世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

藤戸の鳴門という難所の周りが陸地になり、名残の川を挟んで古い町並みと饅頭屋が残りました

2016-07-31 08:00:00 | 日本の町並み
 干拓によってできた町に、水路に沿った白壁や格子のある古民家が美しい家並を作っているのが茶屋町でした。茶屋町はかつて海だったのですが、その先の児島は名前が示すように、かつては島で、現在の児島周辺には小さな島が散らばる浅瀬の海でした。この児島の対岸にあったのが、現在天城と呼ばれる地区で、かつて広田島があったそうです。そして、その間の海峡が藤戸の鳴門と呼ばれ、海峡は倉敷川になり、浅瀬は陸続きになって街並みが広がっています。今回は、かつて藤戸の鳴門と呼ばれた地区の町並みについて紹介します。

 藤戸は、前回紹介した茶屋町の南南西2kmほど、南南西に延びる県道165号が、倉敷川に突き当たって西に向きを変えるあたりにあります。茶屋町と同様に、現在は倉敷市の一部になっていますが、かつては独立の町でした。かつては広田島と呼ばれていたところは、倉敷川の北側、天城と呼ばれる標高が35mほどの丘で、街並みはこの丘の西から南にかけて広がっています。逆に、川の南側は藤戸寺という8世紀創建という歴史のあるお寺があり、門前町として栄えたようです。

 
 
 歴史といえば、この藤戸の鳴門は、歴史的な源平合戦の舞台にもなったところで、平氏側は海峡の南側、源氏側は北側に陣取りにらみあったそうです。源氏軍は、この藤戸の鳴門を渡る船を持たなかったのですが、源氏の武将の佐々木盛綱が馬に跨って浅瀬を渡り、平氏打ち破ったのだそうです。倉敷川に架かる盛綱橋には、盛綱の銅像が飾られています。そして、この橋の南側には、藤戸饅頭の看板を掲げる店で、こちらも相当に歴史があって、現在地の店を構えたのは江戸時代末期で、それまでは藤戸寺の茶店だったようです。薄皮の蒸し饅頭でなかなかおいしいのですが、日持ちがしないので、お土産にはあまり出回らず、もっぱら地元消費だそうです。

 
 
 もう一方の、倉敷川の北岸の町並みですが、白壁になまこ壁、虫籠窓があって格子の連なる、典型的な古民家や武家屋敷の名残の家並が建ち並んでします。かつての陣屋は、広田山の北西部にあり、そこから南に武家屋敷があったそうです。

 
 
 
 町屋はそこからさらに南に、広田山の南面あたりに広がっていたようで、現在も天城の西と南とで街並みの表情がちょっと違うようです。この南側には明治の初めころに建てられた天城教会の礼拝堂が建っていて、岡山県では高梁の教会に次ぐ古い建物だそうです。古民家の町並みに疑似洋館の建物は違和感なく溶け込んでいるように感じます。

 藤戸饅頭屋の建物は、白壁になまこ壁、一階部分には格子が連なる風情のあるものです。この建物に注目してロケ地として使われた映画がALWAYS三丁目の夕日で、原作は東京の下町なのですが、ロケ地はなぜか西に偏っています。関東は群馬の館林のみで、後は京都府、岡山県そして福岡県だったそうです。東京周辺では、かつての下町風情が残されていないからかもしれません。ちなみに、友舞なカサブランカはすべてスタジオで撮影され、カサブランカにほ一切行っていないそうです。コンピュータによる作画が簡単にできる昨今で、その技法を駆使した作品も多いようですが、テーマにあったロケ地では、演じる役者さんの気分も乗って、それだけいい絵が撮れるのかもしれません。

国立西洋美術館本館は、我が国20番目の登録で初めての多国に跨る世界文化遺産となりました(日本)

2016-07-24 08:00:00 | 世界遺産
 イスタンブールで開催された第40回、世界遺産会議でル・コルビュジエの建築群が世界遺産ンbに登録されました。七か国に分布する世界遺産は、十か国に跨るシュトルーヴェの測地弧に次ぐ多国籍登録で、大陸に跨るものは初めてです。第33回、第35回とエントリーしましたが3度目の正直でやっとの合格との感じです。日本での登録対象は、国立西洋美術館本館の建物ですが、外国については残念ながら未訪問ですので、今回は西洋美術館周辺を紹介します。

 国立西洋美術館は、西美の愛称で呼ばれている上野の博物館・美術館群の一つで、JR上野駅公園口からすぐの場所に位置します。ル・コルビュジエが基本設計をし、具体設計は日本の前川国男などの建築家が担当し、1959年に開館しました。本館は、世界遺産へのエントリーに備えて、2007年に特例として重文に指定されています。また、本館の後方にある、新館は具体設計を担当した一人の前川国男による設計によって1972年に竣工しています。

 西美は、戦前に当時の川崎造船の社長であった松方幸次郎がフランスなどで集めたコレクションを展示するために作られたものです。この美術品は、松方コレクションと呼ばれ、現在も西美の中心をなすものです。この美術品は、敗戦によってフランスに没収された後、条件付きで日本に返還されたもので、その条件の一つが、美術館を建てて公開すること、でした。返還された美術品は375点でしたが、松方氏がヨーロッパで買い集めたコレクションは、その数十倍あり、その中で最も多いのが浮世絵の8,000点で、大部分は現在国立博物館が所有しています。

 
 
 
 さて、ル・コルビュジエの本館の建物です、平面は正方形で、外壁は緑色の小石が敷き詰められてざらざらした感じです。ただ、この外壁は、当初のものではなく、改修後の姿なのだそうですが、依然がどうだったのか記憶に定かではありません。1階はピロティ風になっていて、チケット売り場とエントランスゲート、そしてゲートを入ったところは吹き抜けになっていて、ロダンの彫刻が陳列されています。現在のチケット売り場は、ガラス戸の内側となっていますが、かつては解放的なピロティになっていたそうです。展示スペースは2階になっていて、階段ではなくスロープで上るようになっており、ルネッサンス期以降の西洋絵画の常設展示場となっています。この2階の中に中3階がバルコニー状に作られていて、そこに上る細い階段が取り付けられていますが、階段が狭くて危険ということで使われたことのない空間になっています。

 
 前川国男設計の新館は、緑色のタイルを張った本館と同じような真四角の建物で、松方コレクションの印象派以降のコレクションが展示されています。ルノアールやモネなどおなじみの作品の中に、ル・コルビュジエが描いた絵も展示されていました。

 
 
 また、本館前提には、ロダンやブールデルの彫刻が飾られていて、地獄の門やカレーの市民の作品は、周りを圧倒しています。

 ブロンズ像というのは、彫刻科の作った石膏像を元に、鋳造の技術者が型を取ってブロンズ像に仕上げます。このために、同じ像が複数存在し、カレーの市民像は西洋美術館だけでなく、本来の設置場所のカレーの他に、ロダン美術館などにあります。ロダン美術館が所有する像は、戦前に松方が発注した物が、いろいろあってロダン美術館に収まっているようですが、本来はこの像が西洋美術館にあるべきものです。ところが、松方コレクション返還の時に、ロダン美術館がいちゃもんをつけて、結局は日本の費用負担で新たに鋳造したものです。それでは、どれが本物かと思いますが、法律で12体までを本物とするのだそうです。3Dプリンタとコンピュータによる作成ではないのですが、美術品の出来栄えではなく、法律で数だけを規定しているわけです。ロダン美術館の話といい、この話といい、美の世界にも、人間世界の醜い強欲を見るように思います。

干拓でできた茶屋町ですが土蔵づくりや格子のある家並が水路に反映しています

2016-07-17 08:00:00 | 日本の町並み
 大阪の衛星都市圏でありながら、昔の庄屋の古い家屋が残されているのが吹田でした。昔の吹田といえば、大きな操車場がある所といった感覚でしかあありませんが、貨物駅になった現在は往時の面影はありません。一つの鉄道歴史遺産が消滅してしまった感じですが、新幹線の陰で、鉄道そのものが日本中で消滅していっています。今回は、鷲羽山を経由して下津井まで小さな電車が走らせていた下津井電鉄のかつての起点である茶屋町を紹介します。

 茶屋町は、かつて本州と四国を結ぶ連絡船の起点であった宇野駅に通じる宇野線と本四連絡線との分岐点にもなっています。宇高連絡船も、数多くあった鉄道連絡船で消滅した鉄道遺産の一つです。関門海峡を含めると4か所もあった瀬戸内海の連絡船も、現在は宮島との間のみになってしまい、これが全国で唯一の連絡船となってしまいました。また、廃止された下津井電鉄は、バスのみの会社になった今も会社名は下津井電鉄のままですが、かつて走っていた電車は、JRの在来線よりも幅の狭い762mmのレールの上を走っていました。

 
 現在の茶屋町は、倉敷市の東南端に位置しますが、これは1972年に編入合併後のことで、それまでは独立の町でした。町の歴史は、干拓の歴史で、300年にわたり児島湾を干拓してできた土地だそうです。そのせいで、起伏がなくて、どこまでも平らな街並みが続き、オランダに似ています。あまり歴史の長くない町ですが、200年以上も続いて毎年10月に行われる「茶屋町の鬼」のお祭りがあり、駅前にもこの鬼の像があります。駅前で像を見たときには、岡山県なので桃太郎の鬼kと思ったのですが、退治された鬼は像にはしてもらえなかったんですね。

  
 茶屋町の名前の起こりは、干拓の工事をする人たちのための茶屋が作られたという説や、四国の金毘羅参宮道となり街道の茶屋がたくさんできたからとの説などがあるようです。町のあちこちにある、石の道しるべは、かつての街道の名残でしょうか。

 
 
 
 
 
 古い町並みが残るのは、茶屋町駅から西に延びる道路が水路と交差する前を南に折れ、金毘羅大権現に至る1kmほどで、干拓の跡を偲ばせる水路が多い街並みです。この道筋に、磯崎眠亀記念館と倉敷刀剣美術館とが道を挟んで建っています。磯崎眠亀は、明治の初期に、錦莞莚(きんかんえん)と呼ばれる花筵を作るための梯型筬(ていけいおさ)を発明した茶屋町が生んだ偉人です。一方の、刀剣美術館は70振を超える日本刀を展示する美術館ですが、併せて刀剣類の販売も行っているようです。トマト銀行の建物を利用したもので、銀行の建物って頑丈で見栄えがするせいか、神戸や小樽などでも古い銀行の建物が再利用されています。

 磯崎眠亀が苦労をして作り上げた、花ござの織機ですが、現在ではコンピュータ制御で、織り込む模様を前もってプログラム化しておけば、勝手に織ってくれるようになっているのでしょう。からくり人形を見ても思うのですが、昔の技術者は、歯車などのメカを組み合わせて、動作の流れを組んでいました。コンピュータ制御では、動作の流れを順にプログラム化して出力装置に命令を出してゆけば、機械が言われたとおりに動作するわけです。時系列的に、判断や動作をこなしてゆくのは得意なコンピュータですが、同時にいろんな要素を総合的に判断するのhじゃ不得意と言われています。結局はその手順を時系列的な流れとしてプログラムで規定する必要があって、効率が悪いのです。この辺りは、生身の人間の第六感のほうが優れているかもしれません。

温泉施設だけでなく美しい町並みのヴィースバーデンはドイツを代表する温泉療養地です(ドイツ)

2016-07-10 08:00:00 | 世界の町並み
 日本より、明治から昭和初期の日本のレトロな建物が残されているのが台北でした。台湾は、また温泉の多い国のひとつで、台北の郊外にもすばらしい温泉があります。温泉につかるという文化は、東洋だけかと思うと、ヨーロッパにも数多くの温泉があって、飲用だけでなく、浴用にされています。特に、ドイツやハンガリーなどには、大規模な温泉施設があります。今回は、大都市フランクフルトからも近いヴィースバーデンを紹介します。

 ヴィースバーデンは、フランクフルトの西30kmほど、マインツからはライン川を渡った対岸になります。ライン川に沿って走る鉄道は、マインツのある左岸がメインで右岸はローカル線っぽいのですが、ヴイースバーデンには先頭式の堂々たる中央駅があります。町の中心部は、この国鉄の中央駅の北側に伸びていて温泉施設や高い尖塔の教会などがあります。

 
 
 
 さて、温泉施設ですが、源泉と思しき噴水がコッホブルネン広場にあります。70℃ほどもあるそうです。日本では泉源というと湯畑や囲われた井戸を想像しますが、しゃれた噴水が作られています。近くには、飲泉用の、こちらは小学校にあった水のみ場のような蛇口が、東屋風の建物の中に作られています。日帰り温泉で有名なのは、カイザー・フリードリッヒ温泉で、なかなか立派な建物の温泉で、老舗のホテルか貴族の館のようです。古い建物のようですが、ひなびた、という表現には相応しくなく、日本の日帰り温泉施設の雰囲気とはだいぶ違います。違うといえば、こちらの温泉は、水着は着けない混浴ということです。ゲルマン系の国では、あまり特別でもないようで、みんなおおらかに入浴しています。カップルが一緒に入浴できないのは寂しい!と言ったことが、きっかけだとかですが、ラテン系の国では見かけない風習のようです。

 
 クワハウスという施設が、広大な広場の後方に建っていて、こちらはもっと宮殿風です。クワハウスという名称なので、温泉施設と思ったのですが、どうもカジノなどの施設があるようです。語源的には療養施設なので、必ずしも内部に温泉が無くてもいいのかもしれません。このクワハウスと広場を挟んで建っているのがカイザー・フリードリッヒ像で、広場の名前や、先ほど紹介の温泉施設にも名前が付けられています。この像には、逸話があり、現在の像のあった場所には、元々はシラーの像があり、フリードリッヒ像をベルリンから移す際に、台座を転用したのだそうです。フリードリッヒ像を据える時に、シラーの台座が邪魔になったのですが、壊す手間がかかるのでそのまま使ってしまったそうです。詩人より、権力者の像のほうが重要だったということでしょうか。

 
 
 
 泉源のあるコッホブルネン広場だけでなく、クランツ広場やマルクト広場など、緑に囲まれ、いかにもリラックスできる町並がつづきます。マルクと広場のそばには、マルクと協会の高い塔がそびえ、新市庁舎の美しい建物があります。新市庁舎といっても、建ったのは1887年で明治10年ということになります。いつもいつも、日本の無機質な箱物を税金を無駄遣いして建てたがる役所に腹が立ちます。中央駅のほうから眺めると、都会の喧騒とは無縁の緑しか見えませんが、広い道路に車が行きかうのが、ちょっと無粋です。

 コッホブルネン広場にある泉源の噴水は、温泉に含まれている鉱物のせいで黄金色になっています。日本の有馬温泉でも、金泉と銀泉とがあり、銀泉は炭酸泉で無為職透明ですが、金泉は赤茶けた色をしています(ちょっと金色とはいいがたい)。こらは、含有している鉄が空気に触れて酸化鉄となった鉄さび色で、タオルも真っ赤にしてしまいます。温泉に含まれる鉱物類は、特に酸性泉では多く、IT産業でも欠かせないレアメタルも含む場合があるようです。多数の温泉がある日本ですが、温泉からのレアメタルで輸入しなくても済むようにならないでしょうかね。

吹田市には万博の名残もありますが、存在感のある、かつての庄屋の古民家が現存しています

2016-07-03 08:00:00 | 日本の町並み
 陶磁器の窯元ではなかったのですが、積出港であったために伊万里焼の名称が付いたのが伊万里でした。封建時代には、一椀の焼き物は、土地やお金に匹敵する価値を持ったこともありました。陶磁器と茶道とはきっても切り離せない関係を持ち、国宝や重文の茶碗も数多くあります。茶道というと、抹茶で大降りの茶碗で飲む抹茶道がよく知られていますが、煎茶や玉露を急須で入れる煎茶道はなじみがありません。この煎茶道の茶道具や茶室が古民家に残るのが吹田の旧中西家で、今回は吹田に残る古民家2軒とその周辺を紹介します。

 吹田市は、大阪市の北隣で、日本発の万博が開かれた都市で、跡地の記念公園には岡本太郎の太陽の塔が現在も存在感を示しています。この万博会場は市の北辺近くですが、今回紹介の古民家のあるのは、大阪市に隣接する南端に近いところになります。最寄の駅はJR吹田駅から岸辺駅にかけて、阪急では吹田駅から正雀駅にかけてということになります。

 
 
 
 煎茶道の茶道具や茶室のある古民家の、旧中西家は、JR岸辺駅の北に位置する江戸時代の大庄屋の旧宅です。およそ3,000㎡の広大な敷地の中に母屋、離れ、長屋門、蔵などがゆったりと建っています。母屋の前には石庭があり、さらに石庭と長屋門との間には、掘り込んだ、まるで空堀のような庭があります。煎茶の茶室は、いくつかあったように記憶していますが、抹茶の茶席と特に変わった感じはしませんでした。これらの建物などは、中西家から吹田市に寄贈され、吹田市吉志部文人墨客迎賓館として使われています。ただ、観覧は週3日、午前午後の2回ボランティアガイドによるもので、事前の申し込みが必要です。

 
 
 
  

 もう一つの古民家は、吹田駅の南にあり、江戸時代から仙道御料方の庄屋を務めた旧西尾家住宅です。こちらは、さらに広い4,500㎡の敷地野中に、明治期に建てられた母屋、和風と洋風の離れ、茶室、蔵などが建ち並んでいます。旧中西家の建物は登録文化財ですが、旧西尾家の建物は重要文化財に指定されています。母屋の中には、箱階段や、磁石式電話機それに、ナイフスイッチとフューズがずらりと並ぶ配電盤など興味深いものが保存されています。また、庭には防火用のプールや温室の遺構なども残っています。さらに、塀には洪水のときに避難者が逃げ込めるように戸口が設けられています。こちらも、吹田市の所有になっていて、年末年始を除いて自由に参観できます。

 
 
 
 大都市のマンションなどに飲み込まれそうにはなっていますが、これらの2つの古民家に混じって、古い町並みが残されています。旧川西家の周辺、吹田駅の北側それに旧中西家の周辺辺りです。

 吹田というと、かつては日本3大操車場の一つがあったことで有名で、貨車の集散、中継基地として利用されてきました。かつての貨物列車は鉱山や大規模の工場などを除いて、操車場間を中継するもので、操車場で貨車をつなぎ変えて新しい編成に組みなおして、次の操車場に送り出していました。このために、荷物が届くまで、かなりの日数がかかるのが当たり前でした。輸送にかかるエネルギーが少ないメリットがあるのですが、時間がかかるのではトラック輸送にはかないません。そこで、登場したのが高速貨物列車によるコンテナ輸送で、各コンテナはコンピュータ管理され、最小の編成変更で目的地に到着し、所要時間も減り、広大な操車場も不要になりました。現在の吹田は、信号所を経て、貨物ターミナルになり、貨物列車とトラックとの接点の貨物専用駅として面積も狭くなって生き残っています。