加東市社の市街地に山氏神社があります。「やまうじ」神社が正しい呼び名ですが、社の人々から「やもりさん」と呼ばれ親しまれています。境内は駐車場になっていますが、私が小さい頃はサーカス小屋が建ち、興業が行われていました。保育園から抜け出して小屋の中に入ると、網の球の中を轟音を響かせながらオートバイがぐるぐる回っていたのを今でも鮮明に覚えています。
山氏神社の氏子は、広野屋(ひろのや)と号する肥田氏一族で、肥田氏の氏神とされています。肥田氏は広野屋の屋号があるように、「広野」とよばれた社の原野を支配してきた古い豪族です。伝説によれば、多田氏の娘、八重が義経にお茶を出したことがきっかけで、義経は家来の土肥弥太郎遠平と結婚させ、土肥の肥と、多田の田をとって肥田の姓を名乗らせたといわれています。
ちなみに「ひろの」とは、社市街地の東側に広がる原野をさし、「ゆらの」は西側一帯の呼び名だったようです。「ひろの」も「ゆらの」も社の古い地名ですが、今も地名や公共施設、あるいは屋号などに使われて歴史を伝えています。
そんな山氏神社の境内には、けやきやむく、くすのきの大木が生えていますが、その中に玉垣に囲まれた特別な一角があります。その中に一本の石柱が立っており、「九郎判官源義経公お手植えの松」と刻まれています。玉垣の中にはまだ幹の細い若い松が数本生えています。何代目になるのか分かりませんが、元はここに天を衝くような松の大木が生えていたのです。
義経が一ノ谷の合戦の前哨戦となった三草山合戦で平家を破り、逃げる平家を追って社まで来たときに植えた、と伝えられています。この歴史ブログで、その松が写っている昭和初期の写真を紹介しています。(2006年7月20日投稿)
山氏神社の氏子は、広野屋(ひろのや)と号する肥田氏一族で、肥田氏の氏神とされています。肥田氏は広野屋の屋号があるように、「広野」とよばれた社の原野を支配してきた古い豪族です。伝説によれば、多田氏の娘、八重が義経にお茶を出したことがきっかけで、義経は家来の土肥弥太郎遠平と結婚させ、土肥の肥と、多田の田をとって肥田の姓を名乗らせたといわれています。
ちなみに「ひろの」とは、社市街地の東側に広がる原野をさし、「ゆらの」は西側一帯の呼び名だったようです。「ひろの」も「ゆらの」も社の古い地名ですが、今も地名や公共施設、あるいは屋号などに使われて歴史を伝えています。
そんな山氏神社の境内には、けやきやむく、くすのきの大木が生えていますが、その中に玉垣に囲まれた特別な一角があります。その中に一本の石柱が立っており、「九郎判官源義経公お手植えの松」と刻まれています。玉垣の中にはまだ幹の細い若い松が数本生えています。何代目になるのか分かりませんが、元はここに天を衝くような松の大木が生えていたのです。
義経が一ノ谷の合戦の前哨戦となった三草山合戦で平家を破り、逃げる平家を追って社まで来たときに植えた、と伝えられています。この歴史ブログで、その松が写っている昭和初期の写真を紹介しています。(2006年7月20日投稿)
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