世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

いろいろな歴史を持つ城が川沿に連なるロワール渓谷はパリからの手軽な日帰り圏です(フランス)

2009-11-29 08:00:00 | 世界遺産
 北欧のヴェルサイユと呼ばれるドロットニングホルム宮殿は、船に乗って訪問もできる湖畔の水辺に面したお城でしたが、一つの川の流域にたくさんの城が建ち並んでいるのがロワール渓谷です。今回は、ロワール渓谷にあるお城の中から、いくつかを紹介します。

 ロワール川は、フランス南部のセヴェンヌ高地から北に流れ、オルレアンから西に流れを変えてフランス西部で大西洋に注ぐ川です。世界遺産に登録されるロワール渓谷はオルレアンあたりから下流の部分で、首都のパリから南から南西方向に100~150kmほどの距離になります。この渓谷には、著名なものだけでも20以上のもの城が残されています。パリからさほどの距離でないため、数多くの日帰りバスツアーが出ているようです。

 そういう筆者も、この種の日本人相手のバスツアーに乗ったのですが、なにせ初めてのヨーロッパ旅行で自分の足で訪問する自信は無く、連れて行ってもらうしかありませんでした。もう20年も前のことなので、記憶もかなり曖昧になっていて、紹介する情報も古くて換わっていることの方が多いかもしれません。ただ、建物や自然の大部分は、20年経っても変わっていないと思うので、薄れ行く記憶を呼び覚ましながら紹介したいと思います。

 パリから出発した日本人向けバスツアーは、日本人向けですから当然日本語の話せるガイドさんが付いてくれます。20年経っても忘れないのが、このガイドさんの話し方なのです。開口一番、この話し方は何処かで聞いたぞ!・・そう、F.モレシャン女史の話し方そっくりなのです(F.モレシャン女史は、ラジオのフランス語会話の講師を始めとして、種々の分野で活躍した、外人タレントの草分け的存在)。友人が、仕事で付き合ったフランス人女性の話す日本語が、「モレシャン女史とそっくりだった」、と言っていたのも思い出しました。どうも、外国人の話す日本語の話し方にも、その外国人の母国語ごとの共通性が出てくるようです。

 さて、世界遺産のお城の話に戻りましょう。バスツアーでは3~4箇所のお城を訪ねたようでしたが、記憶に残っているのは、シャンボール、シュノンソー、ブロワそれに車窓から眺めたアンボワーズ程度です。

 シャンボールは、ロワール渓谷のお城の中で最大のもので、訪問した頃にはシャンボール城のみが単独の世界遺産だったようです。バスを降りてから、緑の中をだいぶ歩いたような記憶があり、周りの風景もゆったりしていて好印象です。ただ、城内の掃除が行き届いていないのか、保存のためなのか、埃が溜まって小汚いのです。これは、ヨーロッパのお城に、かなり共通するところですが、日本人と彼らとの考え方の違いなのかもしれません。

 シュノンソーは、女性の、特に日本人の女性に人気の高いお城のようですが、その優美な外観とは裏腹に、一人の国王を巡る女の争いの舞台にもなったお城です。お城はシェール川を跨ぐ橋状に作られていて、内部がギャラリーになっています。城の内部も、あっちへ、こっちへと案内されましたが、あまり記憶には残っていなく、ディアーヌの庭と呼ばれているお城手前の庭園の造形美が印象深かったように思います。

 ブロア城は、緑の中にあった他の城と比べ、町の中の高台に建っています。バスを降りて、小高い丘の上に建っているお城まで歩かされた記憶があります。4世紀に渡り増築が繰り返された建物群が、中庭に向けて建てられたものだとの説明を受けましたが、レオナルド・ダ・ビンチの設計に準拠したという螺旋階段が、なぜか記憶に残っています。

 アンボワーズ城は、ロワール川に面したお城で、川を統制する要塞として立てられたようです。我々のバスは、川の対岸から城の外観を眺めただけでした。

 レオナルド・ダ・ビンチは、芸術分野だけではなく、科学技術の面などでも多くの功績を残していることはよく知られています。かつて全日空(ANA)がシンボルマークに使っていた螺旋はダビンチの描いたヘリコプターのスケッチですし、歯車を用いた世界初の機械式計算機を作ったのも彼でした。現在ほど各専門分野で必要とされる知識が膨大ではなかったので、これだけ多方面で活躍できた、という解釈もできるかもしれませんが、もしダビンチが現代に生まれていたら、どのような活躍をしていたでしょうか。イラク紛争など、人間同士の争いごとの多さに、人類の将来について失望したかもしれません。

姨捨に近い稲荷山宿は、俗世間から捨てられたかのようにひっそりと蔵の町並みが続いていました

2009-11-22 08:00:00 | 日本の町並み
 武田氏の滅亡の有様を克明に記録した武田滅亡記が保存されている大善寺があるところがワインのふるさとでもある勝沼でしたが、武田信玄と上杉謙信が戦った古戦場として有名な場所が川中島です。川中島の戦いは第五次まで戦われ、そのうち最大の第四次の主戦場が千曲川と犀川の合流地点の島状となった八幡平であったことから、総称して川中島の戦いと呼ばれています。最終戦の第五次の戦いは、西寄りの塩崎城が舞台になりましたが、この塩崎城があった近くの宿場町が稲荷山宿です。蔵の町としての町作りが進められている町並みを紹介します。

 稲荷山宿は、江戸時代に善光寺西街道の宿場町の一つとして、また呉服問屋を中心とした商人の町として栄え、明治期には生糸の集散地として長野県第二の税収があったそうです。しかしながらJRの駅が地元の反対にあって、遠くはなれたところに作られたことことも原因になり、商都としては衰退してしまい、冷凍保存されたような蔵の町が残されたようです。かつての宿場町が、鉄道が通ることを嫌った例は多いようで、首都圏では甲州街道沿いの反対で、現在のまっすぐな中央線が出現したのは有名です。兵庫県の篠山でも反対にあった駅は、町のはるか南に作られ、あげく利用者が少なくって廃線になってしまいました。

 その最寄り駅の稲荷山駅は、JR篠ノ井線を篠ノ井から松本方向へ一駅乗ったところです。篠ノ井線は急勾配が続く線ですが、

車窓からの眺める善光寺平の眺望で有名なスイッチバックの駅の姨捨(おばすて)駅の手前、稲荷山駅は勾配に差し掛かるふもとの駅です。前述のように、駅は稲荷山地区の北2kmほどのところにあって、行政的には長野市篠ノ井に属し、稲荷山地区は千曲市の一部になっています。品川駅が品川区ではなく港区に属し、京急線で一つ南に乗った駅が北品川ということと同じ状況です。
 
 稲荷山駅を降りて、車の行きかう県道を2kmほど南に行くと、稲荷山地区に着きます。筆者が訪問したときは、朝の7時頃だったせいか、町全体がひっそりしていました。

ひっそりしているというより、人の気配の無いというか、生活の匂いがしない廃墟のような感じがするのです。あとで調べてみると、無住の家が増えていて、せっかくの土蔵つくりの家並みも傷みが激しいのだそうです。壁がはがれたり、屋根の一部がトタン張りになっていたり、滅びの美学を通り越して、ちょっと痛々しい感じを受けます。
  
松本と長野という観光地の中間で、善光寺平を背景にした棚田の風景でJRの美しい車窓風景の十指に入る姨捨も近いという地の利がある場所にある稲荷山です。俗化するのはイヤですが、このまま朽ち果ててしまうのは惜しいように思います。
 
 姨捨は、「楢山節考」のモデルにもなった、口減らしのため老人を山中に置いてくる伝説の山です。縄を灰で作る知恵を、山中に捨てたはずの老婆から教えられて、老人の知恵に感心をし、棄老を戒める物語になっています。この姨捨の行為は、携帯電話の風潮に似ている気がしてなりません。さして不都合が無く、使い勝手も慣れている端末を捨てさせて、次々と新しい端末に買い替え誘導をするのは一種の姨捨ではないだろうかと?ただ、この場合は、出費を抑制するために捨てさせられるのではなさそう、というところが違うところでしょうか。

葡萄やワイナリーの他に、廃線のトンネルやお寺に古い町並み、おまけに温泉もある勝沼です

2009-11-15 08:00:00 | 日本の町並み
 西の灘と呼ばれた明石の西にある江井ヶ島酒造は、日本酒だけではなくウィスキーやワインまでも醸造する、総合酒造メーカーでしたが、日本のワインのふるさとといえば、勝沼を外すことはできないでしょう。今回は、ワインやぶどうだけではない勝沼の顔を紹介します。

 勝沼は山梨県のほぼ中央にあり、現在は塩山市などと合併して甲州市の一部となっています。江戸時代から葡萄の栽培が行われていたようで、現在ではその葡萄を原料とした数多くのワイナリーがあります。ただ江井島酒造のワイナリーは、もっと西の北杜市にあるようです。甲府方面の中央線に乗り大月を過ぎると、大きく北に曲がって笹子トンネルと新大日影トンネルを抜けたところにある駅がその名も勝沼ぶどう郷駅です。ちなみに、旧大日影トンネルは、中央線の複線化のときに廃線となり、産業遺産として保存され、遊歩道として通り抜けられるようになっています。また、トンネルの一部はワインカーブとしても使われているようです。駅は勝沼の町並み見下ろす高台にあって、遠くには南アルプス、手前にある丘は葡萄の丘です。頂上には「天空の湯」という天然温泉があって、露天風呂からは目に下に葡萄や桃の畑が見晴らせます。

特に春の桃の花の頃は、雪を頂くアルプスを背景にしたピンク色の広がりは、まさしく桃源郷の気分です。

 勝沼の地名は、武田氏の親戚にあたる勝沼氏の領地であったことに由来しており、中央高速の勝沼ICの北には館跡があります。このあたりは駅のあるところからは随分と下った白川沿いに回廊状になったところです。少し上流に行くと、平安時代に作られたという大善寺があります。13世紀に建造された国宝薬師堂の桧皮葺の大きくのびやかな屋根は見ごたえがあります。

大善寺は、武田勝頼が織田、徳川連合軍との戦いに戦勝祈願をしたお寺で、その後味方の離反で天目山で自決をしましたが、この顛末を記録した武田滅亡記もこの寺に保存されているようです。

 大善寺とは逆に、川下に勝沼小学校のあたりまで行くと、通りに沿って土蔵造りの家や、格子の美しい家が残されています。
 
3階建ての土蔵は壁の表面の漆喰が剥落して土壁が露出していましたが、かえって滅びの美学があるようです。これらの町並みの中に旧田中銀行の建物が残されています。明治時代に勝沼郵便電信局舎として建てられ、大正期に田中銀行の社屋として改修されたものです。

表から見る建物は、銀行というより、昔の役場の雰囲気を感じるのは、役所の一種であった郵便局として建てられた建物だったからでしょうか。

 勝沼というとワイナリーを紹介しないといけないのかもしれませんが、ワイナリー以外にも魅力の多い所です。ブドウ畑の畦のそばに、石版に彫られた六地蔵があったりするのも心がなごみます。

葡萄や桃などの果物狩り、それにワイナリーめぐりのついでに、ちょっと散歩に寄り道してもよい町並みが残っている勝沼です。

 ワインといえば、長く熟成するものという常識を逆手に取ったものがボジョレ・ヌーボです。その年にできた若いワインを11月の第三木曜に販売を解禁するものです。日本は時差の影響で、先進国の中では最も早くに解禁される国の一つで、バブルの頃にはブームになり、若いワインとは思えない価格で販売されたときもあったようです。一方、ITの分野では、通常は半導体中の不純物を極限まで少なくした材料を使うのが常識でしたが、逆に不純物を増やすことでできたのが江崎玲於奈博士の発明したエサキ・ダイオードです。常識に反した行動を取るのは難しいことですが、その先に新しい発見やビジネスチャンスがあることも時としてはあるのですね。

北欧のヴェルサイユといわれるドロットニングホルム宮殿は現役の王宮でもあるのです(スウェーデン)

2009-11-08 08:00:00 | 世界遺産
 ハプスブルグ帝国の首都として芸術の花が咲いたのがウィーンでしたが、ハプスブルグの女帝マリア・テレージアの娘のマリ-・アントワネットが、嫁ぎ先のフランスで愛した宮殿が他ならぬヴェルサイユです。ヴェルサイユ宮殿は、ヨーロッパの王室や貴族に影響を与え、これを真似た宮殿がいくつか造られました。今回は、これらの中から北欧のヴェルサイユと称されるドロットニングホルム宮殿を紹介します。ただし、正確にはドロットニングホルム宮殿はヴェルサイユを真似たものではないようです。

 ドロットニングホルム宮殿はスウェーデンの首都のストックホルムの郊外にあり、地下鉄とバスとを乗り継いで30分あまりで到着します。船でアクセスすることもできますが、1時間ほどかかるようです。船でアクセスできるということは、宮殿がメーラレン湖に面しているからで、最寄のバス停で降りて、宮殿への道を歩いていくと湖畔に出て、その向こうに宮殿の建物が建っています。

ヴェルサイユと比較すると、さすがに規模は半分以下ですが、こちらはスウェーデン国王が住まいする現役の王宮なのです。したがって、公開されているのは、王宮として使われている部分を除いたところですが、それでも廊下を歩いて廻るとかなりの距離になります。

 ヴェルサイユでは、宮殿の後方に広大な庭園を持ち、中央には2kmほどにもなる大運河が掘られていますが、ドロットニングホルムでも宮殿の後方には緑が広がっています。大運河こそありませんが、1kmほどにもなる芝生の庭が伸びていて、ところどころには彫刻をあしらった泉や付属の建物があり、周辺は緑豊な森が広がっているところもヴェルサイユ的です。
 
ただ、何処となく雰囲気が凛としているのは、高緯度に位置しているためかもしれません。

 付属の建物のうち、中国館は宮殿からかなり離れた庭園の中に建てられています。外観は中国風といわれるのですが、そういわれれば屋根の形がロスのチャイニーズシアター風ってところでしょうか。宮殿の壁が一色でシンプルな仕上がりになっているのに対して、こちらは金色も使って、ちょっとおとぎの国風になっています。

建物の、内部も中国の工芸品などで統一されているようですが、この中にも日本製と思しきものがまぎれていました。

 宮殿の入り口の横には宮廷劇場があります。18世紀に建てられ、現在も現役の劇場として使い続けられています。内部は、ガイデッドツアーでのみ見ることができ、作られた当時と変わらない舞台装置の仕組みを見ることができます。この仕組みは、歴史が古いにもかかわらず、10秒程度でシーンの変更ができ、舞台の奥行きも国内最大のタイトルを保持しているようです。ただ、これらの情報はガイドブックなどからで、ガイドさんの説明はまるっきり解りませんでした、時間の都合で英語のツアーではなくスウェーデン語のツアにのっかたためです。

 宮廷劇場の照明は、現在ではさすがに蝋燭の形をした電球になっていましたが、かつては蝋燭そのものだったわけです。日本の内子座などの古い歌舞伎舞台でも感じたのですが、さぞや暗かったのではないかと思います。舞台化粧がど派手なのは、暗くても目立つように行われた伝統でしょうか。ただ、ほの暗い中で演じられる芝居は、見えない部分に想像をかき立てられ、創造にも結びつく良さがあるかもしれません。あらゆる情報が、ネットを介して詳細な部分まで見えてしまう現在は、便利ではあっても、創造力の欠落した人間を多く作り出してしまうのかもしれません。

東の灘に対して、西灘と呼ばれた江井島(えいがしま)には屋根の形が美しい古い酒蔵が残っていました

2009-11-01 08:00:00 | 日本の町並み
 軟水を使った飲み口の柔らかい女酒の故郷は広島県の安芸津でしたが、兵庫の灘の酒は、硬水で作られる男酒と呼ばれています。灘五郷は日本を代表するお酒の産地として有名なのですが、兵庫にも灘のお酒以外に地酒の産地があります。今回はそれらの中から、明石の西にある江井島を紹介します。併せて、明石と姫路の間の山陽電鉄沿線にある町並みのいくつかについても触れたいと思います。

 江井島は日本標準時子午線の町の明石市の海岸沿い、中央よりやや西よりにある大久保町の一部です。地名の表示は江井島ですが、山陽電鉄の駅名や酒造会社の名称は江井ヶ島の表記になっています。

灘五郷の流れを汲んだ江井ヶ島酒造は江戸時代の初期17世紀にお酒造りを開始して、明治期に付けた「神鷹」のブランドで全国的に知られています。工場は山陽電鉄の西江井ヶ島駅から海に向かって400mほど歩いたところに、本社のビルと酒蔵が並んでいます。

灘の古い酒蔵の大部分が、阪神大震災によって大きなダメージを受け、新しい建物に置き換わってしまいましたが、こちらは黒かびの付いた昔ながらの板張り酒蔵が健在です。先に紹介した半田の醸造蔵は切妻のそっけない外観でしたが、こちらは複雑な屋根の形をしていて、屋根の上には煙抜きのようなものも作られています。

屋根の入り組んだ線と瓦の光沢、その下のくすんだ板張りの壁の組み合わせは他ではあまり見かけない美しさです。

 日本酒の酒造メーカは、本業の日本酒のみを生産する企業が大部分なのですが、江井ヶ島酒造は日本酒に加えて、焼酎(ここまでは他の酒造メーカでもありそう)やウィスキー、ブランデーそれにワインも生産しています。ワインの生産拠点として山梨県にはのワイナリーももっているという、ちょっと変わったお酒屋さんなのです。

 江井ヶ島を走っている山陽電鉄は、神戸と世界遺産の姫路とを結ぶ私鉄で、開通は明治期という歴史の古い鉄道の一つです。かつては、神戸と明石、そして明石と姫路とで別の会社でしたが、戦前に電力会社に買収されるときに2社が統合、直通運転が実現したのだそうです。神戸市内の私鉄を相互に結ぶ神戸高速鉄道を経由して阪急、阪神と結ばれ、さらに阪神が大阪の難波で近鉄と結ばれた現在は、原理的には姫路から奈良まで直通運転が可能になっています。山陽電鉄の話が長くなりましたが、この山陽電鉄の江井ヶ島から姫路の間にも、個性的な町並みが残っています。以前に、このブログでも紹介した高砂もその一つですが、今回は大塩と妻鹿(めが)を紹介します。

 大塩は、その名の通り製塩業で栄えた町で、駅の北側には塀をめぐらした広大な敷地を持つ家並みが続いています。塀の中には土蔵つくりの立派な母屋が見られます。

おそらく、これらの家々は塩で財をなした塩長者の館なのかもしれません。

 妻鹿は、大塩よりさらに姫路寄りの市川の河口に、漁業の集散地として発展した町です。現在は埋め立てが進んで町並みから河口まではだいぶ距離がありますが、かつては家並みのすぐ先が瀬戸内海だったようです。細かな路地が入り組んだところに、木造の家が建ち並んでいますが、その中に固寧倉(こねいそう)と呼ばれる建物が残っています。
 
これは、江戸時代後期に作られた飢饉の時のための穀物備蓄庫で、中国の制度を真似たものだそうです。また、家並みの中には、石臼を数多く埋め込んだ塀のあるお家もあって、ユニークな感じを受ける町の一つです。

 神戸高速鉄道ができる前は、大阪と結ぶ阪急、阪神は各々三宮と元町がターミナルで、姫路と結ぶ山陽は兵庫がターミナルになっていて、その間は市電や市バスで乗り継ぐ必要がありました。東と西とに分かれたターミナル間を地下で結んだのが神戸高速鉄道で、駅とレールしか持たない第3種鉄道です。ただ、レールはつながったものの、当時の山陽と阪神、阪急では架線電圧が異なったため、相互乗り入れはそう簡単ではなかったようです。いろいろと議論の結果、1,500Vの山陽に、600Vであった他の2社が合わせ、相互に直通を可能にしました。架線電圧が高いほうが、輸送力の増強には有利なので、よい選択だったのではないでしょうか。ただ、国際列車が走るヨーロッパに行くと、架線電圧だけでなく、交流と直流や、交流の周波数も異なるところを、それも2種類だけではなく4種類も切り替えて直通する列車もあります。複数の電気系統を持つ電気機関車や電車はコストがかかって大変でしょうが、機関車などの数がさほど多くないので何とかなるのでしょうか。個人が持ち、電気機関車とは桁が違う数が出回っている携帯電話でも、2種類の回路を搭載して、電波の方式の異なる海外でローミングできる機種も多いのはどうしてでしょうか。