世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

日本一短い名前の県庁所在地の郊外に大きなお寺と寺内町が広がっている一身田(いしんでん)

2008-09-28 16:20:00 | 日本の町並み
 貝塚には、願泉寺の寺内町に古い町並みが残っていましたが、三重県の県庁所在地の津の郊外にある一身田には、高田山専修寺の巨大な伽藍と、その寺内町に土蔵造りの町並みとがあります。今回は、津市の市街地の北部の田園の広がる中にある一身田を紹介します。

 一身田駅は、JR紀勢線の津から亀山方向に1駅乗った所です。名古屋からJRで津へ行く場合は、通常は河原田から津の間は伊勢鉄道でバイパスしてしまいます。関西線で亀山に行き、そこから紀勢線に乗り継ぐと、遠回りのうえ、列車本数も少ないからです。この三セクの伊勢鉄道にも東一身田という駅がありますが、専修寺までは遠くなります。ましてや、近鉄線の高田本山と寺の名前が付いた駅からだと2km近くもあって、ちょっと駅名にだまされて下車すると長い道のりを歩かされそうです。ちなみに、伊勢鉄道は国鉄当時に伊勢線として開業はしたものの、赤字路線のために廃止リストに上がり、三重県の出資する三セク鉄道として再スタートしています。名古屋から南紀方面に直通する列車など、この線を通過するだけの列車が多いのですが、料金が別立てとなって、併走する近鉄と競争にならない状況のようです。18切符で旅行をする場合にも、別に料金を支払わねばならず、新幹線の開業で平行する在来線が三セク化する現象と同様に、高速移動を好む観光客のしわ寄せを食らった感じです。

 さて、高田山専修寺は、一身田の駅の東500mほどのところにあり、300m四方に近い寺域を持つ大きなお寺です。御影堂や如来堂など重要文化財の巨大な建物が周りを圧していますが、学生時代に訪問した時の記憶に残っているのは、境内の東に位置する太鼓門でした。

巨大な三門はどこにでもありますが、この門は小ぶりの三層で、てっぺんには太鼓が置かれ、全体的に軽やかな感じが印象的でした。ところが、再訪してみると、上層部は変わりなかったのですが、肝心の開口部が板で塞がれてしまい、門としての役割をしてい無かったのは残念でした。

 高田山専修寺というお寺は、13世紀の頃に栃木県に建てられた真宗の寺院でした。一方、一身田にあるお寺の前身は、真宗を伊勢地方に布教するために15世紀に建てられた無量寿院と呼ばれたお寺です。栃木県の専修寺が、火災で荒廃してしまったために、高田派の本山機能を一身田に引っ越してしまったようです。栃木の専修寺は江戸時代に再建され、本寺専修寺と呼ばれているようです。現代にも似たようなメースがあるようで、鶴見にあって石原裕次郎の墓で有名な総持寺も、明治時代に石川県にあったお寺が火災にあったため、布教活動に都合の良い首都圏に引っ越してきました。もとの、石川県のお寺は、残された伽藍に、再建のお堂を加えて総持寺祖院と呼ばれています。

 寺の南に広がる寺内町は、500m四方ほどの地域で、周りには環濠も残されています。とりたてての土産物屋があるわけではなく、普通の生活空間が広がっていますが、土蔵造りや格子のある家並みが続いています。

 お菓子を買いに入ったお店は、150年前に建てられたお家だそうです。

このような町並みは、本願寺系のお寺を中心とした自治集落の寺内町と呼ばれる町並みに共通するようで、善光寺などの門前町と呼ばれている、少々俗化された町並みとは趣を異にするようです。

 寺内町と呼ばれる地域には、周りに環濠が作られていることが多いものです。環濠に加えて土塁を残している町もあるようです。かつて、一向宗徒の町として、外部との摩擦も多く、外敵から身を守るための自衛手段だったのでしょう。かつての外敵は、物理的に攻めてくるために、物理的な障壁を作れば防ぐことができたのでしょうが、現代の世の中では、外敵は必ずしも物理的手段で攻めて来るとは限りません。サイバーテロなどと呼ばれる行為は、その典型でしょうか。核兵器を用いなくとも、強力な磁場を作る兵器が開発されれば、一国を滅ぼすのは簡単!とも言われます。大部分の大規模電子記憶媒体は、磁気を利用しているためです。人も殺さずに、大国をも滅ぼしてしまう兵器は、人道的なのでしょうかね。

表から見たのではよくは解りませんが、家の後ろ壁は岩山そのものマテーラの家々(イタリア)

2008-09-21 16:22:37 | 世界遺産
 敦煌の莫高窟の洞窟の中には、一時期ロシアからの難民が住んでいて、そのために壁画などが傷んでしまったものもあるとのことですが、山の斜面に洞窟を掘って洞窟と一体化したサッシと呼ばれる洞窟住居を無数に作ったところがマテーラです。平らな地面に家を建てるより、洞窟を住居とするのは、屋根を作る手間が減って楽なのでしょうね。今回は、イタリアの南部、長靴のかかとの位置のプーリア州にある町の一つマテーラを紹介します。

 マテーラは、イタリアのかかとの部分にあるプッリャ州の州都のバーリから、本数の少ない電車で1時間半ほど内陸に走ったところにあります。それも、何両かつないだ電車のうちの1両だけがマテーラに行き、他の車両は途中駅で違った方向に行ってしまいます。マテーラの駅は、地下にあって、駅の手前でトンネルに入ったと思ったら駅に到着します。洞窟住居は駅からちょっと解りにくい道を20~30分ほど行ったところの断崖の下にあります。場所を探すときに、高いところの場合は見えていることが多くって、目標の方向が定まりますが、窪んでいるところは解りづらくって困ります。

 着いたところは、かなり深い谷の上で、サッシと呼ばれる洞窟住居は、そこからがけに沿って下って行った壁面に張り付いています。谷のこちら側には、教会などの建物などもあって、びっしりと建物が建っていますが、谷の向こうは岩肌がむき出しです。

 建物は、この岩肌を削って建てられたことが解りますが、表から見ていると、岩肌を削ったテラス状の土地に、建物を建てたように見えます。もちとんそれに近い建物もあるようですが、それでは洞窟住居として世界遺産にはならなかったのでしょう。一軒の土産物屋さんに入ると、建物の内部の様子がうかがえました。通常の建物に見える部分は、家の入り口付近、玄関部分とでも言えばよいのでしょうか、までで、後ろの部分は岩壁を掘り込んで作られています。洞窟の前に、額縁状に玄関部分を貼り付けたといった風です。

 かつてサッシは、貧民街のレッテルを張られて廃墟化していたとの事ですが、たしかに人の気配は少なく、崩れた門の向こうには瓦礫が積み重なっている場所も多いのですが、前述のお土産屋さんをはじめ、生活感のある建物も多いように見かけました。

観光客のものにしては雰囲気の違う車も通ったり駐車していたりもします。

 ただし、天気が悪かったことにもよるのでしょうが、景色がくすんでいるんです。岩肌の色も、建物の外壁の色も同じで、屋根が少し茶色が濃いくらいで、コントラストがほとんど無く、べったりとした印象です。建物に使った石材も、この岩山で採れた物なのかもしれません。色自体は、心なごむいい色で、イギリスのコッツウォルズの建物群と似ていると思うのですが、この色が垂直方向にも立ち上がって、木々の緑などとの対比が無いので地味なのでしょうか。廃墟に咲いていた赤い花が、ちょっとアクセントになっていましたが。

 携帯電話の電波は、一つの基地局と、隣の基地局との電波の干渉を防ぐため、通常はやや下向きに放射されることが多いようです。こうすることで、必要以上の距離に電波が飛ばないようにとのことです。また、電波の波長が短くなったため、光の性質と似て、建物の陰などにも届きにくくなりました。崖にへばり着くようなマテーラでは、崖の上にアンテナがあっても、見通せないし、アンテナを谷底に置いたのでは、上向きに電波を出さねばならないし、どうしてるんでしょうかね。
 マテーラでなくとも、基地局のアンテナより高いビルなどでは、電波が受かりにくいといった不都合が起こります。最近の大きなビルでは、ビル内に専用のアンテナを設置して使えるようになっているところも多いようです。ただ、キャリアが設置するアンテナ以外のものは、電波法に違反した機器が多いようです。微弱電波を使っているので、違反していないと宣伝しているようですが、明らかに違反機器と推定できます。基地局の電波を携帯電話に中継している電波は、微弱電波なのかもしれませんが、携帯電話の電波を基地局に中継している電波は、微弱では基地局には届かないからです。ちなみに、ビル内のアンテナは台北の世界一ののっぽビルの台北101にも設置されていて、高層階でも問題なく携帯電話が使えるそうです。当然、電波法に則った機器が置かれてあることでしょう。

かつて東洋の魔女を生んだ貝塚には、個性的な寺と町並みがありました

2008-09-14 16:25:19 | 日本の町並み
 連島のある倉敷は、倉敷紡績(クラボウ)の発祥の地で、アイビースクエアはその工場の跡ですが、クラボーと並ぶニチボーは、東京五輪で日本中を沸かせた東洋の魔女を生んだニチボー貝塚で有名な企業です。ニチボーは、現在はユニチカに名前を変え、バレーボールチームも他社に移籍されてしまいましたが、町のバレーボール熱はまだまだ冷めていないようです。この、貝塚にはバレーボールだけではなく、水間観音などのお寺や、虫篭窓のある家並みが続く町並みが残っている町なのです。

 貝塚市は、大阪府の南部に北西の大阪湾から東南に細長く伸びた市域を持ちます。細長い貝塚市の、北西半分くらいの中央を縦断するのが水間鉄道で、水間観音への参詣者を運ぶために大正期に引かれた鉄道です。一時期は、多くの参詣客を運んで大きな黒字を上げていたようですが、バブル期の過剰投資と、モータリゼーションのための乗客の減少で、経営破たんをきたし、現在は再建なった新会社で運行を続けているようです。この水間観音は8世紀に行基により開創されたお寺ですが、水間観音を有名にしたのは、今東光師ではないでしょうか。

師は昭和36年から水間観音の住職を勤められましたが、直木賞作家として、参議院議員とし、はたまた大学の講師としてなど多方面での活躍で話題となった僧侶の一人です。

 水間観音から、1kmほど東南に行ったところにあるお寺が孝恩寺です。畑や民家の中に本堂がぽつんと建っている、一見何の変哲も無いお堂ですが、鎌倉時代の密教建築様式を伝える貴重な建物として国宝に指定されています。このお堂は、別名を釘無堂と呼ばれ、釘を使わないで建てられたものですが、釘を使っていないお堂は他にも存在するようです。

水間観音は多くの参詣客でにぎわっていますが、国宝のこの本堂に足を延ばす人はほとんど見当たらないようです。

 水間鉄道で、貝塚まで戻り、駅の北西方向に向かうと、願泉寺の寺内町と旧紀州街道沿いの町並みとが交じり合った一画に至ります。願泉寺は、本願寺派の堂々たるお寺で、江戸初期の本堂や門などは重要文化財にも指定されています。

 寺内町などの町並みには、格子のある家、土蔵造りや2階に虫篭窓を持つ家などが軒を連ねて、富田林の寺内町に似た風景を作っています。

 一向宗徒による自治都市として、かなりの広さを誇ったようで、町を取り囲む環濠も存在していたようです。

ただ、都市の中心部に位置するために、虫食い状に再開発が進み、ゆったりした町並みも、やがては消えてしまうのではないかと、寂しい感じもしますが、妙に観光化した不自然な町並みや、古民家風の土産物屋の氾濫はやめてもらいたいものです。
 
 かつての水間観音の住職であった今東光師は、マルチ人間のお一人だったようですが、ダビンチや平賀源内など、多才というだけでなく、おのおのの分野で超一流だということは驚くばかりです。現在と比べて、技術の広さと深さが狭く浅かったからできたと、評する向きもありますが、芸術分野での業績は、どのように評するのでしょうか。最近の携帯電話は、カメラだけでなくTVの昨日、音楽プレーヤの機能など、マルチ化が進んでいて、これだけを持ち歩けば、他は何も要らないと言わんばかりです。小さな筐体にたくさんの機能を詰め込んだ実装技術には、目を見張るものがあり、組み合わせることで新しい使い方が生まれたことは認めますが、残念ながら既存の機能を寄せ集めただけで、創造的な付加価値は少ないように思いますが、いかがでしょうか。

敦煌の壁画に対して龍門は石仏が見事です(中国)

2008-09-07 16:27:40 | 世界遺産
 敦煌の莫高窟の洞窟の中は、仏像もさることながら、壁画の量に圧倒されますが、龍門にはおびただしい石仏の数に驚きます。今回は、敦煌と並んで中国3大石窟の一つ、龍門石窟を紹介します。

 龍門石窟は、かつてたびたび都が置かれた洛陽の南にあり、市内から郊外バスに40分ほど乗った、川のそばの岩山の壁面にあります。ただ、バスを下車しても、石窟がある場所まではかなりの道のりがあって、みやげ物屋や公園が続きます。

ただ、このみやげ物屋街外が、古風な建物で建てられていて、他の観光地にあるようなて浮いた感じはしません。20分ほども歩いてやっと入場券売り場に到着ですが、歩くのがいやな人にはトラムも準備されています。石窟は川を挟んで、東山と西山に分かれていて、両者は閉空間でつながっておらず、いったんゲートを出て自由通路の橋を渡り再入場となります。通常は、バス停のある西山から入って、東山という順に廻りますが、有名な石仏は西山に集中していて、東山の石仏の数はあまりありません。ただ、川を挟んで東山から眺める西山の石窟群はなかなか壮観です。

 敦煌では、石窟の奥行きが深く、壁画の保存のためもあって、現代になって入り口に扉が付けられています。このため、中は暗く、なんといってもガイドに鍵を開けてもらえる限られた窟しか見られないという、不満が残ります。それに、一切の写真も撮ることが許されないことは、壁画の保存のためという理由を超えて、ガイドブックなどを売るための商魂すら感じてしまいます。龍門のほうは、岩山の石質が硬かったこともあって、窟が比較的浅く中の石仏が外からでもよく見て取れます。もちろん、写真を撮ることも自由です。

 西山のゲートを入っても、しばらくは石窟が現れませんが、やがて見えてくる岩山は、よく使われる表現ですが、まさしく蜂の巣状です。窟は地表から届く高さだけでなく、ずいぶんと高いところにまで掘られています。ルーブル美術館で、かなり有名な絵が2段、3段と重ねて展示されている光景を思い出します。ルーブルは、フロアーから眺めますが、こちらの石窟は、階段を上ったり、降りたりでかなり疲れます。疲れる階段の上り下りを何度か繰り返して、そろそろ西の端に着こうかというころに現れるのが、龍門最大の石仏群のある奉先寺です。

 中央の盧舎那佛は高さ17,14mで、則天武后の顔を映したとの言い伝えもありますが、アルカイック・スマイル様で端正な顔立ちは、一度見ると忘れられない仏像の一つです。

 ゲートを出て、橋を渡り東山のゲートを入っても、石窟らしきものは現れません。ただ、川を挟んでみる西山の蜂の巣城の壮観さに見とれるだけです。東山の石窟は、ゲートから緑の中をかなりきつい坂を上っていった山中に散在しています。禿山の岸壁に、所狭しと掘られた西山の石窟とは、ずいぶんと様子が違います。石仏の数も、一箇所に1~2体で、しいどい思いをして坂を上って行った割には報われません。

 川の東側には、東山の石窟の他にバス停に戻る途中に白居易が住んでいたという白園があります。園は高低差のある回遊式の庭園で、その中には白居易の墓もあります。

白居易というと、むしろ白楽天という呼び名のほうが知られているかもしれません。玄宗皇帝と楊貴妃のエピソードを歌った長恨歌で、平安文学の源氏物語や枕草子にも影響を与えたとされています。
 
 洛陽市街から龍門に行く途中に関林廟といって関羽の首を祭った廟があります。日本にもいくつかある、関帝廟の元締めのような感じもしますが、巨大で原色に塗られた関羽の像にびっくりします。日本でも、菅原道真など抹殺された人物が神とあがめられる事が多いのですが、関羽は、このようなケースの中国での代表格でしょうか。ITの分野では、失敗作は抹殺されておしまいの事が多いのですが、研究者の価値は、机の引き出しの中にしまわれている失敗データの数で決まる、とも言われています。失敗データを集めて、神棚でも作ってみますか。