世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

加古川には木造の社宅群やしゃれたステンドグラスの残る図書館もあります

2010-07-25 08:00:00 | 日本の町並み
 白壁土蔵が連なり多少演出過剰にも思える町並みが美しい町が、名前どおりの倉敷でしたが、倉敷は大原美術館を生んだクラレの発祥の地でもあります。クラレが化繊の代表的な会社の一つとすれば、天然繊維の羊毛分野の代表的な会社の一つがニッケです。このニッケの創業時代の工場は、現在では操業を停止してはいますが、兵庫県の加古川市にありました。今回は。ニッケ関連の施設以外にも、散歩して楽しい町並みが続く加古川を紹介します。

 加古川市は、兵庫県の南部の瀬戸内海に面し姫路と神戸との間に位置します。JR山陽線と加古川線それに私鉄の山陽電車が走っていますが、1984年までは加古川駅から支線の高砂線が、「高砂や~・・」で有名な高砂まで延びていました。線路の跡は、遊歩道になっており、かつては鉄道が走っていた名残がかなり残っているようです。さて、ニッケの加古川工場跡ですが、JR加古川駅からJR線沿いに姫路方向に500mほど歩いたところにあります。レンガ塀に遮られて中の様子ははっきりとはわかりませんが、レンガ塀越しに、やはりレンガで造られた工場の建物であったらしい建物も垣間見られます。レンガ塀が、うねうねと続いて、塀に沿って小さな水路もあり、ちょっと面白い風景を作っています。
 
 工場跡の南西には、ニッケの社宅群があります。どうも現役で使われているようですが、コンクリート製の集合住宅ではなく、木造の長屋風の建物です。木造ゆえの痛みはきているようですが、木のぬくもりが伝わって、なにかしらほっとする風景を作っています。さらに、周辺の道路が砂利道というのも、今日では珍しいのではないでしょうか。筆者が小学校の頃は、神戸市内といえども市街地から外れていたため、駅前の数十mほどが舗装されているに過ぎず、自転車で舗装部分を走ると快適で、ほかの道も舗装してほしいなと思った記憶があります。蒸気機関車も、全盛期には煙で困ったものです。それが無くなると、価値観が逆転するわけで、面白いですね。この社宅群の中に現在は機能していないようですが社宅クラブの建物があり、下見板張りの洋館は神戸の北野町の異人館も顔負けのしゃれた木造洋館です。

 ニッケ社宅のやや東には、図書館がありますが、この建物は公会堂として建てられたものを転用しています。昭和初期に建てられたものだそうですが、入り口の上部にステンドグラスもはめ込まれて、随分としゃれたものです。このような建物を簡単には壊さずに、それも博物館的に静態保存ではなく、現役で利用される動態保存で使い続けることは、美しい建物は残るし、無駄な経費もかからなくって良いことずくめのように思います。ただ、古い建物は耐震性などで問題があることもあって、必ずしもすべてでうまくゆくとは限らないようですが。加古川は、阪神淡路大震災の時には、震源地からさほど離れていなかったので、かなり揺れたのではないかとも思いますが、外観上は問題なく建っていたようです。

 駅の東にも、三角屋根の工場が残っていたり、微妙に曲がりくねった川に沿って古い家並みが建っているかと思うと、その近くには、パステルカラーに塗られてメルヘンチック、ちょっと少女趣味的なレストランが2軒並んであったりと、散歩をしていても飽きさせません。散歩に疲れておなかが空いたら、「かつめし」という加古川が発祥の名物料理もあります。カツ丼のの変形したもので、丼ではなくお皿に、ご飯の上にかつをのせデミグラスソースをかけ、茹でたキャベツを添えたものです。駅前の商店街には、「かっつん」と「デミーちゃん」という名前の人形が並んだモニュメントも建っています。



 ステンドグラスは、大きなガラスを作るのが難しい時代に、小さなガラスをつなぎ合わせて大きくする時に、それで絵も描いてしまったものです。もし、教会の窓にガラスがはめ込まれる時に、それに見合う1枚ガラスが作れていたら、ステンドグラスは生まれてこなかったかもしれません。現在のディジタル通信は、人工衛星から画像を送るときに、アナログでは信号が弱くってうまく送れなかったということも、実用化のきっかけの一つだったようです。これも、大出力の送信機や大きなアンテナがあって、アナログのままでも送れたなら、実用化は遅れたのかもしれません。現在は、情報伝達の大部分がディタル化されて、ディジタルが最良のもののように宣伝されていますが、ディジタルはある一定水準の品質を得るためには適した技術であっても、けして最高の品質が得られる技術ではないことを認識しておく必要があります。アナログ値をディジタル化する時に、必ず量子化誤差を伴い、設定された周波数以上のものは送られないという欠点があるからです。

教会の天を突く鋭い尖塔の前にはリューベックの象徴のホルステン門の傾いた塔がそびえています(ドイツ)

2010-07-18 08:00:00 | 世界遺産
 メディチ家が銀行業によって得た莫大な富によってルネサンス文化が花開き、町中が屋根の無い博物館のような都市が南ヨーロッパのフィレンツェでしたが、北ヨーロッパ・バルト海沿岸の都市間の交易で莫大な富を得たのがハンザ同盟の諸都市です。このハンザ同盟の盟主であった都市が、北ドイツのリューベックです。今回は、町中にハンザの栄華の香が残るリューベックの旧市街を紹介します。

 リューベックは、ドイツの北のはずれのバルト海に面した港町です。世界遺産の旧市街は、トラヴェ川と運河とに囲まれた東西1km、南北1.5kmほどの川中島部分で、教会やファサードの美しいが家並みが続いています。鉄道の駅は島の西600m位のところにあって、そこから伸びる通りを島に向けて歩いてくると、リューベックのシンボルのようなホルステン門が現れます。ホルステン門があるところも、南北に長い別の川中島で、川が入り組んでいます。このような土地のせいでしょうか、地盤が軟弱なようで、ホルステン門は自重のために不等沈下をして、2つある塔が中央に向けて傾いでいます。ただ、ピサの斜塔ほどは極端ではないので、どうも変なのは目のせいかな?とも思ったりします。

 
 旧市街の中心はホルステン門を通り抜けて少し行ったマルクト広場あたりで、この広場の周辺に市庁舎やマリエン教会、聖ペトリ教会が建っています。これらの教会の尖塔は、緑色で凹凸や穴がまったく無い鋭角三角形で、まるで青銅の剣が空に向けて突き立っているような印象を受けます。

 
ヨーロッパの教会に入堂すると大部分の教会でパイプオルガンが設置されているのを見ることができます。運がよいと演奏を聞くこともできるのですが、かってはバッハもその音色に感動して通いつめたというマリエン教会の世界最大級のオルガンの音は聞き損ねました。このマリエン教会では、巨大な天文時計も見ることができます。天文時計は教会で見ることが多いのですが、みんなが集まる教会に時刻を知らせるために設置されたということより、権力で押し付けた天動説を可視化するためだったのではないでしょうか。

 ところで、ハンザ同盟ですが、これはバルト海沿岸の都市の間で、貿易独占のために結ばれたもので、時には北のデンマークと対立して戦争となったときには軍事同盟的な性格も持ったようです。北ドイツの都市が中心ですが、フィンランドのトゥルク、ノルウェーのベルゲン、バルト三国のタリンやリガなどのドイツより北の諸都市や、バルト海沿岸ではないベルギーのブルッヘやイギリスのロンドンにまで広がったようです。独占による利益は巨大であったようで、リューベックの美しい町並みの元は、この富に支えられたものであったのかもしれません。市庁舎のファサードは黒光りをした独特の質感を持っています。通常のレンガの上に釉薬をかけて焼いたものを使用している贅沢なもので、これもハンザ栄光の残り香でしょうか。

 リューベックへの鉄道路線は、巨大都市ハンブルグから北へ延びるローカル線のような感じがしますが、意外にも幹線のようで、特急列車も数多く走っています。この路線は、海を渡ってデンマークのコペンハーゲンに延びている渡り鳥ラインで、列車ごと連絡船に積み込んでしまう珍しい形態で鉄道ファンには人気の路線のようです。リューバックは、日本からドイツへの入り口になっているフランクフルトから、列車に乗り継いで6時間以上もかかるドイツの北のはずれです。一方、渡り鳥ラインを使ってコペンハーゲンから行けば4時間少々で着いてしまいます。北ドイツだけを旅行するならば、入り口はコペンハーゲンがいいかもしれません。

 天文時計は複雑な惑星の動きを表示するために、数多くの歯車の組み合わせで実現しているようです。天動説を採るために、論理が複雑になってしまったようで、地動説によればシンプルな公式で済んでしまいます。核分裂/融合によるエネルギー放出を表すアインシュタインの式などは E=mc**2 というシンプルさです。科学の発展の過程は、複雑化の流れで、理論はどんどんと複雑な公式を生んでいきます。しかし、あるときに新しい発想によって複雑な公式がシンプルな式にまとめられたりもします。IT分野の特許は、見るのもいやになるほど複雑な記述が続いて、本文も膨大なものが多いのですが、内容がシンプルで本文も薄い特許の中に、製品化の過程でその特許を回避しづらい優れものがあることも多いものです。

倉敷の土蔵の壁は軽やかな真っ白です

2010-07-11 08:00:00 | 日本の町並み
 東京から40分程度という近さに土蔵造りの家並みが連なり、休日にはたくさんの観光客が訪れ、日本三大蔵の町の一つが川越でしたが、残りの2つのうち今回は名前にも倉が付く岡山県の倉敷を紹介します。川越の土蔵造りは、黒漆喰で塗りごめられたものが多く、まるで火事に遭ったような感じで、落ち着いてはいますが、町全体が重い感じがします。黒壁が連続する風景は、滋賀県長浜市の黒壁スクエア(名前どおりの場所ですが)とも似ています。これに比べて、倉敷の土蔵は白漆喰で仕上げられてありますから、明るくって軽やかな感じがします。

 倉敷は、皆さんご存知のように岡山県南部やや西よりに位置し、岡山県で2番目に市制を引いた都市です。倉敷市は合併により瀬戸大橋の起点の児島などにも広がっていますが、狭義に倉敷というとJR倉敷駅周辺にある美観地区あたりを指すようです。ただ、この美観地区がどこからどこまでを指すのか、曖昧のようにも思います。倉敷河畔伝統的建物群保存地区とイコールということかもしれません。
 
 
 倉敷観光の目玉は、ほとんどこの地域にかたまっているようで、日本で最初の西洋美術館の大原美術館、民芸館、考古館それに大原邸などが川沿いに集中的に建っています。川沿いの喫茶店のEL GRECOも40年以上前に初めて倉敷を訪れた時にも見かけました。大正末期の建物なのだそうですが、昔に比べてツタの葉が増えたでしょうか。倉敷川から少し離れた場所ですが、大原美術館を生んだ倉敷紡績の旧工場跡のアイビースクエアなどが観光客が大勢集まるところです。

 ゴールデンウィークの後半には、この倉敷川で「瀬戸花嫁川舟流し」と呼ばれるイベントが、毎年なのかどうかは不明ですが開催されていました。舟による嫁入りは潮来が有名で、アヤメの咲く中を花嫁を乗せた田舟が行く様子は絵になり、観光用のイベントになっているようです。倉敷では、運河を取り巻く白壁の建物の中と周りの風景が違っておもむきも違うようです。



 その前夜には、十二単のような装束の女性を乗せた川舟の運行もあって、こちらも数多くの観光客が運河の周りに集まっていました。また、この時期には、背後の鶴形山の阿智神社の藤も見ごろでです。この阿智神社は倉敷の町がまだ海で、鶴形山が島であった頃からの歴史を持つのだそうです。




 多くの観光客が集まる倉敷川の周辺ですが、白壁の町家が微妙にカーブをする道に沿って並んでいたり、土蔵に囲まれた細い路地があるのは、川の東側、鶴形山の南の本町あたりになります。細い道にも車が入ってきて、それがちょっとうっとうしいのですが、観光客の姿はあまり見かけません。アイビースクエアに行く途中に、ちょっと遠回りにはなりますが寄り道するだけの価値のある町並みです。美観地区が、演出過剰でよそよそしい感じのある町並みであることと比較して、本町の方は生活くささが残る、生の町並みといった違いでしょうか。

 美観地区はJR倉敷駅の南側ですが、駅の北側には2008年の暮れまでチボリ公園がありました。デンマークのチボリ公園のコピーで、どうも倉の町のイメージとは合わないような感じもしますが、そのためかどうか11年という短命で閉園されてしまいました。それでも、開園当初はディズニーランドを越える入場者数の日があったそうですが、良く言えばヨーロッパ的な落ち着いた大人のムードの公園ですが、悪く言えば派手さに欠けリピート客を呼び込む魅力に乏しかったのではないかと思います。

 倉敷市の南部には水島があって、戦前から工業地帯で軍需産業も数多くあったそうです。このために、第二次大戦では米軍の攻撃を何度も受けたのですが、その北に位置する倉敷は一度も空襲を受けなかったそうです。これは、倉敷には大原美術館があったからという説もあるようですが、実際には攻撃の優先順位が低かっただけで、戦争が長引けば被爆していたであろうと言われています。東京大空襲や広島、長崎での無差別殺人の冷酷さを思えば、虚偽に美化されたようにも思います。兵器産業に携わる人は、戦争によってIT技術が進化すると平気で言う人が居ますが、これとても兵器産業を弁護するためのまやかしに過ぎないように思います。

日本人にはあまり知られていませんが南イタリアのフィレンツェと呼ばれるいるのがレッチェです(イタリア)

2010-07-04 08:00:00 | 世界の町並み
 これまでは、世界遺産と日本の町並みの2つのカテゴリーで執筆をしてきましたが、新たに世界の町並みのカテゴリーを追加します。世界遺産に登録されていない町並みにも個性的な町並みはたくさんあり、この中から筆者が訪問して好印象を受けた町並みを紹介してゆきたいと思います。初回は、前回の世界遺産がフィレンツェでしたので、同じバロック建築が町中にあふれていて、南イタリアのフィレンツェと呼ばれているレッチェを紹介します。

 レッチェは長靴の形をしたイタリア半島のその長靴のかかとの部分に位置します。2,000年以上の歴史を持つ由緒のある町ですが、ローマから遠いこともあって、街中で日本人と会うことはありませんでした。日本人の団体客は、レッチェから北へ2時間ほどのバーリを起点に、アルベロベッロやマテーラを見てナポリの方に戻っていってしまうようです。ただ、日本人にはなじみの少ないレッチェですが、アメリカ人にとっては有名な観光地で町ではそれらしき人たちを見かけます。

 駅から旧市街に向けて散歩をすると、迷路のような町並みが蜂蜜色なのです。これはレッチェ石と呼ばれる石灰岩の色で、このレッチェ石を用いたバロック建築が数多く残されているのがレッチェなのです。蜂蜜色の町並みというと、イギリスのコッツウォルズを思い浮かべます。田園の緑の中に蜂蜜色の建物が散在するコッツウォルズと比較して、こちらは建物が連立する都会でその連立する建物がずーっと向こうまでみんな蜂蜜色なのです。
 
 旧市街の中心はドゥーモ広場とサントロンツォ広場の周辺です。ドゥーモ広場はドゥーモに隣接する広場で教会の前庭で周りを石造りの建物に囲まれた閉空間といった雰囲気ですが、サントロンツォ広場の方は朝市がたちそうな開放的な広場です。広場には聖オロンツォの円柱が建っていて上の方から聖人が広場を見下ろしています。この円柱はアッピア街道の終点をも意味していて、すべての道はローマに通じていたのですね。広場に南には円形闘技場の遺跡も残っています。2世紀に作られたというもののようですが、思いのほか保存状態がいいように感じました。
 

 バロック建築の中で最も華やかなものがサンタ・クローチェ聖堂です。14世紀に建設が始まり、途中で工事が停止してしまっため完成は17世紀末という聖堂です。この聖堂のファサードは過剰とも思えるレリーフで埋め尽くされていて、一つ一つを見ていくと一日かかってしまうかもしれません。このファサードを遠くから眺めると、レリーフのでこぼこのために、もわーっとした感じに見えます。人間、動物、植物などグロテスクなものも交えてレリーフの無い面が無いほどです。モチーフはまったく違いますが、ボルブドールの基壇に彫られたレリーフとどことなく似ているのかもしれません。

 レッチェは、イタリアでは南東の端で、少し足の便の悪い町ですが、アルベロベッロの石ころの屋根を見に行くついでに蜂蜜色の石の建物を見るため立ち寄る価値のある町のように思います。町の中の通りは碁盤の目状ではなく迷路のようなので、迷いそうになりますが、筆者は常に方位磁石を持ち歩いているので、何とか方向を認識できます。ただ、方位がわかっても、現在地が地図上で特定できないと困るのですが、このようなときにGPS付きの携帯を持ってると便利なんですよね。ただ、GPSはインターナショナル機能としても外国の土地の地図って表示できるのかな?