世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

かつてはカナダの首都も置かれたキングストンですが、小さな都市部の周りは一面の雑木林でした(カナダ)

2019-12-15 08:00:00 | 世界の町並み
 首都のオタワより人口が多く、北米に居てヨーロッパの香りがする都市がモントリオールでした。カナダのセントローレンス川沿いには下流からケベック、モントリオール、キングストンと連なり、オンタリオ湖のほとりのトロントと続きます。この地域はアメリカとの国境も近く、歴史的にアメリカとの紛争も多かった地域です。今回はこの地域の中から、一時はカナダの首都が置かれたキングストンを紹介します。ただ、キングストンはセントローレンス川を挟んで、対岸はアメリカになり、あまりに敵国に近いという理由から、首都であったのは短期間ですぐにオタワに引っ越したのだそうです。

 
 キングストンは、カナダ鉄道VIAでモントリオールから3時間ほど、トロントから2時間ほどの場所ですが、鉄道駅は市街地から離れたところにあり周りは雑木林とのっぱらです。ちっぽけな駅舎のほかは、路面電車の電停のような低くて屋根すらないプラットフォームが2本あるだけの殺風景さです。駅舎が無ければ、信号所かと思うくらいで、日本でいえばよほどのヨーカル線の、無人駅って風情です。町の中心部は駅から30分ほど、セントローレンス川のそばにあります。さほどの見どころは無くって、市役所の建物と、港から出るサウザンド・アイランズ巡りの観光船、それにフォート・ヘンリーくらいでしょうか。町はずれには、オタワとを結ぶ世界遺産のリドー運河の一方の起点にもなっています。

 
 
 
 筆者はこれらのうち、市役所の建物を見学しただけで、他の施設は、観光船の時間と合わないなどで訪れることはできませんでした。ただし、観光船ならぬ無料のフェリーで、セントローレンス川に浮かぶウォルフ島に往復し、千もの島々は見られませんでしたが、片道20分の船旅と、いくつかの島々も眺めることができました。日本では、勝鬨橋が開閉しなくなって大きな跳ね橋は見かけなりましたが、片持ちながらかなりの規模の跳ね橋が上がるのも見られました。また、フォート・ヘンリーはフェリーの航路から距離があってよく見えませんでしたが、その隣の岬の突端にあるフォート・フレデリック(フレデリック要塞)のビル群や赤い丸屋根の建物はよく見えました。このウルフ島はセントローレンス川の中央よりアメリカ側に位置していて、狭いところでは2kmも離れてなく、確かにかつての敵国と至近距離のようです。

 
 
 
 さて、内部を見学した市役所ですが、1844年に建てられ175年間も現役を続けています。建物は公園を隔ててセントローレンス川に面していて、ウォルフ島へのフェリーからもよく見えます。中央には時計台のあるドームがあり、外壁はライムストーン(石灰岩)で作られています。19世紀を代表する建物として、カナダの国定史跡になっているそうです。業務に支障のない範囲で見学が可能で、外観だけでなく、内部もなかなか重厚感漂う美しさです。市役所前の公園には、Spirit Of Sir John Aという蒸気機関車が展示されていて、この機関車は、キングストンからペンブルークというところまで材木や鉱山資源を運ぶために引かれた鉄道で活躍した機関車のようです。

 ヨーロッパに行くと、電車や電気機関車が目立ちますが、カナダでは5万キロの鉄道路線農地電化区間は100キロちょっとの約0.25%にすぎません。したがって、キングストン周辺も、当然ながら架線のないレールだけで、ある意味景色はすっきりしています。このレールの上を、巨大な客車を巨大なディーゼル機関車が引いて疾走・・ほどではありませんが走っています。レールの幅は標準機の1435mmなので新幹線と同じですが、内部はもっとゆったりとして幅があるように感じます。ただ、筆者が乗った列車は、ケベックとモントリオールの間でエンジントラブルでストップ、列車の頻度が極めて少ないので、原野に取り残された感じでした。結果的に、何とか修復して3時間遅れでモントリオールまで到着しました。携帯は持ってませんでしたが、周りの風景からは圏外の雰囲気、異常という通知は、VIAの指令室に届いているのでしょうか。

蔵王の東側には紅花で栄えた町中が蔵だらけの村田がありました

2019-12-08 08:00:00 | 日本の町並み
 温泉地と城下町と蔵王山への登山基地が混在しているのが山形県の上山温泉でした。蔵王には東からもアクセスでき、こちらは宮城県になります。その麓には遠刈田や鎌先温泉などの温泉地もあります、もう少し仙台寄りに、町中が蔵だらけの村田があります。温泉地でも遠刈田のようにこけしの故郷でもないために、全国的な知名度は下がりますが、土蔵造りがこれだけ集中していることでは数少ない町の一つで重伝建の地域にも指定されています。今回はこの村田の街並みを紹介します。

 
 
 
 
 村田町は仙台の中心街から南西に30kmほど、東北自動車道の村田インタからすぐなので、車で移動の方々には意外となじみの地名かもしれません。公共輸送機関で行くとなると、JRの最寄りの駅が無いので仙台からは蔵王へ行くバスを途中下車して40分ほど、東北本線の大河原から路線ンバスで20分ほどかかります。今でこそ人口1万人ほどの忘れられたような町ですが、江戸時代は伊達氏の城下町として、また紅花の集散地として栄えましたが、鉄道が通らなかったと紅花産業が衰退して、忘れ去られ冷凍保存状態になったようです。現在残る土蔵群は、紅花が盛んなりしころの豪商の店蔵と呼ばれる邸宅の名残です。

 江戸時代の交通のメインは水路と海路、つまり船によるもので、陸路では馬などで運ぶのがせいぜいで、大量に物資を運ぶのは困難で、特に遠距離にたくさんの物資を運ぶ場合は船が主流でした。村田宿の紅花は、江戸には阿武隈川の舟運が使われ、上方の大阪には、山越えで最上川に出た後に西回りで運ばれたそうです。紅花は染料や食用として使われ、原産地はアフリカと言われ、日本には5世紀ごろに伝わったようです。江戸時代の主な生産地が山形であったことから村田がその集散地となったようです。紅花の赤色は口紅などに使うと玉虫のようにメタリックな輝きを持ち、高級な化粧品としてもてはやされたようです。紅花の染料としての成分はアニリンで、化学合成で安く手に入るようになったため、現在では化粧品や紅花染めなどの趣味の世界や、食用油としての用途が細々と残っているにすぎません。

 
  
 紅花ではありませんが、町はずれの白鳥神社の境内には樹齢800年という蛇藤があります。そばにはもっと古い樹齢3,000年以上と言われるケヤキもありましたが、筆者の訪れたのは4月下旬で藤野花には少し早かったようです。藤野花の咲く5月中旬には村田の春祭りがあるそうです。この境内には木だけでなく石造りの見ものがあります。それは狛犬で、神社の手前の石段のところには他の神社などでよく見かけるライオンをイメージした、こわもての狛犬ですが、拝殿の両脇に居る狛犬は、なんともかわいらしい狛犬でした。

 
 
 
 
 村田の土蔵造りは、切妻屋根の切妻側を隣の家と接する、いわゆる平入と呼ばれる家が多く、1階部分が店舗で2階に虫籠窓やなまこ壁などを持つ土蔵造りを多く見かけます。店舗部分は、後に改装されてサッシまで入ったものもありますが、細い格子が入ったものが多く、二階部分の重厚さと対照的に軽やかな印象を与えています。また、多くの家には袖壁を持つ立派な門も残されており、東京近辺にあれば、この門だけでも登録文化財になりそうです。先に冷凍保存と書きましたが、街中でほとんど人を見かけず、したがって見苦しい土産物屋や、見世物風に改造した家も皆無です。ただ、このままだとだんだん無住になって朽ち果ててしまうのでは、と心配です。滅びていくのも、一種の美学かもしれませんが、どうも日本人には古民家の美を理解する人が少なすぎるように感じます。

 江戸時代に紅花で作られた口紅は、小町紅という商標だったそうです。美人の誉れ高い小野小町にあやかった命名だったようです。先日、京都国立博物館(京博)で、佐竹本三十六歌仙絵巻展が開催されました。佐竹藩に伝わった絵巻が100年前にばらばらにされて売却され、100年ぶりに31/37の歌仙絵がそろった展覧会でした。売値が高額なために、一人で購入できる限界を超え、海外流出を恐れた益田鈍翁の発案で37枚に分割され売却されたものでした。三十六歌仙の中には当然小野小町も含まれていて、京博にも展示一覧に載っているのですが、筆者が訪れた時には展示替えの翌日、女流歌人は小大君のみでした。ネットで見る小野小町は、佐竹本も含めて、決まって後ろ姿なんですね。「絵にも描けない美しさ」だったからなのでしょうか。AIを駆使して後ろ姿から、前向きの姿を推定してみたいものです。

日本人にもおなじみのコロンス島ですが日本人観光客があまり行かないレンガ色の町並みに良さがあるように思います(中国)

2019-12-01 08:00:00 | 世界遺産
 スペインのコルドバにはキリスト文化とイスラム文化が融合して独特の建物が残されていました。一方、中国には香港に代表される、東洋と西洋の文化が混とんと混ざり合った風景があちこちに見られます。大部分は、西洋列強が中国に進出して虫食い状態の植民地を作った名残で、居留地や租界と呼ばれる町並みです。今回は、それらの租界の中で、中国で初めてピアノが持ち込まれたコロンス島を紹介します。

 
 
 コロンス島は、福建省の厦門市に属する面積が2㎢に満たない小さな島です。厦門市は中国本土といくつかの島とにまたがっていて、コロンス島はこれらの島の一つになります。厦門の都心は厦門島にあって、厦門島とコロンス島との間は狭い水道で隔てられているだけですが、橋はなく20分おきに運航されているフェリーだけが足になります。ところが、このフェリーに乗るのが大変で、観光客がわんさかと押しかけるため朝早くに乗り場に行っていないと午前中に島に渡れない琴もあるそうです。筆者は、早くに起きて6時過ぎに乗り場に到着し、初発である7:10発のフェリーに乗ることができました。島の中は、電気自動車しか通行が認められていなく、突然現れた緊急車両も電気自動車でした。観光客は、歩いて回るか、10人ほど乗れる電動カートに乗って回ることになります。時間があれば、電動カートは街中の路地までは入らないので歩いたほうが人々の生活ぶりも垣間見られて楽しい旅ができます。今回は、道並みを中心に紹介して、観光スポットは次回に紹介することにします。

 
 
 
 アモイからコロンス島に行く船は2か所から出ていて、航路の短い方はアモイ市民専用で、観光客はわざわざ遠くの船着場から遠回りすることになります。コロンス島側も、それぞれ異なる船着場に着き、観光客は島の北寄りの三丘田埠頭に上陸することになります。古いレンガ造りの街並みが残るのは、この三丘田埠頭と市民専用の船着場の間で、電動カートは埠頭近くから出ていますが、道の狭い町並み部分は通りません。これらのレンガ造りの建物は、コロンス島が西洋列強の疎開地となり、各国の領事館や付属の建物が建った名残で、1910年ころから1935年ころにかけて建てられたようです。日本のように、再開発で跡形もなく取り壊されるという惨事には遭遇せず、現在も現役で使い続けられています。

 
 
 
 
 
 いかにも金持ちの邸宅といったビルがあると思えば、レンガでできた長屋風の庶民の建物までが混在していて、これらの街並みには洗濯物もひるがえっています。コロンス島内にもいくつかのホテルがありますが、これらの街並みの雰囲気を壊さないいような配慮がなされているように感じ、目立つことを意識した日本とは違うようです。また、教会堂や旧博愛医院の建物はレンガ造りではありませんが、シックなたたずまいは、周りの街並みに溶け込んでいるようです。島で最も標高の高い日光岩から見下ろすと、朱色の街並みが広がり、海を画賛でアモイのビル群が見えて、奇妙なコントラストです。

 
 
 中国では、朝飯を外で食べる風習があり、町並みにある食堂では朝食メニューらしきものがボードに掲示されていましたが、お勧めは沈家閩南腸粉というワンタンに似た食べ物です。にゅるっとした触感の包みの中にひき肉らしきものが入っていて不思議な触感のおいしさです。日本人のお客は我々だけ、この店だけは、電動カートに乗ってはだめで、歩かないと発見できません。

 コロンス島は通常の自動車の走行が認められていなくって電気自動車のみが走っていますが、他でも同じような所に一つがアメリカのヒューロン湖に浮かぶマキノー島で、こちらの移動手段は徒歩、自転車それに馬車だそうです。1980年に封切られた「ある日どこかで」という映画のロケ地として有名になりましたが、ここだったらSF小説のようなことが起こりそう、といった環境のようです。これらの場所は、狭いエリアなので歩いても移動が可能な面積で、航続距離や充電に時間のかかる電気自動車に向いていそうですが、最近の電気自動車は電池の性能が向上してこの欠点も小さくなっているようです。ただ、電池に使うリチュウムは希少元素で、他のIT分野で使われるイットリウム、コバルト、タンタルなどと同じく産出地域にj偏りがあったり、量が少なかったりで、安定的に手に入りません。産地が紛争地域だったりもして、IT産業の発展も平和が重要な要因です。