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世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

現在も島民の7割までがカソリック信者の黒島は足の便が悪くっても行く価値十分です(日本)

2018-07-29 08:00:00 | 世界遺産
 2018年に日本から新たに登録された「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の第2回目の紹介です。前回が長崎市内の2か所の紹介でしたが、今回は佐世保市内の1か所と、2014年の当初の候補にから途中で削除された平戸市内の1か所をおまけで紹介します。

 
 
 
 
 佐世保市内の登録は、黒島の集落という名称で黒島天主堂を含む重文景が指定されています。黒島は佐世保市内と言っても、JR佐世保から松浦鉄道に乗り換えて30分ほどの相浦まで行き、駅から500mほどの相浦港から50分ほど船を乗った離島です。このフェリーは一日に3便で、かなり不便で、島内には公共輸送機関は何もありません。島内の民宿に頼んで、車で島内を案内してもらうしかありません。島の大きさは南北2km、東西4kmほどで、港は北側の中央当たりにあり、島の高台の中央やや南側に黒島天主堂が建っています。天主堂はフランス人のマルマン神父の設計で1902年に竣工、三廊式バシリカ形式で外観はロマネスク様式です。煉瓦と一部は木造を併用していて煉瓦の一部は現地で焼かれたそうです。レンガ造りの教会は、全国に17棟しかなく、後半で紹介する田平天主堂など16棟までが長崎県にあります。ステンドグラスを通した光の影が綺麗でした。

 
 黒島のキリシタンは、江戸後期に大村藩のキリシタン達が隠れ住むようになり、大浦天主堂での信徒発見から数か月後には黒島の信徒代表が大浦天主堂に赴いています。現在でも、島の住民の70%ほどはカソリック信者だそうです。天主堂の近くの丘の斜面には、信者の共同墓地があって、沢山の十字架が載った墓標が建っています。この中には、天主堂を作ったマルマン牧師の墓標もあります。

 
 
 島は自然も豊かで、天然記念物のサザンカやアコウの巨木があり、島の西端には串の浜岩脈があります。これは、海岸に総延長300mに及ぶ玄武岩の岩脈で、足の便が良ければ有名な観光地になっていそうなものです。周辺の海も綺麗で、海岸もありますが、人っ子一人も見かけません。

 
 
 
 2014年の世界遺産推薦の当初案には載っていて、最終的に削除された教会が平戸市の田平天主堂です。最寄りの駅は、松浦鉄道のたびら平戸口で、沖縄モノレールを除いて通常の鉄道の日本最西端駅です。駅や天主堂のある地域は、2005年までは田平町でしたが、現在は平戸市の一部となっています。天主堂に最も近い駅は、西田平ですが、山道を2kmほど歩かねばなりません。たびら平戸口からは本数は少ないもののバスが江迎方面に走っていて、教会のそばに停車します。田平天主堂は、外海の出津教会の司祭であったド・ロ神父によって明治12年に仮聖堂が作られ、現在の天主堂は大正7年に鉄川居与助の設計で煉瓦造り一部国造で建てられました。2014年の「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」の名称の時には候補の一部でしたが、ICOMOSの禁教期を主体にすべきとの指摘から、隠れキリシタンとの関連の無い田平天守堂は外されてしまった経緯があります。多くの信者の労働奉仕で作られた聖堂は、正面に鐘楼とドームを持ち、聖堂の庭にはルルドも作られています。こちらも、ステンドグラスが作る影が綺麗でした。

 さらに、もう一つおまけで五島列島の堂崎天主堂は、やはり今回の登録から外された施設で、現在は資料館になりミサなどが行われていないとの理由です。こちらは、実物の写真ではなく、東武ワールドスクウェアのミニチュアのものです。

 世界遺産を審査するICOMOSは、ヨーロッパの価値観のもとで判断します。彼らは、西欧文化が最上であるとの誤解のもとに、彼らの価値観を押し付けてきます。我が国で最初に登録となった法隆寺の時には、我が国の関連メンバは、彼らの石の文化と我が国の木の文化の違いを理解させるのに、大変な苦労をされたそうです。どうも、今回のテーマ変更も、彼らの独善の匂いがします。世界遺産は文化的な面での話ですが、IT分野でも、西欧優位の価値観は変わらないようで、IT分野の標準化でも技術論ではなく、彼らの価値観で決まることが多いような気がします。

女子大の構内で見学には敷居が高いのですが旧島津侯爵邸は見どころいっぱいです

2018-07-22 08:00:00 | 日本の町並み
 駒場公園の中心的な存在が旧前田侯爵邸の洋館と和館でした。江戸時代から明治に移行する時には、江戸時代の藩主は華族として特権を与えられ、旧江戸屋敷の場所に豪邸を建てたようです。現在、その一部は、某ホテル・チェーンが買い取って、ホテルの一部として使われていたり、旧前田侯爵邸のように公的団体の所有になっていたり、大使館として使われている建物もあります。その中に、女子大の建物として使われているのが旧島津侯爵邸です。今回は、旧前田邸に続き旧華族の邸宅の一つである清泉女子大学の本館を紹介します。

 
 清泉女子大学は、五反田駅の東に延びる広い通りを400mほど行って、北に曲がり坂を上りきったところの左手に正門があります。周辺は、住宅密集地ですが、大学の構内だけが緑豊かな小高い丘になっています。

 この場所は、江戸時代には伊達藩の江戸下屋敷があり、明治になって島津家の所有になりました。伊達藩の時代に建てられた家屋が老朽化したために、鹿鳴館の設計で有名なジョサイヤ・コンドルに設計依頼をして建てられたのが、現在の旧島津侯爵邸です。設計依頼は明治年間でしたが、設計変更や明治天皇の崩御などで完成は大正4年だったそうです。その後、島津家の窮乏で日本銀行の手に渡り、戦後はGHQの管理下で紹興の宿舎だったそうです。その後、横須賀にあった清泉女子大が、昭和37年に日本銀行から買い取って、移転し現在に至っています。

 
 
 
 旧島津邸は、女子大の構内なので、自由には見学はできず、ガイド付きの見学会を申し込んで参加するなどの手続きが必要です。旧島津邸の本館は、正門を入って、坂を上ったところにあり、左手に奥庭に面したバルコニーのある正面玄関が、右手は他の建物に向かって伸びています。同じジョサイヤ・コンドルの設計のためか、バルコニーの雰囲気は旧岩崎邸の洋館に似ているように思います。

 
 
 
 内部は、廊下も階段も赤いじゅうたんが敷き詰められて、重厚な感じです。窓にはめ込まれたステンドグラスはアールヌーボ様式で、なかなか素敵で、島津家の紋章の丸に十字も見えます。チャペルもあって、シンプルな感じがするのは、おそらく、元からあったものではなく、居室をチャペルに改造したのではないかと思います。

 
 玄関の前の庭は、芝生と楓(ふう)の木があるだけで、広い空間が、ちょっと贅沢なかんじもします。庭の中央あたりの楓の木は、シンボルトゥリーのような感じで高さが20mほど、樹齢は推定200年だそうです。伊達藩邸であったころに植えられたもので、小高い丘に植えられた木は高尾もみじと呼ばれ有名であったそうです。また、庭の奥にはミッションの女子大らしく手を広げたキリスト像がありました。

 ジョサイヤ・コンドルは、いわゆるお雇い外人で、イギリスから24歳で来日し、鹿鳴館の設計などと共に、東大の前身の工部大学校で教鞭をとってました。24歳というとマスターの2年生という若さ、西洋建築の先進国からといっても信じられない若さです。コンドルが設計した建物は、旧島津邸以外にも、旧岩崎邸、旧古河邸、旧諸戸邸などかなりの数が現存しています。それも、そのはずで、ほとんどのお雇い外人が、数年でさっさと母国に帰ってしまったのに、コンドルは日本舞踊の御師匠さんと結婚をして日本に住み着いちゃったのです。とこrで、コンドルの読み方は、オランダ語風で、本来はコンダと発音されるべきだそうです。江戸時代の蘭学のなごりでしょうか。ジョサイヤの方もオランダ読みにするとヨシヤってところでしょうか。綴りが同じでも、国が違えば発音が違い、同じ国でも綴りが似ていても、全く違った音など、コンピュータによる読み上げ用の辞書を作るのは大変な作業だったのでしょうね。

英仏の卑劣な破壊と略奪が無ければ、円明園は間違いなく世界遺産の一つになっていたでしょう(中国)

2018-07-15 08:00:00 | 世界の町並み
 長くイギリスの東インド会社の拠点となり、第2次大戦後にマレー連邦としての独立を経て、人種問題からマレーシアとたもとを分かったのがシンガポールでした。イギリスの支配下のシンガポールは、イギリスの他の植民地との間で、アヘンや茶葉、天然ゴムなどの中継貿易地として栄え、中継貿易の拠点の体質は現在も続いています。そして、シンガポールを経由したアヘンによって引き起こされたのがアヘン戦争、それに続いてイギリスの清朝の侵略が続きます。やがて、アロー号に対する臨検に言いがかりを付けた英仏が清朝に攻め入って皇帝が北京から逃げ出すまでになったのがアロー戦争です。この時、北京の郊外にあって18世紀初頭に作られた庭園の円明園も徹底的に破壊されてしまいました。今回は、廃墟となった現在も、残された石の列柱などが美しい円明園跡を紹介します。

 
 円明園跡は、北京市街地の北部、世界遺産の頤和園(いわえん)の東側に位置しています。周辺には民家はまばらで、多くの大学がキャンパスを構えているようです。広さは2km四方ほどで、頤和園の広さにはかないませんが、内部を歩き回ると広すぎて疲れます、ただ一部の区間にはトラムが走っていて助かります。円明園の南東には綺春園が東には長春園があり、広義の円明園はこの総称で、現在の公開施設もこの範囲です。

 
 
 
 
 アロー戦争で略奪と破壊が行われたので、木造建築物は全く残っていませんが、燃えることが無かった石の構造物がかろうじて残っています。そう、円明園には木造の中国宮殿に加えて、洋風の庭や建物がありました。長春園の北には海晏堂と呼ばれる洋風宮殿と庭園とがあり、現在みられる石組などは、その残骸で、一部を除いては瓦礫状態です。保存性が良いのは、万花陣で、中央にドームを持つ洋風の東屋が建ち、その周りには石造りのメーズ(迷路)が取り囲んでいます。この迷路は現在でも遊ぶことができ、いがいと脱出に苦労します。ただ、これらの風景を見ていると、中国の北京に居ることを忘れローマやトルコの遺跡を見ているようです。これらの残骸を除いては、緑が続く公園で、これだけを見ていると、かつてここに離宮が存在したとは考えられません。

 この円明園は、比較的最近まで廃墟として捨て置かれましたが、近年になって復元するか現状のまま保存するかの議論が起こり、一部の建物を復元するプロジェクトが立ち上がっているようです。破壊行為があってから160年ほども立っていて、おそらく破壊前の図面や写真はほとんど残っていないのではないでしょうか。海晏堂は銅板がに描かれているようですが、建物の傷まで再現したワルシャワ旧市街のようにはいかないでしょう。最近の文化財の復旧では、色々な資料を参考にしてコンプータ・グラフィクスで再現映像を描くことができるようになっています。それかといって、実物を再現することなく、VRだけ、というのも味気ないですが。

旧前田侯爵邸は駒場公園の中心的存在、洋館も和館も凝った造りで見どころいっぱいです

2018-07-08 08:00:00 | 日本の町並み
 世界遺産の日光東照宮から大谷川をさかのぼった所にあるのが、旧田保沢御用邸で、建物群の保存が良くて、御用邸の様子がよく解る施設でした。一方、旧皇族の屋敷も数多く残されていて、ホテルに利用されたり、旧朝香宮邸の場合は東京庭園美術館として、建物も鑑賞対象になっています。さらに、皇室を取り巻いた華族の旧宅も一部が重文に指定されて残されています。今回は、これらの旧邸宅の中kら旧前田侯爵邸を紹介します。

 旧前田侯爵邸は、東大駒場の近く、駒場公園にあります。この駒場公園は、明治時代には東大農学部がありましたが、後に本郷に引っ越しました。一方、旧加賀藩主の前田家は、前田家上屋敷のあった本郷に邸宅を構えていましたが、昭和初期に農学部の引っ越した跡地に邸宅を構えて引っ越しました。現在の建物はその時に建てられたもので、何人かの手を経て1967年に東京都近代文学館として使用されたのち、現在は目黒区の所有になり、公開されています。ところで、東大の赤門は、前田家が徳川11代将軍の娘をお嫁に迎える時に前田家上屋敷の御守殿門として建てられた遺構です。

 
 
 
 
 
 
 
 建物は駒場公園の北端にある正門を入ってすぐのところにあり、洋館と和館があり共に重文指定されています。洋館は英国風の様式で建てられ、海外生活が長かった侯爵は様式生活に慣れていて、この洋館だけで日常生活を完結していたそうです。内部も外部も見どころが盛りだくさんで、室内では色んな形の照明、窓のグリルなどなど。外部では、壁の模様や怪獣の像、それに給水塔(だったと思います)などなどが見られます。

 
 
 
 和館は、生活の場としてではなく、外国からの賓客用の迎賓館で、日本文化を紹介する目的で作られたようです。洋館の入り口は西側に設けられていますが和館は、北側にあります。中に進むと庭園に面した広間があり、その両側に和室と茶室とがあります。和室と茶室は借りることもでき、館内はボランティアガイドもあり内部を案内してくれます。また、文化の日の前後には、洋館も併せてガイドツアーが組まれるようです。

 旧前田邸洋館の設計者は高橋貞太郎で学資会館や高島屋日本橋店の設計を行った建築家です。現在の帝国ホテル本館も設計したのですが、あまりにも有名なライト建築の旧本館を取り壊しての建物だったので、なかなか評価してもらえなかったようです。現役時代に、帝国ホテルで使われていたPBXを見学したことがありますが、通常のPBXとは似て非なるもので、ホテルのあらゆる業務と連動するものでした。現在は、さらに改良されたシステムと入れ替わっていると思いますが、IT機器と言ってもきわめて人間臭いシステムでした。

4年間待ってテーマも潜伏キリシタン関連施設と変わりましたが長崎の教会群は建築そのものも美しいです(日本)

2018-07-01 08:00:00 | 世界遺産
 6月24日からバハレーンで開催の世界遺産会議で「長崎と天草の潜伏キリシタン関連遺産」が文化遺産として登録されます。全部で12件からなりますが、筆者が訪問した3件と、審査の過程で外された1件とを合わせて紹介します。今回は長崎市の2軒を、次回は佐世保市の1件と、外された平戸市の1件とを各々紹介します。

 この世界遺産は生みの苦しみでした。2013年8月に文化庁の文化審議会で「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」という名称で正式候補に推薦されましたが、内閣官房の有識者会議が決めた「明治日本の産業革命遺産」を正式候補とする政府決定で2014年の候補から降ろされました。2014年になってようやく2016年の登録を目指すことになりましたが、国際記念物遺跡会議(ICOMOS)の事前調査で不備を指摘され2016年の候補から取り下げられました。その後、長崎県はICOMOSとアドバイザー契約を結び、その助言を盛り込みテーマの変更による登録名称の変更や登録範囲の見直しが行われ、やっと今回の登録にこぎつけました。

 今回紹介の長崎市にある2つの教会は、市街地にある国宝の大浦天主堂と市街地から北に外れた外海(そとめ)にある重要文化財の出津教会堂です。

 
 
 
 
 大浦天主堂は、長崎市街地の南、長崎湾の東側にグラバー園がある丘の麓にある江戸時代末期に創建し、明治時代初期に大風で壊れたためもあって改築された教会堂で、国宝建造物では3番目に新しいものです。江戸末期に建てられた創建当時の写真を見ると、現在の姿とだいぶ趣が違い、中央に鐘楼がある形は変わりませんが、当初は左右に小さな鐘楼があったようです。また、写真で見る感じでは、当初は身廊のみで側廊は無かったのではないかとも思います。天主堂の創建に尽力したのが幕末に来日したフランス人宣教師のブテジャン神父で、大浦天主堂での隠れキリシタン発見に立ち会ったとされています。前庭には、ヨハネ・パウロ2世と並んで像が建てられています。この大浦天主堂は、長く現役の教会としてミサも行われてきましたが、1975年に大浦教会ができて、信仰の中心はそちらに移っています。

 
 一方の出津教会堂と旧出津救助院は、長崎市内と言っても市街地の北西20kmほど、西彼杵(にしそのぎ)半島の西岸をバスで走って1時間ほどかかります。出津教会のある集落の手前には道の駅の「夕日丘そとめ」が建ち、そばには遠藤周作文学館があります。角力灘(すもうなだ)を望むこの地は隠れキリシタンを題材とした沈黙の舞台になったところで、「人間がこんなに哀しいのに主よ、海があまりに碧いのです」という表現を生んだところです。

 
 
 
 外海地区の登録遺産は、大野集落と出津集落があり、どちらも中心となる教会堂は重要文化財、集落は重要文化的景観に指定されています。今回紹介の出津集落の中心となるカトリック出津教会は、明治15年にフランス人のド・ロ神父の設計で作られその後増築を重ねて、明治42年に現在の形になっています。煉瓦造りで、高さを押さえ、外壁を白漆喰で塗固め角力灘からの強い風に対応しています。正面には鐘楼がありお国も小さな塔が作られていますが、外観は通常の教会とは趣が違う感じで、台地におへばりついている風にも見えます。集落の中には、ド・ロ神父が、外海の貧困を救うために明治12年に作った女性のための授産所の遺構である旧救助院の建物が残され、こちらも重文に指定されています。周りには製粉工場やマカロニ工場の後が残っており、旧救助院の1階は資料の展示室になっています。2階は祈りの場になっていて、シスターが弾いてくださったオルガンが耳に残っています。これらの建物の基礎や周りの塀には、自然石を赤土と石灰、砂を混ぜた漆喰を接着剤として固めたものが使われ、考案したド・ロ神父の名前を採ってド・ロ塀と呼ばれています。決して泥塀ではありません、一種の石塀です。

 今回の遺産指定では隠れキリシタンを前面に出した名称となりましたが、江戸期を通じて信仰を守り通した執念には怖さを感じます。信仰心という、いわば盲目的な心情を利用するのが宗教権力で、過去においては、聖書に書かれていないという理由で、多くの科学者などが弾圧を受けてきました。神の言葉という隠れ蓑で権力者の都合を押し付けてきます。話変わって、現在のコンピュータ技術には欠くことができない0(ゼロ)の概念はインド人の発明ですが、この概念をヨーロッパに伝えたのはアラビア人たちです。アラビアと言えば、イスラムの世界で、コーランに書かれていること以外は一切認めない厳しい宗教理念を持っています。コーランには数学の概念の記述が無くって、お咎め無しだったのでしょうか。