明治12年(1879)発行の『兵庫縣管内地誌略』を市内の旧家の方に見せてもらいました。このブログで紹介した『兵庫縣管内地誌』(明治25年刊)より13年も前の発行です。表紙裏には「八城小学校生徒」と書き込んであります。「八城」は「社」小学校の古い名称で、明治10年代は社市街地の南端、今の明治館のある場所に校舎があった時代の名称です。
さて、この地誌の「加東郡」の項を開いてみると、位置、人口、地勢、行政などが簡明に記述されていました。次の通りです。
○加東郡
初メ加西ト合セテ加茂郡ト称ス、美嚢ノ西北ニ連ナリ、坤(※南西の方角)ハ印南ニ触レ、艮(※北東)ハ摂津ノ有馬ト丹波ノ多紀トニ交リ村落一百二十、戸数九千八百六十余、人口四万四千五百八十余アリ
五峰山ハ一ニ光明寺山ト云フ、東北隅滝野村ノ上ニアリテ、数峰ヲ生セリ、引尾鳴尾モ亦タ其中ニ在リ、観応中足利尊氏ノ弟直義ト戦ヒシ処ナリ、滝野川、其前ヲ流レ、春日、捕鮎ノ景最モ奇観ヲ為セリ、下流直走シテ美嚢印南ノ間ニ入ル、東畔美嚢ノ境ニ依リテ室山アリ、寿永中平氏ノ行家ヲ破リシ処
次回に続く
文中の観応中足利云々の記述は、光明寺合戦と呼ばれている戦いのことです。観応2年(1351)、足利尊氏は引尾山に、高師直は鳴尾山に陣を張って光明寺に立て籠もる石塔頼房を攻めましたが、攻めきれずに兵を引きました。また、寿永中平氏云々は、源平の戦い、室山合戦のことなのですが、寿永2年(1183)に源行家が平氏と戦って負けた戦いですが、これは揖保郡御津町(現たつの市)の室山での合戦とされています。「東畔美嚢ノ境ニ依リテ室山アリ」とあるのは、『加東郡誌』に三木市との境近くの市場村の室山を合戦の場所としていることから、明治時代には、そう考えられていたのでしょう。