだころです。世界遺産のペナンでは喧騒が始まる前の朝焼けです。


 

 ラオスでは、カンボジア国境に近いシーパンドンでメコン川から昇る朝日と、シーパンドンへの基地となるパークセーの夕日を、世界遺産の街のルアンパバーンではプーシーの丘からの夕日です。


 カンボジアでは、国旗にもなっている世界遺産のあんこーるわっとの日の出です。

 
 北欧のフィンランドの東北部にある数多くの湖に白夜でなかなか沈まない夕日はコリでの風景。

 
 フランス南西部の世界遺産のカルカソンヌではなかなか日が沈まなくて夕焼けを撮るのに苦労しました。


 アフリカの地中海沿岸の国、チュニジアでは砂漠のオアシスのクサールギレンで砂漠に沈む夕日がきれいでした。

 

 オーストラリアでは、世界遺産のグレートバリアリーフの海から昇る朝日と、やはり世界遺産のシドニーのオペラハウスに沈む夕日です。

 
 カナダの世界遺産のバンフで見た夕日は空一面にピンク色の雲が広がっていました。

 
 おまけで、わが国の明石架橋の夕焼けです。

 夕日や朝日は昼間の太陽よりも大きく見えます。また太陽だけでなく月も地平線近くでは大きく見えます。これは錯覚のせいで、実際には大きさは変わりません。ただ、月の場合は地球との距離が変化shじ、時期によって見える大きさが変わりますが、1日の中で大きさが変わるというものではありません。この錯覚を起こす理由は諸説があって定まりませんが。地平線近くには山や町並みなど太陽の大きさと比較できるものがあるために大きく見えるという説や、人間の認識している空というのは、半球ではなく上下に扁平な卵型になっているそうで、太陽までの距離は天頂より地平線にあるときのほうが遠いはずなので、見かけの大きさは小さいはずが同じなので相対的に大きく感じるという説などです。デジカメなどで撮影すると、昼間の太陽や月も夕日などと同じでしょうが、人間の目と頭脳には錯覚があるから面白いのかもしれません。

七福神に誘われて巡った深川ですが、七福神以外にもいろんな発見がありました

2024-04-07 16:18:16 | 日本の町並み
 前回は近鉄の大和西大寺駅と奈良駅との間の北に広がる佐保路、佐紀路を紹介しました。多くの古墳群に加えて、首をかしげてほほ笑む秋篠寺の伎芸天もこのルートの魅力を高めているように思います。伎芸天は名前の通り芸事の仏様と言われ芸能界でもお参りに来る方も多いそうです。芸事の神さまというと、よく知られているのは弁財天のほうで、七福神にも入っています。お正月にはこの七福神を順に巡ることが初詣の一つになっていますが、東京近郊で調べると、ずいぶんと多くの七福神めぐりが存在するようです。今回は江東区にある深川七福神について紹介します。

 
 
 深川七福神は、地下鉄の門前仲町駅から森下駅まで5km程の道のりにある七福神です。どちらの駅をスタートしてもいいのですが、筆者は門前仲町の駅から歩き始めました。駅の近くにあるのは深川不動尊で初詣で長蛇の列でしたが、こちらには七福神はありません。お隣の富岡八幡に移動して本堂の裏手に回ると、小さな社に七福神の中で唯一の日本の神様である恵比寿さんが祭られています。富岡八幡は江戸三大祭の深川八幡祭りで有名ですが、恵比寿さんの社の付近はお正月だけにぎわうのでしょうか。

 
 
 400m程北に行くと冬木弁天堂でその名の通り弁財天が祭られています。弁天様の雰囲気とは違った怖い顔の獅子の像が版をしていました。500m程西に行くと清澄通りに出ますが、次の七福神の手前にえんま堂があって、巨大な閻魔像が参拝者を睨みつけています。

 
 
 えんま堂を通り過ぎると心行寺で境内にある小さな六角の祠に福禄寿が祭られています。福禄寿と寿老人は中国が起源の神様ですが、よく調べてみると同じ神様ではないかともいわれていて、七福神ならぬ六福神なのかもしれません。清澄通りを北に行って東に800m程で次の七福神の大黒天ですが、その手前に曲亭馬琴の生誕の地の記念碑があり、戯作者らしく和綴じ本を積み上げた形をしています。さらに、その先には小さな深川歯神様の像があり、この像の歯の部分をブラシでこすると虫歯にならない、歯医者顔負けの神様があります。

 
 
 大黒天があるのは円珠院で、境内には間宮海峡を発見した間宮林蔵の墓があります。大黒天は、国産の神様、因幡の白兎の大国主の尊と混同されますが、七福神の大黒天はインドの神様です。円珠院の先を北に回り込むと龍光院の毘沙門天です。毘沙門天は北を守護している四天王の一つの多聞天のことで、音訳をしたものが毘沙門天で意訳をしたものが多聞天です。

 
 龍光院を出た後は、次の布袋尊までは1.3kmでひたすら西に歩くのですが、途中に昨年暮れに亡くなった寺尾関の錣山部屋のそばを通ります。外観からはマンションの一角で看板が無ければ、相撲部屋とはわかりません。この辺りは隅田川にも近く、布袋尊の先では隅田川を行きかう松本零士デザインの水上バスが通っていきました。
 
 
 布袋尊のあるのは深川稲荷神社で無住のこじんまりとした神社です。お堂の右側には布袋尊の石像が置かれています。この布袋尊は中国では遠い未来に現れるという弥勒菩薩の生まれ変わりと言われて尊重されていますが、乞食坊主をみて誤解しただけとの説もあります。最後の寿老人の祭られる深川神明宮までは万年橋を北にわたって600mほどで、神明宮は深川で最も古い神社なのだそうです。寿老人は境内の右手の寿老神社にお祭りされています。境内にある手水に浮かべられた花々がきれいでした。

 7という数字が縁起がいいという由来は諸説あって、その中には七福神に由来するとの説もあります。宗教にまつわる説が多いようで、旧約聖書の神が世界を作った時に6日間で作って7日目を安息日としたとの説や、仏教の尊い宝物を七宝として敬うことなどがあります。天文学では太陽を含めて惑星の数が7(おそらく(天王星と海王星は未発見の頃の説)や月の満ち欠けが7日を周期とすることなどです。国が違えば縁起の良い数字も違うようで、韓国では3がよく、中国では8とのことですが、古くは9であったようです。我が国の江戸時代まで使われていた時刻の呼び方は真夜中の0時を九つそして2時を八つ(9の2倍の18の十のけたを省略)と呼んでいたのは中国の影響ともいわれています。宝くじを買うときに縁起の良い数字を選ぶ人もいますが、当たりは一様乱数で選ぶので偏りはないはず、ただコンピュータは内部を2進数で扱うので10進数の7は[111]と3桁のぞろ目、何か関連があるでしょうか。

世界遺産に登録されたのは古代ローマ建築のメゾン・カレのみですが、ニームには古代ローマの遺跡がたくさん残っています(フランス)

2024-03-31 08:00:00 | 世界遺産
 昨年と一昨年に新規登録された世界遺産の3回目です。今回は、フランス南部のニームにあるメゾン・カレという建築物です。以前このブログの世界の町並みでニームの町を紹介した時に、その一部を紹介しましたが、今回はめぞん・かれを中心に紹介します。

 ニームは、フランスの南部の人口13万程度のこじんまりとした都市ですが、今回登録の世界遺産のほかに東の郊外には水道橋のポン・デュ・ガールや、もう少し東にはオランジュのローマ劇場、アルルのローマ遺跡それにアヴィヨンの歴史地区と世界遺産が集中しているところです。メゾン・カレをはじめとして、時代は違ってもすべてがローマ帝国の影響を受けた遺跡で、改めてローマの版図の広さを実感させます。


 
 ニームにはメゾン・カレ以外にも世界遺産の対象外なのですがローマ遺跡が残っていて、大きなものは円形闘技場で、現役の劇場として手を加えられていて対象ではないのでしょうか。フォンテーヌ公園には、ローマの神殿跡が、そして背後の山にはやはりローマ時代のマーニュの塔が残っています。

 
 
 
 さて、メゾン・カレですが、紀元前後にアグリッパによって再建されたローマ神殿です。アグリッパと聞くと、木炭画の素描でアグリッパの石膏彫刻を見つめた方もいらっしゃるかもしれません。神殿は4世紀にキリスト教会に転用され会議場に使用されたり、フランス革命後は政府の馬小屋にもなったそうです。さらに、政府の公文書保庫を経て19世紀以降は美術館として利用されています。用途は転々と変わったのですが、ヴィトルウィウス的古典建築の形態を最もよく残した建築物として世界遺産登録となったようです。このような端正な形状は、ギリシャ建築の影響で、コリント模様の柱頭や真珠模様、唐草模様、バラ模様など多彩です。この建物は、18世紀にパリに建てられたマドレーヌ寺院に大きな影響を与えたそうです。どおりで、メゾン・カレを見たときに、「どこかで見たことがあるぞ」と思ったのは、マドレーヌを思い出したのでしょう。、

 高校の部活で素描に使ったのはアグリッパよりもミロのビーナスやブルータスが多かったように思います。先輩から、木炭用紙をいったん灰色に汚してから描くようにとも言われました。ハイライトをパンを使って炭を消すことで、鮮やかな白が浮き立つからだったようです。使う木炭は決まって柳の枝を焼いたもので、ポプラの枝の物はちょっと敬遠されていました。この木炭は炭素原子がランダムに集まったものですが、これが規則正しく集まって結晶になるとダイヤモンドになるわけですが、足の多い4価の原子はいろんな形をとります。しかし同じ4価の原子で、地球表面上で酸素の次に多い元素のケイ素は炭素のようにいろいろな形はとらないようです。しかし、炭素のようにダイヤモンド構造の結晶を作り、こちらは宝石ではなく半導体基板としてITを支えています。

佐保佐紀路は、仏像あり建築あり、古墳もあり、さらに遺跡もありで盛りだくさんの散歩路、途中をバスでワープすれば歩く距離もさほどではありません

2024-03-24 08:00:00 | 日本の町並み
 壱岐の島の中央部には長崎県で最大の古墳など、多くの古墳が集中して、重要文化財を含む多くの出土品が発見されていました。古墳群と聞くと世界遺産の仁徳寮などがある大阪府南部を思い起こしますが、古代政権の都であった平城宮の近くにも大きな古墳があります。今回は、奈良市内の喧騒から離れて、散歩にも向いている佐保佐紀路周辺を紹介します。

 
 
 散歩のスタートは近鉄の西大寺駅で、南に行くと垂仁天皇陵ですが、ここでは北に行って秋篠寺にお参りします。首を傾げた伎芸天像で有名で、芸能人が数多くお参りをするそうです。奈良時代に作られた脱乾漆像の頭部が、鎌倉時代に補修された木彫の胴体がの上に乗っかっていますが違和感はありません。すぐ東には競輪場がありますが、苔むす庭など、お寺の周辺は別世界です。競輪場のさらに東には神功皇后陵などいくつかの古墳があり、南に下ると平城宮後になります。

 
 
 平城宮後は東西1.5km、南北1km程のエリアで、朱雀門や大極殿それに東院庭園などが再現されていて平城宮歴史公園になっています。ただ、これらの建物が建つ以外は野っ原が広がるだけで、かつての平城宮の繁栄はしのぶことは難しい状況です。おまけに再建された朱雀門のそばを近鉄電車が横切っていきます。



 平城宮跡の北辺の路を東に1km程行って北に上がるとウワナベ、コネベの2つの巨大な前方後円墳が並んでいます。平城宮の北側に散在する古墳群の中でも最大の古墳の一つですが、被葬者は誰なのかは割っていないようです。コナベ古墳の北西には仁徳天皇皇后陵とされるヒシアゲ古墳もありますが、知名度はウワナベ、コナベ古墳ほどではないのは、墳丘の周りの水豪が枯れてしまって絵になりにくいからでしょうか。この3つの古墳に囲まれているのが航空自衛隊奈良基地ですが、なぜか滑走路は見当たりません。

 
 自衛隊の正門から南に延びる道を行くと海龍王寺と法華寺とが並んでいます。海龍王寺は国宝の五重小塔が有名で西金堂内に収められられた4m程の高さで、工芸品ではなく建造物として指定されています。お隣の法華寺は、光明皇后を移したとされる秘仏の十一面観音像が有名で、全国で7体しかない国宝の十一面の一つです。春と秋との開帳の時に拝観しましたが、和辻哲郎や亀井勝一郎が絶賛したほどは感激がなかったのは、手が異常に長く、表情もやy不気味だからでしょうか。

 
 法華寺の南の四つ辻を東に400mほど、北に曲がって200mほどにあるのが不退寺で、ちょっと地味なお寺ですが、本堂や多宝塔それに石棺は重文で、在平野業平が暮らしたという伝説もあるお寺です。こじんまりとした本堂はそれなりに存在感があります。

 
 元来た道を戻り、さらに東に1kmほど、北にお曲がって300m程行った突き当りに興福寺ならぬ興福院があります。拝観には予約が要り、地味なお寺ですが、遠州好みのお庭を煮ながら静かに一息入れるのにいい場所かもしれません。元来た道を戻って、車の多い道をひたすら東に1km程行くと突き当りが東大寺の転害門です。東大寺の大仏殿は、あまりにも有名ですが、1年に1度だけ大仏殿の正面にある小窓からお顔を見られる日があるのです。お盆の夜間拝観の時なのですが、大仏は、大仏殿の中から見上げることしかできませんが、この日だけは真正面から見ることができます。また、」ライトアップされた大仏殿も大きさが強調されて見ごたえがあります。

 
 
 大仏殿は何度も火災にあって、現在の大仏は、頭部は江戸時代、胴体の大部分は鎌倉時代で、台座の一部などに建立当時の天平時代の部分が残っているようです。天平仏像というと、聖林寺の十一面観音や新薬師寺の十二神将などに代表される仏像で、大仏ができたころのお顔はもっと凛々しかったのではないでしょうか。大仏殿も江戸時代債権のもので、創建当時の2/3の幅しかないのだそうです。よく、大仏殿は瀬かい最大の木造建築と言われますが20世紀には大仏殿を越える木造建築も出現していて、正確には世界最大の木造軸組建築なのだそうです。大型コンピュータの黎明期にコンピュータの共同利用で大きな比重を占めていたのは建築業界の強度計算だったそうです。コンピュータもない天平時代に、火災以外で壊れたことが無いあれだけの大きな木造建築を作れた技術基盤はどこにあったのでしょうか。

国が違えば青空市に並ぶものも多彩ですが、やはり果物や野菜など生鮮食料品が多いようです

2024-03-17 08:00:00 | 世界の町並み
 いろいろな夜店が集合して、観光客でごった返すのがシンガポールなどの夜市でした。夜市は、台湾の台北や台南、マレーシアのコタキナバル、ベトナムのカントーなどなど、アジア圏に多く見られるように思います。一方、昼間に露店で店が開かれる青空市場は、アジア圏でも気かけますが、欧米に多いように思います。生鮮食料品は、スーパーで買うのではなく青空市場が流通拠点になっているのではないかとも思いますし、物価の高い国であっても我が国と比べて驚くほど安く売られているようです。今回は、写真に残っている青空市を順不同に紹介します。

 まずは、夜市が多いアジア圏です。アジア圏では、野菜や果物だけでなく肉や海産物なども多く売られているようです。

 
 香港では、半ばさばかれた肉が肉がぶら下がっていたり、豚の頭が転がっているのも見ました。店頭でさばいているのはスッポンのようですが、実物をチェックする中国の人の風習でしょうか。

 
 マカオでも、店頭で作ったり切り分けたりしていました、香港に近いので似ています。

 
 ベトナムは、南部に近いカントーでは夜市も盛んなのですが、どちらかというと観光客向けで、市民の台所は朝市で数多くの店とお客でひしめいていました。メコン川で採れた海産物と南国の果物が目立ちます。

 次にアフリカのチュニジアでの風景です。

 
 首都のチュニスでは、青空市場というより通常の市場に近いのですが、体育館のようなところに露店風に雑然と果物屋野菜が並んでいます。色々な豆が麻袋に入れられて並んでいる店もありました。

 
 南部の砂漠地帯のタタウィンでは、半ば観光客用もあるのでしょうか、砂漠のバラと呼ばれる塩の結晶や、遠くから見ると絵の具のパレットかと思うような香辛料らしきものなどがありました。

 美食にのフランスですが、パリの青空市は多彩な商品で有名で、骨董や古書、映画シャレードのシーンに出てくる切手など。
冬のパリでお目にかかったのは青空ならぬ灰色の空の下の花のお店でした。



 
 
 フランスは芸術の国だけでなく農産物の生産量が大きな国の一つです。南部に行くと、青空市場という集合体でなく移動販売で新鮮な果物が安く手に入ります。プロバンスの有名な朝市では、色とりどりの果物や、野菜などの農産物に混じってフランスパンも売られていましたし、古着らしい服もたくさんぶら下がっていました。

 
 ヨーロッパの南部のクロアチアのスプリトでも農産物と服が売られていました。こちらは、世界遺産の城壁に寄りかかるように店屋が並んでいます。

 
 イベリア半島のポルトがの第二の都市のポルトでは、東洋で見かけるようなシーンにびっくりしました。子犬や鳥が売られている様子です。愛玩用だと思いますが、鳥の一部は食用でしょうか。

 
 ドイツには初夏に行きましたが、マインツで売られていたのはアスパラガスで、この時期の美味を代表する食材で、レストランにも季節のメニューとして並びます。

 
 ドイツのお隣のルクセンブルグでは、香辛野菜が多く並べられ、お隣には花もあったようにも思います。細長く茶色の野菜は玉ねぎのようですが、一見すると水仙の球根?水仙だと毒草のはずです。

 
 北欧のフィンランドの西部にある世界遺産の町のラウマでは、訪れたのが初夏だったせいか青空の下に花でいっぱいでした。もちろん野菜などもたくさんあって、天気が良くって気持ちの良い風景でした。

 日本の野菜や果物は石油の塊だって言われることがあります。季節外れのものを高く売るために、ビニールハウスを作り石油などで暖房をして無理やりに寒い時期に暖かい季節のものを出荷しようとしています。ビニールハウスのビニールは当然に石油製品ですから、暖房の石油と合わせて石油の塊を高い金を出して食べさせられているわけです。イチゴなんぞは、本来の初夏の頃にはあまり見かけず、お正月前後にどっと出回ります。資源のない国で、こんな不自然って、おかしいとは思いませんか。フランスでは、あまりビニールハウスを見かけませんでしたし、他の物価の高さとは逆に、野菜や果物は、どこかの国に比べて驚く安さです、自然に逆らわない栽培だからではないでしょうか。

壱岐の島の中央当たりにある多くの古墳群は路線バスで行くと不便ですが、木漏れ日の中を森林浴をしながら散歩をすると気持ちのいいものです

2024-03-10 08:00:00 | 日本の町並み
 前回は辞し倭人伝にも記述されたと推定される一支国の遺構と思われる原の辻遺跡周辺を紹介しました。原の辻遺跡は弥生時代の遺跡ですが、その次の時代は古墳時代となります。古墳というと近畿一円、それも奈良周辺を思い浮かべますが、壱岐には256基が現存するそうで、今回は国の史跡に指定される6基の古墳が集中する、壱岐の島中央部を紹介します。

 
 古墳群は、郷ノ浦と勝本を結ぶ路線バスのうち、内陸部を走る路線の中央やや北寄りの壱岐風土記の丘のバス停がスタートポイントになります。このバスの本数がまた少ないんです、郷ノ浦と勝本を結ぶバスが2~3時間に1本で、その半分は海岸よりを走って風土記の丘には寄ってくれません。ただ、レンタカーで回るのも不便なんです、古墳群は散在していて、車の入れない山の中なので、ゴール地点から注射をしているところまで歩いて戻ることになるからです。風土記のお赤には、古民家を移築した資料館がありましたが、コロナのせいでしょうか、残念ながら現在は閉館中です。

 
 
 
 風土記の丘のそばにあるのが掛木古墳で7世紀に作られと推定される円墳です。石室内にある石棺は長崎県唯一のくりぬきで作られたもの。そこから森林浴コースと呼ばれる林の中の散歩道を南南東に下っていくと、最初に現れるのが百合古墳群で、小規模の古墳が斜面に23基も集中しています。百合古墳群のジグザグと下っていくと、河童が人間を生け捕りにしという池があった生池の跡があり、小さな石塔が立っています。平地になった道を西に行くと笹塚古墳で、二重構造の円墳です。ただ、古墳は雑木林に埋もれていて、全容はよくわかりません。この石室からは、数多くの亀型の金銅製品などが出土して重文に指定されています。

 
 
 
 
 来た道を少し戻り、南に曲がって、車道を横切り、さらに南に行くと長崎県最大の前方後円墳の双六古墳に出ます。こちらは、野っ原の中央に古墳があるので、全容が分かりやすいし、古墳の周りを一周できます。関市tsには入れませんが、伸びやかな感じがします。車道に戻って、車道を東に進むと鬼の窟古墳で、前室、中室、玄室の三室を持つ長さ17mの石室は九州でも屈指の規模を持つ物です。ただ、この古墳も林に埋もれて全体像はよく見えません。古墳群を後に車道を進むと、壱岐国分寺跡がありますが、広場に石仏と基石らしき物があるだけです。この国分寺跡の入口近くにへそ石と顎掛け石と取り巻くように石仏軍があります。へそ石は大きな石のてっぺんに擬宝珠状の石が乗っかりへそのような形をしているからのようです。一方の顎かけ石は、力自慢の大男が海岸で拾ってきて、自分の顎がかけられる高さに建てたものとの逸話があります。最後が国方主神社で、入口の普通の大きさの鳥居に加えて、境内にはちっちゃな鳥居があって、おそらくこれを来ぐることができれば、いいことがあるとのことのようです。

 
 双六古墳は「そうろく」と読むのだそうですが、最初にガイドを読んだ時には「すごろく」と読んでしまいました。祭られている人が双六が好きだったのかなと思ったりしました。枕の壮士にも登場する双六ですが、中国から伝来したのは7世紀ごろと言われるので、双六古墳が出j来た頃に伝来していたか微妙です。双六にはサイコロがつきもので、通常は正六面体で1~6までの数字がランダムに出てきます。一方、統計学などで疑似乱数を得るには正十面体のサイコロが使われ0~9までの乱数が得られます。学生の頃に疑似乱数を用いたモンテカルロ法というコンピューt・シミュレーション手法使ったことがありますが、これはコンピュータで疑似乱数を発生るもので、サイコロを振った結果を振った数値を入れるわけではありません。手間のことを考えれば、サイコロを使うのは非現実的ですが、果たしてコンピュータが出してくる乱数とサイコロの目の乱数と、どちらが偏りがないでしょうか。

ジョグジャカルタには現在も王宮があってスルタンが特別州の統治権を持っています(インドネシア)

2024-03-03 08:00:00 | 世界遺産
 2回まとめての世界遺産会議での新規登録遺産の2回目はインドネシアのジョグジャカルタです。登録名は「ジョグジャカルタの宇宙論的枢軸とその歴史的建造物群」と言います。ジョグジャカルタはドネシアの朱ともあるジャワ島の南東部にある大都市で現在もスルタンが暮らす王宮がある特別市です。序ぐじゃらるたの北には仏教遺跡のボルブドゥールが、東にはヒンドゥー教の遺跡のオウランバナンがあり、3つの世界遺産が集中する観光都市になったわけです。ジョグジャカルタは古くからヒンドゥー教に基づく都市づくりが行われ、北をメラピ山に、東西を川に、南をインド洋に囲まれた肥沃な土地がヒンドゥーの宇宙観に沿うものとして王都として選ばれたそうです。今回は、ジョグジャカルタの王宮周辺を中心に紹介します。

 
 
 
 
 旧市街の中心部にある王宮は現在もスルタン一族の居住地になっていますが、観光客にその一部が公開されて、王宮の歴史などを展示する博物館の役割もはたしています。現在の建物の基礎は18世紀に作られ植民地支配を経て現在もかつてのスルタンの家臣の末裔がボランティアで警備の役割をになっているのだそうです。公開されている部分は一部と言われるのですが、なかなか豪華で権力の大きさをうかがえます。

 
 これらの建物の中の天井の高い吹き抜けのホールでガムラン音楽の演奏が楽しめます。打楽器が中心のガムラン音楽は、通常は聞こえない20kHz以上の高周波を含み、これらの音は耳にも聞こえなくても、人間の情緒を安定させる効果があるのだそうです。ガムラン音楽のCDも作られていますが、ディジタルの泣き所で人間に聞こえないとされる高周波はカットされて記録できません。したがって、CDの再生音を聞いても情緒は安定しそうにありません。

 
 現在の王宮から西に1km程行ったところにあるのが水の宮殿と呼ばれる施設で、王宮と同時代に離宮として作られたようです。離宮としてだけでなく、要塞の役割も持っていたそうで、5kmにも伸びる地下トンネルがスルタンのシェルターとして機能したそうです。19世紀の地震で壊滅的なダメージを受けた後は、長く放置されてきましたが、水浴用のプールなどを中心に1970年から修復がすすんでいます。

 
 
 
 一方、王宮の北側にはワヤン・クリの常設劇場があって、無形文化遺産に登録されている人形劇が鑑賞できます。ワヤン・クリというのは、スクリーンの裏で縁起をする人形の影を鑑賞するもので、劇の内容は英雄譚が多いようです。通常は一人の演者が複数の人形を操作し歌やせりふまで担当します。加えてガムランの走者が何人かいて伴奏を務めています。観客は普通は影が映る方向から鑑賞するのですが、スクリーンの裏側にも自由に移動でき、カラフルに塗られた人形の動きを見ることもできます。不思議なのは通常は影を見るだけなのに、こんなにカラフルに人形を彩るのでしょうか。

 
 ジョグジャカルタに滞在中に町中を、いろいろな民族衣装を身に着けた人たちが更新するシーンに遭遇しました。帰国後にいろいろと調べてみたのですが、どのような背景があるのかは判らずじまいでしたが、多民族国家のインドネシアを垣間見たように思えました。

 通常のCDは音のアナログ信号を1秒間に4万8千回切り取って、2進数に置きなおして記録しています。2進数の記録や通信は0か1かが識別できればいいので、連続料のアナログ情報に比べて、情報が壊れることはほとんどありません。したがって、遠い宇宙から送っても、鮮明な画像が容易に得られる利点があります。現在はディジタル全盛のようですが、これは一定の品質で諦めたら、高品質が得られるという、方便の技術なんです。アナログ量の数値化のためには、必ず量子化といった、省略過程を伴います。CDでは理論的に24kHz以上の音(実際は20kHz)は再生できません。人間の耳は20kHzまでしか聞こえないと言われていますが、耳以外の感覚器官で、20kHz以上の音を感じているともいわれ、もっと高い音を耳で聞き分けられる人もいます。ディジタル技術は、これらを切り捨てることで、最大公約数的ないい音を作っているのです。

壱岐には朝鮮通信使が立ち寄った時代よりももっと古く、弥生時代の魏志倭人伝に記述のある一支国の遺構とされる原の辻遺跡があります

2024-02-25 08:00:00 | 日本の町並み
 室町時代に始まった朝鮮通信使は対馬を最初の中継地として島伝いに九州に到達しましたが、対馬の次の中継港が壱岐の勝本でした。現在の勝本浦には通信使の遺構は残っていないようですが、もっと古い魏志倭人伝に出てくる倭国の島国の一大国、後の史書では一支国(いきこく)が壱岐であるとの説があります。そして、壱岐の原の辻遺跡がこの一支国の跡であると1993年に長崎県教育委員会が発表して話題となりました。今回は、一支国の遺構とされた原の辻遺跡の周辺を紹介します。

 原の辻遺跡は、壱岐の南東部のやや内陸にあり、壱岐にある旅客扱いする港で唐津からのフェリーが発着する印通寺港の北3km程の所にあります。公共の路線バスの頻度は極めて少なく、原の辻を経由するバスは一日に数本しかないので、バスダイヤとにらめっこしてパズルを解くか、タクシーやレンタカーを利用することになります。

 
 路線バスを下車したところにあるのが、原の辻ガイダンスで、原の辻一支国王都復元公園のガイドのために作られた施設です。原の辻遺跡の発掘の歴史や復元公園整備の記録が展示されています。また、壁には壱岐でよく見かける鬼凧が飾られていました。これは、昔に壱岐で人々を苦しめていてた悪毒王という鬼の首領の伝説に基づくもので、都から派遣された若武者に首をはねられて、首が天高く飛んで行ったという言い伝えを凧にしたものでしょうか。

 
 
 
 
 歴史公園は、原の辻ガイダンスの建物とは道路を挟んで東側の、少し高くなった台地の上に南に向かって開けていて、環濠集落は東西に350m、南北に750mの大きさで、この集落の東側に魏志倭人伝に記述されている国境警備の役所があったと推定されています。また、集落の北西には日本最古と言われる船着き場の跡も残っているそうですが、現在の幡鉾川沿いに海に出ていたのでしょうか。

 王都復元公園は、時代は原の辻遺跡よりもっと古い遺跡ですが世界遺産の青森にある三内丸山遺跡のような感じです。発掘調査で見つかった柱の跡などから、建物の規模を推定して復元したと思いますが、三内丸山遺跡の時も思ったのですが、建物の高さ方向はどうやって推定したのでしょうか。こちらでは高床式の倉庫のような建物が多く復元されていたようです。また、復元住居の中には、かつて住んでいたであろう人々の人形も復元されていて、その様子が、なんとはなくほほえましく思いました。

 
 原の辻の発掘調査で発見された多くの石器や土器などの出土品は、復元公園の北北東1.5km程の標高60mの丘の頂上にある一支国博物館で保管展示されています。独立峰のような丘で、博物館の展望台からの景色は雄大です。復元公園も、それぞれの復元家屋ははっきりはしませんが、その大きさが把握できます。展示品はさほど多くなかったようで、弥生時代の原の辻遺跡からの出土品に加えて、古墳時代の双六古墳などから出土した青銅器などでした。三内丸山の博物館でも、バックヤードにおびただしい収蔵棚に置かれた出土品の多さに驚かされましたが、一支国博物館でも巨大な収蔵棚に多くの出土品が置かれていて、整理が進むと新しい発見があるかもしれません。

 
 一支国博物館の展望台から、復元公園都は反対側の海の中に小さな島が見え、何やら鳥居も立っています。丘を下って2.5km程先にあるのは小島神社で、沖合200m程の直径が50mほどの島に建つ神社です。この小島は壱岐のモンサンミシェルと呼ばれていて、干潮の時にだけ陸から歩いて渡ることができ、満潮時には海に漬かっている鳥居のそばを通って、島のてっぺんにある神社に参拝できます。

 原の辻遺跡では、かろうじて魏志倭人伝という文字情報が残されていますが、我が国の文字情報は古事記や日本書紀を待つことになります。それ以前の歴史は、出土したり遺跡の調査で現れる地面など、物理的なものがすべてで、この物を頼りに玄室がどうであったかを推定することになります。時代の推定には放射性炭素を使うことがよく知られますが、物理、化学の分野での最新の技術が総動員されるようです。それでも、曖昧さは残り、哲学的な推論で、仮説が立てられ、論戦にまで発展しています。コンピュータの分析手法の一つにインテリジェントマイナーというのがあり、一間関連性が無い事象の間に、ある関連性が存在することの発見に使われます。自動改札の通過データが、本人に無断で売り買いされているのは、この解析のためのデータの一つです。考古学でもこのような解析手法が使われているのでしょうね、おそらく生成IAは使われていないと思いますが。

観光資源としては、さほど満足できませんが、シンガポール独特の目新しさを追求した資源があるかもしれません(シンガポール)

2024-02-18 08:00:00 | 世界の町並み
 コタキナバルの海に面したナイトマーケットは、市民の台所としても、観光客の屋街レストランとしても便利な場所で、規模も大きなものでした。ナイトマーケット(夜市)は、台北でもお目にかかり、マレーシアのクア・ラ・ルンプールやベトナムのカントーでもにぎわっていました。東南アジアでは広く普及している夜市ですが、おそらく筆者が初めて夜市を訪れたのはシンガポールだったように思います。今回は、夜市の写真は残っていなかったのですが、何度か訪れたシンガポールのうち、20年ほど前にマレーシアのデサルビーチに行く途中に立ち寄った時の写真をもとに紹介します。

 世界遺産のシンガポール植物園の紹介の時にも書きましたが、シンガポールは観光立国と言っている割に、観光客には不便で、さほどの観光資源も少ないように思います。大きな空港を持つので、他の観光地への中継基地的な存在のように思いますが、とりあえずはガイドブックに載る目新しいものを中心に観光ポイントを取り上げてみます。

 
 
  20年前の当時に2つの目新しいと思われるものがありました。一つはナイトサファリで、もう一つはダックツアーと呼ばれる水陸両用の観光ヴィークルでした。ナイトサファリは、夜間だけ開園をしている、おそらく世界で唯一の動物園でしょう。訪れたのは20年以上も前ですが、調べてみると以外の早くに開園していて1980年で、2022年には来訪者が1億人を越えたのだそうです。夜間の動物園なので、来園者は自由に歩き回れるわけではなく、ゲートを入るとトラムが停車していて、これに乗り込みます。跡はトラムの中から夜の動物の様子を眺めることになりますが、当時のデジカメは感度がさほど高くなく、ブレで何が写っているのはよくわからくなってしまいました。

 
 
 一方の、ダックツアーは、訪問当時は開始早々だったようですが、そもそもは第2次大戦で数多く使われた水陸両用車両をベースとしたもののようで、外観は大型のボートのようですが、船底部分に4つの車輪がついています。船として浮かんでいるときは、大型のモーターボートのように見えますが、陸上に上がってくると異常に車高の高い車で、かなり威圧感があります。陸上の観光と海からの観光とが乗り換えなしで楽しめ、ボートとしては船足も遅く、物珍しさがだけ取柄で、高い乗車料金を取っているようです。日本でも神戸を皮切りに東京湾などで運行しているようですが、さほどの人気はなさそうです。

 
 
 
 
 シンガポールの観光は、買い物を除けば、マーライオンの像がある海岸一帯のようですが、このマーライオン像は、かつて3大がっかりと悪評されましたが、大きくなって海に向かって水を吐くようになって汚名返上したようです。シンガポールと言えば、イギリスから派遣され植民地支配を行ったのがラフルズですが、腕組みをした偉そうな像が立っていて、これも観光ポイントになっているようです。

 
 
 このラッフルズのな目を冠したホテルは長くシンガポールを代表する最高級ホテルで、宿泊するには庶民としては敷居が高いのですが、アフタヌーンティでレストラン利用すれば、ちょっぴり満足感が得られます。

 シンガポールを見ていると、世界に類を見ない実験国家のように思います。極端に進んだ電子化もそうで、紙の入国カードも廃止して、例外を認めない電子申請ですし、乗り物の乗車券もICカードのみのようです。電子化に着いてゆけない老人は切り捨てたのかもしれませんが、平均年齢が若い国だからでしょうか。ただ、高学歴の両親の子供を優遇するなどの政策は賛同できます。どこかの国のように、格差はいけない、など悪平等では、努力したり優秀な人間は報われません。そうすると、極論すれば優秀な人間は、優遇してくれる国を求めて国を捨てて流出し、残るのは努力しない人間ばかり、これでは誰が国を支えていくのでしょうか。シンガポールの状況を見守りたいと思います。