ふるさと加東の歴史再発見

少し気をつけて周囲を見回してみると、身近なところにふるさとの歴史を伝えるものがある。

郷土出身の柴崎恵次中将 文庫本でタラワの玉砕戦を読む

2022年06月15日 05時48分26秒 | Weblog
 

 先日、書店で一冊の文庫本を手にしました。『玉砕の島』(光文社NF文庫「太平洋戦争激闘の秘録」佐藤和正著)です。
 すぐに探したのはマキン、タラワの島の名です。なぜなら、そこには郷土出身の柴崎恵次海軍中将のことが書いてあると思ったからです。
 この歴史ブログでも2度(2009年と2013年)紹介しましたが、東京の靖国神社の遊就館には、大東亜戦争の展示室の一角に「マキン・タラワの戦い」のコーナーがあり、柴崎恵次中将のパネル写真などが展示してあります。
 この戦いと柴崎中将について、以前の投稿から関係部分を再掲し少し説明をしておきます。

 この戦いは中部太平洋における日米戦の中でも最も激しいものだったと言われています。その「マキン・タラワの戦い」で上陸してくる数倍の米軍を相手に、日本軍は大きな損害を与える奮戦をし玉砕たのですが、この戦いで日本軍を指揮したのが柴崎恵次海軍少将(戦死後中将に特進)です。
 柴崎中将は加東市森(旧東条町)出身の軍人です。パネル写真には兵庫県としか書いてありませんが、明治27年(1894)、加東郡上東条村森(現加東市森)に生まれ、小野中学校から江田島海軍兵学校に進んで海軍士官となっています。軍人らしい清廉な生き方、部下や家族思いの人情家であったと聞いています。
 パネルには、激戦の続く中、負傷兵の手当のために作戦司令室を使用するようにという指示を出し、自らは塹壕へと移動する最中に敵弾に当たり戦死、と書いてありました。部下思いの柴崎中将ならではの行動だったわけですが、その後も将兵は中将に続けと戦いを続けたとありました。

 『玉砕の島』では、タラワ島の司令官として着任した柴崎少将(着任時)について、部下であった生存者が次のように証言しています。
「柴崎閣下は、訓練には鬼の司令官でした。しかし、部下思いのやさしい人でした。あの鬼の司令官が、と思うほど、温情の厚い、部下の身になって考える人です。閣下は負傷者をそのまま放置するにしのびず、戦闘指令所を負傷者の治療所に提供し、自分は参謀、司令部職員を連れて、外海側の防空壕に移られたのです」と。その壕は米軍の激しい砲撃を受け、壕は無残にも砲弾でえぐられてすり鉢のような大穴が4つ空いていたとのことでした。柴崎少将はこの砲撃により一片の肉片も残さず壮烈な戦死を遂げられたのです。

 ふと手にした文庫本で、再び柴崎恵次海軍中将に出会うことができました。東京九段の靖国神社にお参りされた時には、ぜひ遊就館を見学し、柴崎中将に出会って下さい。

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