ふるさと加東の歴史再発見

少し気をつけて周囲を見回してみると、身近なところにふるさとの歴史を伝えるものがある。

明治三十三年建立の忠魂碑

2009年01月12日 06時35分25秒 | Weblog
 1月9日、加東市東実から東古瀬へと車を走らせていると、知人が田に出て作業をしていました。立ち話をしているうち、すぐそばのグラウンド(社第一グラウンド)の北東の隅に聳えている石造物に気がひかれました。
 どこかで見たこの石造物。上部に鏡のような円形の板、その下には雲のような彫り物、そして下部はちょうど蒲鉾板のような板上の構造になっています。『加東郡誌』に掲載されていた「忠魂碑」ではなかったかと思いながら、碑文を読んでみました。円形の表面に太く、深く「忠魂」と彫ってあり、下部には彫りが浅く読み取りにくい部分もありますが、「播州加東郡々長山田君・・・」と碑文が彫られています。知人の話によれば、元はこの地より西にあったということでした。建立は明治三十三年と彫ってありましたので、忠魂碑としては古いものだな思いました。
 『加東郡誌』で調べてみると、この忠魂碑の由来は次の通りです。

 在郷軍人並に有志者相謀り我郡明治二十七八年戦死病没者の為めに忠魂碑建設の議を定め時の郡長山田齋之を賛し地を福田村字南坊に卜し工を起し明治三十三年十月功成り盛大なる招魂祭を行ふ。然るに郡制廃止せらるるの結果大正十一年八月郡より福田村へ譲渡せり。

 この忠魂碑は明治二七八役、すなわち日清戦争の戦死病没者の忠魂碑として建てられたもので、後に郡の廃止に伴って福田村(主に現在の加東市福田地区)に移管されたものであることがわかりました。
 大正時代には全国的に忠魂碑建立ブームが起こり、各町村等に忠魂碑が建てられていますから、この明治33年の建立はその前で、古いものだといえるのではないでしょうか。 
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