世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

竹林の向こうに光源氏が現れるかもしれない嵯峨野

2006-10-29 13:57:06 | 日本の町並み
 漆塗は、遺跡に長い間埋まっていても皮膜が残とのことですが、埋められることも無い無縁仏を集めて供養したお寺が京都の嵯峨野の外れにあります。化野(あだしの)念仏寺がそのお寺で、8月の千灯供養は境内を埋める数多くの蝋燭の灯が幻想的で、多くのカメラマンを引き付けるようです。今月は、念仏寺のある嵯峨野一帯を紹介します。

 嵯峨野は京都の西、嵐山の北辺に広がる一帯で、紅葉の名所となる寺院も多く11月の中旬には、観光客の人出が銀座も顔負けとなり、車ででかけようものなら渋滞で身動きできなくなります。自家用車の乗り入れ規制が行われることもありますが、路線バスもこの渋滞に巻き込まれるので、歩くのが一番速そうです。

 散歩の起点は、阪急や嵐電と呼ばれる京福電鉄の嵐山駅になり、JRの山陰線が便利になったことから嵯峨嵐山駅も利用者が増えたのではないかと思います。旧山陰線を利用したトロッコ列車が目当ての方々はJRの駅を利用されるのでしょう。嵐電は途中に映画村などもあり、一部の区間で路面を走っていて、数の減った路面電車の一つとして観光客にも人気の路線のようです。

 駅周辺は、お土産屋が軒を連ねて、あちこちで見る観光地の顔をしていますが、少し歩くと竹林や雑木林や田畑が広がります。竹は京都を代表する植物の一つで、長岡京にはたけのこ料理専門の料理屋があり、エジソンが電球のフィラメントに使ったという竹も石清水(いわしみず)八幡のもので境内にはその記念碑が建っています。

 ところで念仏寺は、嵐山駅からは最も遠くに位置していて、少し足の疲れた頃にたどり着くお寺です。お寺の入り口のだらだら坂を上ると、無縁仏を祭る無数の石塔が目に飛び込んできて圧倒されます。石塔の他は取り立てて有名な仏像や建物があるわけではなく、無機質の石塔群を前にして世の無常を感じる場所の一つなのかもしれません。嵯峨野の寺院には二尊院のように有名な仏像を安置するお寺もありますが、全体としては雰囲気を味わうお寺や神社が多いように思います。平家物語に登場する祇王、祇女ゆかりの祇王寺や滝口入道の滝口寺、源氏物語にも登場する野々宮神社など、風景の向こうに物語の登場人物を重ね合わせてみるとさらに楽しいかもしれません。

 ところで、散歩の途中で、物語の登場人物や歴史のことを調べたくなることってありますよね。前もって文庫本を携えて散歩に出かけるのもいいのですが、訪れた場所で突然に知的好奇心に襲われることがあります。現場を離れてしまうと忘れてしまうような些細なことなのかもしれませんが、妙に気になることも多いものです。ケータイや通信機能と組み合わせたPDAなどを持って行くとこのような時に楽しいかもしれません。専属の解説者を連れた贅沢な散歩をしているようなものでしょうか。

コスモスの咲く花の国のある横須賀はペリーの頃から新しいものに縁のある町

2006-10-22 13:58:07 | 日本の町並み
 秋の青空にはピンク色のコスモスが似合います。コスモスは群生で栽培され、花も面的に広がって咲いているのが絵になるように思います。コスモス畑は首都圏にも数多くありますが、今回はこれらの中から久里浜の「はなのくに」とその周辺を紹介します。

 通常コスモスはピンク色のものを思い浮かべますが、久里浜の花の国にはキバナコスモスの方が多く咲いていています。

黄色というよりオレンジ色の花は、かなり派手で目立ち、ピンク色で可憐な感じの通常のコスモスとは勝手が違います。コスモスというと、さだまさしの作詞作曲で山口百恵が歌った秋桜(こすもす)を思い出しますが、この歌に歌われたコスモスはやはりピンクの少しひ弱げな花ではないかと思います。そういえば、山口百恵は久里浜のある横須賀市の出身でした。

 横須賀は遠くはペリーが来航した地であり、かつての日本海軍や現在の米海軍の基地など、軍艦とゆかりのある土地のようです。日露戦争の戦艦三笠も横須賀の三笠公園に保存係留されています。首都の東京に海からアクセスする門戸に位置するという土地柄なのでしょうか。久里浜の東、かつてペリーが来航したという浦賀には、2003年まで浦賀ドックという100年の歴史のある造船所がありました。現在は閉鎖され、レンガ積みの塀や、つたの絡まった建て屋が歴史を物語っているようですが、ちょっと寂しい感じがします。

旧浦賀ドックのすぐ近くに京急の浦賀駅があります。現在の京急は三崎口へ行く路線が人口も増えて、快特の運転本数も多いので本線のように思いますが、実は浦賀への線路が本線なのですね。

 この浦賀湾に、これまた歴史の長い渡し舟があります。なんと280年前の江戸時代から続いているそうで、現在は横須賀市営の渡し舟が運行しています。

久里浜の花の国から東に行くと、この渡し舟の西側の乗り場に到着します。一艘の船が往復していて、船がいない時はブザーで呼べば対岸から来てくれます。ほんの3~4分の船旅ですが、視点が変わってなかなか面白いものです。船で浦賀湾を渡った後に北進すると旧浦賀ドックのレンガ塀に至るという散歩コースになります。

 横須賀市は米軍の基地だけではなく、自衛隊の基地やその研究機関があり、さらに最近はYRPに数多くの研究機関が集まっていることもあって、市民の博士号保有率はつくば市と並んで全国有数なのではと思います。YRPの前身ともいえる電気通信研究所は、通信衛星の研究のため、首都圏に近くて、地上のマイクロ波の中経路が通っていない場所ということで建てられたようです。衛星で使われる電波の周波数がマイクロ波のものと近かったため影響を避けたのだそうです。

 東京から横須賀に向かうと陽光もさんさんとして、冬でも暖かいような感じがします。京浜急行が高速で走るせいもあって時間的な距離もさほど感じないようにも思います。研究機関が集中したのも、このような環境に支えられたのかもしれません。ただ最近の研究機関は、サービス分野のものも多く、都心から離れた良すぎる研究環境では、そのサービスを利用する環境とは乖離して、利用者にとって使いづらい成果を生んでいるのではないかと心配するのは筆者だけでしょうか。

漆芸の町に、のこぎり状の家並みが続いている黒江

2006-10-15 14:00:18 | 日本の町並み
 ハゼからとる木蝋で栄えた町は内子でしたが、このハゼはうるし科の木で、漆塗りの樹液を採るうるしとは似た樹木です。小文字で始まるchainaは陶器や磁器を差しますが、小文字のjapanは、このうるしで塗られた漆器を差します。japanといわれるくらいですから、漆器のふるさとは日本全国に分布していますが、その中で、漆器四大産地の一つで、お盆の漆器生産高では日本一の黒江を紹介します。

 黒江は、和歌山市の南に隣接する海南市の一部で、JR紀勢線の黒江駅と海難駅との間の西側一帯の町並みです。この町並みは一風変わった家の並び方をしていて、通りに面した家の区画が直線ではなくのこぎり状になっています。手前の家の正面に沿って進むと、次の家の側面に突き当たるという風で、道との間に三角形の小庭があるといった方がいいかもしれません。三角形の場所には草花が置かれていて、独特の風景を作り出しています。その原因には諸説ありますが、地形の関係で通りが直交しなかったため、土地の区画が平行四辺形となり、長方形の家を建てると三角形の土地が残ってしまった、という説が有力です。

 黒江に漆芸が発展したのは、近くに原料の漆や器の芯になる良質の木材が採れること、海に近くて空気が綺麗で漆塗りの大敵のホコリが少ないことが理由だそうで、そのルーツは根来塗(ねごろぬり)で、室町時代から受け継がれたもののようです。黒江の漆芸が発展した理由の一つに、分業化による生産性の向上があり、安くて品質のよい製品を量産できたことによるようです。

 漆という塗料は不思議な特徴を持っていて、硬化するためには湿度が必要で、水と酵素の働きで硬い皮膜を作るのだそうです。はやく固めようと高温にすると、酵素が破壊されて硬化しなくなるとのこと。皮膜の強度は、ペンキなどと比べても格段に丈夫で、酸や、アルカリに対しても丈夫です。遺跡などから芯になった木の部分は朽ちてしまって、漆の塗膜の部分だけが、蝉の抜け殻のような状態で出土することもあるそうです。漆塗りの椀などは、塗りがはげやすく、扱いの難しい器のようなイメージを受けることがありますが、漆が弱いためではなく、芯になる木に施した下地つくりが悪いと、漆の膜面が木肌から剥離しやすいのだそうです。

 漆芸の一つに、蒔絵という技法がありますが、漆の上に蒔いた金粉の上から再度漆を塗った後に、研ぎ出しといって木炭で漆の塗り面を研いで金粉が表面に出てくるようにします。金粉の直径は0.01mm程度の小さなものまであるので、この研ぎ出しには、ミクロンオーダの精度が必要になります。LSIの製造ではミクロンオーダの精度は、今日では当たり前で、さらに1桁高い精度が必要になってきています。ただ、LSIの製造では高度にシステム化された精密機械がこの精度の工作を可能にしていますが、漆の研ぎ出しでは人間の勘がこの精度を生み出しているのですね。

三渓園の塔の他に3つの塔めぐりも楽しい横浜

2006-10-08 14:01:14 | 日本の町並み
 今年の中秋の名月は10月6日でおとといでした、今夜は立待ちの月。お月見というとお団子と秋の七草のススキですが、このススキは七草の中で最も地味ですが秋を感じる草花ではないでしょうか。横浜の三渓園でススキと池と建物とが美しく調和をしていました。三渓園に入るとすぐに目にとびこむのが燈明寺から移築された三重塔ですが、

横浜港の散歩で目立つ3つの塔を含めて紹介します。

 ススキはイネ科の植物で、お月見の頃に見るススキは花ではなく、その実を見ていて、花はもっと暑い頃に咲き終わっているのだそうです。派手さの少ない、「これから枯葉の季節になるんだよー」と予告をしているような感じがする草のようです。ただ、このススキも箱根の仙石原など一面がススキの海になり、秋の陽光にキラキラと輝くと、それなりの派手さと自己主張を感じます。

三渓園のススキは内苑に他の秋の七草とともに植えられたもので、臨春閣と前庭の池とを背景にして秋のやわらかい光線の中で輝いています。

 三渓園は生糸で財を成した実業家、原富太郎が造園をした庭園で、当地の地名の三之谷から富太郎が三渓と号したことから園の名前となったようです。園内には、全国から古建築が集められ重要文化財だけでも10棟もあります。中でも目立つ建物は、門を入って池の向こうの小高い丘に建つ旧燈明寺の三重塔で、三渓園のシンボル的存在です。燈明寺は京都府の南端、JR関西線の加茂駅の近くにあった廃寺で、台風で壊れた本堂も三渓園に移築復元されています。三重塔は塔身が太くてずんぐりしたものが多いのですが、旧燈明寺のものはなかなかバランスが良くって見栄えがします。

一方の横浜港の近くの3つの塔は、かつて港に出入りをした船から目印となったようです。おのおのキング、クイーン、ジャックとニックネームで呼ばれ、個性的な形をしています。

 キングと呼ばれる塔は神奈川県庁のもので、

赤レンガの庁舎の上にどっしりと構える姿はキングの風格を感じます。

 次のクイーンは横浜税関の建物にそびえる塔で、

屋根が丸く、色合いも柔らかで女性的な優しさを感じます。ところが、裏話があって、当初の設計では県庁の塔より低かったものを、設計変更で4mほどかさましされたようです。やはり女王様は強いんですね。

 そして最後のジャックは横浜開港記念開館の角に建つ塔を指していて、

角張った細身の塔は天を突く感じから王子や召使をイメージします。細身で高く見えますが、他の塔の2/3程度で、身分相応なのでしょうか。

 最初にこのネーミングをした人はなかなかセンスがおありだったとお見受けします。

 キング、クイーン、ジャックといえばトランプですが、実はこのトランプという呼び名日本では常識ですが、本来は切り札を意味する言葉です。またカードの枚数はジョーカを除いて52枚が日本では常識ですが、スイスの氷河急行の車内で買ったものは36枚でした。これはヤスと呼ばれる遊びに使うもので2~5のカードが欠けています。日本での常識が、外国では当てはまらないのですね。10数年前日本でISDNによるディジタルファクスがようやく普及し始めた頃に、ヨーロッパの通信の展示会に参加する機会がありました。展示会のあちこちのブースでDigital FAXの表示があったので、ヨーロッパもデジタルに突入か!と思いました。ところが、これがとんでもない誤解でした。彼らの新製品というのは、符号化デジタル、回線アナログのもので、日本ではなんら目新しいものではないアナログの範疇の商品でした。漢字の国で文字の符号化に出遅れた日本は、逆に2次元情報をFAXで送るという技術で、世界の常識の先を行っていたんですね。

和蝋燭で栄えた町に、大正時代の芝居小屋が現役で残る、内子

2006-10-01 14:03:41 | 日本の町並み
 群馬県の小幡には、巨大な摩崖仏もありましたが、仏様というと線香と蝋燭を思い浮かべます。今回は、蝋燭の中でもハゼの実から蝋を作る和蝋燭作りで有名な、愛媛県の内子を紹介します。町内の高昌寺には石造りの巨大な涅槃仏がある点でもつながりがあるかもしれません。ちなみに、涅槃像は像が横に広がって安定するためか、国内外に比較的大きな像が多いように思います、なかでもタイのワットポーやアユタヤのものが巨大なことで有名です。

 内子町は、愛媛県の中央あたり、伊予と大洲を結ぶJR内子線が通る内陸の町です。かつての内子線は、大洲から内子までの盲腸線でしたが、北側の伊予まで延びて、予讃線のバイパス線のような役割を果たすようになりました。停車する列車も増えて、観光で訪れる時にも便利になりました。

 ハゼの実から作る木蝋の生産は、江戸時代中期から、和紙とともに大洲藩の経済を支えてきた重要な産業だったようですが、電灯の普及や価格の安いパラフィンによる蝋燭に押されて明治後期をピークに急速に廃れていったようです。それでも、ハゼから作る木蝋には、パラフィンには無い特徴があり今も現役で作り続けられています。

 町の中には、木蝋生産で財を成した上芳賀邸や町の繁栄に支えられた歌舞伎劇場の内子座など、内子駅から北東方向に伝統的な町並みが続いています。有名な観光地に共通することですが、町並みの中に不釣合いな土産物屋が割り込んできていて、ちょっとがっかりしますが、公開されている上芳賀邸や内子座の内部に入ると、外部の喧騒を忘れて、蝋燭作りで栄えた頃にタイムスリップするようです。

 内子座は、大正時代に作られましたが映画などの影響で衰退し、壊して駐車場に転用という計画もあったようです。しかし、現在でも県下唯一の芝居小屋として現役を保っています。できた頃の大正時代にも舞台照明は電灯になっていたでしょうが、江戸時代の芝居小屋の照明は、蝋燭や灯明が使われていたはずです。観客は薄暗い中で目を凝らして芝居見物をしたのでしょうか。歌舞伎の派手なメーキャップも、薄暗い中で目立つように、との意味合いがあったのかもしれません。内子のほの暗い芝居小屋の中で特産の蝋燭との組み合わせから、ふとそんなことを考えてみました。

 木蝋の原料になるハゼは、皮膚の弱い人はかぶれる恐れのある木です。ハゼの実とりは、かぶれることとの戦いでもあったようですが、赤ん坊のときに乳にハゼの根っこからとった汁を混ぜて飲ませたとの言い伝えもあります。将来、ハゼの実とりでかぶれないようにとの思いからだそうです。木蝋の原料として高価な実だけれど、取り扱いを誤ると害になる二面性を持っているわけですが、IT分野にも便利な道具がたくさんありますが、使い方を誤ったり、悪意のある使い方をされると、人を傷つけたり、経済損失を招くという、二面性を持つものが多いように思います。B面(裏面/悪い面)が出ないような技術対策だけでなく、扱う人間の倫理観も養う必要があるようです。