世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

京都から東へ山を一つ越えるだけで、山科には自然の綺麗な寺々が落ち着いた雰囲気の中にあります

2018-04-29 08:00:00 | 日本の町並み
 秋田県の湯沢は良質の湧水があって、この水を使った造り酒屋の多い町でした。この水が美人を作ったのか、小野小町の生誕地は湯沢と言われています。小町の生没地には諸説があり、墓所と言われるものも北は秋田から西は山口まで分布しています。これらの地で、晩年を過ごしとされる随心院の墓所はかなり信頼性が高いとされているようです。随心院では、毎年ミス小野小町コンテストも開かれているようです。今回は、この随心院のある山科あたりを紹介します。

 京都から地下鉄東西線に乗って東に、山科駅で南に曲がって3駅目の小野駅が随心院の最寄りの駅になります。この小野駅は、小町の生家である小野氏の栄えた地が駅名の由来です。随心院は、駅の東南東500mほどにある真言宗のお寺です。お寺には卒塔婆小町と呼ばれる像や文塚があり、裏には墓所もあっ朝に思いますが、「これが?」と思う目立たなさでした。お寺には2体の仏像などが重文になっていますが、寝殿造りの本堂からの秘話の眺めが良かったように思います。
(随心院を訪れたのずいぶんと昔で、アナログ写真は撮った記憶がありますが、収納場所が分からず、このブログでは不掲載です)

 
 
 一方、小野駅の西には勧修寺があります。こちらも真言宗のお寺で春の枝垂れ桜や秋の紅葉が美しいお寺の一つです。行けのそばにたたずむ観音堂もなかなか絵になります。書院が重文になっていますが、自然を取り込んだお庭を巡るお寺のようです。ただ、ちょっと無粋なのは寺のすぐ北に名神高速道が通り抜けているこtです。

 
 
 秋の紅葉と言えば、ちょっと穴場のお寺が毘沙門堂です。山科駅から北に1kmほどで、20年以上も前に訪問した頃でも、紅葉の時には、参詣道はかなり混雑していました。最近は、かなり有名になったので、もっと混んでいるかもしれません。春の桜や秋の紅葉の頃は京都が輝く季節ですが、とにかく人が多いのが悩ましいところ。最近は、外国からの観光客も増えて、混雑に拍車がかかります。途中駅でバスを待っていても、来るバス来るバスが超満員で通過してしまい乗せてもらえません。それに、」勝手の分からない外国人が増えて、乗降に時間がかかり、ほとんど無ダイヤ状況です。さて、毘沙門堂です、駅から北には東西に200mほどの市街地が伸びていて、その突き当りに位置するのが毘沙門堂です。創建は8世紀と古く当初は出雲寺と呼ばれましたが、戦乱などの影響で衰退と復興を繰り返し、17世紀には後西天皇の皇子がお寺に入って門跡寺院となっています。最澄が彫ったと言われる本尊の毘沙門天像に由来して毘沙門堂と呼ばれるようになったそうです。


 現在は、京都市の地下鉄が山科まで伸びて、途中の御陵(みささぎ)で京阪電車の浜大津方面が分岐しています。しかし、かつては京阪三条駅から、京阪の支線が路面電車で浜大津まで延びていました。京都から山科までは地下化で速くなり、車にとっては路面電車が消えて都合がいいのでしょうが、三条から浜大津まで行くと初乗り運賃を2度取られてしまいます。ヨーロッパでは、都市交通は、どの電車やバスに乗っても、ゾーンをいくら跨るかだけで運賃が決まるものが多いようです。日本に比べて極めてシンプルです。日本人でも、都市の運賃体系はよくわからないことが多いのに、外国からの観光客は大変だな~と思います。この乗客を手助けするのが、ネットのナビシステムで、観光客も手放せないのでしょうが、こんなのが必要無い方がいいに決まってます、この複雑さが車社会を助長してるようにも思います。

カーニュ・シュル・メールやサン・ポール・ドヴァンスの陽光は芸術家の心をとらえたようです(フランス)

2018-04-22 08:00:00 | 世界の町並み
 ツァラトストラを執筆したニーチェが散歩をしたのが、フランス南部、ニース郊外のエズでした。フランスの地中海沿岸、特にカンヌからモナコにかけてのコート・ダジュールと呼ばれる地域は、避暑や避寒に訪れる人の多い地域です。観光客だけではなく、芸術家も好んで訪れたようです。マチスやピカソが好んだサン・ポール・ド・ヴァンスは、シャガールの墓もあります。カーニュ・シュル・メールには、最晩年のルノアールが暮らしたアトリエが美術館になっています。今回は、海辺のカーニュ・シュル・メールから北へサン・ポール・ドヴァンスあたりを紹介します。

 
 
 
 カーニュ・シュル・メールは、ニースの西10kmほどの地中海に面した町です。人口は5万人弱なので、日本でいえば萩市や赤穂市程度で、こじんまりとした街です。背後に丘があり、丘の上にはオールド・カーニュと呼ばれる古い街並みが広がっています。現在の市街地は、丘と地中海に挟まれた1kmほどの幅で東西に広がっています。この丘のふもとにルノアール美術館があります。美術館と言っても、ルノアールの絵はほとんどなく、最晩年を過ごしたアトリエとオリーブの木が茂る庭があるだけです。カーニュでのルノアールは、リュウマチで指が動かないため、筆を手に縛り付けて絵を描いたのだそうですが、なんとも、壮絶な感じがします。コート・ダ・ジュールの陽光に銀色がかった緑に輝くオリーブの庭の風景を眺めているとこの壮絶な様子は想像できません。

 
 
 
 
 カーニュ・シュル・メールから北へ5kmほど入るとサン・ポール・ドヴァンスの要塞集落があります。人口はさらに少なく3千人くらいで、もう村って感じです。先に紹介したエズにも似て、村の中には車は入れず、細い石畳の石段が続きます」。ただ、エズと違って、集落は丘といった程度の高さにあるので、ニーチェの道のような険しさはありません。このサン・ポール・ドヴァンスの村落とどうろを挟んで西側の森の中にはマーク財団美術館があります。20世紀の美術品を集めた美術館で、そのコレクションの数はトップクラスだそうです。ミロ、シャガール、ジャコメッティなどそうそうたる作品が館内や庭園に展示されています。これらの作家のファンには魅力のある美術館の一つのようです。

 筆者がこの地域を訪問したのは、まだインターネットなど普及する前で、黄色の表紙のガイドブックも見かけませんでした。個人旅行のホテル予約は、ファクスを使い、時差の加減で深夜に返事が返ってきます。予約して宿泊したホテルは、サン・ポール・ドヴァンスのバス停で場所を尋ねたら山道を4kmという場所でした。ホテルのレストランには、カーニューからわざわざ車を駆って夕食に来るという名店のようでしたが、個人旅行者にはタクシーを呼んでもらう手段しかありませんでした。場所の詳細情報が事前に入手できなかったからなんです。ネットの普及で、もっとも恩恵を受けている人々が個人旅行者かもしれません。

小野小町の生誕の地と言われる湯沢には数多くの造り酒屋が、良い水は美酒と美人を生むのでしょうか

2018-04-15 08:00:00 | 日本の町並み
 現存の天守閣のうち唯一のヤマジョウの遺構があるのが岡山県の高梁でした。高梁は全国京都会議のメンバで、この会議に加盟する市町は京都を除き45あります。加盟の基準は、京都に似た景観、京都との歴史的つながり、伝統産業、芸能のあることの3条件です。加盟の市町は西日本に偏重気味で、北海道はゼロ、東北地方は5か所です。今回はその5か所の中から、秋田県の湯沢を紹介します・

 
 
 湯沢市は、秋田県の南東端に近くにあり、湯沢駅は奥羽本線の新庄と大曲の中間あたりですから、山形新幹線、秋田新幹線のどちらからも見放された駅ということになります。湯沢は、16世紀の末に、湯沢駅の東1kmほどの古館山にあった湯沢城の城下町でしたが、江戸初期に一国一城令で取り壊され、城下に館が築かれ佐竹南家と資料として明示を迎えています。かつての城跡の古館山の麓に武家屋敷町が残されているようですが、さほど規模は大きくないようです。一方、雄物川と奥羽本線との南東側には造り酒屋の多い町並みが残っていて、こちらがなかなか見ごたえがあります。古館山の麓には力水と呼ばれる佐竹南家の御用水が湧き、駅の東には「犬っこ清水」と呼ばれる湧水があります。この恵まれた水が酒造りを発展させたのでしょう。マンホールのふたにも、湯沢市小野が小野小町の出生の地という伝説にちなんだ小町像に並んで犬っこがデザインされています。

 
 
 
 
 造り酒屋の中で、もっとも目立つ存在が両関酒造で、羽州街道が雄物川を渡るあたりを東に200mほど行ったところにあります。通りに妻面を見せるたてものは実に堂々としており、入り口には道祖神でしょうか三角推の意思が置かれていました。内部も見学ができ、酒蔵や醸造樽、陶器の貯蔵容器に加えて自衛用でしょうか消防ポンプも置かれていました。

 
 両関酒造を南に行くと秋田銘醸の工場がありますが、「美酒爛漫」を作っているお酒屋さんと言った方が分かりやすいかもしれません。さらに、駅と古館山の間の南には木村酒造がありますが、こちらも「福小町」の銘柄の方が有名かもしれません。

 
 
 両関酒造の建物は、堂々たる木造の日本家屋ですが、駅の東に下見板張りの木造洋館が残されています。雄勝郡会議事堂記念館で、明治中期にドイツ人の設計で議事堂として建てられ、その後は公民館や公会堂などに使われ現在はイベントや貸会議室として使われています。訪問した時には8月の行われる七夕絵どうろう祭りの灯篭が展示されていました。弘前のネブタの山車を小さくしたようにも思えますが、ネブタの武者絵にたいして、こちらは優雅な和服美人が描かれています。

 絵どうろう祭りの起源は、京から佐竹南家にお輿入れのお姫様に京の郷愁を竹に短冊を飾り付け他のが始まりだそうです。現在のような美人画が描かれるようになったのは、小野小町の生誕の地との伝説からでしょうか。この美人や美男子の基準というのは、時代と共に随分と変化をしてきたように思います。絶対的な基準を決めるのは土台無理で、民族によっても随分と違うものです。AIが進んで、コンピュータが、コンテストの審査を行うようになると、普遍的になるのでしょうか。

河岸段丘に広がるポルト旧市街は、河畔からの坂道にも町の表情が見える楽しい散歩道があります(ポルトガル)

2018-04-08 08:00:00 | 世界遺産
 ブダペストはドナウ川の両岸に広がった都市で両岸ともに平野が広がっていました。一方、ドウロ川の河岸段丘の上に広がった都市がポルトガル第2の都市のポルトです。ブダペストでは、世界遺産はドナウ川の両岸に広がっていましたが、ポルトでは、大部分が右岸(北側)にあります。今回は、このポルトの町を紹介します。

 
 
 
 ポルトの中央駅は、カンパニャン駅で、リスボンなどに行く列車はこちらから出発します。しかし、旧市街の中心地にあるのはサン・ベント駅で、カンパニャン駅から盲腸線が一駅延び、ローカル列車が発着しています。ローカルな駅なのですが、駅の中のアズレージョ(陶板画)が素晴らしく、列車に乗らなくても、これを見に行くためにだけ立ち寄る値打ちがあります。旧市街は、このサン・ベント駅の西側、ドウロ川の北側に広がっています。この旧市街の南側をドウロ川に沿って河口近くまで走っているのが路面電車で、なんともクラシックな電車が走っています。集電はポール式で、モータは吊り掛式と呼ばれる古い形式のため、電車が走るとうなり声をあげます。座席は籐で作られた転換クロスシートだったように思います。


 
 路面電車の東端の出発駅のそばにあるのがサンフランシスコ教会です。15世紀にゴシック様式で建てられ、外観は素っ気ないのですが、バロック様式の内部は金箔で装飾されていて、それなりに豪華で見ごたえがあります。地下にはカタコンベがあって、ちょっと不気味です。サンフランシスコ教会の隣はボサラ宮で、最近まで証券取引所として使われた建物です。内部には裁判に使われた部屋もあり、英国の議事堂のように向かい合わせの椅子が並んでいました。

 
 

 ボルサ宮から北へ河岸段丘を上って500mほど、ちょうどサン・ベント駅の西あたりにあるのがクレリゴス教会で、18世紀にバロック様式で建てられています。76mの鐘楼があり、市内のどこからも見えます。一方、ボルサ宮から東北東へ、サンベント駅との中間あたりにはポルト大聖堂があります。市内で最も古い建物で、ロマネスク様式で建てられファサードにはバラ窓があります。要塞として建てられただけに、眺めの良い河岸段丘の端あたりにあり、北側は旧市街の建物群の中にクレリゴス教会の鐘楼が、南側はドウロ川の対岸まで見渡せます。

 
 
 
 これらの建物の間の町並みは、河岸段丘を上り下りする曲がりくねった石畳の道が続き、露店で小動物や鳥が売られていたり、またドウロ川の河岸には、露店のカフェテラスもあります。また、マーケットの広場では、民族ダンスのコンテストらしき催しもありました。観光ポイントを観光バスで回る旅では味わえない町の雰囲気が楽しめます。

 
 
ポルト大聖堂の下からドウロ川を渡って南側に行く橋がドン・ルイス一世橋です。19世紀後半にエッフェルの弟子が設計したアーチ橋で、上下2段の構造になっています。かつては、上下ともに道路橋として使われ、筆者が訪問した折もそうでしたが、2005年に橋を渡るメトロが開通して、上段はメトロと歩行者用となったようです。師匠のエッフェルは、ドン・ルイス橋の上流に架かるマリア・ピア橋を設計し、同じ頃に開通しています。こちらもアーチ橋で、ポルトとリスボンとを結ぶ鉄道の橋として使われてきましたが、1991年にさらに上流にサン・ジョアン橋が完成してその役割を終えています。ドン・ルイスは完成当時の国王の名前、マリア・ピアは王妃の名前に由来しています。

 
  橋を渡った南岸には、数多くのワイナリーがあります。ポートワインの醸造所です。試飲付きのワイナリ内見学ツアーも催されていて、工場内を一周した後は試飲が待っています。工場内はいい香りが漂っていますが、下戸の筆者は、見学だけの参加にしました。

 かつて我が国ではポートワインという目0柄の国産のお酒がありました。しかし、このお酒は、酒精アルコールを薄めて甘味料を加え赤く色を付けただけの代物で、本家のポートワインとは似ても似つかないものでした。ついにはポルトガルからのクレームで名称を変更したことがありました。赤玉ポートワインが登録商標だったかどうかわかりませんが、登録商標というのは、特許と違って新規性は関係なく、先に登録したものが原則的に受理されます。特許庁のサイトで、先行登録の有無は、ちょっと慣れれば簡単に検索が可能です。このシステムは、大変に便利で重宝しますが、悪意のある人が使って、売れそうな名称で未登録のものを探し出して登録してしまう危険をはらんでいるようにも思います。

唯一の山城遺構の麓の高梁は土蔵造りの武家屋敷や商家に加えて明治の木造洋館が残っています

2018-04-01 08:00:00 | 日本の町並み
 信長の作った安土城は石垣が残るのみで、ふもとには当時の城下町は無くなってしまいいましたが、その後に土蔵や格子の町並みができていました。安土城は安土山の頂上に作られた山城でしたが、天守が現存する12の城のうち山城は唯一、備中高松城です。今回は、高松城の麓の高梁を紹介します。

 高梁は、岡山県の中部、岡山市の北西50kmほど、倉敷からJR伯備線で備中高梁駅まで40~50分ほどの距離になります。備中高松城は駅の北2kmほどにそびえる標高430mの臥牛山に本丸が作られ、現在は天守、二重櫓などが重文に指定されています。古い街並みは、高梁駅から備中高松城に向かって800mほど北にある紺屋川の周辺から、北に500mほど範囲で伯備線の両側に丘の麓の西側に沿って残っています。

 
 
 紺屋川の手前には、明治時代に建てられて昭和47年まで現役の小学校の校舎として使われていた建物が郷土資料館として残されています。下見板張りの2階建てで、なかなか」立派な建物です。そして川沿いの伯備線の線路に近い方には、やはり明治の木造建築の高梁基督教会堂が建っています。岡山県で現存する最古の教会堂で、バルコニーと塔屋を持つ、なかなか優雅な建物です。一方、高梁川に近い方には、川沿いに土蔵造りや格子の美しい商家の建物が連なっています。

 
 
 紺屋側を渡って北に300mほど行くと、昭和37年まで醤油屋さんであった池上邸が商家資料館として保存されています。さらに北へ、高下川沿いに東に線路を越えて南に行ったあたりが武家屋敷の遺構が連なる町並みです。萩や松江の町並みを歩いているような雰囲気ですが、こちらは観光客の姿は見かけません。この通りをさらに南下すると、小堀遠州の作った庭がある頼久寺があり遠州の作庭中の最高傑作のひとつと言われています。江戸初期に備中高松藩の藩主であった遠州が、備中兵乱で高松城が荒廃していたために頼久寺を仮のの居所とした折の作庭だそうです。


 小堀遠州は、高松藩主としてだけでなく駿府城修復や数々の寺社の修復、造営を手掛けた作治奉行として活躍をしています。数々の著名な庭園も作治奉行の業績の一環です。これらの公の顔の他に、茶道の遠州流の開祖としてだけでなく、華道や七宝など幅広い文化人としての顔を持つマルチな人物だったようです。上野の博物館の庭園には、遠州が建てた転合庵が移築されて建っており、これは小さな茶入れを収めるための大きな入れ物と評されています。八条の宮から賜った「於大名」という小さな茶入れのお披露目のためにだけ、茶室を新築してしまったそうです。マルチといえば、現在のパソコンはマルチメディアを標ぼうして、1台のパソコンで音声や映像の処理まで、色々なメディア情報を扱うようになりました。かつては、フロッピーディスクが扱えるだけでマルチメィア・パソコンと言われましたが、意味合いが広く、変わってきたようです。遠州のマルチさは、パソコンのマルチメディアを超越しているのかもしれません。