世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

都会から電車で30分のメルンは、東京の郊外に軽井沢が引っ越した感じです(ドイツ)

2015-07-26 08:00:00 | 世界の町並み
 イギリスの湖水地方もスイスのインターラーケン周辺にも多くの湖が散らばっていましたが、ドイツの北部にも多くの湖が散らばっている場所があります。たくさんの湖水が在る場所といって特別に宣伝はしていないように見受けられますが、列車に乗ると湖を縫うように走り、変化に富んだ景色が楽しめます。こんかいは、これらの湖水に囲まれた町の一つメルンを紹介します。

 
 メルンはドイツ北部、ハンザ同盟の都市のリューベックと岩塩の都市であるリューネブルグを結ぶ塩街道の途中の町の一つです。リューベックの南30kmほどで、列車で30分ほどの距離です。ハンザ同盟の都市で観光施設も多いリューベックは日本人観光客も多いのですが、メルンを訪れた時には一人の日本人とも遭いませんでした。これといった観光目玉は、ティル・オイレンシュピーゲルの終焉の地といった程度です。リヒャルト・シュトラウスの交響詩を知っている人をのぞけばティル・オイレンシュピーゲルの名前を知らない人の方が多そうです。

 ティル・オイレンシュピーゲルとは、中世の説話集の登場人物で、道化師、放浪の芸人で北ドイツを舞台に権力者をからかい笑い飛ばす滑稽な話の主人公です。悪ふざけの限りを尽くしメルンを訪れたティルは、思い病気にかかり亡くなったといわれています。町の中には、房の付いた帽子を被った像がいくつも置かれていますが、写真の像は人間というより小悪魔といった感じです。

 
 
 このティルの写真の像があったのが、ザンクト・ニコライ教会で、筆者は見そこなましたが、教会の裏には彼の墓標もあるようです。この教会もオレンジの壁に緑とオレンジの屋根が乗っかり、町の風景に溶け込んで素敵なロマネスクの教会です。教会の内部は、一転城を基調としたシンプルなもので、パイプオルガンも真っ白です。

 
 
 さて、メルンですが、観光の目玉がさして無いのですが、気持ちのよい町です。木々の緑と青色の湖水とオレンジの町並みが見事に調和しています。町並みは、大きな屋根にハーフティンバーの壁を見せる家並みが微妙にカーブをした道路に沿って並んでいます。すごくローカルなとこって感じなのですが、都会のリューベックから30分というと、東京駅から三鷹の距離なんです。でも、日本の田舎のように人里はなれた田舎くささがまったく無い、三鷹あたりに軽井沢がある感じでしょうか。リューベックを訪れる日本人観光客は多いのですが、半日の時間があればメルンを訪れて、けっして損はしない町の一つと思います。ただ、時間がタイトなパッケージツアーでは無理でしょうが。

 ティル・オイレンシュピーゲルは、時の権力者を笑いものにして、人気があったのではないでしょうか。物語では権力者に立ち向かう英雄が描かれることが多く、地方の悪代官をやっつける水戸黄門も英雄扱いです。が、よくよく考えると、葵の紋が付いた印篭自体が権力で、この物語は、単に権力を美化したに過ぎないと思います。権力は、マスコミをもコントロールして世論操作をたくらみますが、マスではないインターネットの情報流通が有効なのでしょうが、これとても、某国のように権力者に不都合なサイトを遮断するということもありうるので、権力とは怖いものです。

八木の町並みは、曲がった道路に沿ってしっとりとした家並みが続いていました

2015-07-19 08:00:00 | 日本の町並み
 完成が明治期となり最後の城郭建築と言われている園部城のあるのが南丹市の園部でした。この南丹市は4町が合併してできたこともあり東京23区と同じ広さですが、その4町の中で最も狭い町であったのが八木町です。今回は、その旧八木町について紹介します。

 
 旧八木町は京都市外の北西15kmほど、八木駅までは京都駅から山陰線で30~35分ほどの距離です。前回紹介の園部と同様に山陰道の城下町でした。園部城が明治期に改修されたこととは逆に、こちらの城はキリシタン大名や明智光秀とのからみで、江戸時代始めの頃に廃城になってしまったようです。江戸期には、山陰道だけでなく、京都に通じる桂川の水運の基地としての役割も高かったようです。

 
 
 隣の旧園部町とは同じ街道沿いの城下町なのですが、町の顔はちょっと違うようです。園部でも旧街道は、少し曲がっていて見通しは良くないところが想像を掻き立てる効果がありましたが、八木の街道はやや狭くて、もっと見通しが利きません。曲がっている先には、道の正面に茶色の町並みが立ちはだかるように見えるのがなかなかいいのです。

 
 
 園部の町並みが、商店街に飲み込まれたようで、古い家並みも商家の名残が多いように思いますが、八木では普通の民家が多かったように思います。このために人通りも少なくって、ちょっと寂れた感じもしましたが、訪れたのが夕刻だったからかもしれません。ただ、しっとりした感じが高く、車の往来にもあまり気を使う必要は無くって、しばらく留まっていたい町並みの一つでした。ちらほらとある商家は真新しいものではなく、ちょっとレトロなものがあったり、逆に古い構えの造り酒屋があったりします。

 八木と聞くと、昨年に大規模な土砂災害の遭った広島の八木地区を思い出します。この地区は、人口増加に伴って都市化し開発が行われたようで、旧地名は蛇落地悪谷というものだったそうです。旧地名が表すように、そもそも人が住むような場所ではないというか、住んではならない場所であったのが、地名を変えて開発が行われたように思います。悪いイメージを払拭するためでしょうが、警鐘が改名で無視された感じです。この例では、多少の悪意が感じますが、都市部では解りやすくするためとの大義名分の下に、その地域の歴史を物語る地名が、無機質な名前に改変されました。たしかに、配達などでは場所が解りやすくなり効率は良くなったのでしょうが、これだけGPSを利用したナビが進んだ現在では、由緒正しき地名に戻してはとも思います。

明治の産業遺産は、地域も北から南までばらばら、登録されている物も様々です(日本)

2015-07-12 08:00:00 | 世界遺産
 ドイツのボンで開かれてた2015年の世界遺産会議で、明治日本の産業革命遺産が世界文化遺産に新たに登録されました。政治がからんで、国内外ですったもんだしましたが、ようやく決まったといった感じです。今回の指登録地域は、8エリア28箇所と、これまでに無い多数の場所の指定になりました。今回は、とてもすべての場所を訪問できていませんので、限定的な紹介になります。また、学生時代に訪問した場所の写真が見当たらなかったので、写真のある場所は3箇所と、さらに限定されます。

 首都圏に近い韮山の反射炉からスタートします。韮山反射炉は、東海道線の三島駅から南に伸びる伊豆箱根鉄道の伊豆長岡駅の東1kmほどのところにある幕末の遺構で、現存する2基の反射炉の一つです。実際に稼動をして、大砲も鋳造をしたそうです。学生時代には、一つ隣の韮山駅近くの願成就院の方に興味があって、反射炉はついでに立ち寄ったような記憶があります。

 現存の反射炉のもう一基は、山口県の萩市にあります。山陰線の東萩駅から2km近くをテクテクと歩いて行ったように思います。こちらの遺構は、煙突部のみが残り、反射炉自体も、試験的に作られたもので、実稼動の記録は無いのだそうです。
 日本における反射炉は、西欧列強に対抗するために幕末に各地で作られたもので、最初に作られたものは佐賀藩のものでした。佐賀藩の反射炉の遺構は残っていませんが、佐賀市内の公園にその模型が作られています。(写真は佐賀藩の反射炉の模型)
 今回の登録で佐賀市内には、三重津海軍所跡がありますが、未取材です。さらに、岩手県釜石には、わが国最初の様式高炉の遺跡が登録されていますが、こちらも未訪問です。

 
 
 萩には、反射炉跡だけではなく、松下村塾や萩の城下町など5箇所が登録されています。松下村塾はNHKの大河ドラマでも取り上げられており、今回の指定と重なって、観光客がどっと押しかけるのではないかと思います。日本人のこのような行動パターンには納得できません。萩の落ち着いた町並みには、しばらくたって、人並みが引いてから訪れたほうがよさそうです。

 
 山口県から海を渡った北九州では、八幡製鉄所の関連施設が登録されています。現役の製造施設の一部が登録されるのは珍しいように思います。旧事務所や修繕工場も登録されていますが、紹介するのは1901年に最初に稼動をした東田第一高炉の遺構です。鹿児島本線のスペースワールド駅から徒歩5分、八幡駅寄りで、スペースワールとは逆側に巨大な高炉が建っています。この高炉は昭和47年に役割を終えて火を落としていますが、かつては日本の産業の基礎になる鉄の製造を支え続けてきた遺構です。現在の鹿児島本線は、この遺構やスペースワールドの海岸寄りを走っていますが、この場所はかつての製鉄所の敷地内で、鉄道は大きく南側に迂回をしていました。高炉などの主要施設は、湾を挟んだ戸畑側に移り、工場跡地にスペースワールドができ、取り残されたような東田第一高炉より海側にショートカットされた線路が移設されたそうです。


 北九州には、佐賀県、長崎県と炭鉱関連の遺構が数多く登録され、軍艦島と呼ばれる端島炭鉱跡を訪れる観光船は大繁盛になっているようです。その中で、変わったところでは長崎のグラバー邸があります。明治の産業遺産を資本家の立場から推し進めたグラバーの関連施設ということで登録対象となったようです。日本の木造洋風建築の草分けとして重要文化財にも指定されている建物です。現在は、明治期の洋風建築を移築してグラバー園として長崎観光の目玉の一つともなっており、園の高台から眺める長崎の景色もなかなかのものです。

 九州を南下して鹿児島県に入ると、幕末に薩摩藩が作った旧集成館などが登録されています。こちらにも反射炉があったようですが、現在はその下部機構のみが残されています。建物は2棟、旧集成館機械工場と旧鹿児島紡績技師館とが登録になっています。旧集成館機械工場は尚古集成館の名称で博物館として公開されていて、重要文化財にも指定されています。学生時代に訪問したように思いますが、ほとんど記憶がありません。

 日本の産業が重厚長大から軽薄短小に移行して、随分と時間がたつように思います。重厚長大の代表格であった製鉄会社が電子部品のLSIを作るようになったのが象徴的でした。最近は、ハードの製造から、ソフト産業に軸足が移ってしまい、国内の産業基盤の空洞化が進んでいます。ゲーム産業だけで、国が成り立っていくとは思えません。

最後の城郭建築の園部城の城下町には古い町並みに混じって端正な教会堂がありました

2015-07-05 08:00:00 | 日本の町並み
 蒲生、知覧と薩摩藩の外城の紹介が続きましたが、薩摩では外城と呼ばれる小規模な城も、通常は陣屋と呼ばれるものの一つです。観光的には高山の陣屋が有名ですが、中には一国一城例の規定を逃れるために実質的な城を陣屋と呼んだこともあったようです。これらの中で、最後の城郭建築であったのが園部城ですが、今回はその城下町の園部を紹介します。

 園部は、京都市街の北西20kmほど、山陰線の各駅停車で45分ほどの距離にあり、10年ほど前に周辺の町と合併して南丹市の一部となっています。この南丹市は東京23区とほぼ同じ広さを持っていて、北部には茅葺屋根が数多く残る美山地区を含んでいます。

 城下町の元となった園部城は、1619年のその基礎が築かれ、幕末から明治にかけて京都の治安が悪くなってきたことから改築が始まり、明治2年の完成時に園部城と呼ばれるようになりました。ところが、その3年後には廃城令により、現在は園部高校の敷地の一部に巽櫓や櫓門などを残すのみです。古い町並みは、駅から北西方向に伸びる旧街道(山陰道)沿いに、白壁や格子の家並みが続きます。

 
 駅から町並みに歩いていく途中の右手、街道と園部川との間にロマネスクを思わせる教会の建物が出現します。これはカトリック丹波教会園部聖堂で、戦後に京都を中心に建てられたいくつかの教会の一つです。外観は中世の教会を思わせ端正な美しさがありますが、時間が無くて入れなかった内部もモザイク画などもあってなかなか見事だそうで、京都府の近代化遺産の一つになっています。

 
 
 
 
 さて、旧街道沿いの町ですが、商店街の中に古い商家が残るといった図式で、古い町並みという視点からは虫食い状態です。旧街道によく見られるように、道路は微妙にカーブをしていて、先の見通しは効きません。これがかえって、その先はどうなっているんだろう?といった期待感を持たせます、が、ここでは商店街の看板の乱立でがっかりさせられることも多かったようです。古い商家も現役のものが多いようでしたが、朽ちかけたものも家屋もあって、滅びの美学を感じるものもありました。

 園部城は幕末から明治にかけて急いで改築され、出来上がった時には京都の治安も収まって、挙句の果て廃城令で3年後には無用の長物になっています。いくら、重要なものや、完成度の高いものでも、必要な時期に間に合わなければ無価値となる例の一つではないでしょうか。IT分野などの研究開発において、いつも議論になったのは、時間をかけて完全なものを狙うのか、最短時間で最善のものとするか、といったものです。研究対象によって、どちらのやり方にするかは振れますが、両極端ということは無く、その中間で折り合いをつけることが多かったようです。今頃に高機能のアナログテレビを商品化をしても誰も買ってくれないでしょう、ただ、その開発過程で得られた技術は他に応用が利くのでしょうが。