世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

日本人にはなじみの少ないアモイですが、大都市の顔と自然とが共存しています(中国)

2020-02-23 08:00:00 | 世界の町並み
 領有権のある台湾からより、かつて戦闘を交えた中国からの方が近い島が金門島でした。金門島からは台湾は見えませんが、中国のアモイははっきりと見えます。この距離でドンパチやったら大変だっただろうとおもいます。

 金門島は緑が多くて、のどかな島ですが、隣の中国のアモイは高層ビルが立ち並ぶ300万人を擁する都市で対照的です。今回は、アモイの島の主として南部を紹介します。

 アモイという地名は、ラジオの気象通報で観測点の一つと言えば聞いたことがある方も多いかもしれません。学校の地学の時間に、気象通報を聞きながら天気図を書く練習をされた方だと、場所も分かるかもしれません。上海と香港の間の香港寄りで、台湾の台中の対岸といったあたりにあります。日本からは全日空と厦門航空とが直行便を飛ばしていますが、香港や上海と比べると便数も少なく街中で日本人を見かけません。かといって、香港や上海から地上移動は、高速鉄道で深圳まで3時間半くらい、上海までは6時間以上のようです。アモイ市は、島の部分だけでなく大陸部分の方が広く、地下鉄も海峡を渡って大陸部分まで延びていますが、人口の中心は島の方で空港も島の北端部にあります。島には2つの行政区があり南部の思明区に人口が集中し高層ビルや商業施設があります。

 
 
 この島の南部の最南端に近い小山の上にあるのが胡里山砲台です。19世紀のアヘン戦争の時に造られたものですが、当初の大砲は据えられた方向にしか打てないため、大砲の向いた横の方向から攻めてきたイギリスに大敗したそうです。これに懲りて、ドイツから砲身の方向が回転するクルップ砲をドイツから輸入しましたが、試射を除けば撃ったのは日本の軍艦向けの1発のみとのこと。1990年代までは一般人は立ち入ることはできませんでしたが、現在は金門島をも望めるピクニック地になっています。

 
 
 
 胡里山砲台への途中の五老山の南麓にあるのがアモイ切手の古刹の南普陀寺で、千年以上の歴史があるようですが、たびたび破壊を受けて現在の建物は20世紀初頭の再建です。境内は思いのほか広く3万㎡ほどで東京ドームの客席を含めた広さ程度です。中国の方々の観光コースになっているらしく、おびただしい観光バスが駐車場を埋め、境内も人だらけですが、日本人には会いません。世界遺産のコロンス島の日光岩の麓でも見た岩に書かれた巨大な「佛」の文字は清時代の僧侶のものだそうです。観光寺院化しているようにも見えますが、僧侶の教育機関としても機能している現役寺院の一つです。

 
 
 五老山の西麓に広がるのがアモイ園林植物園で、広さはなんと2.3㎢もあり、神戸の六甲山の西の山の中にある森林植物園の1.5倍ほどの広さということになります。山の中の植物園ではなく、市街地のそばにこれだけの広さの植物園を作ってしまうのは中国らしいのかもしれません。とてもこの広さを歩き回るのは大変で、西に面した入り口から入って、多肉植物やサボテンの植えられたあたりまでが限界です。これは、広さだけでなく入り口からず~っと上りになるからです。行儀よく見本市のように植物が並んでいるのではなく、自然の森のような形が多いのは神戸の森林植物園と似ていますが、菊人形のような作りでブーゲンビリアの花で作られた動物もありました。多肉植物のエリアは、サボテンや多肉植物を行儀よく集めれた地区で、ボリュウムもあって見ごたえがあります。

 
 この植物園の西側に広がる商業地が中山路で、その入り口あたりにあるのが中山公園です。東西200m、南北500mほどの都市公園ですが、中国のほかの公園でも見られるように、太極拳をやる人、音楽を奏でる人、それに旗を持って踊る人など日本の公園とはちょっと雰囲気が違います。

 
 
 
 中山路は公園から西に行ったところで、レトロな白いビルが立ち並ぶ商店街です。中国風の門があったり、ビルの壁面や屋根に中国風の庇や屋根が乗っていたりしますが、ちょっと中国を忘れる風景です。ただ、土産物屋に入ると巨大な魚の干物がぶら下がっていたりで中国らしさも感じます。


 気象通報の観測拠点としてアモイの地名を聞いた方も多く、天気図を描かれた方もいらっしゃるかもしれません。かつての天気図は、気象通報で読み上げられる観測点から人手によって描かれていて、地表部の現状を表すものだけだったのでしょう。現在では、地上の固定観測点のデータだけでなく、船舶などからの意カンソクデータや気象衛星からのデータを使って描かれています。もちろん、地表の現状だけでなく、高層の天気図や48時間後の予想天気図も作られています。これらは、コンピュータにより過去のデータも利用した高度な予測によるもので、天気予報のロジックと同じようなものと思います。ただ最近の天気予報は、スパコンを使う割には当たらないようで、人間の感の方が当たるような気もします。

佐賀市のお隣の小城は町中が羊羹屋さんだらけでした

2020-02-16 08:00:00 | 日本の町並み
 県庁所在地でありながら、どことなくローカル色が漂う町のかつての長崎街道沿いに土蔵造りの白壁の家並が続いているのが佐賀市でした。佐賀県の空の玄関も佐賀空港も田んぼの中のような場所にあって、空港内であまり飛行機の姿を見かけない空港の一つです。ところが、この空港に飛んでくるLCCのおかげか、佐賀県は中国からの観光客の多い県の一つになっているようです。その中国が原産で料理から日本でお菓子に変貌したものが羊羹ですが、町中に羊羹屋があるのが佐賀駅のある長崎本線から分岐する唐津線で1駅の小城です。今回は、羊羹を食べて一服・・・JRの小城駅から北に広がる町並みを紹介します。

 羊羹は、5世紀ごろの中国で時の皇帝に献上されて喜ばれたという料理で、字の通り羊の肉を煮たスープだったそうです。この羊羹は、冷えると肉のゼラチン分が固まって煮凝り上になり、やや現在の羊羹の形状に似たものだったようです。この羊羹が鎌倉時代から室町時代に禅宗とともに日本に伝えられたが、仏教では肉食を禁じることから、肉ではなく小豆や澱粉を使って蒸して固めたものになり、現在の羊羹の原型が出来上がりました。その後、現在の天草を使った甘い練り羊羹が歴史に登場するのは駿河屋が秀吉に献上したものです。

 
 
 
 小城の羊羹の歴史は明治からで、羊羹づくりに適した場所であったためのようです。佐賀は羊羹に必要な水、寒天、砂糖それに小豆が手に入りやすい場所であったために明治の初期に興り、明治の後期には機械化と鉄道の駅売りで売り上げを伸ばしたのが現在の村岡総本舗です。村岡総本舗の店舗の隣には羊羹資料館があり、建物もなかなか味わいがありますが、小城羊羹の歴史がよくわかる展示がある、その中には駅売りのおかもちも展示されていました。ただ、現在の小城駅は委託駅で、駅舎は明治時代に建てられた趣のある建物が残っていますが、ディーゼルカーの乗客の大部分が学生の通学駅になっているようです。

 
 
 
 その小城駅を下車して駅から北に延びる道を少し行って左折すると小城公園です。小城藩の初代藩主によって作られた公園で、桜の名所になっているようです。園内には心字池があり、岡山神社と烏森稲荷の2つの神社そして中央付近には茶筅塚古墳もあって市民の散歩場所になっているようです。公園の北端には小城藩邸の正門の前に架かっていた石橋だけが駐車場の片隅にポツンと残っています。またその近くには中林梧竹という書家の立てた退筆塚というものもありました。

 
 
 
 
 小城公園から村岡羊羹までは1.5kmほど、小城市といっても途中には羊羹屋や造り酒屋などがぽつりぽつりとあるのんびりとした田舎道です。小城市内にはいくつかの登録文化財があり、小城駅や村岡羊羹の資料館のほかに、この道筋にも点在しています。小城公園の近くにはルーテル教会、かなり村岡羊羹に近いところの小柳酒造とその先には、かつての造り酒屋であった深川家住宅もあります。この道は、かなりの幅がある車道なので、田舎道のような風情には欠けますが、駅から須加神社のふもとまでのんびりと散歩に向いているかもしれません。

 小城羊羹は木枠にで固めた大きな羊羹を包丁で切り分けた「切り羊羹」の伝統手法が使われ、乾燥した表面に砂糖の結晶ができてシャリシャリとした歯ごたえが特徴です。いくらでも食べたくなるのですが、甘いものを食べ過ぎると糖尿病が心配になります。糖尿病には食事療法が使われますが、この分野にもスマホを使った食事管理が研究されているようです。香川大の手法は毎日の食事をスマホで撮って管理栄養士に送るというもので、画像を見見て内容を判断するのは人間ですが、桐生大学の研究では、撮った画像を須磨秀解析して摂取した栄養素を推定するものです。データベースが少ないために、まだまだ認識率が悪いようですが、こちらのシステムの完成度が上がれば、食事の自己管理も進むのではないでしょうか。

何千年もかけ自然が作り上げた雄大なグランドキャニオンのそばに小さな人間のギャンブルの場があるのは好対照です(アメリカ)

2020-02-09 08:00:00 | 世界遺産
 上海と香港との中間の場所に、中国文化と西欧文化とが混然一体となった町がある島がコロンス島でした。中国文化と西欧文化の融合といえばかっこいいのですが、つまるところ西欧列強の侵略行為によってできた産物に他ならないわけです。その意味では、その最もひどい例がアメリカ大陸です。ヨーロッパから勝手にやってきて、そこをインドと勘違いをし先住民をインディアンと呼んで悪者扱いをし、フロンティアなどと称し、彼らの富や土地を奪って侵略していったのですから。先住民は辺境地に押しやられ、その一つがホピ族が現在も住むグランドキャニオンです。ヨーロッパ人たちは、ホピ族から、この土地には金銀などの鉱物資源が出ないことを知らされ寄り付かなくなったのだそうです。現在では、鉱物資源ではなく観光資源で稼ぐグランドキャニオンを紹介します。

 グランドキャニオンは、アリゾナ州北部のコロラド高原をコロラド川が長年にわたって侵食してできた最深部が1,800mもの渓谷です。侵食は4,000万年前から始まり、現在のような景観はおよそ200万年前にできあがったのだそうです。渓谷は東西に延び、渓谷の南側はサウスリム、北側はノースリムと呼ばれ、ノースリムの方が標高が高いのですが、足の便が悪く冬場は観光施設も閉鎖されます。観光客の大部分はサウスリムで、観光拠点やホテルも数多くあって、大型機も着陸する空港もあります。

 
 
 

 観光の拠点の一つは、博打で有名なラスベガスで、ここから10人ほど乗れる小型機で渓谷の周辺を飛んで上空から眺めるとともに、グランドキャニオン空港に降りて、観光バスでサウスリムの展望台などを巡ります。ラスベガスからグランドキャニオンまでにニューディール政策で作られたフーバーダムの上空や、何のための施設かはわかりませんが、絵の具のパレットのような色取り取りのプールらしいものが並んでいる景色も見られます。遊覧の飛行機は小型機で気流も不安定なので、体調が悪いと飛行機酔いをする恐れがありますが、その眺めはさすがに雄大です。筆者は高所恐怖症なのですが、飛行機がリムの端から渓谷に出ると瞬間に真下の景色が奈落に落ち込むので腰が引けました。





 
  
飛行機を降りるとサウスリムのいくつかのXXポイントと呼ばれる見晴台をめぐります。最近は、リムから突き出した見晴らし台がガラス製で、谷底まで見渡せるものもあるようですが、筆者はそんなところはとても無理なようです。展望ポイントは、深い谷を見下ろせるよう、どこも崖の端ギリギリに建っていますが、いまだに侵食を繰り返すコロラド川ですから、この崖っぷちって崩落の危険はないんでしょうか。日本などの観光地の展望台ではよく見かけるのが望遠鏡で、望遠鏡でのぞく対象物が何であるかがパネルの写真で置かれていますが、こちらにあるシーニック・ロケータでは目的物を写真パネルと対照して探す必要がありません。目的物の方向ごとにノッチがあって正確に方向が定まるようですが、望遠鏡ではなくってただの筒だったように思います。また、周りの岩肌と同じような色合いのごつごつとした建物がありホピ・ハウスと呼ばれ20世紀初頭に建てられた先住民の住まいをモデルに建てられたお土産屋です。

 
 グランドキャニオンのあるコロラド高原の標高は2,000~2,500mほどもあり、ちょっとした山岳気候で最初に訪れた11月には雪が積もっていました。薄っすらとした吹き景色の中に野生の鹿も見かけました。逆に、コロラド川の流れる谷底の標高は数百mで、周りを高い壁でとりかこまれているため、夏場の暑さは大変なのだそうです。

 2度目のグランドキャニオンでは、ラスベガスから飛び立った9人乗りの小型機は、かなり揺れて気分が悪くなった記憶があります。ラスベガスへの帰路は遊覧飛行は無いので小型機に乗ってきた観光客は、グランドキャニオン空港でDC-10に乗り替えグランドキャニオン空港からラスベガス空港まで一っ飛びです。さすがに大型機で揺れることもなく快適でしたが、飛行機は大型ほど揺れないし、安全なんですね。大型機は重量も大きいので慣性も大きいので揺れにくいのと、数々の電子機器が安全を支えてくれるからです。現在はGPSなどが発達していますが、スマホなどにも入っている加速度センサなどの仕組みを利用しコンピュータで現在位置をはじき出す慣性航法装置(INS)を利用したジャンボは、東京からハワイまで飛んでも数キロの誤差といわれていたように思います。エアバスでは離陸時の画像情報をもとに自動離陸を行うシステムを開発しているようですが、かつてパイロットが自動システムに追いつけずに事故に至ったことがありましたが、繰り返してほしくないですね。

佐賀市内には旧長崎街道沿いの街並みだけでなく、小さな流れに沿った趣の良い町並みがありました

2020-02-02 08:00:00 | 日本の町並み
 かつての西国街道に沿って商店街ができたのが神戸の元町商店街でした。西国街道は、えどから西に延びてきた東海道がさらに西に延びて下関まで続きます。さらに、江戸時代に外国への唯一の窓口であった長崎に通じるのが小倉を始点とする長崎街道町です。五街道にはなっていませんが、重要な街道として位置づけられていたようです。福岡県、佐賀県を通って長崎県にまで至り、かつての街道沿いには古い町並みが残るところも数多くあります。今回は、県庁所在地の街道つながりで佐賀市内の旧長崎街道沿いの街並みを紹介します。

 
 
 
 
 
 
 旧長崎街道は佐賀市内の佐賀駅と城跡の間を東西に貫いて通っています。土蔵造りの古民家が多く残っているのは、城跡より東に位置する柳町と呼ばれる一帯で、明治時代の実業家の旧宅などの和風建築の並びの中に旧古賀銀行のレンガ造りの洋館も残っています。旧古賀銀行は佐賀市歴史民俗館として公開され、隣にはその古賀家の邸宅も公開されています。一方、旧古賀銀行の東にある旧三省銀行の建物は、白壁の和風の建物で窓には緑青の吹いた雨戸が付けられています。通りの角にはたたみ恵比寿と呼ばれる石仏像があり、畳屋さんを守る恵比寿さんらしく、両足を曲げて座っているのは畳の上でした。佐賀市内にある恵比寿像の数は日本一なのだそうですが、なんと800体を超えていて、そのうちの88の恵比寿を巡るスタンプラリーまであるようです。

 
 一方、城跡の西の街道跡には八戸の街並みがあり、こちらは古い町並みはあまり残っていませんが、鋸の歯状の街並みがあります。通りに対して建物が少し斜めに建っていて、通りに面して三角形の空間ができています。敵に対して身を隠すための空間と説明されていますが、地形の制約によるものかもしれません。和歌山県の漆塗りで有名な黒江や、姫路城の北東に位置する野里に近い金屋町などでも見られる町並みです。

 
 
 
 長崎街道沿いだけでなく、佐賀市内には、雰囲気のいい町並みがあるように思います。小さな流れが数多くあるのは低湿地帯のためなのでしょうか。旧長崎街道の南の城跡との間の流れには河童の像が置かれていたり、流れに沿って旧嬉野家の薬医門が残されてると思うと、その隣には下見板張りの洋館の写真屋さんが建っています。

 
 趣の良い道を東に、流れが南に曲がるあたりに佐嘉神社があり、かなり広い境内には焼き物県らしく陶器の灯篭が立っていました。鍋島の藩主から贈られた有田焼なのだそうです。

 
 駅に戻る町並みには、灯篭の明かりならぬLEDの電飾が小雨の中に輝いていました。

 最もなじみのない県や行ったことのない県、はたまた何処にあるのかあいまいな県というアンケート調査では、いつも上位にランクされる県が佐賀県だそうです。焼き物の故郷というだけでは知名度が上がらないのでしょうか。焼き物がどこで焼かれているのかは、多くの人は興味がないのかもしれません。ただ、なじみの薄い県でトップを取れば、それなりに認知度は上がるはずで、2位や3位とは違うかもしれません。昔に「2番ではだめなんですか?」とスパコン開発の費用に文句をつけた政治家がいましたが、これは単なるパフォーマンスにすぎません。2番ではその技術によるスパコンは輸出できないことが分かっていないんです。日本や世界で2番目に高い山をどれくらいの人が知っているでしょうか。