世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

日本標準時の子午線がとおる明石には、城跡だけでなく宮本武蔵や柿本人麻呂の名前の付いた遺構もあります

2019-03-17 08:00:00 | 日本の町並み
 秀吉の頃に播磨から有馬温泉に通ずる街道として整備され江戸時代には宿場町であったところも、現在では人通りの見かけに集落になってしまったのが淡河でした。有馬温泉には、秀吉のおひざ元の大坂かkら六甲の裏を廻る街道もあったようですが、湯乃山街道の名前が残るのは明石あたりの播磨地区から三木あたりを東北東に横切っていく街道です。明石には標準時の子午線が通るからというわけではないでしょうが、今回はこの日本標準時子午線が通る町の明石の子午線の周辺を紹介します。

 日本の標準時は東経135度に太陽が南中する時刻で決められています。この東経135度の子午線が通過するのが明石で、その子午線上に天文科学館が建ち、日本標準時子午線表示柱なのです。ところが、この東経135度という線、実は2本あり、天文科学館の建つのは天文経度の135度上で、地理経度の135度は西に120mほど西にずれています。このずれは、地球の形が真球ではなく楕円球のためで、天文経度は重力線から決められた南を太陽が通過する時間で決められ、地理経度は、地球を北極と南極を通る面で切り取った時にできる面とグリニジを通る面との角度で決められます。

 
 
 
 JRや山陽電車の明石駅の北側には、旧明石城の石垣や櫓があり、その南には公園が広がります。公園の入り口付近にはとき打ち太鼓の遺構があり、公園の中には武蔵の庭なるものがあります。さらに、標準時の町とお城とをあわせもつことから、兜と槍とを組み合わせた日時計も作られています。公園からは明石城の石垣の上に2つの櫓が望めます。明石公園とJRの線路との間には堀があって、その堀の南西角あたりには旧織田家長屋門があります。現在の場所から西に1kmほどの旧船上城の門を移築したと言われています。明石公園を抜けて、明石城の石垣の間を上って櫓まで行くと、足元には明石の町並み、その向こうには淡路島、そして東には明石架橋が望めます。

 
 
 
 明石城跡の東側には、小高い丘の上に寺や神社、それに教会まであります。明石城の本丸跡を東に行くと明石博物館の裏に出ます。東に坂を下って広い通りの向かい側の道を行くと、大聖寺で、本堂の上に日蓮の像が立っています。その隣は上ノ丸教会で、さらに行くと妙見社の南側にでます。元は本松寺の鎮守社で、神仏分離で神社になっていますが、どことなく御寺っぽい建物です。道は右に曲がって、本松寺があり、本堂の裏に庭園があります。

 
 
 
 本松寺の角から急な石段を上ると月照寺で、本堂の左手には石庭風の庭が作られています。月照寺の住職が夢野お告げを受けて柿本人麻呂を祀るために人丸社を作り、これが現在隣にある柿本神社です。こちらも、明治の神仏分離の際に神社とお寺に分かれました。月照寺と柿本神社の間の向かい側には標準時を示すトンボの標識があり、その向こうのがけ下には天文科学館があります。また、柿本神社の東側の参道を天文科学館の東を通る道路側に降りて、北に行くと人円山公園で、こちらには「時のふるさと明石」の群像が建っています。

 時刻の標準は、地球の自転から決められましたが、現在は国際原子時計の刻む時刻が世界の標準となっています。これは、地球の自転速度が微妙に揺らぐためですが、原子時計の時刻が地球の自転が示す時刻と乖離しないため、何年かに一度うるう秒を挿入したりして調整をしています。一方、長さの基準は、メートル原器から、真空中を光が一定時間で進む距離に置き換えられています。さらに、質量は最後までキログラム原器が使われてきましたが、昨年の秋にプランクの定数を基にした基準に置き換えられました。これらは、まず日常生活には影響をしませんが、厳密性を必要とする物理などの議論では重要な定義変更になるそうです。とこrで、国際原子時計の精度ですが、1億年に1秒以内なのだそうですが、誰が測ったのでしょうね。
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ガソリン車が乗り入れないツェルマットの道路をヤギの大群が闊歩していました(スイス)

2019-03-10 08:00:00 | 世界の町並み
 敦煌には仏典を運んできた白馬を鳩摩羅什が弔ったと言われる白馬塔がありました。当時は、広大な砂漠の移動にも歩くか、せいぜい馬に頼ることしかできなく、排気ガスは出さない自然に優しい移動だったわけでしょう。世界の観光地で内燃機関の車の乗り入れを禁止している所は意外に多く、アメリカでは、映画「ある日どこかで」の舞台になったマキノー島が有名で、スイスには、いくつかの観光地で禁止されています。今回は、これらの中で、マッターホルン観光の基地の一つツルマットを紹介します。

 
 
 ツェルマットは、スイスの南西部、マッターホルンやモンテローザの観光基地ですが、それらの峰の向こうは、もうイタリア領です。ブリークから南進をしてきたマッターホルン・ゴッタルド鉄道の終点で、サンモリッツからオーバーアルプ峠を越えてきた氷河急行の終点駅でもあるのがツェルマット駅です。車で来た観光客は、ツェルマットの手前のテッシュで車を駐車場に停めて、テッシュ駅で鉄道に乗り換えてツェルマット駅まで行くことになります。ツェルマットの中は電気自動車や馬車の実が走れ、ガソリン車は緊急車両など、特別に許可された車両だけです。町中の道路には、電気自動車や馬車や歩く人間だけでなく、時折ヤギの集団が通り、まるでアルプスの少女ハイジの世界です。ヤギの行進する道路沿いのホテルの窓からは、マッターホルンが望め、居ながらにして、太陽の動きによる色合いの変化も楽しめます。

 
 ツェルマット駅周辺は、窓に花鉢が並んだ綺麗な山小屋風のホテルなどが建ち並んでいますが、少し離れた場所には木造の倉庫群があります。食糧倉庫は石の基壇の上に建ち、これは鼠返しなのだそうです。16世紀ごろに建てられたものだそうで、冬場は羊小屋になるものもあります。これらの倉庫の窓も花鉢で飾られていました。

 
 
 
 ツェルマットは言わずと知れたマッターホルンの観光基地で、ここからマッターホルンまで登山をする人、マッターホルンの肩の部分までハイキングをする人なども居ますが、ほとんどはゴルナーグラートまで登山電車で上って景色を眺める観光客です。このゴルナーグラート鉄道の終点からは、ツェルマットの向こうにマッターホルンが見えますが、北壁が良く見えないようです。また、この鉄道は混雑することで有名で、乗車できるまで随分と待たされます。筆者は、このルートを避けて、ロートホルンに上ることにしました。こちらは、地下駅を走るケーブルでスネガまで登り、ここからロープウェイに乗り継ぎます。頂上は、ゴルナーグラートより高く、北にあり、マッターホルンの北壁も良く見えます。何より良いのは、このルートは、なぜか空いているのです。頂上駅の近くには、高山植物らしい花々が咲いていました。

 現在の電気自動車は、随分と性能が良くなって、一家の充電で何百kmも走れるようになりました。バッテリーとモータで動く自動車の歴史は意外と古く、ガソリン車より早くに製造されたようです。ただ、電池の性能などの問題から、その後はガソリン車が大勢を占めたようです。最近の蓄電池の性能向上は素晴らしいもので、モーター駆動の飛行機も出現しそうな勢いです。ただ、電池の充電時間が長いことから、次世代の本命は燃料電池という議論もあるようです。電気自動車は自然に優しい、と言われますが、原発を止めてしまって、火力発電ばかりの現状では、化石燃料を燃やす場所が変わっただけなんですね。
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有馬温泉への街道の宿場町として栄えた淡河ですが、今はひっそりとして人影も見当たりません

2019-03-03 08:00:00 | 日本の町並み
 三田から三木を経由して北播磨への街道筋の宿場町として繁栄し、現在は取り残されたような集落が吉川でした。吉川から谷筋を一つ南にある集落が淡河(おうご)です。吉川は三木市の一部になっていますが、その吉川が合併の直前までになってご破算になった神戸市ですが、淡河は神戸市の北西端になります。今回は、吉川同様に、時間が止まって取り残されたような淡河周辺を紹介します。

 
 
 
 
 吉川が中国道の通る谷筋でしたが、淡河は山陽道が通る谷筋になります。淡河の集落は、山陽道の南を道場から西へ三木に抜ける県道38号線沿いに広がっています。かつてこの県道は、播磨から有馬温泉に通じる湯乃山街道の名残で、淡河は街道の宿場町として本陣も置かれました。道の駅淡河の東100mほどで、旧街道が38号から北に分かれて少し行ったところに旧本陣跡が残されています。この旧本陣跡の村上家は、老朽化が進んだために改修されて、町のコミュニティ・スペースとして利用されているようです。428号線との角の所に、湯乃山街道淡河宿本陣跡の石柱が立っています。 旧街道を西へ、38号線と再合流するあたりにかけて、土蔵造りで板壁の古民家や茅葺の農家が点在しています。筆者が訪れたのは8年ほど前ですが、現在の様子をgoogleで見ると、土蔵の塀はブロック塀に、茅葺はトタン葺きになってしまったようです。

 淡河は神戸市北区の一部で、中国道のインターチェンジがあるとは言え、吉川と同様に陸の孤島のような場所で、有馬温泉までは17kmほど、神戸電鉄の箕谷駅まででも11kmほどもあり、もちろん集落の中に鉄道は走っていません。公共輸送機関と言えば、路線バスが三木や神戸電鉄の岡場、三田に向けて2時間に1本ほど走っているだけです。陸の孤島と書きましたが、伝説によると、この辺りは飛鳥時代には、島ならぬ泡河湖という湖で、徐々に水位が低下し、干拓なども進んで江戸時代には湖は無くなってしまったのだそうです。淡河のさらに南の谷筋に「つくはら湖」という人造湖がありますhが、淡河の谷筋も四方を山に囲まれていて、谷筋の全体が湖でも不思議ではないような感じもします。

 
 古い町並みからは外れますが、東北東3kmほどの淡河町神影には7世紀に創建され9世紀に建てられた重文の三重塔のある石峯寺(しゃくぶじ)があります。鎌倉時代には広大な寺域を誇っていましたが、現在は三重塔の他に重文の薬師堂と本堂があるばかりです。ただ、こんな山の中に、これほどの三重塔があるのは驚きですが、辺鄙なところゆえに建物が残ったのかもしれません。

 本陣は各地の大名が江戸への参勤交代で宿泊した施設ですが、この参勤交代は大人数で行ったり来たり、随分と無駄のように思います。江戸幕府としては、無駄をさせて、諸大名を弱体させるのが目的ですから、無駄は大きいほどよかったのかもしれません。徳川だけに都合の良い政策で、身勝手なものですが、街道や、宿泊施設の整備など、旅行に対するシステムの確立や、情報、モノのの流通を促進したというメリットの副産物を生んだようです。一方、マイナンバーのシステムは、権力機構が国民の財産を始め色々な情報を把握するために導入した、権力に都合の良いシステムですが、全国どこでも戸籍などの証明が取れるという副産物を生んだようです。出先で、住民票が必要になり、困ったのですが、近くのコンビニでマイナンバー・カードで得ることができました。ただ、この便利さは、プライバシーを悪用される温床になる怖さを忘れてはいけませんが。
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平泉の毛越寺あたりは、ほとんど何も残っていませんが栄華の残り香の滅びの美学があるようです(日本)

2019-02-24 08:00:00 | 世界遺産
 平泉の世界遺産紹介の2回目は毛越寺周辺です。中尊寺には諸堂が数多く残されていますが毛越寺にはほとんど残されておらず、毛越寺のお隣の観自在王院は寺院の跡のみで、池と原っぱです。

 
 中尊寺がJRの駅から2kmと離れているのに比べ、毛越寺は駅から西に延びる道が南に曲がるあたり、およそ駅から700mと歩いて行ける距離にあります。手前には、奥州藤原氏2代目藤原基衡の妻が造営した観自在王院の跡があります。奥州藤原氏の滅亡後は荒廃して水田になっていましたが、近年の発掘調査により伽藍の遺構と庭園の修復が行われていますが、大部分は史跡公園の原っぱで奥の方に池があるようです。

 
 一方の毛越寺は、9世紀に中尊寺と共に創建された寺院ですが、その後は荒廃していたものを藤原基衡とその子3代秀衡によって、中尊寺をしのぐ壮大な寺院に再興されました。その後兵火に逢うなどして、大部分の伽藍は消失し、観自在王院と同様に水田化してしまったようです。明治の後半になって、南大門跡の外側に本堂や栗が建てられ、お寺の形態を取り戻し、昭和になり発掘調査により元の壮大な姿が明らかになりました。

 
 
 現在残る遺構は大泉が池を中心とする浄土庭園で、この池の北側に金堂跡などが並んでいます。宇治の平等院を彷彿とするような浄土の世界が広がっていたのではないでしょうか。常行堂のそばには曲水の宴が催された遣水の遺構もあり、平安時代の遺構としては唯一のものです。毛越寺の遺構は、ほとんど何もないところに、大泉が池が広がっているだけですが、何とはなしに滅びの美学を感じます。筆者の学生時代には、毛越寺ユースホステルとして宿泊でき、暗闇の向こうに広がる大泉が池が、かつての栄華をしのばせるように広がっていて印象的でした。

 平泉に繁栄を築いた奥州藤原氏の財源は、大陸貿易と砂金だったそうです。この砂金が金色堂を覆っているんですね。金は宝飾品としてだけでなく、IT分野では、やわらかくて錆びにくい金は無くてはならない金属の一つです。一年間に産出される金のおよそ1/6程度が電子機器に使われるそうです。オリンピックのメダルの材料に、不要になった携帯電話などを改修しようという動きがあり、都市鉱山とも呼ばれました。携帯電話には金だけでなくレアメタルなども沢山使われているわけで、これらが2~3年ごとに買い替えられて捨てられること自体がおかしいのではないかとも思います。
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北播磨と京大坂を結ぶ街道の宿場町の吉川は、高速道のICのある交通要所ですが眠ったような静かな町でした

2019-02-17 08:00:00 | 日本の町並み
 東京などへのベッドタウンとして団地が林立し、作りかけで放置されてお化けマンションまであった鶴川には、昔の田舎も、点在して混在していました。白洲次郎夫妻の武相荘もこのような風景の中に建つ何でもない農家の一つです。白洲次郎は芦屋の生まれで神戸一中を卒業していますが、白洲家の墓は神戸や芦屋から六甲山を裏に越えた三田の郊外の心月院にあります。この辺りは、田んぼの広がる平地に、ぽつぽつと岡が点在し、神戸市へ流れ下る川と三木を経由して明石に流れ下る川沿いに町並みが伸びています。今回は、心月院から西へ、三木に延びる川ぞいに古くから栄えた町の一つである吉川(よかわ)町を紹介します。

 吉川町は、現在は合併によって三木市の一部となっています。神戸市の北、三田市の西、三木市の東とといった場所なので、何れの市と合併しても不思議ではなく、現に神戸市への編入の動きもあったようです。ただ、この案は、内定まで進んだものの県の横やりで実現しなかったのだそうです。一方、吉川へのバスの運行は三田とのつながりが深く、この面から三田との考え方もあったようですが、行政の接点がなくこの案も実現しなかったそうです。

 
 
 
 吉川と書いて「よかわ」と読む地名はちょっと無理があるようにも思えますが、中国道の吉川ICがあることから、全国的に知名度が上がったのかもしれません。歴史的には、北播磨と京都と大阪を結ぶ街道の大坂道の宿場町として栄え、現在の県道17号線は旧大坂道に沿って伸びています。古い街並みは、稲田村と呼ばれた地区の旧街道沿いに、土蔵造りに板壁や格子のある古民家がひっそりと残されています。

 
 
 日本酒の原料として有名な酒米に山田錦がありますが、吉川はこの山田錦発祥の地とされていて、山田錦の館という施設もあるようです。江戸時代から明治にかけての頃に、吉川から伊勢参りの際に酒造りに適した稲を見つけて持ち帰り、これを改良したものが山田錦ということですが、神戸市北区藍那が発祥の地という説もあり、互いに自説を譲らないようです。

 山田錦など農業分野で新しい品種を作り出した時には、育成者権という知的財産権で保護されるようです。一種の特許権ですが、一方「山田錦」という名称をブランドとして差別したい場合は、登録商標として商標権で保護されます。ただ、これは法律上の話であって、新しい品種の種などを海外に持ち出されて栽培される恐れは大きく、現に多くの日本人の血と汗の結晶が不当に海外に持ち出されてしまっているようです。ただ、持ち出された品種であるということを証明するのは、どうするのかと思います。DNAによって鑑定するのでしょうか、まさか植物にICタグをつけて、センサーで検出、なんてことはできないでしょうね。
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砂漠の中のオアシス都市である敦煌には列車で行くのがお勧めかもしれません(中国)

2019-02-10 08:00:00 | 世界の町並み
 マトマタやクサール・ハッタダはサハラ砂漠の砂と石ころの平原に突如として集落が現れました。一方、中国の西部に横たわるゴビ砂漠の中にもいくつかのオアシス都市があります。今回は、中国三大石窟の一つで世界遺産にもなっている莫高窟観光の基地である敦煌周辺を紹介します。

 
 敦煌は、中国の西部の甘粛省にある古代から栄えたシルクロードの分岐点にあるオアシス都市です。市街地は北東から南西に幅10kmほど長さ20kmほどで延び、それ以外は岩山と砂漠です。かつての都であった西安(長安)から飛行機で3時間近く、列車だと24時間ほど西に走ったところにあります。直線距離で1,500km以上、鉄道の距離では1,800kmほどもあり、函館と鹿児島間、ちょうど新幹線の最長区間くらいになり、さすがに中国は広いと感じます。この広さを実感するには、飛行機ではなく、列車での移動がお勧めです、万里の長城の西の端である嘉峪関を過ぎたあたりから、車窓から見えるのは、行けども行けど延々と続く砂漠です。ただ事前に寝台券を現地の旅行代理店などに手配して席を確保しておく必要がありますが。昔は、敦煌の最寄り駅はトルファンなどに行く路線の途中駅で、敦煌との間はバスでかなりかかったようですが、現在は敦煌を終点とする支線ができて市街の中心から東へ10kmほどの所に到着します。敦煌空港も、この駅のすぐ南で、このあたりが交通の要なのでしょうが、滑走路は砂漠の中で、空港の南10kmほどの山麓にある三大石窟の莫高窟まで延々と砂漠が続きます。

 
 敦煌の観光を代表するのは、世界遺産の莫高窟ですが、莫高窟についてはすでに紹介済みなので、そのほかの場所を紹介します。敦煌市の人口は13万人で、成田市や我孫子市くらいの規模で、周りに砂漠しかない都市にしては多いように思います。ヨーロッパでもそうですが、町の中心部には野菜など売る露店や、道路にテーブルを並べた食堂が並んでいて、活気があります。

 
 町の中央部あたりのロータリーには反弾琵琶像といって片足で立って背中で琵琶を弾くというアクロバティクな像が建っていて、莫高窟にも描かれ敦煌のシンボルのようです。このロータリーの近くにには市立の博物館もあり、4千点もの収蔵品を持ち入館料も無料でしたが、ほとんど人影もありません。陵墓からの出土品や絹織物に興味のある方には穴場かもしれません。

 
 市街を南北に流れる川を西に渡った所にあるのが白馬塔で、4世紀に敦煌に経典を運んだ鳩摩羅什が経典を積んでいた白馬がこの地で死んでしまったのを悼んで建てたという塔があります。



 
 

 一方、市の中心部分から南に5kmほど行くと大きな砂山にぶつかります、鳴砂山です。標高差にして100mほどもあるでしょうか、鳥取砂丘とは比べようもありません。入口で、靴の上から履く布製のブーツのようなものを貸してくれますが、これで靴への砂の侵入は止められますが、砂山の頂上まで登るのはとても無理です。有料の木製の階段も作られていましたし、ラクダに乗れば連れて行ってくれたのかもしれません。砂丘の麓には月牙泉という三日月湖があって、そばには塔のある寺があります。この三日月湖は砂漠の中に在って枯れたことが無いのだそうです。

 
 
 市街地の西南端には、日中共同制作映画の「敦煌」のオープンセットを利用したテーマパークがあり、古い中国の町並みが再現されています。1970年台から構想がありましたが、ごたごたが続いたようでオープンセットができたのは1987年で公開は1988年でした。京都にある東映映画村ってところでしょうが、映画村ほどはにぎわってなく、ほとんど人影を見かけませんでした。

 地球上の多くの砂漠はかつては緑豊かな大地であったところが多く、人間が木を伐りすぎて、悪循環の末に砂漠化してしまったようです。ところが、この砂漠の砂の主成分は、人類に恩恵をもたらしているITを支える半導体の原料のケイ素であることは皮肉です。多くの砂漠では、現在も砂漠の拡大が進行していてます。人口が増えすぎて大地が支えきれない状態になってしまったの原因で、地球の歴史からすれば、人類も自然淘汰の対象から逃れられません。その面から、大地が支えきれなくなった後進国の子供に金をばらまくだけの支援は長い地球の歴史の中で考えるとおかしいのでは思います。
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巨大な団地の中に実験住宅や古民家が散在する鶴川です

2019-02-03 08:00:00 | 日本の町並み
 筑波山への参道の起点のつくば市北条には、矢中の杜という昭和初期の和風住宅があり、オーナーが自身で開発した建築材料を確認する実験住宅でもありました。実験的住宅は、設計者は実験とは思っていないのかもしれませんが、建築材料やデザインなどいろいろな面で前例が無い建築は全国で見られます。今回は、数ある住宅の中から住宅というより真っ白な塊にしか見えない原広司邸のある町田市の鶴川近辺を紹介します。

 鶴川は町田市の東北部、小田急で新宿から町田のちょっと手前、急行は止まらない鶴川駅が最寄りとなります。鶴川団地を中心に、東京などへのベッドタウンになっています。

 
 原広司邸は、鶴川駅から小田急の線路に沿って町田方向に300mほど行ったところ線路際に建っています。30年ほど前に牛田&フィンドレイの設計で建てられトラスウォールハウスと呼ばれています。外壁は現在ではかなり汚れていますが、真っ白で、平面と開口部が無くぐにゃぐにゃした感じです。航空写真で見ると、開口部は上部と外壁に囲まれた中庭のような部分のようで、まさしく実験的なデザインのようです。

 
 
 駅を挟んで実験住宅とは反対側には、茅葺の古民家の可喜庵があります。旧街道沿いに唯一残った古民家で、ギャラリーやミニコンサート会場として利用されているようです。隣にはツタのお生い茂った工務店の建物が建っていて、対照的な風景を作っています。道路を隔てた北側には階段の上ったところに妙行寺があります。ここから、先ほどの対照的な建物の屋根が連なって見えます。

 
 
 ここから北に行くと龍が谷神社が小高い丘の上に建っていて、その途中にもちょっと趣のある民家があったりします。神社を超えて、調整池の横をさらに北に行くと、鶴川第二小学校に突き当り、その左隣には石川邸という農家の古民家があります。藁ぶき屋根の中央部分だけがトタン張りになっていてちょっと、異様な感じに見えますが、内部は明治期に建てられた農家の様子が残されています。

 
 西に坂を下って鶴川街道を渡った先の小高い丘の途中に能が谷きつねくぼ緑地があります。マンションの新築途中に違法が発覚し工事が中断、裁判が結審するまで、証拠物件として存在した場所です。工事の途中の建物は、壁のないこんくりーとの廃墟としてお化けマンションとして、映画のロケなどに使われたそうです。現在は、廃墟は取り壊され、雑木林が茂る、市の公園となっています。

 
 この緑地公園の左側に、白洲次郎夫妻が暮らした武相荘が建っています。太平洋戦争末期に戦況の悪化に伴い新宿からこの鶴川の農家に疎開し、戦後もなくなるまで暮らした家です。雑木林の中に建つそっけない古民家で、内部には白洲夫妻の関連資料が展示されています。また、前庭には次郎が乗り回したというクラシックカーのベントレーが展示され、別棟にはレストランもあり、白洲ファンの方々でしょうか、かなり繁盛しているようです。

 原広司邸は上部にのみ開口部があるようですが、周りに土地の余裕がある郊外より都心の密集地に有利な建物かもしれません。周りの目を気にすることなく、開放的な窓などを作れるわけですから。できれば、平面を円形にして、太陽とともに回転できると、もっといいかもしれません。ただ、TVなどの指向性のあるアンテナ類は、天体望遠鏡の赤道儀のように動きを打ち消す仕組みが必要かも。TVアンテナの話でちょっと役に立つ話です。都会で、方角を見失った時には、衛星のバラボラアンテナを探せば、おおよその方角がわかります。地上波のアンテナは、送信所の方角が地域でバラバラですが、衛星の方角は日本中で南南西だからです。
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難産の末に世界遺産に登録された中尊寺ですが、そこには浄土の世界が広がっています(日本)

2019-01-27 08:00:00 | 世界遺産
 フィクションの世界では生き血をすする吸血鬼として描かれたドラキュラですが、モデルとなるツェペシュ公は外敵から祖国を守った英雄でした。ツェペシュ公のの生まれ故郷のシギショアラの歴史地区は、新市街に浮かんだ島のような古い街並みの残る素敵な世界遺産でした。ツェペシュ公にとっての外敵はトルコ軍でしたが、内乱の時代には国内にも外敵が存在するわけで、鎌倉幕府に対抗して滅ぼされたのが奥州藤原氏です。今回は三代に渡って繁栄を築いた奥州藤原氏の拠点であった平泉周辺を紹介します。

 平泉の世界遺産登録も富士山と同様に難産でした。2008年の世界遺産会議での登録を目指しましたが、その前年のICOMOSの視察などから登録延期を勧告されました。世界遺産会議では、その延期勧告を逆転できず、2011年に延期勧告などの内容で登録範囲や主題を変更してようやく登録になりました。政府が推薦をした候補の登録が延期になったのは平泉が最初で、暫定リストに候補として載っていた各自治体はショックだったようです。文化庁が各自治体に世界遺産候補を公募する呼びかけを2008年以降打ち切ったのも、この平泉ショックが原因ではないかと言われています。

 平泉町は、岩手県最南端の一関市の北側に接する人口8千人に満たない田んぼと山林の広がる町ですが、現在登録されている世界遺産のお寺や遺跡は、すべて平泉町の範囲にあります。登録エリアの拡大を目指していて、これが見てられると一関市や奥州市に指定エリアが広がるかもしれません。登録は6件の遺産からなりますが、今回は中尊寺、そして次回は毛越寺を中心に紹介します。

 
 中尊寺は、JR平泉駅の北北西2kmほど、歩くとちょっとかかりますが、世界遺産を回遊す「るんるんバス」という小型のバスが走っていて効率よく回ることができます。バスは中尊寺の参道の下で止まり、ここから月見坂と呼ばれるだらだら坂を1km近くも上ることになります。バス停の近くには弁慶の墓と言われる五輪塔と句碑があります。

 
 
 月見坂の途中には、いくつかのお堂があり、甘酒などを飲める茶店もあります。学生の頃に訪れた時には、さほどの坂には感じなかったのですが、運動不足のこの頃ではけっこうつらい。坂を上りきる手前の右手に明治時代に建てられた本堂があります。学生の頃に宿坊で泊まりましたが、このあたりだったのでしょうか。さらに進むと左手に讃衡蔵があり、ここで拝観受付をします。讃衡蔵は1955年に開館し、現在の建物は2000年に新築され山内の重文クラスの仏像を展示する収蔵庫です。さらに奥に進むと左手奥が金色堂で、現在はコンクリート製の鞘堂に収まっています。金色堂は戦後の文化財保護法による国宝指定の第1号で、もっと古い建造物がたくさんあるのになぜ?と思いました。これは金色堂が、同時に指定を受けた36件の国宝建造物の中で、最も北にあったためだそうです。金色堂は、思ったより小ぶりですが、金箔を初めありとあらゆる装飾が施されて存在感があります。この須弥壇の中に奥州藤原三代のミイラと頼朝にたてついて滅ぼされた四代泰衡の首級が納められています。

 
 
 
 金色堂は1962年までは木造の鞘堂に収まっていて、金色堂の解体修理の時に現在の状態になったようです。旧鞘堂は、金色堂の右手の奥まったところの経蔵の隣にに移築され、こちらも重文指定です。このあたりには芭蕉の「五月雨の降り残してやひかり堂」の句碑もあります。金色堂や旧鞘堂のあたりには釈迦堂や弁財天堂、阿弥陀堂などが木々の間に建ち、放生池のような池もあってお寺らしい景観です。そして最も奥まってところにあるのが白山神社で、近世の能舞台として東日本で唯一で重文指定の舞台があります。

 平泉は奥州藤原氏が4代にわたり、およそ70年という短い繁栄のあと寺院などの建造物だけを残して消滅してしまった都です。建物は残ったのですが、文献的な詳細資料は吾妻鏡くらいしか残されていないそうです。資料的な文献は大切に保存され、収蔵庫などに保管されるでしょうが、個人所有の本などの置き場には困ります。最近は、もっぱら図書館利用です。もらった資料などはスキャナで取り込んで電子化をしてますが、電子化で安心してしまって、その後はアクセスしていないですね。
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筑波山への参道沿いの北条には理想住宅を目指した矢中の杜も残されています

2019-01-20 08:00:00 | 日本の町並み
 竹ノ内街道の奈良県側は、街道と並行して二上山に向かって當麻寺の参道が伸びていました。格子や白壁の家並が続き、天覧相撲の発祥の地もこのあたりでした。かつて、その土地で目立った山々は信仰の対象となることが多かったようで、関東平野に独立峰としてそびえる筑波山は、全体が筑波山神社の神域になっています。この筑波山神社に詣でるため江戸時代に作られたのがつくば道で、終点はもちろん筑波山神社ですが始点はつくば市の北条地区になります。今回は、この北条地区から少しつくば道を北上した神郡(かんごおり)あたりまでを紹介します。

 つくば市北条地区は、JR常磐線の土浦からつくば神社行きなどの路線バスで40分ほど乗ったところ。バス道路の周辺に家並はありますが、それ以外は見渡す限り田んぼが続きます。中心になる北条仲町で下車をすると、道端に「ここより つくば道」の巨大な石柱が建っています。つくば道は、ここからほぼ真北におよそ6km、つくば神社まで続いています。


 
 
 北条仲町には、矢中の杜という昭和初期に建てられた近代和風住宅が残り、毎土曜日に内部が公開されています。建てたのは建材研究家の矢中龍次郎氏で、15年をかけて研究成果の建築資材を駆使した理想の和建築を目指したものだったそうです。本館と別館の2棟からなり、国の登録文化財になっています。皇室を招くことも意識をしたようで、居住スペースの本館に対して、別館は迎賓館として使われたようです。龍次郎氏が亡くなってしばらくしてからは、40年ほど無住となりましたが、平成20年に所有者が変わった後、手入れが進み、現在のような姿になったそうです。

 
 この北条仲町のバス停の南側には、江戸末期に建てられ醤油の醸造販売を行っていた宮本家住宅の重厚な土蔵造りの建物が残っています。道路側からは店蔵しか見えませんが、奥にも土蔵造りの住居が残っているそうです。こちらの店蔵も登録文化財です。

 
 
 
 さて、つくば道の道標から北に向かうと、真言宗の普門寺などがあり、そのほかは丘や林や田んぼが続く道です。普門寺は14世紀の創建で、つくば市で最も古いお寺の一つ、豪族の小田氏の出城の役割を果たしていたそうです。普門寺を通り抜けてさらに北に進むと神郡地区です。江戸時代には陣屋も置かれたそうですが、むしろ筑波山への参道として発展した名残がある町並みです。土蔵造りや長屋門、それに石倉などが残りますが、なんとはなしに虫食い状態のような感じを受けます。

 矢中龍次郎氏の発明品にマノールというものがあります。セメントに混ぜて、防水性を高める添加物で、屋上や外壁などに塗るモルタルに使われるそうです。鉄筋コンクリートの建物は、文字通り中に鉄筋が入ってるわけで、この鉄筋を錆びさせる水は大敵です。水が大敵なのはIT機器も同じで、かつての携帯電話機には、内部に水と反応する特殊塗料が塗られていました。この塗料の色が変わっていたら携帯を水濡れさせた証拠で修理不能とされていました。最近のスマホでは、裏ブタをしっかり閉めると、万が一水中に落としても無事のようです。サウナや湿式サウナでスマホや携帯を使ってるのを見てビックリします、高温もIT機器は苦手のはずなんですが。
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マトマタやクサール・ハッタダはスターウォーズのロケ地だけに地球上とは思えない広陵とした砂漠の中にポツンとあります(チュニジア)

2019-01-13 08:00:00 | 世界の町並み
 初代のカンフースターであったブルース・リーの祖先の出身地は中国の広州郊外にある順徳で、清暉園には記念館もありました。ブルース・リーの戦う範囲は地球上の悪者でしたが、舞台を宇宙にまで拡大した映画の一つがスターウォーズで、多数の観客動員をしました。この映画のエピーソード1~4でロケに使われたのはチュニジア南部で、それらの場所の中から、今回はマトマタとクサール・ハッタダとを紹介します。


 クサール・ハッタダやマタマタは、チュニジアの南部のリビアとの国境にも近い砂漠地帯の集落です。最寄りの都市は、鉄道の南端の終着駅であるガベスや、空港があってリーゾート・アイランドのジェルバ島ですが、そこから公共交通機関があるというわけではありません。現地で四駆の車をチャーターして、砂漠の中の道なき道をひた走ることになります。チュニジアをグーグルの航空写真で見ると、スースから北半分、首都チュニスなどがある地域だけが緑で、国土の南側6割くらいは茶色の世界です。日本人の感覚では、砂漠という名前から、砂漠は鳥取砂丘のような細かな砂山が続いていると思われがちですが、もちろんそのような部分も多いようですが、マトマタなどの近くは、石ころが多く木が無いはげ山のような砂漠が続いています。

 
 
 クサール・ハッタダはスターウォーズのエピソード1で主人公のアナキン少年の住む家としてロケがされた所で、入口付近にその旨の看板も立っています。集落は、土で作られた連続アーチの集合住宅のようなものでした。筆者が訪問した時には、この構造物を利用したホテルの建設が予定されていましたが、まったく人影は見当たらず、ゴーストタウンの雰囲気でした。この感じが、映画のロケ地に適していたのかもしれません。ちなみに、クサールとは、食料を保存するための倉庫群やオアシス住民の伝統的村落との意味だそうです。



 
 
 
 一方のマトマタは、まだ現役の土の住居です。ただ、政府は近くに新マトマタの市街を作って、住民の転居を促したようで、観光客が訪れるのは急マトマタで、転居しなかった住民が住んでいます。こちらもスター・ウォーズのロケに使われスカイウォーカーの家として使われたそうです。クサール・ハタダが、平地に土でこねた建物を載せた構造になっているのに対して、マトマタは、地面を掘り込んで大きな穴を造り、その壁に横穴を掘って居住空間としています。人間の居住だけでなく、動物が飼われていたり穀物倉庫になっていたりします。給マトマタは、どうも完全に観光地化しているようで、博物館的です。訪問する観光客には、紅茶と思しき飲み物もサービスされ、チップで生活しているようです。

 筆者がマトマタなどを訪れた時は、チュニスにある旅行社を通じて運転手付きのワゴンをチャーターしました。ドライバは、それこそ鼻歌交じって感じで道とは認識できないような所を走って行きます。もちろん、乗り心地は最悪ですが。こんなところでは、GPSやINSなどの電子機器があれば現在位置が正確に把握できるのでしょうが、それらしき道具を付けっている様子はありません。かつて、砂漠をラクダに乗って移動した商人たちの末裔には電子機器より優れた人間の感覚が備わっているようです。
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