世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

伊根の舟屋は、一階をガレージにしている都会の住宅のルーツでしょうか

2013-07-28 08:00:00 | 日本の町並み
 岐阜県の山奥のローカル線の沿線に江戸時代の建物集落のある町が岩村でした。ローカル線の終点の明智は大正村とのキャッフレーズで観光客を集めていますが、重要伝統的建物群保存地区の岩村も魅力にあふれる町です。重伝建地区には山奥の町や海辺の町などいろいろな集落の形がありますが、今回は海辺の集落の一つ伊根を紹介します。

 伊根は、京都府の北にあり北東方向に突き出た丹後半島の南東の角辺りにあります。丹後半島は、かつて小浜などと共に、大陸から京都への交易ルート上にありましたが、現在は漁業と観光で過疎化に対抗しているようです。大陸との交易ルートにあったという名残でしょうか、伊根集落の近くの新井には徐福伝説が残っています。徐福とは、紀元前3世紀の秦の時代に、始皇帝に「東方に不老不死の霊薬がある」と奏上して、3,000人のお供と共に日本に来訪して、霊薬は見つからず、そのまま居ついたとされる人物です。新井は、徐福の一行が上陸した地点との伝説で、新井神社が建っています。

 
 伊根集落は、日本三景の一つの天橋立からおよそ15kmほど北東に走った場所、亀島と呼ばれる小さな半島と丹後半島に囲まれた入り江の奥にあります。この集落が有名になったのは、船屋と呼ばれる、一階が船のガレージ、二階が住まいという造りの家屋です。都市に増えている、一階に車庫があって、二階から住居になっている家のモデルになったかもしれません。出漁の時に上から降りてきてすぐに船に乗れる便利さが、この構造を採った理由なのでしょう。さらに、浜に向かった傾斜地なので、道路は二階に面していて、地上出て行くのも便利という優れものです。

 
 ただ、このあたりは、かつて津波に遭ったことは無いのだろうかと心配になります。道路側に出て行けば、その後ろはすぐに山が迫っていますから、高台に逃げるのは簡単かもしれませんが。ただ、この地形では、漁業で生計を立てることしか無かったのでは思います、ほとんど平地は見当たりませんから。現在では、海岸沿いに丹後半島を一周する道路がありますが、かつては船だけが足だったのではないかと思います。ノルウェーのフィヨルドを巡る船に乗ると、「船以外の足はあるのだろうか?」と思う集落に何箇所か寄港しますが、少し似た地形のようにも思います。

 国道が通じて便利になった伊根ですが、新婚さんが神戸から単身赴任をするというドラマがありました。1993年に放送された朝ドラの「ええにょぼ」で、戸田菜穂のデビュー主演でした。伊根は主人公の実家で、勤務先は伊根から近い舞鶴だったのですが、伊根の舟屋が全国に知られるきっかけとなったドラマでした。

 伊根の舟屋は海側から眺めないと良くは見られません。このため、集落のある湾の入り口あたりの港から遊覧船が出ていて、湾の中を集落の前をなめるように一周してくれます。この船が出航するとたくさんのカモメが付いてきます。観光客がやる餌が目当てで、東北の浄土ヶ浜の観光船でも同じような光景を目にしました。船が走っているので、カモメが飛んでいるにもかかわらず、空中に静止しているように見えるんですね。相対速度がゼロのためで、アインシュタインの相対性理論では、地球や太陽など、宇宙を構成するものも絶対的な位置関係はなく、すべて相対的なものとされています。それまでの宇宙観に大変換をもたらしたもので、量子力学と並び現代の物理学での重要な理論です。巨大な宇宙を論ずる相対性理論に対して、ITなどの基礎となる、半導体の動作を論じるミクロな理論の量子力学が並び称されるのもおもしろいことです。

町の喧騒から離れた場所にひっそりと建つシトー会修道院はストイックな魅力です(フランス)

2013-07-21 08:00:00 | 世界遺産
 人口が7万人程度の都市に17世紀には大学が創設され大学都市となったのがバンベルクでした。その大学はいったんは廃止されましたが神学・哲学の大学として生まれ変わっています。神学は、大学だけではなく修道院など研究などが行われてきましたが、その修道院も、本来の信仰と研究の場から権力の中枢となっていきました。この流れに反旗を翻して、本来の質素で敬虔な信仰の場として生まれた教団の一つがシトー会で、フォンテネーにそのシトー会修道院が残されています。


 フォントネー修道院は、フランスの中央東部にあって、パリからTERで2時間半ほどのモンバール駅からフォントネー川沿いにタクシーで15分/4kmほど川上に入った所にあります。駅の周りは、普通の地方都市ですが、修道院の周辺は緑の森が連なり、修道院以外の建物は見当たりません。

 修道院は12世紀に設立され、ローマ教皇や時の権力者からも保護を受けてきました。しかし、その後は凋落が続き、18世紀のフランス革命のときに売りに出され、製紙工場に転用されたそうです。20世紀初頭に銀行家の所有になり、修復が行われ、現在のような姿になり、現在も個人の所有が続いているそうです。

 
 
 
 
 修道院は、西向きに小さな門があり、門の内側は、東西が200mほど、南北が150mほどの敷地の中に、教会やその付属の建物それに庭園などがあります。華美を嫌うシトー会の修道院なので、装飾をそぎ落とした建物は、そっけないほど簡潔ですが、ストイックな美しさがあります。教会の内部や修道士の部屋も、がらんとした空間が広がるばかりで、マリア像が無ければ倉庫のような感じもします。このマリア像は、もともと修道院にあったわけではなく、隣接する村の墓地に野ざらしになっていた像なのだそうです。簡素な造りの建物の中にあって、中庭を囲む回廊はアーチが美しく、色数を抑えた幾何学模様のステンドグラスもいつまでも見ていたい魅力があります。

  
 教会関連の建物に混じって、ちょっと異質な鍛冶場の建物が入り口の右手奥に建っています。裏側には、フォントネー川から分流した流れを利用した水車も回っています。これは、修道院が所有する山から産出する鉄鉱石を利用するための施設だったのだそうです。まさか、その鉄を利用して武器は作ってはいなかったと思いますが。

 建物の装飾は、実現技術の発展と共に派手になり、美しさを競ってきたように思います。壁一面のレリーフは、すべてを鑑賞するためには一日かかっても難しいといった教会堂も珍しくありません。一方の、シトー会修道院は装飾を抑えた、建築の構造美とでもいうのでしょうか、建築物本来の美しさが魅力です。最近のパソコンのOSは、次々と機能が増えてパソコンにもより大きな能力を必要とします。パソコンを普通に使うユーザがこれらの機能の何5を使っているか疑問です。次々とOSを変えていかないと商売にならないのかもしれませんが、もっと簡素なOSで十分と思うのは筆者だけでしょうか。

明智の大正村の手前には江戸時代の家並みが重伝地区になった岩村があります

2013-07-14 08:00:00 | 日本の町並み
 かつて市電と平面交差をしていた山陽電車の沿線にあって、一ツ物神事の祭礼が行われる町が曽根でした。レールが平面交差をするといっても、道路や軌道上ですが、民家の土間にレールが敷かれているところがあります。もちろん、レールの上を電車は走りませんが、荷物を載せたトロッコが店頭と奥の倉庫との間を行き来していたようです。今回は、トロッコのレールが敷かれている店舗がある岩村を紹介します。

 岩村は、岐阜県の恵那市の一部で、JR中央西線の恵那駅から明智まで延びる3セクの明知鉄道の途中駅です。終点の大正村で有名な明智のほうが観光客を呼んでいるようですが、重要伝統的建物群保存地区に指定されているのは岩村です。岩村は、岩村藩の城下町で、現在の町並みは商家を中心として江戸時代から続く家屋も残されているようです。



 店の中の土間に敷かれたトロッコですが、岩村の中でも3箇所も残されているのだそうです。一番有名なものは、岩村酒造で、奥にある蔵から、店にお酒を運んだそうです。現在は、トロッコ本来の使命は終了して、商品の飾り棚として使われているようです。現代の世であったら、このような役割に、どんな仕組みを作っただろうかと考えてみましたが、トロッコのようなものしか思いつきません。先進的な仕組みだったのかもしれませんが、現在では、そのようなものの移動じたいを必要としないのでしょうか。


 町並みの民家の中で旧木村邸が公開されていて、内部の様子を見ることができます。江戸後期の問屋の遺構で、連なって奥に伸びる部屋や、上部から見下ろす吹き抜けの図太い木組みの構造など、高山の吉島家などと似たような感じです。かつては本陣の代わりも務めたそうです。離れの二階には板張りのベランダ状の場所があって、夏の夕涼みにはもってこいではなかったかと思います。また、庭にある漆喰の広い壁面を見せる土蔵も存在感がありました。


 筆者の訪問した10年ほど前には、まちかど美術館の看板を出した古民家がありましたが、どうも改組したのか消滅したのか、webを検索しても該当する施設が見当たりません。格子の連なる二階の前面には、京都の町家で見かけるような四角の街灯が突き出ていて、いい感じの民家だったのですが。

 重要伝統的建物群保存地区は全国で100箇所を越える地区が指定されています。重要文化財などと違って、建物単体ではなく面的な広がりのある町並みとして指定されます。観光客が増えるプラス要素だけではなく、規制が増えたり観光客のマナーの問題などマイナス面も多いようです。また、過疎化などによって町が取り残され、消極的な意味で結果的に保存地区となった所も多いようです。西欧では建物が石造りのせいなのか、役所などを含めて古い建物群が積極的に利用されている都市が多いように思います。日本の都市では、すぐに再開発と称して、建物をあっさりと破棄して壊してしまいます。建物に限らず、家電やパソコンそれに携帯電話も、まだ使える物をあっさりと廃棄です。これがITの発展を後押しする要因の一つになっているのかもしれませんが、それだけ地球の寿命を短くしているように思います。

丘の上にあるおハイデルベルク城は廃墟ですが、存在感のある町のシンボルとなっています(ドイツ)

2013-07-07 08:00:00 | 世界の町並み
 川筋を走る鉄道の駅から、丘を登って行くと緑にはえる城があるのがルーマニアのシナイヤでした。一方、ネッカー川沿いに開けた町の背後の小高い丘に廃墟となった城が存在感を持って建っている町がハイデルベルクです。今回は、日本人観光客にもおなじみのドイツの古都の一つハイデルベルグの旧市街を紹介します。

 ハイデルベルクは、ドイツ西南部、フランスがドイツに食い込んでいるような部分の角の当たりにあります。ライン川の支流の一つのネッカー川が町の中を東西に流れていて、町並みはネッカー川に沿って伸びています。ハイデルベルク城などのある旧市街は、川の南岸の川と城のある丘に挟まれた東西に1km、南北に300mほどの細長いエリアです。

 
 ハイデルベルク城は13世紀にその基礎ができ、その後破壊と再建をとを繰り返しました。17世紀のブファルツ戦争によって破壊された後は、一部の修復はなされましたが、廃墟として現在に至っています。廃墟といっても、巨大な石の塊が100mほどの丘の上にそびえる様は、威圧感があり、ハイデルベルクのシンボルになっています。



 
 城には麓からケーブルカーで登れ、そのテラスからの町並みの中にネッカー川が流れる眺めは、伸びやかな景色です。破壊されたお城なので、シャンデリアなどの室内装飾は見られませんが、直径が10mはあろうかと言うワイン樽だけが残っています。220,000リットルほどあるそうで、ボトルにして30万本分ということでしょうか。また、オットーハインリッヒ館は両端の塔屋以外は壁だけが残っている感じで、インドのジャイプールの風の宮殿を思わせます。

 
 麓の旧市街は、大学を中心とした学園都市の顔と数多くの教会が混在する町並みが続いています。大学や教会以外にも、大公の宮殿、ミッターマイヤーの家、ボヤスレー宮殿、ブールの家、ワイマール宮殿などなど名所となる建物が目白押しです。ハイデルベルク城は山の上にありますが、麓にも多くの宮殿が造られたようです。

 
 
建物だけではなく、橋も景色の構成要素として重要な存在で、アルテ・ブリッケはハイデルベルク城から間近に見える石橋です。ドイツで最も古い橋の一つで、13世紀に木造で作られましたが、川の増水で何度も流失、再建を繰り返したそうです。橋の付け根には、2つの塔を持つ門があり、プラハのカレル橋やブダペストのくさり橋を思い起こします。

 30万本のワインは、1,000人の人が毎日飲んでも、飲みつくすのに1年近くかかる量です。水道水の質が余り良くないヨーロッパでは、水代わりにワインが飲まれますが、それにしてもすごい量です。下戸の筆者は、レストランでワインと値段が変わらないミネラルウォータを注文せざるを得ず割り切れない思いでした。水の豊かな、それも軟水が中心の日本に生まれて良かったと思います。日本でITが発達した理由の一つも、良質の水が手軽に得られることだったかもしれません。半導体の製造には、大量の真水が必要ですから。