世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

神戸の西にも異人館があり咲きほこるキョウチクトウが似合っていました

2006-08-27 14:11:54 | 日本の町並み
 初夏から9月頃まで咲き続ける花木の一つに夾竹桃(キョウチクトウ)があります。神戸の西よりの塩屋の旧グッゲンハイム邸という異人館の庭に咲いているキョウチクトウは、異人館の建物と思いのほかマッチしているように感じました。今回は、神戸でもあまり知られていない異人館の建物がいくつか残されている塩屋あたりを紹介します。

 夾竹桃は竹のような葉に桃のような花が咲くことからの命名のようですが、ちなみに夾とは挟むやあわせるの意味です。排気ガスなどにも強いため街路樹などにも多用されますが、少し癖のあるにおいを嫌う向きもあるかもしれません。葉も花もどことなくごつくって、真夏の太陽に負けていない感じがします。ただ、葉には毒素があって数gが致死量なので、葉を口に含むということは間違ってもやってはいけません。この毒素は、精製された適量を用いると強心剤や利尿剤としての効能があるそうですが。これだけ葉に毒素があれば害虫は寄り付かないと思うのですが、中には変わった虫もいてアブラムシの一種や蛾の幼虫が寄生するそうです。

 塩屋は神戸市の西寄り、源平の古戦場の須磨一の谷の西に位置します。塩谷の地名は古代からこの地で塩の生産が行われていたことに由来するものです。山が海に迫って、狭い回廊状の平地に国道、JR山陽線それに山陽電車が折り重なって走っています。現在ではボリュームがなくなって少し寂しくなった松林を前景にして明石海峡大橋の向こうには淡路島が眺められ、風光明媚なところとして、明治から昭和初期に神戸に来訪した外国人にも人気が高く(もちろんその頃には明石海峡大橋はありませんでしたが)、かなりの数の異人館が山の斜面に張り付くように建てられました。これらの中のいくつかの建物が現在まで生き残っています。ただ、ほとんどが個人の所有や会社の所有になっていて、建物の中を見ることが出来ないのが残念です。神戸の異人館というと北野町や旧居留地が有名で、公開されているものも多いのですが、眺めのほうは塩屋のほうが一枚上のように思います。
なかでも規模の大きなものが現在は電気メーカの所有で望淡閣の名前で呼ばれている旧ジェームス邸です。

建物は昭和の初期に建てられ、自邸以外にも周辺に数多くのイギリス人向けの住宅地を開発し、現在もジェームス山と呼ばれて高級住宅地の一つとなっています。山陽電鉄の滝の茶屋駅を降りて線路沿いに塩屋のほうにしばらく行って、途中の急な階段を登り少し行ったところに門があり、門越しに芝生に覆われた広い前庭が見えます。道からは他の民家が邪魔をして淡路島は望めませんが、おそらく庭や建物からは明石海峡と淡路島の雄大な景色が楽しめるのではないかと思います。建物の後ろ側は、石灯籠を配した和風の庭が広がっているようで、この庭が当初のものかどうかはわかりませんでした。

 明石海峡大橋は世界最長の吊り橋ですが、設計段階ではコンピュータを用いた綿密な構造計算が行われたことと思います。つり橋といえば思い出すのが1940年にアメリカのワシントン州で起こったタコマ吊り橋の落下事故です。60m/sの風にも耐えられるという設計でしたが20m/s程度の風で振動を起こし、共振が増幅して壊れてしまったようです。動的な振る舞いに対しての解析ができていなかったことが原因の一つのようです。現在では、コンピュータにより微分方程式を解けば動的な振る舞いも前もって類推できるのでこのような事故も防がれるかもしれません。しかしながら、コンピュータに入力できるのは、その時代で明らかにされているファクタだけであって、自然界の振る舞い全部をシミュレートできるものではないのですね。
 

織部焼のふるさとに現役の修行道場もある多治見

2006-08-20 14:14:15 | 日本の町並み
 平戸のように同じ景色の中にキリスト教の聖堂とお寺が同居するほど接近してはいなくても、お寺と教会が隣接して存在する場所は意外と多いものです。お寺の多い京都などでも見受けられますが、多治見の永保寺と神言会多治見修道院の組み合わせは、山の上のお寺と麓の修道院という位置関係からは平戸とは逆の関係になります。お寺は国宝の観音堂を持ち、修道院は日本3大修道院の一つというメジャー同士が近くに建っています。

 多治見は、岐阜県の最南端で愛知県の犬山市などと接し、JRの中央西線と高山線とをショートパスする太多線の分岐駅になっています。多治見を有名にしているのは緑色の肌合いが美しい織部焼で、市内に数多くの窯元が点在しています。これらの窯元のいくつかでは見学なども可能なようですが、作品を見たり購入するだけでしたら、駅からも近いオリベストリートが手ごろです。織部焼の即売店や絵付け体験工房などのほか、明治期から続く古い町並みも残されていて、散歩にとっても気持ちの良い一郭になっています。

 ところで、お寺と修道院ですが、散歩で回るには山の上の永保寺までバスで行って、山を下って神言会多治見修道院を訪れるという順が山登りをしなくって済むので楽に回れます。お寺のほうはずいぶんと広い寺域があるようで、観光客の訪れる国宝の観音堂周辺のほか現役の修行道場も持っているようです。国宝の観音堂は池に面して建っており、池に架けられた橋や、さらに周りの山々の緑との組み合わせがなかなか美しいハーモニーを奏でています。

 山の麓の修道院も当然現役の修道院で、観光客が見学できるのは礼拝所など一部だけです。

2つの宗教施設の周辺は、小高い丘を中心とした緑豊かな自然公園で、修行道場が現役を続けられ環境が残されているように感じました。

 平戸のように同じ景色の中にキリスト教の聖堂とお寺が同居するほど接近してはいなくても、お寺と教会が隣接して存在する場所は意外と多いものです。お寺の多い京都などでも見受けられますが、多治見の永保寺と神言会多治見修道院の組み合わせは、山の上のお寺と麓の修道院という位置関係からは平戸とは逆の関係になります。お寺は国宝の観音堂を持ち、修道院は日本3大修道院の一つというメジャー同士が近くに建っています。

 多治見は、岐阜県の最南端で愛知県の犬山市などと接し、JRの中央西線と高山線とをショートパスする太多線の分岐駅になっています。多治見を有名にしているのは緑色の肌合いが美しい織部焼で、市内に数多くの窯元が点在しています。これらの窯元のいくつかでは見学なども可能なようですが、作品を見たり購入するだけでしたら、駅からも近いオリベストリートが手ごろです。織部焼の即売店や絵付け体験工房などのほか、明治期から続く古い町並みも残されていて、散歩にとっても気持ちの良い一郭になっています。

 ところで、お寺と修道院ですが、散歩で回るには山の上の永保寺までバスで行って、山を下って神言会多治見修道院を訪れるという順が山登りをしなくって済むので楽に回れます。お寺のほうはずいぶんと広い寺域があるようで、観光客の訪れる国宝の観音堂周辺のほか現役の修行道場も持っているようです。国宝の観音堂は池に面して建っており、池に架けられた橋や、さらに周りの山々の緑との組み合わせがなかなか美しいハーモニーを奏でています。

 山の麓の修道院も当然現役の修道院で、観光客が見学できるのは礼拝所など一部だけです。2つの宗教施設の周辺は、小高い丘を中心とした緑豊かな自然公園で、修行道場が現役を続けられ環境が残されているように感じました。

 修道院といえば、世界遺産にもなっているルーマニア北部の五つの修道院の一つで、見かけたのが下の写真です。

写真でははっきりしないかもしれませんが、彼女は携帯電話でなにかしら話をしていました。俗世間から超越したと思われる修道女にとっても通信は重要な位置を占めていて、携帯電話は必需品なのでしょうか。

須坂の古い家並みのはずれの豪商の庭で蓮の花を見つけました

2006-08-13 14:17:52 | 日本の町並み
 夏の早朝に蓮の花が開花するときには音がするといわれています。東京近辺では上野の不忍池の蓮の花が圧倒的な物量で見事ですが、花の茎が短くて葉の中に埋もれて咲いているのが多いように思います。この蓮の花が信州の須坂の豪商の庭に咲いているのを見つけました。

今回は、小布施の近くで忘れられがちですが、白壁や格子の家並みが続く町並みが素敵な須坂を紹介します。

 蓮の花は仏様の台座(蓮台)になるなど仏教的な色彩もある花です。泥(混沌とした現世)の中から美しい花(悟りの世界)を咲かせる蓮の花は、仏教の教えを象徴するものということでしょうか。また蓮根(レンコン)は字の通り蓮の根を食べるもので、高圧の水流で泥田から掘り取る作業はけっこうハードなようです。かつてフランスのフォションの店で蓮の香りのついたフレバリティを購入する日本人に習って購入したことがあります。フォションのアップルティは有名で日本でもさかんに売られていますが、蓮の香りの紅茶は見かけません。よい香りというより、ミステリアスな香りってところでしょうか。

 須坂は長野市の東に隣接していて、長野駅から長野電鉄の特急に乗ると2駅の20分ほどで須坂駅に着きます。最近は、さらにその1駅先の小布施が有名になり、訪れる観光客も多いようですが、須坂もなかなか見逃せない美しい家並みの残る町です。蓮の花を見つけたのは、須坂を代表する豪商、「田中本家博物館」の庭でした。田中本家は須坂藩より財力があったという商家で、

20もの白壁の土蔵とその土蔵で仕切られた4つの庭のある豪邸です。土蔵内を展示ルームとして、陶器のコレクションや日常で使われた道具や衣類などが並べられて豪商の生活ぶりが垣間見れます。

 田中本家博物館から長野電鉄の駅までは1.5kmほどで、道の両側には白壁に格子窓や虫篭窓のある家並みが続いています。民家や商店などにまじって記念館や美術館になっている建物もあるようです。

これら和風の建物の中にあって、「ふれあい館しらふじ」は、他の建物群とちょっと違ってユニークなところがあります。母屋は日本建築に白壁の土蔵が連なっていますが、もとの持ち主がお医者さんだったことから、離れとなっている病院部分は、明治期の洋館です。街づくりの拠点として開放されていて、病院の面影は薄れていますが、天井が高く、縦列構造に配置された部屋を仕切る引き戸もなかなかしゃれています。

 レンコンとして食べるのは蓮根といわれますが地下茎で、たくさん生えている蓮の葉も花も見えないところで蓮根によってつながっていることが多いのです。IT分野の製品にも、一見関連のなさそうな分野の製品であっても、それを支える基礎技術でつながっていることも多いものです。華やかな花(製品)ばかりに目を奪われますが、それらを支える地下茎(基礎技術)にも気を留めてほしいものです。

隠れキリシタンのふるさとにお寺と教会が重なった風景画があります、平戸

2006-08-06 14:19:25 | 日本の町並み
 佐原が生んだだ偉人、伊能忠敬が作成した伊能図をシーボルトが持ち出そうとして物議をかもしたことは有名です。シーボルトがやってきたのは出島ですが、その出島にあったオランダ商館は平戸にあったものが移されたものです。今回は西洋と日本が溶け合ったような景色が出現する長崎県の平戸を紹介します。

 平戸は九州の北西端から海を渡った平戸島にあり、対岸の「たびら平戸口」は沖縄のモノレールが開業するまでは、日本最西端の鉄道駅でした。かつては平戸口駅近くの港からフェリーに乗って島に渡っていましたが、1977年に平戸大橋が完成して佐世保からの長距離バスも島内まで直通しています。バスの終点はフェリー乗り場で、現在は平戸島を経由してさらにその先にある島々に人や車を運んでいるようです。

 フェリー乗り場の先に突き出た岬には、かつてオランダ商館が置かれた頃の遺構が集中的に残っています。岬の突端には常灯の鼻と呼ばれ、かつての防波堤の名残の場所に常夜灯が立っています。そのそばに商館跡がありますが、ほとんど草むら状態で、往時を想像するのは難しいかもしれません。フェリー乗り場の方へ戻る途中に、オランダ井戸、オランダ埠頭、オランダ塀の遺構が残ります。その中ではオランダ塀が長崎のオランダ坂を思わせる坂道に沿って残っていて、湾を挟んで平戸城を望むこともできポイントが高いようです。

 ポイントが最も高い景色を望める場所は、町の後方の丘に登る坂道にあります。平戸はポルトガル人宣教師による、キリスト教布教の中心地となりましたが、あのザビエルも1550年に平戸を訪れています。それを記念した淡いグリーン色の聖堂が昭和6年に丘の上に建てられています。一方、丘の中腹には2つの寺院があって、こちらも渋い山門や鐘楼が残っています。お寺の前を通って聖堂に上る坂の途中からは、手前のお寺の鐘楼などの建物の上に聖堂の尖塔が天を突いてそびえる景色が見れます。鎖国によってキリスト教は禁教、隠れキリシタンの歴史を歩んだ平戸にとって、お寺と聖堂が重なる景色というのは意味深い感じがします。

 平戸からオランダ商館が移転した出島は、鎖国時代に日本への出入りを一点に絞り、オランダ人を日本人から隔離するというセキュリティポリシを実現するための設備であったように思います。当時は物理的な脅威に対しての防御が主だったものであったでしょうが、出島の年間使用料が現在の貨幣価値に換算して1億円以上であったそうです。日本では安全は只という価値観があったと言われますが、そうばかりでもなかったようです。現在のセキュリティは、物理的な防御に加えて電子的な脅威、例えばコンピュータシステムやネットワークなどをいかに守るかが重要になっています。安全を守るためには、守る対象に見合った費用をかける必要がありそうです。