世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

黒いキューピーの像や田ステ女の石像など姫路城とは違った顔のある姫路網干地区

2009-03-29 08:39:56 | 日本の町並み
 義経一行が無理をして通過した安宅の関跡の近くには、航空自衛隊のスクランブル発進基地が隣接していましたが、自衛隊などは不要で、武器も博物館だけでしか見れない世の中になって欲しいものです。ところで、武器の中で使われる火薬の中に綿火薬というものがあります。綿花を硝酸、硫酸の混合液で処理して得られるものですが、この綿火薬の成分のニトロセルロースを原料とした、世界初の合成樹脂がセルロイドです。このセルロイドの名前を冠した会社の製造工場があるのが姫路市の網干地区で、世界遺産の姫路城のある中心街とは趣の違った顔を見せる町並みがあります。

 今回紹介をする網干地区は、神戸から姫路に向かう山陽電鉄を特急では一つ手前の飾磨で下車をして支線に乗り換え、終点の山陽網干駅周辺になります。駅の南を国道250号線が通っていて、その周辺は落ち着きませんが、国道から少しそれると、ここが同じ姫路市内かと思うほどのんびりした町並みが続いています。セルロイドの名を冠した大日本セルロイド、現在のダイセル化学工業の工場は駅の南東1kmほどにあって、現在もセルロイドなどの化学製品を作っています。工場の正門近くにはダイセル異人館と呼ばれる洋館が残されていて、内部は資料館になっています。昔のセルロイドの製品などが陳列されていますが、その中に黒いキューピー人形があります。

形は通常の肌色のキューピーと同じですが、色は真っ黒でちょっとびっくりします。黒いキューピーは日本ではこれ1体だけなのだそうです。ダイセル異人館は、工場の黎明期にお雇い外国人技師の宿舎として建てられたもので、現在は2棟が残され、資料館の他はクラブハウスとして使われています。どちらの建物も下見板張りのしゃれた建物で、神戸の異人館を思わせるものでした。

 セルロイドの話に戻ると、セルロイドはニトロセルロースと樟脳を原料として作られ、成型が簡単なことから人形やピンポン玉など多方面で使われました。中でも、写真フィルムのベースとして大量に使われ、現在の冨士フイルムはダイセルの写真フィルム部門が独立して誕生したという歴史があります。ところが、原料として火薬としても使われるニトロセルロースを使うことから、摩擦などによって自然発火するという欠点があり1950年頃までに、安全なアセテートやポリエチレンなどに置き換えられました。

 駅からダイセル工場に向かう途中の国道の橋近くに田ステ女の石像があります。田ステ女は、同じ兵庫県の柏原の出身で、6歳にして「雪の朝 二の字二の字の 下駄の跡」の句を残したとされる才女です。

老後に移り住んだのが網干で、網干に不徹寺を開基して多くの女性信者を指導したことを記念するもののようです。この石像から、揖保川ぞいに河口方向に行くと、白壁に虫篭窓のある古い町並みが残っていて、ダイセル異人館とと好対照になっています。この町並みは、15世紀から続く揖保川を利用した物資の集散地として栄えた名残で、かつての商家の面影を伝えるものです。

中には、屋根の上に望楼のような部屋を乗せた家屋などもあり、姫路城を見た後に立ち寄ってみる価値のあるところの一つのように思えます。

 黒いキューピーを見ると一瞬びっくりしますが、よく見ると肌の色が黒いだけで形や表情は普通のキューピー人形となんら変わらずかわいらしい顔をしています。日本人は、通常と違った外見や考えを持つものを異端視して、避けたり、場合によってはいじめの対象にする傾向があるように思えます。学校でのいじめ問題のいくつかも、このような異端嫌いに根ざすもののように思います。通信やインターネットの普及で、情報流通がさかんになり、外国からの異文化が垣根なく流入する環境にあって、なぜかこの風潮は変わらないようにも思います。むしろ、異端をあげつらうのにネットが使われることも多いようです。島国、単一性のDNAはそう簡単には変わらないものなのでしょうか。

万里の長城の西の端は、川の断崖の上で終わっていました(中国)

2009-03-22 22:06:48 | 世界遺産
ベトナム戦争による人間の破壊と、周りの自然によって壊れていく遺跡が痛々しいのがベトナムのミーソン聖域でしたが、北京郊外では立派な城壁が続いている万里の長城も、西のはずれの方は人間や自然の破壊によって、もとの砂山に戻りつつあるようです。以前に北京郊外の八達嶺長城周辺を紹介しましたが、今回は、その第二弾として、北京から遠く離れた長城の西の端周辺を紹介します。

 万里の長城は秦の始皇帝が北方からの外敵に備えて作ったものと言われていますが、現存する長城の大部分は14~17世紀の明代に作られたものです。明代長城は渤海湾に突き出した老龍頭を東の端にして、西は嘉峪関の南西にある長城第一とん(土へんに敦)で北大河の断崖の上で終わっています。

一方、長城の要所に作られた関所で最も西にあるものが嘉峪関ですが、長城第一とんとの間には民家の土塀のような長城の名残が砂漠の中に切れ切れに続いており、その向こうを西域に向かう列車が通り過ぎていきます。

 長城第一とんは、高さが4~5mほどの四角い土の塊があるだけで、表示が無ければそれとは解らないようなものです。近くには、リムのところから階段で降りて行く展望台があり、降りた後に明るいほうに歩いてゆくと、川の対岸が見えてきます。この展望台は崖の途中に張り出したもので、張り出した部分は一部がガラス張りではるか下の川原が見えます。ちょっとその上には立つ気はしませんが、もっと恐ろしげな施設がありました。対岸に渡るロープウェイです。滑車についたロープで人一人をぶら下げるだけの代物で、はたして稼動していたのかどうかもわかりません。

 最西端の関所であった嘉峪関は、200m四方ほどの土地を10m余りの城壁で囲み、東西の縄文の上には多層の楼閣を乗せた堂々たる遺構が残されています。内部には、関所として使われていた頃の歴史を説明する建物や資料が展示されていますが、建物群は復元されたものではないかと思います。城壁の上に上り、第一とんに伸びる長城の残骸を眺めると、そこには祁連山脈まで漠々たる砂漠が続いています。一方、城壁の内側には緑が茂り、そのコントラストは鮮烈です。城壁の内側は辺境の土地の荒海に浮かんだ箱舟だったのでしょうか。

 嘉峪関は、嘉峪関市の郊外にあるのですが、この嘉峪関市も砂漠の中に忽然と出現する都市で、それまでほとんど家屋の無い農村が比較的最近に都市となったようです。周辺の状況はアメリカのラスベガスに似ていますが、賭博でもうけている町とは違い、高い建物は少なく、未舗装の道路もあったりして、町中にも空き地が目立ちます。

 明代の長城の最西端より西にも、唐や漢の時代に作られた関所の跡が敦煌の西方にあります。玉門関と陽関の跡で、敦煌からすれ違う車も無い砂漠の中の道を、かなりの速度でとばして1時間以上も走ったところに忽然と現れます。玉門関の跡は5~6mもあろうかと思われる高さの四角な土の塊が、空から降ってきたように何も無い砂漠の中にあります。

一方の、陽関は「西のかた陽関を出れば故人なからん」と詠まれたところで、かつての中央政権の権力が及ぶ西の端だった関所跡です。関所跡には博物館が作られ、お土産屋までありますが、遺跡としては当時の烽火台跡の土の塊が小高い丘の上に残っているのみです。

 北京郊外の八達嶺長城は多くの観光客でにぎわっていますが、長城第一とんまで行くとさすがに訪れる人は少なく、遠くまで来たな~という実感が湧きます。さらに、玉門関や陽関まで足を伸ばすと、あたりは砂漠ばかりで、文明が及んだ限界だったと感じます。長安、現在の西安から1,800kmも離れた場所であっても権力が及ぶということは、通信の必要があったはずです。電気通信など無い頃ですから、文書を人や馬などで運んだのでしょうが、一日30kmとしても2ヶ月かかった勘定です。ただ、急を知らせる烽火は、意外と早く伝わったようで、1bitの情報量ではありますが、見える範囲を光の速度で伝送する光通信だったわけです。

義経一行が足止めされた安宅関跡の近くには格子のある家並みも残っていました

2009-03-15 21:54:14 | 日本の町並み
橋が架けられなくて天然の関所の役割をしたのが、大井川の島田宿でしたが、逃げ延びる義経一行を待ち受けた関所が安宅の関と言われています。ただ、この安宅の関のくだりは能の安宅の脚本家などが創造したフィクションのようですが、関跡には義経、弁慶それに富樫の3人が銅像となって建っています。今回は、安宅の関跡と川を挟んだ対岸の安宅の町並みを紹介します。

 安宅は、石川県の南端の小松市の北辺の日本海岸寄りにあって、石川県の空の玄関小松空港からもすぐ近くになります。小松空港は自衛隊との共用空港で、時たま戦闘機がスクランブル発進をしてゆくのを見かけます。不審者の通過を阻止する関の跡と、外敵を阻止する基地が隣接するのもなないかの因縁でしょうか。

安宅関跡は安宅住吉神社の後方、日本海に沿った松林の中に開けたところがあって、勧進帳ものがたり館と、館に隣接して銅像群が立っています。この銅像はどうも義経が目立たなくって、弁慶ばかりが堂々としてかっこよく作られているように見えます。関守の富樫の前では、弁慶の方が主で義経が従と振舞ったわけですから、そう感じるのは自然なのかもしれません。

 2008年10月12日付けの本欄で、安宅の関のくだりは富山県の伏木での事件を題材に、能や歌舞伎の脚本化が舞台を安宅に移して作り上げたものであるらしいことを述べました。ただ、伏木での事件も史実かどうか疑わしいところがあるようですし、安宅関に至っては、そもそも関所の存在じたいに疑義があるそうです。まあ、余計な詮索は置いておいて、能の「安宅」は室町時代の15世紀に作られ、歌舞伎の「勧進帳」は、能の「安宅」をもとに江戸中期の18世紀初めに作られたようです。どちらの演目でも、活躍するのは弁慶で、義経は影が薄いように思います。歌舞伎では、関守の富樫が義経主従と見破りながら、弁慶の心意気にほれて通したという演出もなされています。

 関所跡から梯川に架かる住吉橋を渡ると安宅の町並みで、橋の近くに一部が茅葺の住吉神社の宮司の住居があります。お寺の庵のようなたたずまいで、中を拝見したくなる端正な感じがします。そこから、海岸方向に向かって古い町並みが残っています。このあたりは、北前船の中継港として栄えたところで、加賀藩の米蔵も置かれ船問屋が軒を連ねたのだそうです。

現在の家並みは、かつて繁栄した頃の名残でしょうが、格子をはめ袖壁を持つ家や、新しく作られたようですが同じような造りの料亭などが町の顔を作っています。妻側が土壁ではなく板張りの家が多いことも特徴的な景色を作っているのかもしれません。

 関所という代物は、時の権力者が自分に都合の悪いものは通さないという目的で作ったバリケードであると言えます。もちろん、治安の確保という面もあったでしょうが、主たる目的は権力の維持にあったことは、「入り鉄砲と出女」の言葉に如実に表されているように思います。現実の人間や物が動かなくても、権力者にとって都合の悪い情報が流入/流出することもあるでしょう。ネットを監視して、不都合な情報は阻止する国もあるようですが、このような権力者がわが国に出現することはごめんこうむりたいものです。

雨が降ると何日も足止めをされた大井川の渡しの跡にはお雛様が微笑んでいました、島田宿

2009-03-08 08:47:40 | 日本の町並み
台風の雨風を防ぐために、壁を伝わる雨を途中でカットする水切り瓦のアクセントが美しい風景を作っているのが室戸の吉良川地区でしたが、雨が降ると川が増水して渡れないために何日も足止めをされたのが大井川を挟んだ二つの宿場である金谷と島田でした。今回はその二つの宿場の中から江戸に近い島田宿の跡を紹介します。

 大井川は、江戸時代には天然の関所として一切の橋がかけられませんでした。橋がないので、歩いて渡ることになりますが、雨でも降れば増水して渡ることができず、江戸に向かう人は金谷で、京都に向かう人は島田で水が引くのを待たされたわけです。徳川家のご都合で、大変な不便を強いられたわけです。足止めがあるということは、川を挟む二つの宿場での滞在期間が延び、両方の宿場は大いに潤ったわけです。

この島田宿大井川川越遺跡は、島田の駅から製紙工場などが建ち並ぶ町並みを抜けて西に2kmほど歩いてところにあります。宿場跡の先には大井川の堰堤が行くての先に壁を作っており、その堤防に上ると広い河川敷が広がっていて、下流の左手には東海道線の鉄橋のトラスが川を越えて金谷に伸びています。

 島田宿大井川川越遺跡には島田市の博物館があり、当時の宿場の町並みの様子が復元されています。

川越の札を売った川会所、川越人足の集まった番宿それに旅籠などが再現され、古い町並みの様相です。これらの建物の前には、防火用水が置かれていることが多く、その上に積まれた桶が美しいフォルムを形作っていました。

大和郡山や海野宿などの紹介で述べましたが、通りのそばに、綺麗な流れがあることも、町並みに変化を持たせて、心地よくしています。訪れたのが3月だったせいか、複数の家の中にお雛様の壇飾りが置かれていて、その前の引き戸が開けられて中が見えるようにされていました。お家の中から、通りを通る人に優しく微笑みかけているようで、心なごむ風景でした。

 江戸時代には一切の橋が架からなかった大井川ですが、明治になって初めて架けられた橋が蓬莱橋で、900mほどのこの橋は木造橋として世界史長としてギネスブックにも載っているそうです。島田駅の南1km足らずのところにありますが、残念ながら時間が無くて実物は未だ見ていませんが、写真で見る限り、時代劇に出てきそうな素朴な橋で、周りの風景に溶け込んでいます。台風などによる増水で、何度も被災しましたが、そのつど修理をして現役を保っているようです。
 同じように時代劇のロケによく使われる橋として、京都府の八幡市の木津川に架かる上津屋橋があります。こちらも、増水のたびに橋が被害に遭っていましたが、昭和のはじめに流れ橋として作ることで問題を解決したことでも有名です。川が増水すると、橋桁が浮き上がり流れてしまいますが、水が引いた後は前もって仕込んでいたワイヤを引けば、はい、元通り!という仕組みです。なんとも、自然に逆らわない東洋的な発想の技術で拍手を送りたくなります。IT技術は、自然征服形の西洋的な発想による技術を基に人間に便利さを与えてきましたが、IT技術の分野でも、地球に優しい自然融合型が見直されてくるでしょうか。

緑に飲み込まれ崩れかかった遺跡が突然に出現するミーソン(ベトナム)

2009-03-01 08:52:41 | 世界遺産
1997年の地震によって壊滅的な被害にあったのも関わらず復興した遺産がイタリアのサン・フランチェスコ聖堂でしたが、ベトナムには天災ではなく戦争という人災によって破壊された遺跡がフエの王宮の他にもあります。フエの南にあるミーソン遺跡がそれで、一面の緑の中に、崩れたレンガ造りの塔や今にも崩れそうな壁などが、周りの緑に飲み込まれそうになっています。今回は、ベトナム戦争の激戦地のダナン郊外にあるミーソン聖域を紹介します。

 ミーソン聖域は、ベトナム中部の都市ダナンから南東に70kmくらい内陸に入ったところで、車で1時間少しのところにあります。ベトナムには5つの世界遺産がありますが、そのうちの3つの、フエの古建築、ホイアンの町並み、そしてミーソン遺跡とが比較的近いところにかたまっていて、観光には都合よくできています。遺跡の近くを流れるトゥーボン川の河口にある町がホイアンということになります。ホイアンやダナンから車でミーソンに向かうと、「わが息子(My son)」という表示があちこちにあって、これは何を意味するのだろう?と思ったら、ミーソンの地名は英文でMy sonと綴るんですね。

 さてそのミーソンの遺跡群は、南ベトナムにあったチャンパ王国が4世紀から13世紀にかけて作ったヒンドゥー教の聖域で、大小70余りの堂塔やその残骸からなっています。インドネシアのプランバナンやカンボジアのアンコール遺跡と似た感じがするのは、同じヒンドゥー教の遺跡という共通性と思います。特に、アンコール遺跡群のタ・プローム遺跡と野類似点は、遺跡が自然に飲み込まれつつある点でしょうか。タ・プロームでは、遺跡の上に大木が根を伸ばして遺跡を覆っていますが、ミーソンでは、遺跡の上や周りに木や草が茂って、レンガの壁面が見えなくなっています。

これらの木や草の根がレンガや石の構造物の間に入り込んで、やがて遺跡を破壊してしまうのではないでしょうか。遺跡が長い間自然の中に放置されていたことや、自然の生命力の旺盛な地域という共通点が似た結果につながっているのかもしれません。

 崩れかかった堂塔ですが、その壁にはアンコール遺跡で見られるようなレリーフがかなり残っています。東洋のモナリザと称されたアンコールのバンティアイ・スレー遺跡のレリーフのような躍動感はありませんが、静的で厳粛な美しさがあるよう思います。

ただ、これらの彫像の周りにも雑草が容赦なく根を張っていて、崩れてしまわないかが心配になるところです。

 草木などの自然による遺跡の破壊は、時間をかけてゆっくりと忍び寄るものですが、戦争による破壊は一瞬にして遺跡を瓦礫の山にしてしまいます。ベトナム戦争当時は、遺跡が解放軍の拠点として使われたことから、米軍の攻撃目標になってフエの王宮と同様に貴重な遺跡が破壊されてしまいました。

この遺跡の爆撃が、誤爆だったのか、狙い定められたものかは解りませんが、攻撃側の主張で、非戦闘員の民間人を攻撃したのは、誤爆だと言われることがありますが、IT技術のよってピンポイントの制御ができる現在では、嘘もいい加減にしろと言いたくなります。