世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

ゴシックの教会や、かつての租界の沙面を歩くとここが中国の広州であるということを忘れます(中国)

2013-10-27 08:00:00 | 世界の町並み
 北米で4番目の大都市に路面電車が走っていたり建設当時には世界一のテレビ塔であったCNタワーがそびえるなど多様な顔を見せるカナダの都市がトロントでした。現在の世界一のテレビ塔はわが国のスカイツリーですが、そのスカイツリーに世界一を奪われたのが中国の広州テレビ塔です。今回は、広州塔が立つおひざもとの広州市周辺を紹介します。

 広州市は、中国南部の広東省の省都で、香港からも鉄道で短時間でいけ、マカオの近くまで鉄道が延びています。マカオまでの鉄道は、中国側の珠海までですが、マカオのゲートまでの工事が遅れているようです。広州市は中国第3の大都市で、上海と並んで南部の商業の中心的な位置を占めています。大都市の割には、公園などの緑も多く、寺院や博物館、かつてイギリスとフランスの居留地であった沙面地区など見所がたくさんあります。市内の移動は、空港にも乗り入れている地下鉄網が完備していて、旅行者にも分りやすい町の一つといえます。

 
 中心となる鉄道駅は広州駅なのですが、その鉄道駅の近くにも1km四方近くの公園が2つもあります。池を中心とした流花公園と博物館などの施設が多い越秀公園です。流花公園の中にはレストランなどがあって、夕暮れと共にライトアップされた建物が池の面に写って綺麗です。

 
 
 一方の越秀公園にも小ぶりな池はありますが、かなり起伏があって、高台には鎮海楼と呼ばれる博物館や5匹の羊を刻んだ五羊石像が建っています。鎮海楼は台北の園山大飯店を小ぶりにしたようなイメージで、最上階からは高台に建っていることもあって広州市の絶景が楽しめます。五羊石像は、かつて神様が5匹の羊に5種類の穀類の種をくわえさせて遣わせ、広州が五穀豊穣の地になった故事によるものです。一方の池の周りは、市民の憩いの場のようになっていて、胡弓などの演奏や歌を披露している集団を見かけます。

 
 越秀公園の西側には西漢南越王墓博物館があって、あまり有名でないようなのですが、南越の第2代王の墳墓の上に建てられたもので、墳墓からの出土品の展示と、玄室などが見られます。中でも数多く出土したものとして、まるでCDのような石の装飾品で、アクセサリーなのか魔よけなのか、よくは分りませんでした。

 
 宗教施設では、仏教寺院のほかに清真寺(中国のモスク)やキリスト教会もあります。回教寺院の清真寺のほうは、建物の外観は、仏教寺院で、どう見てもモスクには見えません。西安にもモスクがあり、やはり中国寺院のような建築物群でミナレットの役割の楼閣も寺院のそれでした。広州のモスクにはミナレットも無くって、メッカの方角の壁に作られたミフラーブの窪みでモスクと分るくらいです。

 
 さらに、中国の道教寺院のように見える建物なのですが私塾なのが陳氏書院です。19世紀に広州一円の陳姓の方々が作った一種の寺子屋ですが、とても私塾とは思えない広さと建物の豪華さに驚かされます。

 
 一方、キリスト教会はいくつかあるのですが、最大のものは石室聖心大聖堂です。19世紀に建てられた花崗岩のゴシック建築で、すべてが石で作られたゴシックの聖堂はパリのノートルダムを含めて世界で4棟しか無いのだそうです。堂内に入るとステンドグラスの輝きやこうもり天井など、ここが中国だということを忘れてしまいそうです。

 
 
 
 教会堂内だけではなく、ここが中国か?と思う地区が沙面地区です。運河の先の人工島に、緑の木立に囲まれたヨーロッパの町並みが広がっています。パステル調色に塗られたレトロな建物はかつてのイギリスやフランスの公館や商館の名残です。上海の外灘を小規模にしたような所がありますが、こちらの方が緑が多くて建物も小ぶりで景色が凝縮しています。中国や韓国、さらに最近ではわが国でも、結婚式の前に2人で写真を撮ってもらう光景を見かけますが、沙面地区でも数多くのカップルを見かけました。これも、上海の外灘と同じ光景ですが、新婦がサンダルやスニーカ履きというのも共通でした。さらに、この町並みを利用して映画などのロケが多いようで、目の前で撮影が始まりました。

 西漢南越王墓博物館に飾られている石の円盤からは音楽は出てこないでしょうが、たたけばそれなりの音楽は奏でられるかもしれません。音楽の再生がレコードからCDに移り、さらにはネットからダウンロードされたメモリに変わってきました。しかし、この変化は音楽を簡単に聞くことができるという効果を生みはしましたが、音楽の持つ豊かな情報量を省略してゆく歴史でもありました。CDなどのディジタル音楽場仮を聞いていると精神的に良くないという説もあるようです。レコードを聴くという作業は、少々儀式めいてきましたが、儀式を通じてさらに精神的に落ち着くかもしれません。

特急が通り過ぎていく山の中の智頭には古い町並みの中に大きな敷地の庄屋の遺構がありました

2013-10-20 08:00:00 | 日本の町並み
 JRに乗って愛媛県の宇和島から高知に向かう時に1駅区間だけが3セクの路線を経由する必要があった先の駅が窪川駅でした。3セクの路線は、JRの赤字路線が鞍替えしたものが多いのですが、国鉄時代にバイパス線として計画されたのですが、収益性などの理由から別会社の路線として開業した路線もあります。その一つが、関西圏と鳥取とを短時間で結ぶため、山陽線の上郡と因美線の智頭との間をショートカットするのが智頭急行です。今回は、この智頭急行の一方の起点である智頭の町並みを紹介します。

 
 
 智頭は鳥取県の南部、兵庫県に少し出っ張ったあたりにある宿場町です。奈良時代から因幡(鳥取)と機内とを結ぶ智頭往来(因幡街道)と備前街道の交点として、参勤交代の通路にもなっていました。古い町並みは、智頭駅から東に川を渡った現在の智頭街道の1本東の旧街道沿いです。妻入り平入りが混在している家並みは、板壁に格子の連なる家が多いようです。格子の前には、造り酒屋さんでしょうか酒林が下がっています。この酒林は「新酒ができたよ」という目印なのですが、不思議と緑色の目新しい杉玉を見かけません。新酒の頃に造り酒屋の町並みを尋ねることが無かったからでしょうか。

 
 
 町並みの中でもっとも大きな住居は石谷家住宅で、庄屋や問屋などを営んだ町家の遺構で、それまでの庄屋の家屋を、昭和の初期に議員を務めた当主が改築を積み重ねたものです。1万平方メートルの広大な敷地に、和風の建物と回遊式の庭園が広がっており、重要文化財にも指定されています。池泉式庭園も見事ですが、建物の2階に上がると、屋根の織り成す形や瓦の色もなかなか綺麗です。

 
 この石谷家の分家の旧塩屋出店には和風建築に加えて西洋館もあって、智頭出身の映画監督・西河克己の記念館として使われています。

 
 洋風の建物といえば、下見板張りの大正時代の建物である公民館も残っています。同じく、板張りの洋館の遺構が、智頭消防団本町分団屯所で屋上には火の見やぐらが突き出ていて、ちょっとコミカルな格好をしています。

 智頭急行線は、数ある3セク鉄道路線の中で、北越急行線に次ぐ優良路線と言われています。両路線共に、南北間をショートカットする路線で、特急列車が頻繁に駆け抜けているからで、3セク内の乗降客はきわめて少ないという共通性があります。1,067mmの在来線規格の路線でありながら、160km/hや130km/hという高速運転を行っているのも共通しています。列車が高速になってくると、人間の判断では操作が間に合わない場合もあることから、コンピュータによる自動制御のシステムが高速運行を支えています。台湾を走る高速鉄道は、列車を管理するシステムも含めて日本から技術輸出をしたのですが、中国の高速列車では、いろんな技術の寄せ集めと言われています。先般の列車事故も起こるべくして起こったのではないでしょうか。

北京から遠く離れた避暑山荘は、皇帝があこがれた江南地方の風景をコピーしています(中国)

2013-10-13 08:00:00 | 世界遺産
 ハプスブルグ家の離宮として、ヴェルサイユにも劣らない美しい宮殿がウィーン郊外のシェーンブルンでした。ヴェルサイユにしてもシェーンブルンにしても、離宮は本来の宮殿の比較的近い位置にあるのですが、200km以上も離れているのが、中国の承徳に18世紀初頭に作られた避暑山荘です。今回は、承徳の避暑山荘と外八廟一帯を紹介します。

 承徳は、北京から列車で4時間半、高速列車網の整備が続く中国ですが、山の中を分け入るような路線では評定速度は50km/hそこそこです。この方面には、避暑山荘以外では万里の長城があるくらいで、観光の目玉がありません。このためか、日本からのパッケージツアーは、ほとんど見かけませんし、そもそも日本人観光客の姿もほとんど見かけません。避暑山荘と外八廟とを回ると2日間はかかり、列車の移動を考えると、北京から2泊3日はかかるので、たくさんの観光地を急ぎ足で回るパッケージツアーには向かないのでしょう。ただ、これだけの時間をかけても、見所はいっぱいで、観光客もさほど多くなく、高山のように体力の要る場所ではないので、時間があれば訪問して損は無さそうです。

 
 
 
 避暑山荘は、鉄道駅からバスに乗ると、いったん西に走って川を渡り、北に方向を変えて10分ほどで正門に着きます。長径が3km、短径が2kmほどの北西と南東に長い楕円形の広大な敷地を持っています。入り口は敷地の南端にあって、入り口の近くは、江南の景色を写した庭園と池が広がり、宮殿もこのあたりにあります。池には、観光客を乗せた船が浮かび、湖畔には3層の楼閣が建っていて、蘇州や杭州の水の多い景色を思わせます。この地域を抜けて、北西に行くと草原が広がっていて、これは蒙古の風景を取り入れたようです。さらに、その奥は広大な森で、外界との間には、万里の長城を模した土塁が続いています。

 一方、外八廟は避暑山荘とは川を挟んで東から北にかけて1kmほどの距離に分散しています。八廟と呼ばれていますが、10箇所以上の寺院や廟があり、道路から高みにあったりして巡礼をすると、かなりくたびれます。それぞれのお寺などが特徴のある形をしていますが、どうも既存の他のお寺などをコピーしたものが多いようです。

 
  
 チベットのポタラ宮を写したのが普陀宗乗之廟で、鉄道駅から最も遠い廟の一つですが、遠くから眺めても存在感があります。チベットのように空気が薄いわけでは無いので、小高い場所まで歩いて上がらなければならなくとも、さほど苦にはなりません。

 
 普陀宗乗之廟の手前の東側には須弥山福寿之廟があり、こちらも傾斜地に建っていています。ラマ教のお寺を模したもので、お堂の数がかなり多く、一番高い所に真っ白の八角十三重の石塔0建っています。

 
 さらに東に行くと普寧寺があり、このお寺には22mの世界最大級の木造観音像が安置されています。この像を収める6層のお堂も巨大ですが、このお堂の前面に窓が無いので、観音様のお顔はほとんど見られません。

 
 鉄道駅に一番近く、避暑山荘の東にあるのが普楽寺ですが、バスを降りてからの道のりは長いお寺でした。だらだら坂を1kmほど上った所に、北京の天壇を模した建物が建っています。平地にゆったりと建っている天壇とは、かなり趣が違いますが、高台からの眺めの良いお寺の一つです。

 北京から承徳までの列車に乗るためには乗車券を購入することになりますが、駅での長い行列を覚悟する必要があります。さすがに、手書きの乗車券ではありませんが、停車駅などでしか買えませんし、席を確保するには発駅での発券が必要のようでした。一部の高速列車は、離れた駅でも指定券が買えましたが、なんと手数料が必要でした。日本では、およそ50年前にマルス・システムが稼動をし始めて、どこの駅でも指定席が買えるのは当たり前になりました。それ以前には、各駅から管理センターに電話で問いあわせて手書きの指定券を発行していました。現在のシステムはパソコンと同じような端末ですが、かつての端末は、たくさんの穴が開いた板が本のように綴じられていて、各ページの各々の穴には列車の名前や駅名が刻印されていました。指定券を頼むと、この厚手の本のような板をめくって、目的の穴にピンを差し込んで入力を確定していました。列車の数が増え、指定列車が走る線も増えて、この入力方式では、対応できなくなって、現在の端末になったのでしょうが、かつての端末のほうが、人間臭くって好きでした。

鉄道路線や川の流れ方が奇妙な窪川ですが造り酒屋の白壁の美しい町です

2013-10-06 08:00:00 | 日本の町並み
 疎水に沿った町並みに、個性的な建物が残されているのが北白川でした。北白川疎水は、大都市の流れにしては、まだまだ綺麗な水が流れているように思います。流域の人口と水の綺麗さとは反比例をするようですが、四国の西側の人口の希薄な場所を流域とする四万十川もその例に漏れず清冽な流れで有名です。今回は、四万十川の流域にある町の中で、漆喰壁の土蔵に水きり瓦が美しい窪川を紹介します。

 窪川は、町村合併により現在は四万十町の一部になっており、高知市と足摺崎の中間辺りにあります。香川県から高知市を通り抜けた土讃線の終点がもより駅になります。ややこしいことに、高知県には四万十市もあって、四万十川の河口あたりにあります。さらに奇妙にも、四万十川は、四万十市で海に注ぎますが、源流は四万十町の北にあって、いったん南下して四万十町を通った後そのまま海に向かうのかと思いきや、再び北上して江川崎あたりまで内陸に入り込みます。宇土線で宇和島から窪川に向かって乗車をすると、愛媛と高知と分ける山岳地帯を過ぎたあたりから四万十川と併走します。峠越えをしてきたので感覚的に川下に向かって走っているものと思いますが、実は列車は川上に向かって遡上しているのです。この宇土線が、またまた奇妙で、ほとんどの列車は宇和島駅から窪川駅まで走っているのですが、終点の手前の若井駅で宇土線はおしまいで若井ー窪川間は三セクの土佐くろしお鉄道線になります。JR線は香川県を起点に愛媛県から高知県を一周しているものだと思っていましたが、1駅区間で切れていたんです。

 
 
 古い町並みは駅の南西側、西に流れて四万十川と合流する支流の南側に沿って延びています。板壁の上部が漆喰塗りの建物や漆喰のなまこ壁がある造り酒屋、それに土蔵造りに水きり瓦のある蔵と思しき建物が残っています。水切り瓦は高知県の東の室戸岬に向かう途中の町でよく見ましたが、西のほうの土蔵にも付けられていました。これらの建物以外は、木造の建物が雑然と並んでいますが、かつて当たり前であった町の顔も、今では少なくなってしまったのかもしれません。


 
 この町並みの南側、土佐くろしお鉄道の線路の北側に接して四国37番札所の岩本寺があります。少し小高い境内からは、窪川の町並みが望め、晴れていれば気持ちのよい空間です。お寺は、四国の札所でよく見かける雰囲気ですが、他のお寺ではあまり見かけない円形のお堂があります。歓喜天をお祭りする聖天堂です。日本では、円形を作りにくい木造のお堂が普通なので、興福寺の北円堂や南円堂といっても多角形ののお堂なのです。こちらのお堂は基壇や屋根は完全に円形で、お堂も一部がゆがんでいますが多角形ではありません。

 
この岩本寺の近くの町役場であったか?、その近くの建物であったか?、記憶が曖昧なのですが、開放された建物の座敷にお雛様が飾られていました。高知県では、他の町々でも町じゅうにお雛様を飾って公開しているおうちを見かけましたし、鹿児島の知覧でも同じような飾りがありました。新潟県の村上の町家では、屏風まつりといって、お雛様ではなく屏風を飾って公開しています。準備するほうは大変でしょうが、旅人にはうれしい行事に思います。

 円形というのは、同じ面積の図形の中で、最も外周の長さが短い図形です。従って、岩本寺の聖天堂は、平面が同じ面積の他のお堂に比べれば、外周を覆う木材も少なくて済んだはずです。一時期、この理由もあってか、円形の校舎があちこちで建てられたことがありました。ただ、内部の教室が扇形となって、無駄なスペースが増えて、結果的に得にならないという理由でしょうか、短い時間で淘汰されたようです。初期のブラウン管ディスプレイは円形だったそうですが、IT分野の機器類で円形のものはDVDなどのディスクだけのようです。ICチップを切り出す元のシリコン・ウェーハは円形なのですが。