世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

モーゼルワインの産地のトリアーにはローマ時代の遺跡に加えて聖堂がたくさん残されています(ドイツ)

2012-01-29 08:00:00 | 世界遺産
 小国の首都ながら周囲を断崖に囲まれて天然の要塞を方作っているのがルクセンブルグでしたが、国境を挟んだドイツ側の世界遺産の町がトリアーです。トリアーはドイツの西の端にあり、国内のライン川沿いの都市コブレンツまでは100kmほどもありますが、ルクセンブルグまでは40kmしか離れていません。今回は、トリアー市内に点在するローマ時代の遺跡や聖堂などの世界遺産を紹介します。



 トリアーの駅を降りて最初に目に入る遺跡がポルタ・ニグラで、ガイドブックなどにはトリアーを代表する写真になっています。2世紀に建てられたローマ城壁の北門で、黒い石で作られているために、まるで火事に遭ったような印象を受けます。内部は各階ごとに木の床が張られて、最上階まで登ることができ、最上階からはトリアー大聖堂の尖塔なども眺めることがでます。内部は外部の火事に遭ったようなみすぼらしさとは違って、開口部の周りを飾るレリーフがなかなか奇麗です。


 ローマ時代の遺跡はポルタ・ニグラの他に円形劇場や皇帝浴場があります。円形劇場は、規模は大きいようですが中世に採石場扱いをされていて破壊が進んでいるとのことです。

 皇帝浴場はローマのカラカラ浴場に次ぐ規模の共同浴場跡で、ローマ人はよほど入浴が好きだったと見えます。バスの語源のイギリスのバースには現在も温泉が湧くローマ浴場の遺跡があり、チュニジアのカルタゴ遺跡の近くにもローマ浴場遺跡がありました。トリアーの遺跡は、壁の一部が残されているだけで、カラカラ浴場と同様に、ここがお風呂だったとは想像しにくい雰囲気です。ローマのお風呂は、蒸気による蒸し風呂で、日本の温泉とは形が違って当然なのでしょうが。


 ポルタ・ニグラと皇帝浴場との間にあるのが大聖堂と聖母聖堂それにアウラ・パラティナ(バシリカ)です。大聖堂は4世紀に建てられたドイツ最古の大聖堂ですが、その後破壊と再建、増築が繰り返され、いろいろな様式の交じり合う建物です。ポルタ・ニグラから見ると空を突く3つの尖塔が印象的です。もう一方の聖母教会は、13世紀に建てられた,ドイツ最古のゴシック様式の聖堂です。ステンドグラスの美しい聖堂ですが、外観がすっきりした感じの大聖堂と比べて、少しゴチャゴチャした印象です。すっきりと言えば、バシリカは凹凸の少ない倉庫のような建物です。4世紀に宮殿として建てられ、現在は柱の無い大きな空間を利用してプロテスタントの教会として利用されています。

 皇帝浴場とバシリカとの間には、17世紀に作られたルネッサンス風の宮殿の建物群が残されています。付近は広大な公園になっていて、緑が一面に広がって気持のよい場所でした。先のバシリカは、この宮殿の建物の一部として利用されていたのだそうです。

 ローマのお風呂はサウナのような蒸し風呂だったようですが、このコラムで以前にも紹介したように、サウナの中で携帯電話で話しをしている人を見かけたことがあります。90℃ほどもの環境で動作する携帯電話の電子部品も丈夫になったものだと思います。電子部品は、暑さ寒さに弱いものとされ、自動車に電子制御を導入する時には高温に絶えうる部品を造るのに苦労したと聞いたことがあります。公衆電話の電子部品も、環境の悪い場所の一つですが、おそらくもっとも過酷な動作環境を強いられるのは衛星に搭載される部品なのでしょう。集積度が極度に上がったメモリでは、宇宙線が当たっただけで内容が消えてしまうと言われていましたが、どのように解決されたのでしょうか。

日本一の雨量が育てた山林の資源が山林王を生んだ尾鷲です

2012-01-22 08:00:00 | 日本の町並み
 標高が低い割りに豪雪地域の一つとなっているのが長野県の飯山でしたが、年間降雨量が飛びぬけて多い都市が三重県の尾鷲です。尾鷲の北西にある大台ケ原では、一年の半分は雨が降ると言われ、大杉谷へ下るコースは2日以上はかかるので、必ず雨に逢うといわれています。その尾鷲を雨の日に訪れた時の町並みを紹介します。

 尾鷲は三重県の南部の熊野灘に面した場所にあり、市の中心以外の大部分が山林です。雨が多い理由は、熊野灘を渡ってくる湿った南風の作る雨雲のためで、この風が山に当たるところが大台ケ原なのです。年間降水量の記録では屋久島に及びませんが、月間降水量では1,883mmという最多記録を持っています。

 熊野古道が世界遺産に登録されてからは、その東南の入り口の一つとして注目されていますが、港と山林資源で発展してきた歴史を持ちます。熊野灘に面した海岸線は深い入り江が続くリアス式で、天然の良港に恵まれ、大台ケ原まで続く背後の山林は良好な積出港も持つ資源でした。ただ、リアス式の海岸は、東北の被害でも明らかなように、津波の被害が大きくなります。1944年に起きた東南海地震では9mもの津波が尾鷲を襲い、壊滅的な被害を受けたそうです。戦時中であったため、詳しい被害状況は伏せられ、ほとんど記録に残っていないようです。

 豊かな森林資源で財をなした豪商が土井家で、駅の東500mほどのところにあります。洋館や土蔵造りなど広大な敷地に数多くの建物群があり、蔵の一部が「土井子供くらし舘」という博物館として公開されています。筆者は夜行バスで到着し朝が早かったので、ほとんどの建物は外部から見える部分しか見ることができませんでした。



 
外部との接点の代表が門ですが、土井家の正門はさすがに立派でしたが、門の奥の正面に大きなやしの木が立っているのが不思議でした。まるで、入って来る者を阻止しているようです。分家である南土井家の正門も、門から奥には屋敷の様子が伺えないようなうっそうとした木立が続いていました。

 
 
 古い町並みは、土井家の正門の面している南北の通りに沿って残されています。屋根の下に庇があって、さらに下には格子がはめられた窓に、格子状の出入り口が連なります。そういえば、庇のある日本家屋を見なくなって久しいですね。一見無駄のような庇ですが、夏の日差しを防いだり、雨のときに傘を閉じたり開いたりできる場所として、雨宿りもできます。日本の風土に合った構造だと思うのですが、工場で大量生産されるプレハブ住宅が出回り始めた頃から庇は消滅したようです。

 地震の警報には、P波とS波の伝わる速度の差を利用した緊急地震速報があって、とっさの準備ができますが、数秒の時間では逃げ場を確保するのがせいっぱいでしょう。一方、津波については、沖合いにセンサーを置いて、警報を出す仕組み作りが進んでいます。津波の速度が速いといっても、電気信号のほうがずっと速いので、先回りをして到達点に避難指示を出すことができます。これらは起きてしまった地震の波に先回りをして知らせるものですが、これから起きる地震の予知は、いまだ正確にはできていないと言っていいでしょう。ただ、予知されても、関東地域の巨大な人口を考えると避難できるかどうか。

ジェルバ島には地中海を前にして贅沢な時間が流れています(チュニジア)

2012-01-15 08:00:00 | 世界の町並み
 青い湖水の向こうの小島に絵に描いたようなお城が建っているのが北ドイツのシュヴェリーンでしたが、北アフリカの地中海に面したリゾートのうち、最大の島のジェルバ島は、ドイツ人にも人気のビーチ・リゾートです。今回は、アフリカ大陸の沖合いの地中海に浮かぶ屋久島ほどの広さに12万人が生活をするジェルバ島を取り上げます。

 ジェルバ島は、チュニジアの南部のガスペ湾にあり、リビアとの国境にも近いところにあります。チュニジアといえば、アラブ諸国の中で、欧米の価値観による民主化のさきがけになり、旧政権の崩壊のあとようやく落ち着きを取り戻しつつあるようです。筆者が訪問したのは6年ほど前で、政変もあったことから、国内事情も変わっているかもしれませんが、そのときの様子を紹介します。

 ジェルバ島は、首都のチュニスから300kmほども離れています。島には空港もあって、チュニスからの国内線の空路もあるようですが、当時のダイヤは利用しづらい時間帯だったことや、途中の町を訪問しながらの旅なので、陸路でのアクセスです。鉄道でガベス湾の北端のスファックまで行って、そこからは6時間半のバスの旅です。直線では100kmに満たない距離ですが、大きく入り組んだガベス湾に沿って遠回りをするので、2倍近い道のりになり、ほとんど一日かけての移動になります。バスの旅の最後は、ローマ時代に築かれたと言われる7kmの長さの大堰堤を渡ります。島には水源が無いらしく、この堰堤には道路の端に送水管が併設されていました。

 

 ジェルバ島の面積の比較に屋久島を挙げましたが、屋久島の最高標高が宮之浦岳の1936mに対して、ジェルバ島では、たったの53mで平たい島です。地中海性気候のため、寒暖の差が小さく、目の前のには紺碧の地中海があってリゾートのための島といった性格のようです。リゾート・ホテルは、島の北辺の海岸沿いで、大陸とは反対側になります。地中海沿岸でも、北岸のヨーロッパ諸国のリゾートはホテルの価格も高く、その割りにサービスも良いと思えません。チュニジアのリゾート・ホテルは価格もリーズナブルで、サービスも悪くありません。足の便が悪いぶん、安く設定されているのでしょうか。ただ、飛行機に乗ればパリからでも2時間ほどで、南仏のカンヌやスペインのコスタデソルとあまり代わらないようにも思えます。ドイツからでは、南仏などとの差が相対的に圧縮されることもあって、ドイツ人に人気のリゾートなのかもしれません。



 
 ただ、ホテルの周りは海岸と地中海ばかりで、ホテルを海岸側から見ると砂上の楼閣のようにも見えます。近くには観光に行くような施設はほとんどありません。プールでのんびりしたり、マリンスポーツなどを楽しむなど、日本人には苦手な贅沢な時間の過ごし方ができます。退屈を紛らすためでしょうか、ロビーの近くでは民族音楽の演奏もやっていましたが。

 チュニジアでは、アラビア語が公用語として使われ、かつての宗主国のフランス語も部分的に通用するようです。一方、ジェルバ島は、チュニジアでは数少ないベルベル語が話される地域なのだそうです。ベルベル語はモロッコやアルジェリアなどでベルベル人によって話される言語です。ベルベル人は、北アフリカの先住民で、独自の文化を持つ遊牧の民です。周辺のアラビア語圏からの影響と圧力とで、独自の文化を守るのが難しくなっていると言われています。インターネットは、何処に居ても世界中の情報を簡単に手に入れられるという恩恵を生みましたが、欧米文化を市場であると押し付ける手助けをもしているように思えます。利用者でネットの利点、欠点を的確に判断することが重要ですが、これはかなり難しそうです。

飯山では深い雪の中に仏壇屋とお寺とが軒を連ねていました

2012-01-08 08:00:00 | 日本の町並み
 神戸の山手地区には色々な宗教施設があり、宗教の博物館の様相を見せていましたが、日本での信者数の最も多い仏教で各戸に置かれてきたのが仏壇です。伝統産業として仏壇の一大産地となっているところが長野県の飯山です。今回は、商店街に仏壇屋さんが軒を連ねている飯山市を紹介します。

   
 飯山は長野から北北東に伸び、1時間半に1本というローカル線の飯山線で50分ほどの場所にあります。長野と比較して標高は高くないように思いますが、3月に訪問したときは、長野には無かった雪が、飯山ではかなりの積雪が残っていました。全域が、特別豪雪地帯なのだそうです。この雪深さのせいでしょうか、飯山の斜面にはジャンプ台の姿も望めましたし、城山公園には長野県スキー発祥の地の碑がありました。城山公園は、信州と越後の間で要となる平山城の飯山城の跡ですが、雪の中を訪れる人も無いらしく、石垣が雪の中にうずもれていました。



  
 さて、仏壇屋が軒を連ねる通りですが、飯山駅から飯山線に平行して北飯山方向に伸びる飯山街道沿いに並んでいます。飯山の仏壇は江戸初期に起源があり、地域の信仰心の深さや近くに漆の原料があり、それに冬に雪に閉じ込められる環境から飯山仏壇が伝統産業として発展したといわれています。飯山仏壇は地域に信者が多い浄土真宗の教義に沿ったものだそうです。

 飯山の伝統産業は仏壇だけではなく内山紙と呼ばれる和紙の生産があります。駅の裏側に伝統産業会館がありますが、その近くで和紙の原料や漉かれた和紙が干されているのを見かけました。和紙の故郷は寒い地方が多いように思います。漉く季節も寒い冬から春先に良い紙ができると言われています。これは、和紙の繊維を絡ませるために混ぜるトロロアオイなどの「ネリ」の分子が温度が高いと短くなって粘度が下がってしまうためだそうです。


 飯山は、仏壇だけではなくお寺も多い町です。仏壇通りから飯山駅にかけての西側は寺町の様相で、浄土真宗だけではなく臨済宗の正授庵など、こちらも軒を連ねているといった感じになっています。この正授庵は一時は廃庵になる寸前だったようですが、山岡鉄舟などの尽力によって再興され、その時に発見された書画が寺宝として伝えられています。



 飯山と聞いて、パソコンに興味がある方はiiyamaを思い浮かべられる方も多いかもしれません。飯山は、安い液晶モニタのブランドとして名をはせたiiyamaの発祥の地なのです。現在とは価格が数十倍もする液晶ディスプレイを、当時の相場の半値ほどの価格設定で話題となりました。時代が進んで、液晶の価格が下落し、格安ブランドとしての優位性が薄れてしまったようです。薄型のディスプレイはテレビを始め大部分が液晶で占められるようになりましたが、コントラストを高く取れないなどの欠点も持つため、有機ELやFEDなどの商品開発が進んでいます。新しい技術の商品はどうしても高く、iiymaブランドのように価格破壊をしてくれる存在が普及を加速するのでしょうね。