世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

リトアニア第2の都市のカウナスにはソ連時代の弾圧を潜り抜けてきた綺麗な教会が沢山ありました(リトアニア)

2019-08-25 08:00:00 | 世界の町並み
 ルーマニア中部のブラショフには、もともと住んでいたルーマニア人と植民地として侵入してきたドイツ人を分断するための城壁とそこに開いたスケイ門とがありました。民俗ならぬ、宗教や考え方の違いによる分断は現在も続いていて、その最も顕著な例がアメリカかもしれません。第2次大戦の時には、文壇の最大のターゲットはユダヤ人だったわけで、そのユダヤ人がアメリカに逃れるために独断でビザを発給したのが、在リトアニア日本領事館の外交官であった杉浦千畝でした。リトアニアのカウナスには、旧日本領事館の建物が残され、杉浦千畝記念館となっています。ただ、杉浦千畝は、人道的には素晴らしいことをやったのですが、結果的には現在の世界の不幸の基になる種をまいてしまったのかもしれません。地域紛争を含めて人殺しの道具である兵器で巨万の富を得ているのは大部分がユダヤ資本ですし、ラスベガスの賭博王で日本への進出を虎視眈々と狙っているのはリトアニア出身のユダヤ人です。今回は、リトアニア第2の都市であるカウナスを紹介します。

 カウナスは、リトアニアのほぼ中央部、首都のヴィリュヌスの西70kmほど、列車で70分ほど、バスで100分ほどのところにある人口35万人程度の都市です。中央駅やバスターミナルは、旧市街の東、Neman川の上流3kmほどの所にあり、杉浦千畝記念館は、中央駅の北1kmほどの所にあります。中央駅やバスセンターから見どころの集中する旧市街までは、市内を走るトロバスで旧市街まで行くことになります。旧市街は1km四方に満たなく、2つの川の合流地点に角のように西に向かって張り出しています。この狭い地域に、美しい教会などが所狭しと建ち並び、感じの良い街並みが広がっています。

 
 
 
 旧市街の入り口あたり、東の端に建っているのがカウナス大聖堂で、リトアニア最大のゴシック建築ですが、15世紀に建てられた後に増改築を重ねたため、色々な様式が混じった建築になっています。外観は、素っ気ない教会ですが、内部の装飾は素晴らしく、真っ白ではなく、ややピンクがかった色合いも温かみを感じます。背後のパイプオルガンも綺麗なデザインです。大聖堂の隣には旧市庁舎の建物があり、16世紀に建てられた建物はカウナス一の美しさと言われているようです。正面に塔屋のある白い建物は、教会風であり、ロッケットのイメージもあるようです。旧市役所の横には広場に面して17世紀から18世紀にかけて建てられたバロック様式のカトリック教会であるイエズス会教会があります。

 
 広場には、上部に人物や怪獣の顔のような造りのある水飲み場や、ドイツの町並みで見られるような、凝った看板を見かけました。

 
 さらに西に、川の合流地点に突き出した突端部分に向かっていくと、15世紀に建てられリトアニアで最も古いゴシック建築に一つのペルクーナスの家があります。ハンザ商人の建てたもので、ベルク―ナスというのは雷神の名前で、かつてここには、その神殿があったとのことですが、ファサードの上部の意匠が印象的な家です。そこから、Neman河畔に出ると川のすぐそばに15世紀にゴシック様式で建てられたビタウタス大公教会があります。リトアニアを代表する美しい教会の一つと言われています。

 
 北に行ってもう一つの川のネリス河畔に行くと、カウナス城跡があります。14世紀に建てられたリトアニアで最も古い要塞の一つで、周りは公園に、建物は博物館になっています。カウナス城のそばには15世紀にゴシック様式で建てられた聖ゲオルギ教会があり、こちらもレンガ積みの外壁が美しい教会です。ただ、ソ連時代には、宗教弾圧のために、パルシュート舞台の倉庫として使われ、現在も痛みの激しい状態のままです。

 カウナスのバスターミナルの近くの食堂で、近くの人が奇妙な料理を食べていたので、恐る恐る指さして注文をしてみました。ラグビーボールを小さくしたような白い塊で、後で調べたところツェペリナイという名前の料理でした。すりつぶしたジャガイモの中に引き肉などの詰め物をして、煮たものですが、モチモチしてなかなか美味しい料理です。ドイツのツェッペリン飛行船に形が似ているとの命名だそうです。このツエッペリン飛行船は、ヨーロッパとアメリカとを2日程度で結び、当時主流の船旅に要する日程を大幅に短縮したそうです。現代の飛行機は、GPSや慣性航法装置を積んで、自分の位置を確認できますが、飛行船時代は天測をしていたのでしょうか。この慣性飛行装置と同じ技術が、最新の地震計にも使われいることは、あまり知られていないかもしれません。装置内はスマホにも使われている加速度センサとコンピュータチップでできていて、2回積分をして地面の動いた量を計算しています。

星空や渓谷が美しい滑床渓谷の入り口のホテルが休業中というのは残念です

2019-08-18 08:00:00 | 日本の町並み
 小惑星リュウグウの探査を行っているはやぶさ2を開発したJAXAの研究開発機構が置かれているのが宮城県の角田でした。小惑星の大きさはおよそ900mで光の速度で飛んで行っても17分ほどもかかる距離ですからとても肉眼では見えません。ただ、都会の空は、照明が多くて空が明るくなり、空気が濁ってきてリュウグウはおろか、1等星くらいでもなかなか見えないことが多くなってきたように思います。チュニジアの砂漠のオアシスに止まったことがありますが、空ってこんなに多くの星があるものかと感動しました。日本でも、照明が少なくって空気の澄んだ山奥に行くと、多くの星が見られ、その場所の一つが、愛媛県の高知県との県境近くにある滑床渓谷です。渓谷の入り口付近にある森の国ホテルは、最寄り駅の宇土線の松丸駅まで車で迎えに来てくれますが、半分くらい走ったところから先はホテルしかないとのことでした。こんかいは、森の国ホテルを起点とする滑床渓谷あたりを紹介します。

 
 
 森の国ホテルは、1991年に地元の松野長などが出資する三セクによって開業したポツンと一軒宿でしたが、西日本豪雨の影響で道路が不通になったり長年の経営不振のために今年から休業しているのは残念です。筆者が宿泊したのは8年前の冬でしたが、季節外れのせいもあって人が少ないのかなと思ってましたが、そもそも宿泊客は少なかったのかもしれません。ただ、魅力のないホテルかというとそうではなく、夕食には腕の良いシェフのフレンチが出ますし、中央に大きなストーブが置かれた吹き抜けのロビーは気持ちの良い空間です。さらには、天然温泉の露天風呂まであります。不振の原因は、足の便が悪いことだったのかもしれません、松丸に停車する列車は、上り下り併せて一日に14本、駅からは15kmの山道を30分で、路線バスは無しといった場所です。こんな場所だから、星空が素晴らしいのかもしれません。

 
 
 
 
 滑床渓谷は、森の国ホテルから四万十川の支流の目黒川を西に向かって遡上すること全長は12kmもあるそうです。しかし、訪問したのが冬の夕刻で、日没まで1時間という条件でしたから、40分ほど歩いたところでU-turnをしました。星空が綺麗な所ですから、街灯などはホテルの周りに数本あるだけです、渓谷で日が沈んでしまえば、漆黒の闇で、岩から滑り落ちれば遭難しかねない山奥でした。滑床の名前の由来は、渓谷の大部分が花崗岩でできていて、長年の浸食で表面がツルツルになっているためです。落差の大きな滝はほとんどありませんが、滑らかな岩肌を滑り落ちるような滝が無数にあって、十和田の奥入瀬渓谷や赤目四十八瀧とも似ているかもしれませんが、岩肌の質感が違います。大きな岩を幾重もの小さな滝が滑り落ちたり、平になって布のような流れなどバラエティ豊かです。遊歩道の近くには鳥居岩と名付けられた裂け目のある巨岩があり、しめ縄まで張られていました。

 星空を簡単に見るためにプラネタリュウムは便利です。一時は下火になっていましたが、最近は少し人気を盛り返してきているようです。このプラネタリュウムでは、星の明るさを表現するのに、光点の面積の差で表すそうです。星の明るさと見える大きさとは必ずしも比例せず、小さくても明るい星がありますが、プラネタリュウムでは個々の星の輝度を変えることは難しいからです。難しいと言えば、北極星を観測すれば、現在の場所の緯度は簡単に割り出せますが、経度は簡単にはいきません。緯度は地球の自転軸という物理量を基準とし北極星の高さの計測で割り出せますが、経度はイギリス人が人為的に決めた経度0が基準で天測だけでは簡単には割り出せません。経度を天測で知るためには、正確な時計と、当日の太陽の正確な南中時刻を知らないと測定できません。伊能忠敬は天測で緯度を計測していたようですが、経度の観測は不可能だったわけです。現代はスマホに付いたGPSで簡単に分かってしまいますが、ほとんどの人は緯度、経度の本質を忘れてしまっているのではないでしょうか。

世界遺産に登録されたシルクロードは全行程のごく一部ですが昔の人は歩いて行き来したんですね(中国)

2019-08-11 08:00:00 | 世界遺産
 平城宮から続く寺々がが登録されているのが古都奈良の文化財でしたが。また、平城宮の造営より前の天皇家などの古墳が新たに登録されたのが百舌鳥・古市古墳群でした。平城宮は中国の都をコピーして作られ、当時の長安は東方世界の中心的存在でした。この長安とヨーロッパをつなぐ道がシルクロードで、中国、カザフスタン、キルギスの3か国に跨る部分が長安・天山回廊の交易路として世界遺産登録がなされていますが、シルクロード全体からはまだごく一部です。通常は、登録されたシルクロードの東の端は、洛陽ですが、文化的なつながりから日本の平城京とも言われています。シルクロードの登録拡大で、奈良の寺院群も追加されるかもしれません。

 世界遺産は数が増えすぎたこともあって、1つの国で新規に登録できるのは1年に1件(ただし、今年までは自然遺産1件と文化遺産1件の合計2件まで)という制約が決められました。この制約の中で、中国は他の文化遺産を登録したいためシルクロード遺産はキルギスに申請させ、登録結果だけはちゃっかりいただくという戦略に出たことで有名です。申請したキルギスには、たったの3か所、カザフスタンには8か所、そして中国には22か所と、中国のずるさは明らかです。ただ、今回は、中国の22か所の中から、筆者の訪問した3か所周辺を紹介します。

 登録の東の端の洛陽には後漢北魏洛陽城と隋唐洛陽城定鼎門の2件が登録されています。洛陽は2度も訪問しましたが、龍門石窟やボタンの花を観賞するだけで、この2つの遺産は訪問し損ねました、洛陽から西へ300kmほど、洛陽と並ぶかつての都の一つ西安(長安)には、宮殿跡が2か所、寺院が3か所登録されています。

 
 
 寺院3か所のうち2か所までの登録文化財は石塔で大雁塔と小雁塔です。どちらも8世紀に、当時の都であった長安に作られたもので、現存する唐時代のただ2つの建物です。小雁塔は、13層43mの高さで、上部に向かって、塔の太さがあまり変わらない現代のビルのような形をしています。中央当たりが少し膨らんでいて、池に移っている形は。なかなか美しくもあります。塔の頂上まで登ることもでき、もちろんエレベータなどはなく、石段を息を切れせて上ることになりますが、頂上から西安市街の眺めはなかなかです。

 
 
 一方の、大雁塔は7層64mの高さで、こちらは上部に向かって塔の太さが徐々に細くなっています。どっしりはしていますが、小雁塔に較べると繊細さに欠けるように思います。大雁塔は、玄奘が持ち帰って経典や仏像の収蔵庫として建てられたもので、当のそばには玄奘の像が立ち、玄奘の旅程を示すパネルもありました。こちらも、当の上に上ることができるようですが、筆者が訪れた時には四川省であった地震で傷んで修復工事をしていたために上れませんでした。

 
 西安はかつての長安で、日本から遣唐使で訪れた目的地でした。市内の公園には、遣唐使で訪れて、日本には帰ることができなかった阿倍仲麻呂の石碑があり、望郷の念を謳った歌が刻まれていました。また、長安は、実質的にシルクロードへの旅立ちの起点だったわけで、現在も残っている西安の市域を囲む城壁の西門は出発点であったわけで、門を出た先の公園にはシルクロード起点記念群像があります。

 
 
 西安から西には、天水市郊外の麦積山石窟群、漢中市の張騫の墓、蘭州の炳霊寺石窟群などがあり、敦煌の莫高窟まで続きますが、莫高窟は単独で世界遺産に登録されていて、重複の登録はありません。敦煌を取り巻く砂漠をさらに北西に90kmほど行くと玉門関があります。周りに何もない砂漠の中を1時間以上もひた走って目に入って来るのがポツンと四角な土の塊で、実はこれは関所の外壁で内部は壁に囲まれた空間になっているようです。ただ、周りには柵があって入ることができないので、Googleの航空写真でしか確認はできません。最初の関所は、紀元前1世紀ころの漢代に近くに土塁が残る漢代長城の西端に作られ、現存のものは唐代に再建されたものです。

 

 西域交通で北ルートを通ると玉門関を通って行きましたが、南ルートでは、世界遺産には登録されていませんが陽関を通ることになります。唐代の詩人の王維が詠んだ「西のかた陽関を出づれば故人無からん」が有名ですが、東大の中国の人にとって、陽関はとてつもない西の端だったわけです。陽関あとは、玉門関の南のやはり砂漠の中にポツンとあり、小高い丘の上に狼煙台と思われる遺跡が残るのみです。ただ、付近にはお土産屋や博物館も土器が建っていて、高額の入域料を徴収していて、やや興ざめの雰囲気です。

 玉門関や陽関に行くには砂漠の中に一筋に付けられた道路を走ることになります。砂漠と道路以外には何も無さそうで、途中での対向車もありません。こんなところで、エンジントラブルでも起こせば、命に係わりそうで、ちょっと不安です。携帯で連絡と言っても、基地局らしきアンテナは皆無ですから、たまたま通りかかるかもしれない、車を待つしかなさそうです。もちろん、地球上のどこでも通信のできる衛星携帯電話やイリジュウム携帯があれば連絡は可能でしょうが、乗り合わせたガイドの車にはそれらしき機材は見かけませんでした。ただ、玉門関や陽関が現役の頃には、通信手段など何も無い人々が歩いて往来をしたんですね。

知らない人が多い地名の角田ですがJAXAのロケット開発を行っているところと言えば全国レベルの知名度かもしれません

2019-08-04 08:00:00 | 日本の町並み
 一言のお客は受け付けない京都の花街の内部を、一言さんでも見学できたのが、島原の角屋もてなしの文化美術館でした。角屋は豊臣秀吉の頃に柳馬場で営業を始めたとのことですが、名前の角の由来を調べてみましたが、よくわかりませんでした。角屋の場合の読みはスミですが、カド、カク、ツノといろいろな読み方をされ、名前や地名でもよく使われる感じの一つかもしれません。今回は、角の付く地名の一つである宮城県の角田を紹介します。小惑星りゅうぐうの資料を採取して地球に持ち帰る「はやぶさ2」のロッケトを開発したJAXAの宇宙センターが置かれている都市でもあります。

 
 角田は、仙台から東北本線の槻木で阿武隈急行線に乗り換え約1時間くらいの距離の都市です。都市と言っても人口が3万人に満たない人家より農地や空き地の目立つ町です。ところが、角田駅は左右対称の真っ白で洒落た建物で、中央にはガラスでできたアーチ状の吹き抜けもあります。また、駅に隣接した北西側には仙南シンケンファクトリーの洒落た建物群が建っています。宮城県産の材料で作られた料理やビールを提供する地産地消の施設です。

 
 
 JAXAのセンターは、町の中心部から北に5kmほどの山の中に在りますが、角田駅の南1km足らずの台山公園に関連施設が作られています。H-Ⅱロケットの実物大模型、展望台となっているスペースタワー、人工衛星の模型や実物のエンジンが展示されJAXAの紹介がされているコスモハウスが建てられています。この台山公園の手前に、15世紀に創建され16世紀に現在地に移転をした長泉寺が建っています。広い境内に大きなケヤキの木が目立ち、座禅堂を持つ現役のお寺のようです。

 
 
 
 駅から東に800mほど、南に曲がってさらに800mほど歩いたところにあるのが角田市郷土資料館です。郷土資料館という名前から、コンクリート造りの味もそっけもない建物を想像しますが、こちらは明治、大正期の大地主の旧宅を転用したものです。間口が80mほど、奥行きが40mほどの土地に母屋や数多くの蔵が残されていて、内部の見学だけでなく、企画展が開催されていて、角田にまつわる品々が展示されています。表通りに面したところにあるのが2階建てで海鼠壁の土蔵造りの店蔵で、隣には薬医門形式の表門がありますが、参観者は門を左に回り込んで駐車場の方から母屋に通じる通用門から入ります。母屋では企画展示に使われているようで、筆者が訪問した時には、伊達政宗の娘で、角田石川氏に嫁いだ牟宇姫に関する展示が行われていました。浴室は大理石が使われ、窓にはステンドグラスがはめ込まれています。

 
 
 
 母屋の周りには庭があって、その中にいくつかの蔵が建っています。特に向かい側にある米蔵は、複数の蔵がずらりと並んでいて、内部は郷土資料の展示に使われています。

 はやぶさ2の飛んで行った先の小惑星は、地球からの距離がおよそ3億kmあります。地上の乗り物などと比べて桁違いに早いロッケットでもおよそ3年半もかかった距離で、地球のすぐ外側を廻る火星とその外の木星の間にある小惑星でもこの距離です。太陽系のすぐ近くの惑星間でこれですから、宇宙って広いんですね。ロケットで3年半ですが、それでは光や電波はどうかというと、1秒間に地球を7周半する光の速さでも17分近くかかってしまいます。したがって、はやぶさ2は、通常の動きは自前の判断で制御をしているわけで、リモコンの模型飛行機の様には行きません。指令を出しても17分後に到達では間に合わないでしょうから。内蔵するコンピュータソフトは、あらゆる可能性を想定して作られているでしょうから、開発した技術者は大変だっただろうと思います。