世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

上海から日帰りで行ける周庄は中国第一水郷とのことですが、どこか懐かしい風景でもあります(中国)

2017-09-24 08:00:00 | 世界の町並み
 ロマンティック街道の中でも古い町並みを残している町の一つが街道の中央に位置するディンケルスビュールでした。旧市街は、19世紀に作られた城壁に取り囲まれていますが、その外側の環濠や自然の川などが外敵の侵入を防いできました。我が国でも、近畿圏を中心に外敵から町を守る環濠集落が数多くあります。水は水運として利用でき、外敵の侵入を防ぐなど、都市形成にとって重要なものでした。中国の江南地方は、町が湖や川などに浮いているように思うほど水面が広がっています。今回は、これらの水壕の町の中から蘇州市崑山市の周庄を紹介します。ただ、訪れたのが16年前でディタルカメラの分解能も悪く色もさえません。また、この時はパッケージツアーに参加したために、受動的で記憶もあいまいで、誤りがあるかもしれません。

 
 周荘は上海の市街地の西50kmほど、蘇州市街地からは東南東に30kmほどの白蜆湖の東のほとりにあり、周りを水に囲まれた600m四方ほどの水郷古鎮です。水運を利用した食料や生糸の集散地として栄えた明清時代の町並みを残し、町の入り口には中国第一水郷周荘の表示もあります。中国の古い町並みでよく見かけることですが、町の入り口にゲートがあって入域料を徴収されます。この入り口には日本の中華街の入り口にあるような石門の古鎮楼がそびえています。言ってみれば、町全体が入場料の必要な横浜や神戸の中華街ってところ、入場料が要るのでテーマパークのディズニーランドかもしれません。絶叫マシンはありませんが、場内にあるものは、すべて本物で、テーマパークのようなレプリカではありません。

 
 
 
 
 
 町の中は、あまりよくは覚えていませんが、細い路地に土産物屋や民家が並んでいます。壁一面の引き出しがあるのは、漢方薬屋さん、運河沿いにはカフェも並んでいます。運河にはいくつもの石橋が架かり、目玉は富安橋で、橋の上は多くの観光客で混雑しています。細い通路では映画のロケのようでした。以前に、このブログで紹介した杭州と上海との間にあり周庄の南西40kmほどの烏鎮にも似た景色のように思います。漢方薬屋さんの引き出しが並ぶ光景なんぞは、全く同じです。

 交通のインフラが貧弱であった頃には、水運というのは重要な流通と移動の手段でした。中国の江南地方が栄えたのは、水運が便利であったため、ヨーロッパでも大きな川には内陸深く船が遡上します。江戸も京都も水運が無ければ、物量は成り立たなかったのではないでしょうか。そして現在、交通インフラは整備され、物流の中心は各家庭への個別配送になってきているように思います。以前に、ある宅配業の物流センタを見学させてもらいました。高度にコンピュータ化され、荷物は1個単位で所在が管理されています。コンベア上の荷物はバーコードで、瞬時に仕分けがなされ、行き先別のトラックなどに積み込まれていきます。ただ、各戸への配達は、人間の手なんですね。

そろそろお彼岸なので、飛び入りで、日高市の巾着田の彼岸花の群生です

2017-09-17 08:00:00 | 日本の町並み
 9月23日は秋分の日、お彼岸です。お彼岸というと、おはぎ(萩の花に由来で春の彼岸に食べるのはボタンの花由来のぼたもち)や彼岸花ですが、今回は、ちょっと寄り道で、彼岸花が一面に咲く巾着田を紹介します。

 彼岸花というと縁起が悪いとおっしゃる向きもあるでしょうが、球根に毒があるので食べると彼岸に行ってしまう、などの言い伝えからかもしれません。一般的には、秋の彼岸頃に咲く花ということでの命名と考えられます。一方、彼岸花は曼殊沙華という呼び名もあって法華経に由来し極楽に咲く花の一つというおめでたい命名もあります。かつては、球根の毒性を利用し、障子を張る糊にとして使われたこともあるようで、障子の虫食い予防になったそうです。最近は、リコリスという名前で園芸品種が出ていて、赤色だけでなく、白、黄、オレンジなどの花が売られています。

 
 
 さて、巾着田は埼玉県日高市の南西部、高麗川が南側に大きく蛇行をして、川に囲まれた場所が巾着の形のように見えることから名づけられた場所です。最寄りの駅は西武池袋線の高麗もしくはJR八高線と川越線の分岐駅の高麗川になります。高麗川の名前は、8世紀ごろに高句麗からの渡来人がこの地域に住み着いたためで、巾着田も彼らによって開墾された田畑です。

 
 
 彼岸花は、湾曲する高麗川の河川敷に群生するもので、500万本の花が咲くと言われています。松林の足元がすべて彼岸花という状態で、この巾着田の彼岸花を見てしまうと、他の彼岸花の群生を見ても感動しなくなるほど、ここの花は見事で圧倒されるボリュームがあります。筆者が訪れたのは10年以上も前ですが、その頃はまだ無料で見られましたが、その翌年から入場料を徴収するようになったようです。入場料を払うだけの値打ちがあるとも思いますが、もともと野生で咲いていた花で場所も河川敷なんですがね。

 
  
 西武池袋線の高麗からJRの高麗川までは、途中に巾着田を経由してのどかな田舎道が続きます。この季節には、曼殊沙華に加えて、芙蓉の花や栗のイガイガなども眺められます。天気が良ければ、のんびりと散歩をするのにも向いているかもしれません。帰りに川越線で川越に出て、駄菓子を買って帰るというコースも可能です。

 彼岸花の球根にはでんぷんが含まれているため、飢饉などで食糧が不足した場合には、これを食べたそうです。含まれている毒物のアルカロイドは水溶性のため、1日以上水にさらすと毒が抜けたそうですが、それでも誤食を含めて、事故が絶えなかったようです。電子センサーを利用して、いろいろな成分の検出が可能になった現在ですが、「食べても害はないか?」といった、お毒見センサーというものは存在しないようです。特定の物質の検出能力は、モノによっては人間の間隔をはるかに超えるものまで開発されていますが、漫然とした毒の存在は、個々の毒を検出するセンサーをずらっと並べるしかないのではないかと思います。現在でも、命を懸けたお毒見役が必要なのでしょうか。

小田原はお城とかまぼこだけではありません、数多くの別荘跡を巡る散歩はなかなか楽しいものです

2017-09-10 08:00:00 | 日本の町並み
 前々回に円山公園の近くに伊東忠太が設計した祇園閣を紹介しましたが、この祇園閣は大倉財閥の京都での別荘の中に建てられたものでした。実業家の別荘は、東京周辺に建てられることが多い中で、京都に別荘は数が少なかったのではないでしょうか。別荘というと、箱根や軽井沢などの保養地をしますが、箱根のおひざ元の小田原近辺に数多くの実業家の別荘があったのは意外です。今回は、小田原からは声登山線の箱根板橋にかけて散在する実業家の別荘跡を巡る散歩道を紹介します。

 
 
 かつての別荘は、石柱1本のみの場所や、個人所有で非公開のものもありますが、現存し公開されている建物もあります。小田原駅を降りて、小田原城跡を通り抜け南に少し行ったところにあるのが静閑亭で、かつては黒田長成侯爵の別荘でしたが、現在は小田原市の所有となり建物、庭園共に現存し公開されています。イベント会場などとしても使われるようで、少し小高い場所に建つため小田原市街の向こうに相模灘まで眺められます。この眺めが別荘地として選ばれた理由の一つかもしれません。

 
 
 静閑亭を南西に阪を下り山角天神を通り過ぎ左折すると対潮閣跡で正門跡に石垣と石碑が残るのみです。山下汽船の創業者・山下亀三郎の別荘でした。東海道を南に渡って民家の前に石柱が建っていて三吉達治の旧宅跡と分かります。少し東に行くと小田原聖十字教会で木立の中の三角屋根がかわいい教会です。南に行くと小田原文学館で、こちらの建物は田中光顕伯爵の別荘を活用したものです。

 
 
 
 静山荘は小田原文学館の北東には数多くの会社の設立に関わった望月軍四郎の建てた別荘ですが、現在は個人の所有で非公開です。東海道に出て、西へ在来線のガードと新幹線のガードの間を右に折れて、新幹線のガードを越えて道なりに行くと三井財閥の総帥であった益田鈍翁の別荘であった掃雲台の入り口跡の石碑があります。しばらくそのまま西に行き右折して坂を上ると右手にあるのが古稀庵の跡で、山形有朋の別荘跡です。現在は生命保険会社の研修所となっており、当時の建物は失われていますが、庭園が公開されていて見ることができます。さらに山道を登ると左手に旅館の山月があります。この建物は、京都の祇園閣も建てた大蔵喜八郎の別荘で、別荘の頃は共寿亭と呼ばれていました。

 
 古稀庵のところまで戻り、西に下ると突き当りが老欅荘です。電力王の松永安左エ門の別荘で、晩年に所沢の別荘の柳瀬壮から移り住んだ所です。小田原市の所有で、庭園もお茶室を含む建物が公開されています。老欅荘の手前には松永記念館があり、松永コレクションの一部が展示されています。

 
 最後に箱根板橋への帰り道に立ち寄りたいのが内野邸で、元の醤油醸造工場です。道路に面した表側は、黒漆喰になまこ壁の古民家風で、元の店舗を通り抜けた裏側に醸造講場跡が残され、大きな木桶が並んでいます。小田原市が乖離受け、公開されていますが、第2、4の土日のみで、内部を見学するためには日程を考慮する必要がありそうです。

 老欅荘を建てた電力王と呼ばれる松永安左エ門は、数多くのコレクションを東博(東京国立博物館)に寄贈をしており、説明のタグにも松永安左エ門寄贈の文字が目立ちます。多くは、茶碗などの茶道具です。茶碗はセラミック、現在の電子技術を支える重要な素材はファインセラミックと呼ばれるセラミックです。電気の王様と電子技術が妙なところで関連していたのかもしれません。また、安左エ門は役人嫌いでも有名な方でした。現場主義の彼は、机の上の知識だけで、物事を決めつける役人が気に入らなかったのでしょう。ただ、ある病院で健康診断にあたってる方の評判では、電力とガスに携わる会社の人ほど役人的な権力を振り回す横柄な人たちは居ないんだそうです。

バルト三国で最大の都市のリガですが、落ち着いた旧市街にはいろいろな様式の建物が残ります(ラトビア)

2017-09-03 08:00:00 | 世界遺産
 バルト三国の最南端のリトアニアの首都のヴィリニュスにには、数多くの教会があって、いろいろな様式で美しさを競っていました。そして、バルト三国の中央に位置するラトビアの首都のリガにも美しい教会とユーゲントシュティール(ドイツ語圏版のアール・ヌーボー)の建物群があり、ヴィリニュスとは違った美しさの町並みが広がります。今回も、以前に一度紹介をしたリガ旧市街を写真を増やし、切り口を変えて紹介をします。

 リガは、バルト三国の中央、先に紹介をしたリトアニアの北側に位置するラトビアの首都になります。バルト三国の中での最大の都市で、人口はおよそ70万人ですが、その割に落ち着いた感じがします。筆者が訪問したときは、ヴィリニュスからリガまで隔日で夜行寝台が走っていて、国境通過で起こされますが、寝ている間に走り、朝早くにリガに着くことができ、効率的に移動ができました。現在この列車は廃止となり、長距離バスでの移動になるようです。
 国際列車は、東の国々のロシアやウクライナ方面に伸びているようで、これはロシア人が多く、ロシア語が通用し、ロシア向きの外交姿勢のためかもしれません。バルト3国の他の2か国がロシアと距離を置く姿勢と対照的です。


 リトアニアの首都のヴィリニュスが内陸の都市でしたが、リガは北側にバルト海を望む天然の良港で、13世紀にはハンザ同盟の一員にもなっています。この地の利のために、リトアニアやスウェーデンそしてロシアなどからの侵略に遭い、1991年にロシアから独立をしました。ハンザ同盟時代にドイツ人が町の基礎を作ったことから、旧市街にはドイツの影響を受けた建築が数多く残されロマネスク、ゴシック、バロックなどの様式そひてドイツ語圏版のアールヌーボであるユーゲントシュティールが混在しています。3つの民家が、民家に対する課税など時代の流れを象徴して並ぶ3兄弟(3兄弟のための住居ではなく住居そのものが3兄弟)


 ヴィリニュスと同様に、リガも数多くの教会があって、どの教会も魅力的です。聖ヨハネ教会、聖ペテロ教会、リーガ大聖堂、アングリカン教会、聖ヤコブ教会、ロシア正教会と午前の数時間で筆者が回った教会です。他の観光ポイントも回ったわけですから、教会の数の多さが目立ちます。

 
 
 このうち、聖ペテロ教会は、ロマネスク、ゴシック、バロックの様式が混在した教会で、第2次大戦で消失したものを復興したものです。このため、内部にはエレベータが追加され、尖塔の上に簡単に上ることができ、リーガ市内を一望できます。またこの教会の敷地には、なぜかブレーメンの音楽隊の像があります。実はこの像は、姉妹都市のドイツのブレーメンから贈られたのだそうです。

 
 
 また、リガ大聖堂には、やはりロマネスクとバロックの様式が混在し、バルト3国の中でも最大規模の教会です。この教会の売りは、19世紀に作られたパイプオルガンです。作られた当時は最大規模で、現在でも上位を占めるパイプ数を誇っています。週に2回ほど夕方からコンサートが行われていて、筆者はフランスのオルガニストによるバッハとフランス物を聞くことができました。

 
 
 
 
 教会以外にも、旧リガ城は大統領官邸として使われていて、町を取り巻く城壁も残されています。城壁に開けられたスウェーデン門は、門の向かい側のスウェーデン兵舎の兵隊がよく使った門だったからだそうです。ファサードが美しいブラックヘッドハウスは、14世紀からギルドのメンバのパーティ会場として使用された建物です。丸い塔に三角屋根は旧火薬庫で、現在は戦争博物館になっています。クリーム色の建物の端にある尖塔のてんっぺんに黒猫が乗っているのが猫の家で、20世紀初頭に建てられたユーゲント・シュティール様式の建物です。このユーゲント・シュティール様式の建築は市街著の北辺に集中していて、壁に人面や動物面が張り付いた装飾の多い建物が現役のビルとして使われています。国立オペラ座は19世紀にサンクトペテルブルグの建築家の建てたもので、1200席余りの建物で、外観は素っ気ないですが、内部はなかなか豪華です。

 ヨーロッパの古い教会では、高い尖塔に上れることが多いのですが、当然ながら登るのは階段です。リガ大聖堂のようにエレベータが付いているのは例外中の例外です。高い建物でエrベータは必須ですが、いつも思うのは、エレベータの設計者ってエレベータを利用していないのではないかと疑いたくなります。速さの競争に血道をあげるばかりで、利用者の利便性がおろそかになってます。複数台のエレベータがあっても、かならず団子運転、利用者が沢山待っている階でも最初に来たエレベータが止まるだけで、後は通過するので満員で積み残してしまいます。複数台を有機的に制御するソフトやセンサとの組み合わせで簡単に実現できると思うのですがね。