世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

紹興酒で有名な紹興は魯迅の史跡に加えて水郷の風景も味わいのある街並みです(中国)

2018-02-25 08:00:00 | 世界の町並み
 オダリスクを描いたフランスの画家のアングルが生まれた町のモントーバンは、何気ないけれど綺麗な街並のある地方都市でした。芸術家の生まれ故郷の環境と芸術家との関連や、その場所といった必然性は低いことが多いようにも思います。ただ、多くの場合は生家などが観光地になっているようです。今回は、近代中国が生んだ文学者の魯迅の故郷である紹興を紹介します。御多分にもれず、魯迅の生家は魯迅故居として観光資源になっています。

 
 
 紹興は、上海の南西150km、列車で1時間半ほど、杭州からは南東に50km、列車で30分ほどで、バスも頻発しています。筆者は往路は2階建ての列車で、復路はバスでした。日本人にとっては、紹興という地名より紹興酒としての方が知名度が高いかもしれません。紹興酒は米を原料とする醸造酒で、甕に入れて床下に貯蔵した様子が展示されていました。市内には、魯迅の小説「孔乙己」の舞台になった咸亨酒店があって、店の前には主人公の孔乙己の像も立っています。おそらく、主人公は毎日この酒店で紹興酒を飲んでいたのでしょう。

 
 
 
 
 
 この咸亨酒店のあるあたりは、魯迅記念館、魯迅故居、魯迅故里などがあって、通りには土産物屋が多く、お伊勢さんのおかげ横丁のような景観を呈しています。中国茶が中心の喫茶店もあり、色々な種類のお茶が楽しめます。記念館などには、魯迅の寝室や居室それに資料などが展示されています。

 
 
 ただ、魯迅の資料類は上海にある魯迅記念館の方が充実しています。作家としての活躍の場が上海であったからのようです。上海にも魯迅故居があり、こちらは集合住宅の一部で、あまり観光地化されていないようで、素っ気ない感じです。また、近くには魯迅の墓所もあります。

 
 
 
 
 魯迅記念館の近くにも運河がありますが、町中に運河が張り巡らされていて、まさしく江南の水郷地帯の一つです。特に観光地化を意識した風には見えなく、庶民の生活が垣間見えるような風景が続いています。ガイドブックなどに載っている橋は八字橋で、形が八の字とのことでしたが、よくは分かりません。この八字橋の近くには天主堂があって、内部は真っ白の列柱が並びシンプルで意外と美しい空間でした。

 
  
 運河としてではなく、採石場の跡に水が溜まって、独特の景観を作ったのが東湖です。魯迅記念館や八字橋などのある町の中心地から東へ3kmほどの場所で、東湖風景区としてテーマパークになっています。この水たまりを烏篷船と呼ばれる観光するのですが、切り立った崖や峡谷風の景色が続き、これが採石場跡とは信じがたい風景です。船で到着したところには、伝統工芸的な実演販売もあって、まさしくテーマパークです。


 魯迅は、仙台医学専門学校(現在の東北大医学部)に初の中国人留学生として国費留学で学んでいます。西洋の文学や哲学にも興味を持ち、教室で見た日露戦争の中国人の屈辱的な姿を見たことがきっかけで、専門学校を中退し、文学者の道を目指したそうです。この時の魯迅の決断が無ければ、世界的な文学作品は生まれなかったわけです。将来の進路を決める時には、悩むことが多く、「この進路でほんとに間違っていないだろうか?」と思ってしまいます。占いに頼る人もあるかもしれません。コンピュータに適性などを入力して、解析する手法も取られているようです。将棋や囲碁では、AI技術を駆使して最適予測によって、次の一手を決めますが、人間の将来もシミュレーションで最適予測できるようになるのでしょうか。

塩屋の異人館は北野町ほどの数はありませんが明石海峡と淡路島の眺めでは負けていません

2018-02-18 08:00:00 | 日本の町並み
 廻船業と製塩業で栄え数多くの古い商家が軒を連ねている町があ格子の坂越でした。瀬戸内地方は天ヶ少ない気候を利用して、古くから製塩業が栄え、塩の付く地名も多く残っています。今回は、それらの中から、同じ兵庫県の塩屋を紹介します。塩屋の製塩業は古墳時代にまでさかのぼり、鉢伏山の頂上南面に6世紀の古墳がありますが、この古墳の主はこちらで塩を作っていた人々のものであろうと推定されています。現在の塩屋は、製塩の名残は全く見られず、山が海に迫る地形に旧異人館が残る町になっています。


 神戸市の西にある、須磨駅の西には鉢伏山塊が海に迫って、海との間の狭いところにJR、山陽電鉄それに国道2号線が折り重なるように走っています。渋滞のために車で通り抜けるのに難所の一つになっています。この山塊が少し後退するあたりが塩屋で、山塊が緩やかな丘として垂水あたりまで続いています。義経の一の谷伝説は鉢伏山塊の南斜面で、志木皇子が「岩ばしる垂水の上のさわらびの・・・」と詠んだ場所も塩屋と垂水の間にある山陽電鉄の滝の茶屋駅近くだったと言われています。交通の難所は裏返せば、景色の良い場所で、その景色の良さから塩屋から垂水にかけての山の手に異人館建てられました。神戸の異人街と言えば、北野町が有名で、仕事場の居留地から坂を上るだけという地理上の有利さから、数も多くの異人館が建てられました。一方、塩屋の丘陵地帯は、居留地からは遠いというハンディはありますが、目の前に海が広がり、その向こうには淡路島を望め、別荘的な位置づけだったのかもしれません。

 
 
 塩屋の異人館の元祖的な存在が旧ジェームス邸で、塩屋と滝の茶屋の間の高台にあって、一帯はジェームス山と地名にまでなっています。昭和初期にイギリスの貿易商が私邸とイギリス人のための住宅地を開発したものです。その後、私邸は、電機メーカの創始者の所有を経てメーカの所有となり、現在は、結婚式場とレストランとして使われています。芝生の庭の向こうに明石海峡そしてその向こうに淡路島が望める絶好の眺めが楽しめるようです。このために、望淡閣の名前が付けられています。一方の宅地は、現在も外国人向けの高級住宅街で、一帯が私有地の外国人専用居住区として、立ち入り禁止になっています。

 旧ジェームス邸が海岸から遠い高台の異人館とすれば、旧ジョネス邸は、国道の海寄りで塩屋駅の近くの海岸のそばに建っていました。大正時代に英国人の貿易商によって建てられ、昭和38年に国鉄の複々線化工事のために、西に500mほど移築されました。ところが、2013年に、地域住民の保存運動もむなしく、解体され、跡地にはマンションが建っています。木造鉄筋コンクリート2階建て和洋折衷様式で、取り壊し前の写真によると、ステンドグラスなど洋風の部屋の混じって和室もあったようです。

 
 
 
 異人館の中で、唯一無料で公開されているのが、旧グッゲンハイム邸で、塩屋駅のすぐ山側にあります。毎月第三木曜日に内部が見学でき、その他の時間は、各種の教室などに貸し出されています。明治末期にドイツ人の貿易商の指定として建てられたコロニアル様式の木造2階建てで、グッゲンハイムは3年ほど住んだだけで、その後は持ち主が点々とし、社員寮としても使われました。阪神大震災で被害を受け、取り壊しの恐れがありましたが、現在のオーナーが私財を投げうって購入・修復し現在のような運用形態で保存されることになりました。

 
 このほかにも、旧グゲンハイム邸の窓からも見える旧後藤邸や竹内邸など、塩屋駅の近くに散在していますが、どちらも居住中で非公開です。その中で、塩屋駅の西北の高台の安養寺の裏手にある洋館の存在がミステリアスです。いろいろと、資料を探してみましたが、該当するものがありません。洋館の入り口は、安養寺川の坂の下と、駅からは裏手になる道路側にありますが、どちらも鎖で固定され、そばにはブルーシートなどのゴミと思しきものなどが打ち捨てられ、居住者が要る気配がありません。ところが、ある日、傷んだ感じの洋館が、ペンキの塗り直しなどの手が入ったのか綺麗になりましたが、やはり人の気配はありません、不思議です。

 塩屋の東の源平の古戦場と言われる一の谷のあたりの3種類の交通路がひしめく場所は幅が40~50mほどしかありません。ここで、、奇襲を受ければ逃げ場所が無さそうと想像できますが、この古戦場の場所は2説あっていまだに論争のもとになっています。須磨の一の谷説に対して、兵庫区の鵯越説で、こちらも説でも義経は背後の山から奇襲をかけたようです。通信手段がほとんど無い時代では、不意打ちは効果的だったでしょうが、行ってみたら敵は居なかった!ってこともあったかもしれません。現代では、偵察衛星なども含めて、ありとあらゆる手段で、相手側の情報を収集して、世界中に居る味方に伝達できてしまいます。これらの情報を」基に、コンピュータシミュレーションで、勝ち負けを推定して、実戦をやらなければ無駄な破壊や人命の損失が無いでしょうに。

ブダペストのコンサートホールで聞いたハンガリー舞曲や狂詩曲は響きが違って聞こえました(ハンガリー)

2018-02-11 08:00:00 | 世界遺産
 ポーランド出身でフランスなどで活躍したショパン、チェコ出身でアメリカでも活躍したドボルザークと外国で活躍した音楽家の話が続きました。かつての東欧圏のハンガリーは、優れた指揮者を輩出したことで有名で、ヨーロッパやアメリカで活躍しました。特に一時期のアメリカの一流オーケストラは、ハンガリーの指揮者ばかりだったことがあります。オーマンディー/フィラデルフィア、ライナー/シカゴ、セル/クリーブラント、ショルティー/シカゴ、ドラティー/ミネアポリスなどなど。ヨーロッパではリヒターやフリッチャイそれにケルテスなどが居ます。ハンガリーの音楽教育システムが優れていて、その成果の表れと言われています。筆者は、ブダペスト滞在中に、これらの著名な指揮者ではありませんが、地元のドナウ管弦楽団という室内オーケストラ級のコンサートを聴きに行きました。オーケストラの響きだけでなく、ドゥナ・パロタというコンサートホールの建物も、なかなかゴージャスでした。
 今回と次回はそのハンガリーの首都のブダペストを2回に分けて紹介します。今回は、ドナウ川の東岸のペスト地区を取り上げます。

 
 
 ブダペストは、ドナウ川を挟んで、右岸のブダと左岸のペストが19世紀に合併して生まれた都市で両岸は有名な鎖橋などでつながれています。今回紹介の左岸のペストは、国会議事堂や色々な博物館、劇場それに3つある鉄道駅のうちの2つなど都市機能が集中しています。見どころは、ドナウ川の東側の3~4km四方ほどで、東端に近いところに鉄道の東駅と西駅とがあります。西駅に近いところにあるのが英雄広場に続く広大な公園で、南北1km、東西500mほどもあります。英雄広場には中央に頂上にガブリエルの乗る柱があり、柱の両翼には列柱の間にハンガリーの英雄が立っています。英雄広場の左側には、西洋美術館があり、フランドル絵画など、おびただしいコレクションがあって、ゆっくり見ていると丸一日以上はかかりそうです。その奥にはヨーロッパ最大と言われるセーチェーニ温泉があり、温水プールのような巨大な露天風呂があります。逆に右手には、湖水の向こうにヴァイタフニャディ城があります。いかにも、歴史のある古城のように見えますが、1896年に建国千年祭の時に建てられたパビリオンの名残だそうです。この千年祭の時には、英雄広場に通じるアンドラーシ通の地下にはヨーロッパで2番目に開通の地下鉄が走っています。最近に開通の大深度地下鉄とは逆に、地面すれすれの浅いところを走っています。

 
 
 この地下鉄の一方の起点がヴェレシュマルティ広場で、北西のドナウ川の方に行くと鎖橋があり、北東の方に行くとデアーク広場に聖イシュトヴァーン大聖堂が建っています。さらに、北東に行くと19世紀にネオルネサンス様式で建てられた国立歌劇場があります。歴代の音楽監督は、グスタフ・マーラー、フェレンツ・フリッチャイ、オットー・クレンペラーなどそうそう樽顔ぶれで、フルトベングラーやカラヤンも指揮棒をふるったそうです。

 
 
 
 
 そして、ペスト地区の中心的存在が立法府の国会議事堂です。鎖橋からドナウ川沿いに北へ10分ほどの川沿いに建っています。建国千年祭後の20世紀初頭にゴシック・リヴァイバル様式で建てられ中央にドームを持つ左右対称の美しい建物です。内部は、各国語によるガイドツアーがあり、フラッシュこそ禁止ですが、聖イシュトヴァーンの王冠を含めて撮影も可能でした。議事堂というよりは、宮殿のような内部は、どこかの議場とは品が違うという感じです。


 同じ曲で同じオーケストラの演奏でも指揮者が変わると違って聞こえることはよくあり、これが名指揮者の存在価値です。名指揮者の練習風景がレコードで発売されたり、放映されたりしますが、その練習ぶりは様々です。事細かく指示を与える人、「歌って!歌って!」など感覚的な指示で雰囲気づくりをする人などなど。名指揮者の中には、練習嫌いで、本番勝負というクナッパーツブッシュや、練習は副指揮者任せのカラヤンなど逸話は沢山です。そのうちに指揮者の指示事項は、AIによって解析して、コンピュータ指揮者が出現するのかもしれません。ただ、演奏するのは生身の人間なので、生身の指揮者が居ないと、気分が載らないかもしれません。いやいや、近い将来には、奏者の方もロボットが務めるようになるかもしれません。

忠臣蔵で有名な赤穂には城下町より歴史の古い坂越の町並みがあり「忠臣蔵」のお酒もありました

2018-02-04 08:00:00 | 日本の町並み
 無電柱の本通には土蔵づくりや格子の家並、格子に掛けられた竹筒の花も風情のある街並みが竹原でした。この保存された町並みは都市景観百選に選ばれています。この都市景観百選は古い町並みに限らず、訪れたくなるような景観の都市の景観が選ばれています。例えば札幌の大通り公園や大坂の御堂筋なども選ばれています。今回は、この百選の中から、竹原の町並みと似た土蔵と格子の家並の続く坂越を紹介します。どちらも、瀬戸内海に面した風待ち港の一つで、という共通点もあります。

 
 
 
 
 
 坂越は兵庫県の南西部、赤穂市の一部で、姫路からJR赤穂線で30分ほど赤穂駅の一つ手前の坂越駅で下車をします。坂越は城下町の赤穂より歴史が古く、漁業や製塩業そして中継港として栄えたようで大きな商家の町並みはその遺構です。古い町並みは、坂越駅から南東に千種川を渡って1kmほどの所から、海に向かって600mほどの大道沿いに続いています。古い町並みの起点あたりには木戸門跡があり広場になっています。江戸時代には、木戸番が居て、町の治安を守っていたようです。この木戸門跡あたりから、だらだらと坂を下る道の両側は土蔵造りや格子のある町並みがびっしりと続きます。少し道が弓なりになるところも、その先がどうなっているかを期待させます。

 
 
 
 まち並み館として公開されている建物は、旧奥藤銀行の建物を利用したもので、内部にはかつて使われていた金庫もあります。その先には奥藤酒蔵の建物連なり郷土館として公開されています。赤穂に因んだ忠臣蔵という銘柄の地酒を造り続けています。この奥藤家は、桃山時代から続く、廻船業で栄えた庄屋で、お酒づくりは江戸初期に始めたようです。本業の方の廻船業では、主な荷物が塩でしたが、日露戦争を機に専売制が導入されたため、廻船業をやめて銀行を始めたのだそうです。

 
 
 
 大道がT字に突き当たり海沿いに両側に200mほどの町並みが続きます。このT字の場所に建つのが旧坂越浦会所で、2階のにある藩主専用の部屋である観海楼からは、低い窓越しに坂越湾に浮かぶ生島がよく見えます。この浦会所の建物は昭和初期から公会堂として使われていまましたが、江戸末期に行政や商業をつかさどる浦会所として建てられ、同時に赤穂藩の茶屋として使われたようです。このため、庭には石灯籠や蹲などもあって、単なる集会所とは一味違います。窓から見える生島には、大避神社の御旅所があり、10月に行われる舟祭りではご神体などを乗せた多くの和船が島までを往復します。一方、大避神社は、浦会所から海岸沿いに左手方向の丘のふもとにあります。

 赤穂と聞くと塩を思い浮かべます、忠臣蔵の事件も、塩にまつわる藩と藩との争いが原因の一つとも言われています。しかし、現在は赤穂を含めて塩田は全廃され、90%近くの塩は輸入に頼っています。海水を原料とする塩は、太陽の力ではなく、電気とイオン交換膜を組み合わせて濃縮をし煮詰めて塩にしています。電気と言っても電気分解ではなく、陽イオンだけしか通さない膜と陰イオンだけしか通さない膜とを交互に並べて、膜と膜の間に塩分濃度が高い部分と低い部分とを作る手法だそうです。塩田で作られた」「にがり」を含む塩を再現するため、わざわざ「にがり」を加えて再結晶させ天然塩と称して高価な塩が売られていますが、むしろ、旨味や香辛料で塩を使わないで美味しさを作り出すかに努力したほうが良いように思います。