世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

フォートマクマレでもオーロラは見られませんでしたが、巨大な重機の展示に圧倒されました(カナダ)

2013-12-22 08:00:00 | 世界の町並み
 比較的寒くない場所でオーロラが見られることで日本人観光客にも人気の町がノルウェーのトロムソでした。オーロラの観測は寒さとの戦いで、カナダのイエローナイフは晴天率が高くてオーロラを見られる確率の高い場所として知られますが氷点下40度にもなる極寒の町です。同じカナダでも、もう少し暖かな場所で観測できる場所も多く、そのうちの一つがフォートマクマレです。今回は、オーロラとオイルサンドで有名なフォートマクマレを紹介します。

 フォートマクマレは、カナダの中西部のアルバタ州の東北部に位置します。周辺地域との合併により、現在はウッドバッファロー市のの一部となっていますが、ウッドバッファローの面積は北海道の7割ほどの6万k㎡とカナダ第一の広さですが、人口は6万人ほどです。大部分が広大な森林で、限られた都市部にしか人が住んでいませんし、その都市部の中心地でも人通りはまばらでした。住人の大部分はオイルサンド関連の企業に勤めているようです。こんなに人を見かけない場所ですが、オイルサンドのおかげで、フォートマクマレ空港には、トロントやエドモントン、カルガリーなどから毎日飛行機が飛んで来ます。

 
 
 さて、そのオイルサンドですが、粘度の高い石油成分を含む砂岩のことで、カナダのアルバタ州以外ではベネゼエラなどが主な産地です。砂岩を砕いて油分を抽出するには、手間がかかり環境汚染をも伴いますが、石油価格の高騰も後押しをして、石油燃料代替資源として注目されています。フォートマクマレでは、オイルサンドが地表に露出していて露天掘りで採取できるので、コスト面からも有利なのでしょう。露天掘り現場は見損ねましたが、宿泊したホテルのすぐそばにオイルサンドの資料館があり、オイルサンドとは何ぞやから、採掘の使う重機の展示までがなされていました。重機は、当然屋外に並べられていましたが、とてつもなく巨大(そばの人間と比べてください)です。通常のブルドーザが並べられはいませんでしたが、あっても、おもちゃに見えたかもしれません。町の中心地で、鉱石を運ぶ車なのでしょうか、日本の道路事情ではとても走れそうに無いトレーラが通過していきました。

 
 フォートマクマレの観光のもう一方の目玉のオーロラですが、町の中心部から少し離れ空港寄りのホテルだと、空が暗くて観測できると期待しました。ホテルの裏庭に出ると、空は暗いのですが、2泊した2晩ともに厚い雲に阻まれてしまいました。設備などは良いホテルでしたが、周辺は野っぱらで何も無く、オーロラが出ないと、中庭にあるプールに併設ジャグジーでのんびりするしかないない感じでしたが、考えようによっては、贅沢な時間かもしれません。

 ホテルの周辺には、オイルサンドの資料館ぐらいしかないので、タクシーで待ちの中心街まで行ってみました。ショッピング・センターの所で降ろしてもらいましたが、周辺の景色は、ホテルの周辺とさほど変わらない感じです。多少は、建物が建っていますが、その先は針葉樹林帯で、オイルサンドが出なければ、これらの建物も無い荒涼たる原生林が続くだけの場所であったのでしょう。

 オイルサンドの精製過程では、大量の温室効果ガスが排出され、さらに精製されたオイルを燃やしても炭酸ガスが生成されます。地球温暖化には、悪影響を与える資源の一つとされ、評判は思わしくありません。しかし、カナダは、自国の産業を守るため京都議定書から離脱してしまいました。原発事故以来何かと悪者扱いをされる原子力ですが、原発全廃の声はきわめて政治色が強くて、科学的ではないように思います。毎日10人以上が死亡する交通事故があっても、車を即刻廃止しろと言う議論はなされません。発電量が名目の1割にも満たない太陽光発電より、核融合を含めた原子力エネルギーを安全に使いこなす研究に金を使うほうが建設的だと考えますがいかがでしょうか。

茶色と白との町並みの中に建つ信用金庫の龍野支店の建物も茶色と白にまとめられていました

2013-12-15 08:00:00 | 日本の町並み
 獅子文禄の「てんやわんや」の舞台になった町が愛媛県の岩松でした。かつては河川港として栄えた町でしたが川が運ぶ土砂で埋もれて港の機能は失われています。船による物の運搬は、現在でも重量物の場合には圧倒的に有利で大きな河川の多いヨーロッパでは、大型の船が川を遡上しています。我が国では、現在ではほとんど見かけなくなりましたが、陸上の運搬が困難であった明治初期までは、川を船で運搬することが盛んに行われました。このため、物の集散地や物造りの拠点は舟運が利用できる川沿いの場所が多いように思います。今回は、これらの町の中から、揖保川の舟運を利用した醤油や素麺作りで栄えてきた龍野を紹介します。

 
  
 龍野は、近隣の町との合併して市の名前がカナ表示の「たつの市」となりましたが、醤油で栄えた地域は漢字表記の龍野町になっています。兵庫県の西の端に近く、姫路からJR姫新線で20分ほどの本竜野が最寄り駅になります。山陽本線に龍野駅がありますが、龍野町からは随分と離れた揖保川の下流で、かつての龍野市には属していませんでした。合併によって、たつの市の一部になりましたが、龍野駅で下車したのでは醤油のふるさとまでは4km以上も離れていて歩いて行くには少々遠い距離です。ただ、本竜野駅で下車をしても、古い町並みの残る場所までは、揖保川を渡って15~20分ほど歩くことになります。

 
 古い町並みは、龍野城の城下町が核となっていて、鶏籠山の麓に城跡が残っています。現在の龍野城跡は、鶏籠山にあった山城を江戸期に麓に移築した平山城の跡で、山上にも本丸跡が残っているようです。町並みは、東を揖保川に残りの三方を山に囲まれた500m四方ほどの閉じたエリアで、その狭い場所に土蔵造りや格子の並んだ町家や、醤油の醸造所などが高い密度で並んでいます。ただ、うすくち醤油の最大の醸造所の東マルの主力工場は、揖保川の対岸の駅寄りに引っ越してしまっています。パイプラインやタンクが並ぶ近代的な工場ですが、周りには並木沿いに綺麗な疎水が流れていて、醤油も水が原料の一つなのだと思わせます。


 
 
 
 古い町並みの中にある、新しく造られた信用金庫の建物も、周りの町並みに合わせて、白壁の土蔵造りに木の古風な看板が掛けられていました。この信用金庫は別として、町並みを形成する建物は、江戸時代から明治期に建てられたものが多く、なかなか壮観です。中でも最も古いものは江戸中期の18世紀のもので、土蔵に至っては江戸初期の墨書のあるものが残っています。200年以上も前の民家や350年前の土蔵が残されているのは数少ないのではないでしょうか。

 
 古い木造家屋の中にあって、ヒガシマルの記念館は大正から昭和にかけてと新しい建物ですが、レンガタイルの外壁が古風な町並みに溶け込んでいます。木のこげ茶色と、レンガの明るい茶色とが同系統のせいなのでしょうか。しかし、明治期に建てられた木造洋館は淡いブルーの下見板張りであったり、ベランダに並んだ真っ白の柱であったりと、渋系ではないパステル系の色合いですが、こちらも程よいコントラストをかもし出しています。

 龍野で造られる淡口醤油は、原料の小麦を浅煎りにするなどして、濃口醤油と比べて薄い色合いに仕上げたものです。料理の色合いを大切にする関西、特に京料理に用いられ、食材の色を損ねない調味料として欠かせないものです。醤油は、日本生まれの醗酵調味料ですが、現在では海外での重要も増え、輸出だけでなく、現地生産も行われているようです。日本のものが、世界標準となった例の一つですが、ケータイなどの分野では日本標準は、世界標準と異なり、ガラパゴスといわれることも多いようです。このガラパゴスは、ネガティブに使われますが、必ずしも世界標準が優れているとは限らないようです。国際会議の場などで、ある国の会社に都合の良い方式が多数派工作や圧力などで、技術的に劣る方式でも国際標準となることも多いように思います。わが国では、某メーカーのスマホが人気でデファクトスタンダードのようにみなされています。しかし、スマホの概念は今から10年以上も前からあって、実現技術もけっして新しいものではありません。識者の中では、ガラパゴスと言われるスマホのほうがすぐれているという意見が多いのも事実です。

ヴェルサイユ宮殿より広いフォーヌテヌブロウ宮殿にはナポレオンの手も加わっています(フランス)

2013-12-08 08:00:00 | 世界遺産
 東洋のヴェニスといわれる水郷地帯に水を配した庭園が数多く残されている町が蘇州でした。どの庭園も、建物と庭園、それに庭園に作られた池が複雑に入り組んで、回遊すると、その先にどんな景色が現れるのか予想しがたい楽しみがあります。一方、ヨーロッパの庭園は幾何学的に構成されていて、全体の構図がシンプルで、シンメトリーであることも多いものです。中国の庭園は、実際の広さより広く感じますが、ヨーロッパの庭園は、それよりずーっと広くても、さほど広く感じないのは、このシンプルさゆえかもしれません。フランスを代表する宮殿はヴェルサイユ宮殿ですが、そのヴェルサイユより広い宮殿がパリの南部にあるフォーンテヌブロー宮殿です。


 フォーヌテヌブロウ宮殿は、パリのリヨン駅からterで40分ほど乗ったフォーンテヌブロウ駅前から、あまり本数の多くないバスに乗り換えて10分くらいのところにあります。駅の周辺は、家が建て込んでいますが、宮殿の後方には広大な森が広がっていて、宮殿が広いのは地の利を生かしたように思います。バス通りに開いた門を入ると、コの字型に両翼がせり出した宮殿が圧倒的な物量で迫ります。しかしこれで驚いてはいけません。この建物の後方には、幾重にも重なった建物群が建っています。

 これらの建物は16世紀初頭にフランソワ1世にその基礎が作られ、その後のフランス王によって改築が続けられています。フランス革命によって王室が崩壊した後は、ご他聞にもれずナポレオンが権威の象徴として、ヴェルサイユ共々利用したようです。門を入って目に飛び込んできた広大な庭は、ナポレオンが失脚後に親衛隊に別れを告げた場所なのだそうです。

 
 
 
 宮殿内の見学は、コの字の右翼から入りますが、宮殿の主は正面の階段を上がって入城したのだと思います。この階段が凝っていて、中央部を避けて、左右に半円を描いて上り2階の正面で合流するものですが、その曲線が洒落ています。一方、右翼から入城した観光客は、オーディオガイドを頼りに広大な宮殿の一部と思われる部屋部屋を回ります。ベルサイユと似たような造りですが、こちらも負けず劣らず豪華な部屋や回廊、それに部屋を彩る調度が続きます。部屋からは、宮殿の後方に広がる広大な森や、その手前の池も見渡せます。



 宮殿の内部を見た後は、建物の後方に回って庭を散策することになります。緑の中にいくつも建っている宮殿の建物群を抜けると、細長い運河や大きな池が現れますが、ヴェルサイユの細長い運河に比べると小ぶりのように思います。森に向かって細長く伸びる運河の周りをめぐる馬車も走っていますが、景色の変化が乏しいのではないかと思います。むしろ、宮殿の建物に寄り添うように作られた池のほうが表情が豊かな感じがします。

 ヨーロッパ社会では、貴族が健在で、彼らから見ると、日本のようにすべての国民が平等であるのは奇妙に写るのだそうです。この身分制度があるから、伝統文化が保存できるのだとは、彼らの主張なのですが、なにゆえに貴いのかは理解できません。民主主義はヨーロッパ社会から広まりましたが、考えようによっては、最も民主主義名国の一つはわが国かもしれません。貴族は、伝統文化を保存したかもしれませんが、全員が中流の国民の大量消費に支えられて発展したIT技術は生まれなかったのではないのでしょうか。

「てんやわんや」の看板が浮いた感じですが茶色の町並みが落ち着く岩松です

2013-12-01 08:00:00 | 日本の町並み
 炭鉱王の豪邸や辰野金吾設計事務所の設計になる銀行の遺構それに河村美術館など和、洋の建物群がすばらしい町が唐津でした。最近NHKの朝ドラの人気が盛り返していますが、1969年から1970年にかけて放送された朝ドラ、獅子文六作の「信子とおばあちゃん」の舞台も唐津でした。獅子文六は数々のベストセラーを出していて、朝ドラの第1作の「おはなはん」も文六の作品です。いっぽう、映画化で話題となった作品の一つに「てんやわんや」があります。「てんやわんや」は、戦時中に疎開をしていた作者の奥様の実家がある岩松が舞台になっていました。今回は、その岩松の町並みを紹介します。

 岩松は、合併によって愛媛県の宇和島市の一部になっていますが、宇和島市の中心部から南に10kmほどバスで30分ほど走った場所です。もちろん鉄道は、宇和島までしか来ていませんから、足は半島の付け根を山越えで宿毛に伸びる道を走るバスだけです。岩松川の河口に位置しており、かつては河川港として千石船も寄港していたそうです。ただ、近年になって河川の運ぶ土砂により川底が浅くなり、港としての機能が果たせなくなったようです。

 
 宇和島からのバスは、岩松川の右岸に沿って走り、向きを変えて海に向かう岩松川を津島大橋で渡って宿毛に向かいます。一方、古い町並みが残るのは、川の左岸、バス停のそばの橋を渡った対岸に川に沿って伸びています。通りの中央あたりに、「てんやわんや文六餅」と赤字で大書された看板が目立つ大野文六堂があります。正規の看板なのですが、どう見ても落書きに見えてしまいます。周りの古い町並みに、この看板だけが異質な感じがします。

 
 
 
 川に沿って伸びる町並みは、道路も町並みも微妙に曲がっていて、その先にどんな町並みが見えてくるのかな、という期待を持たせます。大野文六堂は白壁の土蔵造り風ですが、他の家並みの大部分は2階建て板壁の茶色の家並みが続いています。中には、土蔵造りの白壁の下部が板壁の蔵と思しき建物も混じっています。ただ、過疎化のためで無住になったのか、大屋根の途中がへの字に折れ曲がってしまっている家屋もありました。

 ヨーロッパなどでは、ハンブルグ港のようにエルベ川の河口から100kmもさかのぼった所にある大きな港も珍しくありません。しかし、地形が急峻で、川の流れは速いわが国では、淀川の伏見港が河口から30kmほどになるなど一部の例外を除いて、内陸に深く入り込んだ港は少ないようです。陸上交通が不便な時代には、荷物を比較的楽に運ぶ手段は船舶で、都市も大きな川沿いに発展してきたように思います。世の中は、ICT(情報通信技術)がもてはやされて、物流は不要になったような誤解を与えていますが、情報でお腹は膨れません。ICTは物流の無駄を抑えるでしょうが、これからも船による物流は絶えることは無いでしょうし、港湾都市の繁栄は続いていくのでしょうね。