世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

聖徳太子ゆかりの鶴林寺には、期待以上の国宝、重文が残っています

2016-01-31 08:00:00 | 日本の町並み
 中山道で首都圏に近い宿場町を2箇所紹介してきました。このうち鴻巣宿の鴻神社にはかつては、コウノトリが巣を作ったことが地名のゆわれでしたが、かつては日本のどこにでもコウノトリが居たんですね。今では、人工繁殖の個体が兵庫県の北部に生息するのみとなってしまいました。コウノトリは赤ん坊を運ぶといわれるおめでたい鳥の一つですが、おめでたい鳥を代表するのは鶴かもしれません。兵庫県には、この鶴を冠した鶴林寺というお寺がありますが、今回は、ちょっと強引ですが、その周辺を紹介します。

 
 
 
 鶴林寺は、兵庫県の中南部にある加古川市の南部にある古寺で、その創建は6世紀まで遡るといわれています。聖徳太子が建てた七大寺の一つとされ国宝の建物2棟(本堂、太子堂)のほか数多くの重文(建物、仏像、絵画、工芸品など)を所有しているお寺です。このため、西の法隆寺とも言われています。鶴林寺の名称は、12世紀に鳥羽天皇から勅額を賜って以降で、創建時には四天王寺聖霊院と称していました。

 
 
 鶴林とは、釈迦が入滅の時に沙羅双樹の白い花が一面に咲いて、鶴が舞い降りたような光景を表すのだそうです。そのゆわれのせいか、本堂の前の右側には沙羅双樹と称する木が植えられています。本物の沙羅双樹は熱帯性で、日本では育たず、代わりにナツツバキの木を沙羅双樹としたようです。また、左側には、釈迦が悟りを開いた時に、その木の下で座禅を組んだという菩提樹も植えられています。筆者が訪問した時には、どちらの木にも花は無く、釈迦が入滅後に向かったという彼岸に咲いているという曼寿沙華が咲
き誇っていました。

 鶴林寺の最寄り駅は、山陽電鉄の尾上の松駅で1kmほどの距離です。この駅の名前の由来となる尾上の松は、尾上神社の境内にあり謡曲の高砂にも歌われるものです。鶴だとか松だとか、花札のようですが、この駅は、おめでたいものに囲まれているように思いますが、特急も停車しない田舎の駅の雰囲気です。鶴林寺の周辺も、ぱらぱらと民家が建つくらいで、のんびりとした風景が続いています。

 このような、のんびりとした場所ですが、かつては国鉄の支線の高砂線がすぐそばを走っていて、鶴林寺という駅が境内のすぐ東にありました。加古川を出た後、南下して鶴林寺の南で山陽電鉄とクロスをして高砂駅まで8kmの路線でしたが、1984年に廃線になりました。廃線跡は遊歩道などに転用されているようです。

 花札で対戦相手に勝てる確率は、札が48枚と少ないので、コンピュータを使わなくとも計算ができそうです。コンピュータといえば、コンピュータの応用の一つのゲーム機メーカは元は花札屋さんだったんですね。昔の映画で、ルーレットのどこに賭けるべきか、コンピュータに計算させる話がありました。当時は、パソコンなど無かった頃で、大型のコンピュータのある場所まで、光の点滅で信号を、送受するといったシナリオでした。その動作に不審を持たれて御用!との結末だったように思います。ルーレットの動作に規則性を見出して、最適予測するといったロジックでしょうが、現実にはどこまで当たるでしょうか。所詮は、博打で蓄財できたのは、胴元ぐらいでしょうから。

ビゼルトはチュニジア第4の都市ですが、青い海と空がゆったりと広がっています(チュニジア)

2016-01-24 08:00:00 | 世界の町並み
 黄土高原の中に340万人ほどもの人口を擁する都市が太原でした。この黄土高原は、気候区分からはステップ気候帯に属し、この気候帯は、砂漠気候から温帯への移行地帯に分布しています。温帯で雨の少ない地域に多く、南北の両半球にあります。多くは、内陸地方ですが、海沿いの地域にも分布しています。今回は、これらの地域の中でチュニジアの地中海沿岸にあって、アフリカ大陸最北端の都市であるビゼルトを紹介します。

 
 ビゼルトは、チュニジアの首都のチュニスから、バスで1時間あまり、列車だと遠回りをするので1時間40分ほどかかります。列車は、途中の車窓から湖が見えたりして、景色を楽しむ派には向いていそうですが、列車の本数は4本/日と極端に少なかったように思います。ダイヤを調べておいて、往復で経路を変えてみるのもいいかも知れません。バス停は新市街に止まるので、そこから旧市街まではタクシーなどで移動することになります。

 
 
 
 
 旧市街は、大きく入り組んだ入り江に沿って港があり、漁船やヨットが浮かんでいて、ちょっと南仏風です。南仏といえば、チュニジアは、元はフランス領でしたが、独立の時にフランスが最後まで手放さなかったのがビゼルトです。そのために町中が戦乱に巻き込まれたそうです。それだけ、良港でフランスに最も近い場所だったということでしょうか。入り江の西側には城壁が連なっていて、内部はカスバになっています。城門をくぐると、外の南仏数の景色とは別世界が広がります。迷路が入り組み、ロバが引く荷車が活躍する世界です。チュニジアなので、白い壁に青いドアといった色合いは、ここでも見られますし、イスラム世界なので、モスクのドームやミナレットもあります。

 
 一方、旧市街の街中では、市場に寄ってみました。トルコやエジプトで見かけるスークと同じ光景でしたが、やや小ぶりです。日本の小売店とは、まるで違った光景で、商品が無造作に積み上げられ、そう、卸売りの雰囲気でしょうか。この光景は、なないもイスラム世界にかぎらず、ヨーロッパの広場で行われる露天市と同じ状況です。ヨーロッパを含めて、果物などがびっくりするくらい安く売られています。陳列や場所代などにコストをかけないせいか、とも思いますが、日本の観光地の朝市などでは、かえって高いことも多いので、この論理は成り立ちません。産直という言葉だけで付加価値を付けて高く売られていても買って行く日本人って、理解しがたいところがあります。

 チュニジアに行くと、青い空に、白い建物の青色のドアが強烈な印象を与えています。ただ、強烈といっても青色というのは気持ちを沈静化する効果があることが知られていて、街灯を青色に変えたら性犯罪が減ったそうです。ただ、この青色の街灯が点いている光景というのは、ちょっと不気味です。この、光源は青色発光ダイオードなのでしょうが、政治権力は、来年度から白熱灯や蛍光灯を作らせずLEDに一本化すると言っているようです。LED単独での発光効率はきわめて優れていますが、発光装置を含めた総合効率では、蛍光灯の製造を止めるほどの差は無いように思います。独裁政権の権力乱用が見え隠れする政策のように思います。

鴻巣宿には宿場の面影は少ないのですが荒川河川敷にはポピーがいっぱいです

2016-01-17 08:00:00 | 日本の町並み
 首都圏で旧宿場町の本陣の建物の遺構が残されているのが桶川宿でした。桶川は日本橋を早朝に立った旅人が最初に到達する宿場町でした。中山道で、この桶川の次の宿場が鴻巣で、足の速い旅人は一日で鴻巣まで到達したのかもしれません。今回は、その鴻巣宿近辺を紹介します。

 鴻巣は日本橋から48kmほど、桶川宿からは7km窓の距離ですから、日の長い夏場では一日で歩くことができるギリギリの距離だったかもしれません。ちなみに次の熊谷宿までは、さらに16km以上あるので、足の速い旅人とて次の日のことを考えると無理でしょう。現在では在来線の高崎線でも東京駅から1時間程度の距離ですが。

 
 
 桶川宿には非公開といえども本陣の建物が残っていましたが、鴻巣宿では、駅の近くに黒い石柱一本が建っているのみです。旧宿場町の雰囲気も、池川に比べると、あまり残されていません。旧中山道は、車が走り去るだけで、なんとも殺風景、神社やお寺が、ぽつりぽつり、といった感じです。比較的古い建物は、本陣跡に近い田沼家の蔵で明治初期の建物だそうです。館林藩の藩主だったご先祖が開いた穀物問屋の名残だそうです。もう一つは、木像建築の店舗が美しい木村木材店で、さすがに材木屋さんだけあって、伝統の木造建築です。

      お寺は、旧鴻巣宿の中に4~5ヶ寺あり、神社も3箇所ほどあるようです。桶川宿寄りには勝願寺があり、将軍が鷹狩りの時に立ち寄ったといわれる寺だそうですが、明治時代に竜巻によって全壊、現在の本堂はその後の再建だそうです。竜巻は、温暖化による最近の気象異変かと思ってましたが、明治期にもあったんですね。神社は、駅近くにある鴻神社が鴻巣の鎮守だそうですが、この神社は市内にあるいくつかの神社を合祀したのだそうです。かつて、この地には樹の神という大木があり、祟りのある樹だったのだそうです。その木にコウノトリが巣を作るようになってから、その祟りが収まり、この地も鴻巣という地名になったとか。かつて、コウノトリは天然記念物ではなく、日本のどこでも見られた鳥だったのでしょう。

 
 
 駅周辺には、お寺ならぬ石仏や庚申塔がいくつかあります。神社やお寺といった、威厳のある宗教施設ではなく、民間信仰の野の仏が散らばっているのがほほえましい風景です。

 
 鴻巣には宿場町の面影は少ないのですが、初夏にはポピーの花がいっぱいになります。駅を挟んで、旧中山道とは反対側の、荒川の河川敷が一面のポピーの花で埋め尽くされます。日本の生け花は、一輪で宇宙を表現する、文化がありますが、このポピー畑は、西洋流の物量で圧倒させる文化のようで、それぞれに美しさを感じます。

 荒川の河川敷に植えられているのはヒナゲシで、麻薬の材料にはなりません。インドシナ半島には黄金の三角地帯といって、麻薬の材料のケシを栽培する場所があります。現在は、栽培面積もだいぶ縮小されたそうですが、依然として貧困農家の現金収入源となっているようです。このような、麻薬となる違法植物の栽培を衛星から監視するシステムがあるそうです。衛星から撮った写真をコンピュータを使ったスペクトル分析(色を分解してその要素を調べる)をして、麻薬植物がどこにあるのかを発見するシステムです。ただ、空港などで麻薬を見つける手段はは、IT技術ではなく麻薬犬という極めてアナログな手法なのですが。

アルルの旧市街は小さなエリアですが見所がギュッと凝縮しています(フランス)

2016-01-10 08:00:00 | 世界遺産

 エジプトの3つの世界遺産を紹介してきましたが、すべてナイル川の流域の地域でした。砂漠が国土の大部分を占めているエジプトでは、通常の生活をできる都市は、ナイル川の水の恩恵受ける流域に限定されるので当然なのかもしれません。川の恵みは、熱帯だけでなく温帯を流れる川に於いても、飲み水や灌漑だけでなく、平地を流れるヨーロッパでは物流を支える動脈としての役割も大きいものです。今回は、フランスの南部を流れて地中海に注ぐ唯一の河川のローヌ川の河口近くの世界遺産の町であるアルルを紹介します。

 アルルは、パリのリヨン駅からTGVで2時間半のアヴィニョンからバスで30分程度です。アヴィニョンとアルルとは在来線が結んでいるのですが、TGVの駅は在来線の駅とは離れた野原の中で、アルルとアヴィニョンとを結ぶバスが、TGV駅にも寄ってくれます。ただ、アルルやアヴィニョンに急ぐ人はTGVで直行でしょうが、この間には途中下車したくなる都市がたくさんあるので、ゆっくりと在来線で移動する方がいいかもしれません。アルルは、フランスの地中海の海岸線の中でほぼ中間で、コートダジュールの西に位置し、ニースなどに急ぐ人々は町のはるか北側を素通りしてしまう小さな町です。

 
 旧市街は、ローヌ川の左岸に沿って走る鉄道のアルル駅の南500mほど、城壁を越えたところから始まり、500m四方ほどに、こじんまりとまとまっています。ローヌ川は、駅の西側で南西に向きを替え、旧市街を避けているような感じですが、かなりの暴れ川らしく両岸のゲートと橋脚の一部を残して流されてしまった橋の残骸が残っています。少し上流のアヴィニョンの橋は、歌でも有名で、橋の半分くらいは残っていますが、ローヌ川は石橋を押し流す勢いだったのですね。

 
 
 旧市街で、最大の目玉は円形闘技場で、ローマ時代の遺構で、当初3層のものが2層になっていますが、かなり保存性は良いようです。ただ、現役で使われているためか、遺跡の座席の上に、現在の座席が被るように作られていて、風景を壊しています。アルルの世界遺産の大部分は円形闘技場を始めとするローマ遺跡で、旧市街の入り口にある城壁もその一つです。残りはロマネスクの教会で、こちらはサンチャゴ参詣道としても登録されています。

 
 円形闘技場の裏側には、古代劇場の遺構があり、こちらも現役の劇場などとして使われているようで、工事現場の足場のような柱がいただけません。足元は、かなりガラ場で、崩れた石柱などが転がっていて、こんな場所に観客を入れて大丈夫かなとも思います。

 
 そしてその先には、市役所があり、こちらはバロックのなかなか優雅な建物で、もちろん現役の役所の建物として使われています。この市役所の地下に、紀元前1世紀に作られた地下回廊の遺構が残され、役所の中から降りていけます。思いのほか天井の高い地下回廊で、上部に作られた広場の傾斜をならすために作られたとのことですが、もひとつ論理が解りません。その後は、食料の貯蔵庫や暑い時の散歩道として使われたそうです。

 
 
 ロマネスクの教会であるサン・トロフィーム教会は、市役所のちょっと先ですが、ちょっと解りにくい場所にありました。12世紀に建てられた教会で、中庭の回廊が美しい教会です。フランスのロマネスク教会には、回廊の美しいものが多いように思いますが、その一つです。

 
 この教会の近くには、ゴッホが入院をしていたという精神病院の遺構のエスパウ・ヴァン・ゴッホがあります。現在は総合文化センタとして使われていますが、中に葉の花壇には花が溢れていました。

 アルルと聞くとビゼー作曲のアルルの女を思い浮かべます。フルートを習い始めると、最初の目標はアルルの女第2組曲中の「メヌエット」で、ピアノでの「エリーゼのために」やチェロの「白鳥」に相当する曲の一つでしょうか。このアルルの女を思わせる、民族衣装の一行に市役所の広場で会いました。結婚式の新郎新婦と参列者だったようです。まるで、映画の撮影を見るようで、得をした気分でした。
 楽器をうまく演奏するためには、大変な努力を要しますが、コンピュータによる自動演奏は、すでに一般的になってしまいました。さらに、この技術は洗練されて、ピアニストと変わらなくなるかもしれません。あらゆる楽器で、このようなことが進めば、演奏家というのは指揮者的な役割、つまり自動演奏装置に演奏のニュアンスを指示するだけになりそうです。人間の演奏は、他人に聞かせるためではなく、趣味として自己満足のためだけになるのかもしれません。また、作曲そのものも、人間の演奏を前提とする束縛から離れ、とてつもなく離れた音を同時に鳴らしたり、速いフレーズを弾いたりといった曲が現れても不思議ではありません。ただ、コンピュータには演奏家の不安定さは盛り込まないでしょうから、人間の演奏するミスタッチがもてはやされることになるかもしれません。