世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

冬の寒い朝に見える可能性が高い大宇陀の「かぎろひ」ですが、朝が早いので暖かい吉野くずをすするのは無理かもしれません

2024-08-25 08:00:00 | 日本の町並み
 秘仏で巨大な蔵王権現像の存在感に圧倒されるのが吉野金峰山寺でした。お寺の周りには吉野くずの店が数多く建っていましたが、吉野くずの原料は吉野ではなく山を東に下った大宇陀なんですね。今回は、吉野くずの産地である大宇陀周辺を紹介します。

 
 大宇陀は、吉野から直線距離で北東方向に10kmほどですが、山が連なっていて鉄道で移動する場合は、この山塊を右回りに大きく迂回する古都になります。近鉄ばかりですが吉野から北に橿原神宮まで乗り換えてさらに北の大和八木に、さらに乗り換えて東に榛原まで行って、そこからバスで南に下ります。もうちょっとで長方形の四辺を廻るような感じです。行政的には人口が9万人足らず50㎢もある宇陀市に属していますが、2006年に合併によって生まれたもので、吉野葛のお店が並ぶ大宇陀の町はちょっと歩くと町はずれといった感じのこじんまりとした所です。今では静かな田舎町ですが、江戸時代には松山城が建つ城下町でした。唯一の名残が松山西口関門で、京都の色町の門のような感じがします。

 
 
 
 吉野くずを売っている店が並ぶ古い町並みはその松山西口関門の東200m程を南に1km程の曲がりくねった道で、土蔵造りや子牛のある家並が続きます。この家並には吉野葛の店はさほどではなく、数が多いのは和菓子屋で、造り酒屋もあります。薬草園を持つ薬屋の店舗もあります。

 大宇陀というと、万葉集に歌われ百人一首にも入っている、柿本人麻呂の「東の野に炎の立つ見えてかへり見すれば月傾きぬ」の和かが読まれた場所と言われています。東に日の出前の炎が、西の空には入り残る月と大きな空の全円周が歌われた広大な歌のように思います。古い町並みを西に河を越えた小高い丘にかぎろひの丘万葉公園があり、人麻呂の歌碑が立っています。この丘からは、大宇陀の町並みを足元に見渡せ、かぎろひが立てば見事だろうと思います。ただ、人麻呂がこの場所で歌を詠んだのかどうかは判りませんが。

 かげろひは語源的にはカゲロウと動ルインのようですが、かげろうが夏の暑いときに地表の温度が上がることでできる光の回折現象に対して、かげろひは冬の寒い朝に東の空が赤く燃える朝焼けの一種です。大宇陀では毎年2月11日の早朝にかげろひを見る会が開かれているようです。統計的に大宇陀ではかげろひが出る気象条件の特異日のようです。冬なので日の出は多少は遅いでしょうが、1時間前にかげろひの丘に行くのは、大宇陀に泊まるか車が無いと無理でしょうね。ただ、準備万端で当日に望んでも、かぎろひが現れないこともあるのでしょうか、これって気象予報で使われているスパコンで予測はつくのでしょうか。チャットGPTIといっても、誤った情報もあふれるネットから情報を集めるだけで、土地の長老の第六感には負けるのではないかとも思います。

新たに世界遺産になったシュベリーン城の湖に浮かんでいるような風景は最も絵になるお城の一つですが、シュベリーンの町もなかなか美しいです(ドイツ)

2024-08-18 08:00:00 | 世界遺産
 インドのニューデリーで開催された第46回世界遺産委員会で自然遺産5件、複合遺産2件、文化遺産17件が登録承認されました。文化遺産には,韓国の段階では情報照会であった我が国の佐渡金山も承認され登録となりました。筆者は佐渡金山を未取材なために見送りで、訪問したことのある2件のうち今回は北ドイツのシュベリーンを紹介します。

 
 
 世界遺産に登録されたのは歴主義建築群としての邸宅群で具体的にはシュベリーン城を中心としたものです。歴史主義建築とは19世紀から20世紀初頭にかけて西洋の過去の建築様式を復古的に用いて設計された建築で、日本では東京駅や赤坂迎賓館が相当すると言われています。シュベリーン城は16世紀に作られた要塞が元で、19世紀に現在の形に再建されました。ドイツ東北部には湖水が多く、シュヴェリーンは七つの湖の街と言われ、湖の中に町があるような雰囲気です。シュヴェリーン城も最大の湖のシュヴェリーン湖に浮かぶ周囲が600mほどの小島に建てられています。

 
 
 
 北のノイシュヴァンシュタインと呼ばれていますが、日本人観光客が押し掛けるノイシュヴァンシュタインとちがって日本人にはお目にかかりませんでした。ノイシュヴァンシュタインが山の頂上に緑に囲まれて建っていることに比べ、シュヴェリーンは湖水の中の青さの中に建っています。ドーナツ状の中央部に中庭を持ちずいぶんと大きなお城です。現在は州議会として使用されているようで、一部が博物館として公開されています。筆者が訪問の時には町中がお祭りのようで、露店がたくさん出て、子供達がお菓子やおもちゃを買ってもらっていたり、手回しオルガンの演奏があったり、お城の周りでは貴族の衣装で着飾った人たちが、観光客と一緒に写真に収まったり、模擬砲が撃たれたりとにぎやかでした。このお祭りのせいで、入城できるか迷って結局内部は見損ねました。

 
 お城が建っている島は小さくて、お城の周りにはあまり余白が無く、まさしくお城の島といった感じです。対岸から見ると、まるでお城そのものが湖水に浮かんでいるように見えることになります。州議会の入り口となる正面と、裏手とに橋があって陸地とつながっており、裏手の陸地側には運河が掘られて緑豊かな付属の庭園が広がっています。緑豊かな庭園の向こうに湖があって、園湖に浮かぶんでいる、おとぎ話に出てくるようなお城は絵にかいたような風景です。

 
 
 
 
 
 
 シュベリーンはハンブルグの東100kmほどの内陸に位置し、かつては東ドイツに属していたせいもあって日本人にはなじみの薄い都市の一つです。バルト海沿岸の世界遺産の都市のリューベックからから本数の少ないでローカル線を乗り継いで1時間余りでシュベリーン駅に着きます。単線のローカル駅にしては堂々たる駅舎です。駅からお城までは1.5kmほどで、歩いてもさほどの距離ではありませんが、大聖堂や州立劇場などの建物などを眺めながら行くと、ほどほどの時間がかかります。駅を東に出ると、そこにも小さな湖があって、湖に影を映す大聖堂の姿も湖水の街シュヴェリーンらしい風景かもしれません。シュヴェリーン大聖堂は19世紀後半に完成した教会ですが、建築に700年以上を要したという聖堂です。北ドイツには、ケルン大聖堂など高い尖塔を持つ教会が多いのですが、シュヴェリーンは9番目に高い約118mの高さを誇っています。一方、メクレンブルグ州立劇場は、北ドイツで最も有名な劇場の一つで、130年前にネオルネッサンスのファサードとネオバロックの観客席を持っているそうで、客席は542席なのでさほどは大きくはないホールのようです。

 シュベリーン城は歴主義建築都のカテゴリーで、東京駅などと同様の建築様式です。モダニズム様式全盛のころには過去の様式にとらわれた様式という蔑称として使われましたが、都市の美観を形作るということで見直された経緯があります。その東京駅ですが、設計はかの有名な辰野金吾、別名は龍野堅固と言われていますが、それもそのはず、東京駅は関東大震災でびくともしなかったのですから。辰野金吾は東大建築学部の一期生ですが教えたのはイギリスからやってきたジョサイヤ・コンドルで、その先生の設計した国立博物館本館は地震で東海倒壊するという皮肉な結果に。出身の英国には地震が少なかったせいかもしれませんが、我が国の最初の地震計は英国出身の物理学者が作ったのも皮肉です。その後、地震計は大きく発展して、小さな直径20cm程の円筒形となり、中身は加速度センサーとコンピュータの組み合わせに置き換わりました。

桜は見事ですが混雑をする桜の時期を外して訪れても価値がある吉野です

2024-08-11 08:00:00 | 日本の町並み
 小豆島は伝統的な製造方法で作られる醤油の醸造所の多い所でしたが、その製造の要になるのが杉桶でした。伝統製法が衰退して木桶の製造も耐えてしまう寸前の危機を回避させたのが小豆島の醤油醸造書の跡取りで、島に自前の木桶の製造拠点まで作ってしまったそうです。木桶に使われるのは、屋久島の縄文杉ではなく、奈良県産の吉野杉です。今回は、難聴の花が開き、春は千本単位で咲く吉の桜の郷である吉野を紹介します。

 吉野は大阪起点では意外と遠くて、まずは天王寺の南にある近鉄の阿部野橋から南大阪線の特急に乗って1時間20分ほど、特急料金の要らない急行では1時間半ほどの終点の吉野からロープウェイで3ふんで上ったところです。通常は、ロープウェイで上った金峰山寺屋千本櫻のあるあたりが観光客が行く吉野なのですが、広義の吉野は高地、盆地それに山岳地帯からなり神奈川県に匹敵する面積だそうです。今回紹介のエリアはさすがに、その広さは無理でロープウェイで上ったあたりになります。

 
 
 
 駅から少し行ったところにあるのが、蔵王権現堂で木造建築としては東大寺大仏殿に次ぐ巨大さで、街並みの上ににょっきりと現れます。道内には秘仏とされている蔵王権現増3体が安置さrていて、彩色も鮮やかに残り巨大さもあって存在感には圧倒されます。秘仏といっても、かなりの期間は開帳されているようで、大仏を拝観するよりも感動するかもしれません。

 
 
 
 
 金峰禅師から吉野神社にかけては古い町並みが残り、名物の吉野葛のお店も並んでいます。ただ、この吉野葛は地名は吉野とついていますが、産地は少し東の大宇陀なのだそうです。また、夏の暑いときには冷やしたくずもちと思いますが、お店屋さんの話では冷やしすぎると液体状態に戻ってしまうとのこと。また、民間療法の胃腸薬として有名な陀羅尼助の店もありました。

 
 吉野といえば、秀吉も花見に行ったという桜で下、中、上それに奥の千本と名称からは4千本の桜が麓から順に咲き、開花期が長い古都でも知られています。ただ、吉野は行き止まりの地形なので桜の頃は大渋滞を覚悟する必要がありそうです。

 
 また、吉野といえば南北朝時代に難聴が置かれた場所で、その御所として使われたのが、吉水神社で多くの遺構があります。書院には後醍醐天皇の玉座や、義経が潜伏したとされる部屋が残されています。

 
 
 
 山上には蔵王堂、吉野神社のほかに竹林院、桜本坊、吉野水分神社など数多くの寺社が立ち並び、寺社の隙間に民家が経っているという漢字もします。建物や庭園など、見ごたえのある場所も多く、桜の季節以外にも訪れたい場所の一つです。

 蔵王権現道の秘仏である蔵王像は比較的会長の機会が多いように思いますが、世の中には絶対秘仏という仏像があって、厨子が開かれたことがない仏像があります。こお仏像って、本当に存在するんだろうか??って疑いたくもなります。見せないことで権威付けをしているようで、好ましくありません。スキャナーで捜査して、内部を暴きたくなります。博物館には巨大なCTスキャンで、厨子の中ならずとも仏像の中身も見られる装置があって、内部構造や、像内納入品などがわかるそうです。罰が当たると言われるかもしれませんが、そもそも釈迦は偶像の存在は否定しているんです。

世界遺産のスコタイまでは距離がありアクセスは困難ですが、かつての王宮のあったピッサヌロークはタイ国鉄の駅ができるだけのことはあるようです(タイ)

2024-08-04 08:00:00 | 世界の町並み
 世界各地の夜景を紹介してきましたが、夜行列車の車窓から見る夜景も旅情を掻き立てるものがあります。それが、外国であればなおのことですが、最近に乗ったタイ国鉄の夜行列車の乗車駅であるタイ中部のピッサヌロークを紹介します。この夜行列車は、北部のチェンマイから首都のバンコクまで走るもので、筆者は深夜にピッサヌロークから乗車してバンコクに早朝に着く6時間ほどの旅でしたが、暑い地方の通例で、利きすぎた冷房のために、ほとんど眠られませんでした。0時過ぎの発車のために、市内の昼間の観光が終わった後に時間が余ってしまって、居場所もありません。そこで、駅に近いホテルを予約して半泊まりをしました。かなりの安宿だったようですが、シャワーを浴びて、宵寝ができる充分の使節は備えていました。

 
 
 ピッサヌロークは、タイ国鉄が通っていないタイ中部の世界遺産のスコタイへの列車でアクセスする場合の入口ですが、70km以上も離れていて個人旅行では移動が不便です。このピッサヌロークじたいは世界遺産の街ではありませんが、かつて都のあった大都会です。長距離列車も、ピッサヌロークで機関区が変わるらしくしばらく停車します。

 
 
 
 
 
 かつてのチャン王宮跡は駅から北北西に2km程のナーンン川の右岸にありますが、草むらの中のところどころに基石が残っているくらいです。王宮の歴史を知るには王宮跡に建てられたチャン王宮歴史センタがあり、かつての王宮の姿を見ることができます。歴史センタの奥にはナレスワン大王をお祭りする寺院があって、現役寺院として参詣の人を多く見かけます。この寺院の周りにはおびただしい鶏の像が置かれていておような光景なのですが、そのいわれはわかりませんでした。また、手前にはワット・ウィハーントーンという寺院跡があり、ミニ・スコタイの感じで、大きな仏像も残っています。ナーン川を駅の方向に行くと、国道と交差する手前にはこじんまりとしたラックムアンの社があります。

 
 
 
 国道にかかる橋を左岸に渡ると、ワット・プラシー・ラタナ・マハタートがあります。こちらは観光寺院でもあり現役の信仰寺院でもあるために境内は多くに人出ごった返していて、お祭りの雰囲気さえします。回廊が幾つもあって、多くの仏像がずらりと並んでいますが、本堂にはタイで最も美しいと評判のチナラート仏が鎮座しています。境内には45度以上もあると思われる階段で上る古都ができる部っとなどもあって、ちょっと遊園地気分になれます。

 
 国道を駅の方に向けて横切るとワット・ラチャプー・ラナがあります。大きな仏塔と転法輪の目立つお寺でした。こちらも、何か仏教儀式があったのか、多くの人が境内にあふれていました。

 
 
 ホテルから駅へは夜中の11時過ぎの町並みを歩きましたが、町並みのあちこちがライトアップされ危険は感じませんでした。

 ピッサヌロークは20年以上も前にパッケージツアーで訪れましたが、その時にワット・プラシー・ラタナ・マハタートだったと思うのですが、参詣者が金箔を買って仏像に張り付けているのを見ました。今回も園光景を見られると思いましたが、ピッサヌロークではお目にかかれず、バンコクで同じような参詣方法を目撃しました。タイで見かける仏像は、どれも金ぴかで、金色に輝いている仏さまがありがたい、といった文化のようです。我が国の仏像もかつては金箔で覆われ同じような輝きを持っていたと考えられていますが、重文や国宝に指定されている仏像の大部分は採食や箔押しは剝がれて、構成の補修でも補われておらず、文化の違いを感じます。金は電気伝導率がよくさびないので、電子回路の接点につかわれます。かつて、廃棄された携帯電話が数多く眠る東京は大きな金鉱山と言われたこともありました。仏像に張った金は電気の伝導性が良いので、お願いもよく伝わるのでしょうか。