世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

町中にのみの音が響き、橋の欄干や公衆電話にも立派な彫刻が施されている木彫りの町、井波

2009-01-25 09:05:32 | 日本の町並み
杉の美林がある山形県の美しい町が金山でしたが、杉といえば磨き丸太の大黒柱を思い浮かべます。狭いマンション住まいではなかなか床の間や床柱までは手が回りませんが、富山県では家にずいぶんとお金をかけるとのことです。欄間なども豪華なものがはめられるとのことですが、その欄間などの木彫がさかんなところが富山県の井波です。今回は、格子戸の連なる町を歩くと、あちこちの家々からのみの音が聞こえてくる南砺市の井波を紹介します。

 南砺市は富山県の南西隅にあり、峠を越えると岐阜県の白川郷という場所になります。南砺市は町村合併で生まれたのですが、井波は市の北辺に位置します。砺波平野が南東側の山に突き当たる手前で、この砺波平野は広い平野に家屋が1軒ずつ分散している散居村で有名です。富山の家が大き苦なった理由の一つが、この散居村にあるといわれています。分散している家屋は、防風林によって囲まれてはいますが、小さくては存在感がなくなってしまうので大きな家を建てるようになったのだとか。家が大きくなれば、床の間や欄間など緒絵を飾るようになります。井波の彫刻は、これらの一般家屋の需要にも支えられているそうです。

 井波の町は瑞泉寺の参道に沿って形作られており、通常はお土産屋さんが並ぶ町並みがほとんど木彫りの店に占められています。

 参道のお寺とは反対側に小さな川にかかる橋がありますが、この橋の欄干にも見事な彫刻が施されていましたし、

参道途中の公衆電話ボックスまでもが彫刻で装飾されています。

さらには、お蕎麦屋さんの看板も、立派な木彫りのものでした。

もちろん、お寺には井波の職人による彫刻がいたるところにあって、なかなかその装飾が豪華です。

瑞泉寺は14世紀に創建され、一向一揆の拠点として勢力を持ち、16世紀には信長の焼き討ちにも遭ったようです。湖東の寺でらが戦の時には出城の役割を果たし、堅固な石垣に囲まれているものがおおいのですが、瑞泉寺も石垣に囲まれていて外観は寺らしくありません。こちらは城の代わりではなく、城の権力に抗する勢力の拠点だったわけですが。

 瑞泉寺の参道を左に外れてしばらく行くと、井波彫刻総合会館があります。会館に入る前に驚かされるのが、木彫り巨大な七福神の像が出迎えてくれることです。そして入館すると井波の作家の彫刻が所狭しと並べられています。とにかく日展の木彫部門の作家の大部分を輩出するだけに、彫像や欄間彫刻など木彫のジャンルもいろいろそろっています。通常の欄間は高いところにあって細かい彫刻はよくは見えませんが、目の前に飾ってあると、ずいぶんと彫りが細かいことがわかります。彫刻家は100本を越える「のみ」を駆使してこれらを彫り上げるのだそうですが、彫る場所ごとにどれを使うかは自然に手が最も適した「のみ」のところに伸びるのだとか。
 
 都会で一人暮らしをしている人は固定電話を持たない人が多いようです。携帯電話だけで大部分の用件が済んでしまうし、不在がちの家に電話があってもあまり役にたないということでしょう。携帯電話が普及する前は、固定電話鹿ありませんから、各戸に電話線を引いていたわけです。これは電話を使おうと使わなくとも、まさしく固定的に線を張り巡らす必要が必要がありました。都会では家が密集しているので、電柱などの設備も効率的ですが、富山の散居村などまばらにしか家が建っていない場所では、えらく効率が悪いわけです。一方の携帯電話は、実際に通話で使うだけのチャネルが確保できればいい訳で、もちろん電話機ごとに線が要るわけでもありません。線が要らない携帯が、線を使う固定電話の10倍もの通話料となるのはなぜなのでしょうかね。

天正少年使節団が訪れ弾いたというパイプオルガンのあるカテドラルも建つ古都エヴォラ(ポルトガル)

2009-01-18 15:31:11 | 世界遺産
 日本橋という名前の橋もあり、鎖国前夜には日本人町もあったのがベトナムのホイアンでしたが、同じ頃に東南アジアはおろか、遠くヨーロッパまで出かけた日本人達が居ました。九州のキリシタン大名の名代としてローマに派遣された天正少年使節団です。彼らが立ち寄ってパイプオルガンを弾いたといわれているのがポルトガルのエヴォラ大聖堂です。今回は、エヴォラ大聖堂を含んだ世界遺産のエヴォラ歴史地区を紹介します。

 エヴォラは、ポルトガルのやや南東、首都のリスボンの東130kmくらいのところにあります。公共の輸送機関は一日に数本のバスで2時間~2時間半ほどかかってしまいす。往復すると一日が完全につぶれてしまいますが、1日かかってこの町だけを見ても十分に訪れる価値がありそうなところです。エヴォラの歴史は古く、紀元前のローマ帝政時代以前からアレンテージョ地方の首都として機能し、ローマの支配下に入った頃に二重の城壁を持つ都市になりました。歴史地区にはローマ時代のディアナ神殿の遺跡も残されていて他の建物群とは異質な感じがします。

イスラム支配を経た後はレコンキスタの中心となりました。15~16世紀にはルネッサンスの中心となり、ポルトガル国王も好んで滞在したようです。少年使節団が訪れたのも、エヴォラが一番輝いていた時代だったのかもしれません。
歴史地区はリスボンからのバスを降りて少し東に歩いて城門を入ったところからで、1km四方程度の広がりですから、歩いて廻るのにちょうど良い広さです。中心となる広場までは10分足らず、中央に噴水があり周りをアーケード状の庇のある建物が囲んでいます。広場のパラソルやアーケードの下で、ちょっと一休みをしてお茶をしても気持ちが良い空間です。

 エヴォラ大聖堂までは、広場からお土産屋が連なる曲がりくねった道を少し歩きます。この道から分岐する路地には家々の白い壁と微妙にカーブする石畳の道がどこかで見た絵のような風景を作っています。

 エヴォラ大聖堂の原型は12世紀の終わり頃に作られ、その後14世紀にかけてゴシックとマヌエル様式による大規模な拡張が行われ

18世紀にはバロック様式の主礼拝堂が完成して現在の姿になったようです。

 少年使節団が弾いたといわれるパイプオルガンは、16世紀、使節団が訪れる少し前に設置された真新しいものだったようです。このオルガンは聖堂の壁面に現在も使用できる状態で保存されています。聖堂の後部のテラスに上ると、すぐ近くで見ることができました。

聖堂の周りには、前述のディアナ神殿をはじめサンフランシスコ教会やロイオス教会などの教会やカダヴァル公爵邸など歴史的な建物が集中しています。水道橋というとローマを思い起こしますが、ローマ時代ではなく16世紀に当時の国王によって作られた送水路の遺跡も町の中を横切っています。

 パイプオルガンは、楽器の女王と言われています。数千本のパイプに空気を送って、いろいろな音色の音が出せ、ホール全体が響く楽器は他にありません。3~4段も鍵盤の他に2~3オクターブのペダルも付いていて、さらに音色を決めるストップの操作も必要で、さぞやオルガン奏者は大変な技術が必要なのだろうと思います。足でペダルの操作を行うため、常に足が浮いている状態になるので、腹筋の力も要るそうです。ただ、このパイプオルガンも、ピアノやギターのように弾いた音量が減衰するような音を出すことは苦手です。シンセサイザーなどの電子楽器では、このような音色も苦も無く作ってしまいます。この電子楽器の一つのエレクトーンを30年ほど前に購入しましたが、ずいぶんと高価な買い物でした。しかしながら、現在の最新機種に比べると、音色も機能も雲泥の差、おまけに現在は驚くほど安い価格で手に入るようになりました。アコースティックな楽器が値上がりするのとは反対の現象ですが、電子楽器はまさしく電子装置の一種ゆえ当たり前でしょうか。
 

金の山といっても金ではなく杉の美林のある山に囲まれた金山(かねやま)

2009-01-11 15:34:36 | 日本の町並み
 松阪牛を食べさせる料亭の名前は「金」と「銀」とが付いていましたが、山形県の北部には、山の前に金と銀とが付いた地名があります。銀はスイカの名産地の尾花沢の奥にあり、外国人の女将で有名になった銀山温泉で、金は新庄の北部にあって、羽州街道の宿場町として栄え、現在では金山杉と土蔵造りの町並みが美しい金山町です。今回は、「金」の方の金山町を紹介します。

 金山町は山形県の最北にあって、北側は秋田県と接しており、山形新幹線の終点の新庄からバスで35分ほどの町です。このバスも午前中は2時間に1本と公共の輸送機関を使って訪れるにはかなり不便です。奥羽本線の真室川からも町営バスがありますが、こちらは1日に3本という少なさです。このように不便なのですが、わざわざ訪れるだけの値打ちがありそうなのがこの町です。明治期初期にに、イギリスからやってきて東北を旅したイザベラ・バードという女流旅行家も気に入った町なのですから。イザベラ・バードは、旅行の疲れからか足を悪くし、秋田県に抜ける雄勝峠を越える前にしばらく滞在することになったのが金山だったようです。

足の治療により東洋医学を見直したり、村人とのふれあいも興味深いものがあったようで、ロマンチックな雰囲気の場所として、紀行文に紹介され、その一部が金山小学校のそばの記念碑に刻まれています。

 古い町並みが残っているところは、町役場のバス停から歩き回っても、200~300mの範囲で、1時間もあれば廻り切れる距離ですが、バスが少ないことを逆手にとってゆっくり散策するのもいいように思います。古民家群だけではなく、農業用水には「大堰」や「めがね堰」と呼ばれる堰が設けられて鯉が泳いでいたり、屋根つきの「きごころ橋」があったりして、狭い範囲にいろんな景色が楽しめてしまいます。足の便が悪いこともあって、ほとんど観光客らしき人影とも遭遇しないところも、落ち着いて散策が楽しめるよいところかもしれません。

 町の中の建物で、最も古いものは長屋門で、取り壊された金山城の大手門を移築したもののようですが、城門にしてはちょっぴりと小ぶりです。逆に大きなものは、金山杉の林で、秋田杉と並ぶ杉の銘木を産するもので、大部分の山は古くからの地主の方が所有し、町の税金の大部分はその過多が払っているとの話を聞きました。前述の「きごころ橋」も金山杉で作られているそうです。

 このあたりの古民家の切妻の先には、棟が突き出したような飾りが付いているようです。信州の古民家の妻には、王冠を載せたような3本の角のある板が空を指していますが、それぞれの地域で妻飾りもいろいろのようです。そんな、妻飾りのある土蔵を移築したものが蔵史館で、文化活動の拠点として使われているようです。たまたま訪れたときには、金山の風景に魅せられたという大磯在住の画家の個展が開催され気持ちの良い絵が並んでいました。会場にいらっしゃった作家と話をする機会を得ましたが、リタイヤの後に好きな画家の道に進まれたようでが、イザベラ・バード以上に金山が気に入られたようです。

 杉というと磨き丸太にした床柱を思い浮かべると同時に、スギ花粉症のために拒否反応を示す方おられるでしょう。春先の天気予報では、スギ花粉の飛散予報もつきものになってきました。予報は、気温や風向きなどの気象予報をパラメータにして、コンピュータではじき出しているのでしょう。今年から、台風の進路予想を従来の4日先から5日先まで拡大するのだそうです。コンピュータの性能が上ったことも理由なのだそうですが、不確定要素も増すため予報円はかなり大きくなり、本当に効果のある予報なのか少々疑問です。ただこれだけ、コンピュータ技術が発展して予想はできても、花粉の飛散を止めたり、台風の進路を変えるという根本的なことはなかなか難しいのですね。

日本橋という名前の橋もあり日本の古い町並みを散歩していると錯覚するホイアンの町並み(ベトナム)

2009-01-04 15:38:09 | 世界遺産
 要塞化された教会とは裏腹に農作業に向かう馬車なども見かけるのどかな農村風景が広がるのがビエルタンでしたが、日本の古い町並みを散歩しているのではないかと錯覚するような、のんびりした家並みが続くのがホイアンです。日本の鎖国前夜には日本人町もあって、当時の日本人が作ったといわれる日本橋という名前の橋も残されています。
今回は、日本人にとって、どこかノスタルジックな気分にさせる、ベトナムの古都ホイアンを紹介します。

 ホイアンは、南北に細長いベトナム中央部の海岸に近い町です。ベトナム戦争で激戦地になったフエやダナンからも近いところにありますが、戦争の被害には遭わなかったようです。海からトゥボン川を少し遡った古くから栄えた港町でしたが、近年になって、そのトゥボン川の土砂の堆積で浅くなり、大型船が遡上できなくなって港としての繁栄はダナンに移ってしまったようです。

戦争の爪あとでほとんどが草原になってしまったフエの王宮とは違い、歴史と繁栄から取り残されたような過疎の町は、ベトナム戦でも攻撃目標にならなかったのかもしれません。歴史を缶詰にしてしまったような、古い町並みは無傷で残り世界遺産に指定されたのは皮肉でしょうか。

 ホイアンが最も栄えたのは、16世紀の終わり頃、グエン氏政権がフエに都を構え、ホイアンはその外港としてポルトガル、オランダ、中国そしてわが国との交易で国際港として機能した頃です。ホイアンの町の中には、オランダ商館のほか中国人街や日本人街が出現し大いににぎわったようです。しかし、その最盛期は短く、徳川幕府の鎖国政策に続き、ヨーロッパ勢も去るなどして急激に繁栄を失い、18世紀には内乱で町の大部分が破壊されました。その後、再建されて19世紀まで港町として繁栄したものの、土砂の堆積が止めを刺してしまったようです。この土砂の堆積が原因なのか、雨季の雨量が飛びぬけているのかは解りませんが、雨季の終わり頃には、町中が水没してしまうことがたびたびあるそうです。

1階は完全に水中に没してしまうことも多く、2階で避難生活をするそうです。毎年繰り返されることのようですが、根本的な対策は取れないのが現状なのでしょうか。

 日本の大内宿では過疎化によって、結果的に古い町並みが冷蔵保存されたような感じですが、このホイアンも同じような状況ではないかと思います。その冷蔵保存状態の町並みを散歩すると、どこかかつての日本の町を歩いているような感じがします。

 瓦で葺かれた屋根に雑草が茂っていたり、通りに開いた入り口の中には薄暗い土間が広がっていたり、

洋風建築との折衷様式の色塗りの壁があったりと、どこまでもこのような家並みが続きます。日本に60ヶ所ある重要伝統的建造物群保存地区にもこれだけまとまった家並みは無いのではないでしょうか。

 通りのあちこちにはお寺や、福建会館など華僑の人たちが建てた建物もあって、茶色の世界に朱色のアクセントをつけています。ホイアンの観光は、これらの建物群をいくつかのカテゴリー分けして、各々の中から1つずつを選んで見てゆけるチケットのシステムになっています。

ただ、1つに絞ることに迷うことも多く、2つ以上を見たくなります。どうしても、という向きには、チケットを2枚買っていただくことになるのでしょう。

 観光客が行きかう表通りに面した家並みの大部分は、お土産屋やお休みどころなどの店屋や資料館になっていて、あまり生活感を感じませんが、通りと交差する細い通りを覗くと、古いけれども民家風の家並みがあり生活臭がします。

 町のはずれに近いところには、農産物を中心とした市場があって、午前中に行くと、かなり広い市場の中は、足の踏み場も無いほどの野菜の山で、観光だけではない庶民の生活があることをうかがい知ることができ、違った意味でほっとします。

 古い良港は、外海の波浪を防ぐための深い入り江の奥にあったり、船が遡上できる川にあることが多いようです。ホイアンの例がそうであったように、波などの害から守ってくれた川そのものが運ぶ土砂によって港の底が浅くなり、港としての機能を失ったところも数多いように思います。コンピュータのセキュリティシステムは、悪意のある外部の人間に不法に使われることを拒んだり、内部のデータを保護したりする機能ですが、あまりに頑丈すぎると、時として正規の人間が使うときに使えないことも起こります。パスワードを忘れてしまったり、指紋がうまく認識してもらえなかったり、無意識に設定をいじってしまったりと色々な理由があります。この場合、セキュリティシステムが、コンピュータの機能そのものを阻害するとは言えませんが、将来においてセキュリティシステムが人格を持ち、コンピュータを使う人間を選択するようになってほしくはないですね。